隠恋慕
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荒涼とした大地に佇み、ネビュラは喪失感と無力感と戦っていた。
ようやく掴むことができたと思った『絆』を失った。
幼い頃からずっと望んでいた『家族』という絆を、ようやく手に入れたと思った矢先に、奪われた。
まだ『仲間』と呼べるほど深くはなく、けれどうっすらと感じ始めていたその絆さえも、あっけなく目の前で塵となって消えてしまった。
――やってしまった。
サノスは己の野望を叶えてしまった。
名前も知らない不特定多数の「宇宙の半分の生命」を嘆いてやれるほどネビュラは優しくはなかったが、自分が感じているこの喪失感を、残された宇宙の半分の者たちも感じているのだと思えば、サノスの行ったことがどれほど理不尽で無慈悲なことかは分かる。
目の前にも、同じ喪失感を抱える男が、ひとり。
彼が誰かなど、ネビュラは知らない。
けれど塵と消えた少年を抱きとめた腕を握り締め蹲る男を、情けないとは思わなかった。
これからなにをするべきなのか。
ずっとこの星にいるわけにはいかない、それは分かっているが、思考が空転して答えに辿り着かない。
サノスを殺す、それが目的だったはずなのに、殺したところでもうこの手の中にはなにもないのだと思えば、それすら無意味に思える。
サノスを殺してどうしたかったのかと言えば、この呪われた運命にケジメをつけて、新しい一歩を踏み出したかったのだ。
『彼女』と、ともに歩けるかも知れなかった、一歩を。
だがもうその『彼女』もいない。
「……これからどうする」
ふと、男の方から声をかけられ、ネビュラはいつの間にか俯けていた顔をあげた。
自分と同じように無力感に打ちのめされていると思っていた男が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「私がここまで乗ってきた船は、着地と同時に大破した。ここを出るにはクイルの船を借りるしかない。だが見たところ、君の船も壊れてしまったようだ」
ネビュラがタイタンまで乗ってきた小型宇宙船は、機体ごとサノスに突撃したため、もう使い物にならないだろう。
つまり、動かせる船はひとつしかない。
あるいはここにあるパーツでなんとか船を造り上げるか。
「……どこに行くの」
「地球に、私の星に戻る。……地球も、きっと半分の命が消されただろうが……ここにいるよりはできることがあるはずだ」
「……なにができるって言うの」
話しながら、だんだんと苛立ちが募っていくのをネビュラは感じていた。
自分と同じように喪失に苦しんでいると思った男は、進むべき道を見つけられない自分を置いて、ひとり前に進もうとしている。
なぜ、どうして。
同じように大事なものを失ったくせに。
その傷はすぐに塞がるほど、浅いものだったのか。
八つ当たりじみた怒りを募らせるネビュラに、男は静かに言った。
「ストレンジは――タイム・ストーンを守っていた男だが――彼は情に流されて状況を見誤る男じゃない。その彼が、私の命と引き換えにサノスに石を渡した。彼は言っていた――1400万605通りある未来のたったひとつにしか、我々の勝利はないと」
ハッと、ネビュラは息を呑んだ。
タイム・ストーンは時間を操るインフィニティ・ストーンだ。
それを使って見たという、サノスに勝利する未来。
その一手が、既に打たれたと言うのなら。
「私の命には意味がある。だから、立ち止まるわけにはいかない」
男にしては大きく印象的な瞳に射抜かれる。
薄く幕を張ったそれは言葉よりも雄弁に男の心を表していた。
サノスへの怒りと、大切なものを失った悲しみ、最悪の未来を防げなかった己への自責、そして――強い覚悟。
その目を見る内に、ネビュラの怒りは鎮火していた。
そして自然と、その言葉が出ていた。
「……クイルの船なら私が操縦できる。あんたを、地球まで連れてってあげるわ」
クイルが残していった船へと乗り込み、座標を定めて宇宙へ飛び立つ。
ネビュラ本人は地球に行ったことはないが、インフィニティ・ストーンが地球にあることを知っていたサノスのおかげで、地球の座標も把握していた。
ジャンプを使えば随分と早く着くのだが、生憎哺乳類が耐えられるジャンプの回数は連続で50回までだ。
それでなくとも同行者は、腹に深手を負っている。
航路が安定したところで自動操縦に切り替え、ネビュラはそこでようやく自身の体を見下ろした。
サノスと戦ったにしてはそれほど目立った損傷もないが、いくつかのパーツがイカレている。
幸い船の中には工具もあるので、ある程度の修復は自力でできるだろう。
操縦席を立って工具を漁りに行こうとしたところで、ネビュラはそこに立っていた男に気づいた。
その手の中には、今まさに探しに行こうとしていたものが握られている。
「施しを受けるのは苦手なんでね。これでも地球では世界屈指の優秀なメカニックなんだが……君さえよければ、私が見よう」
そう言って工具を掲げた男を、ネビュラは暫し見つめ返した。
存外に繊細な指先の動きは、なるほど、男の言うとおり、優秀な技術者であるらしい。
傷ついた腕や腹、背中を工具が優しく撫でていく感触に、かつてこんなにも優しく触れられたことがあっただろうかと――もちろんあるわけがなかったが――苦痛と憎悪に塗れた忌々しい記憶が脳裏を過ぎる。
「君の体は、実に合理的で無駄がない。私のナノ粒子とは性質が全く異なるが、無機物である機械が有機組織と相反することなく結合している」
「……こんな体、大嫌いよ」
「そうなのか?」
「無理やり手足をもがれ、脳を掻き出された。サノスにね」
そんな体を褒められたって、僅かとも喜びはない。
望んでこうなったわけではないのだから。
「……複雑な事情があるようだが、この子に罪はないだろう。生みの親が誰であろうと、今日まで君の命を繋いできたのはこの子に他ならないからな」
そっと、男がネビュラの腕に触れた。
不思議と不快感はなく、むしろ触れられた機械仕掛けの肌がまるで喜ぶようにぴりりと粟立つ。
命のない機械相手に、それはまるで生きているような口振りだった。
ネビュラの半分死んだ体が、まるで生きているかのような。
「……それでも、私はこんな体になりたかったわけじゃない」
「もちろんそうだろう。望んでそうなるのは余程の物好きだ」
それ以上無駄口を叩くことなく、男は修理を終えた。
優秀と自負するだけあり、ネビュラが自分で行うメンテナンスよりもずっと好調だった。
工具を片付ける男に礼を言うかどうか迷って、結局ネビュラはなにも言わなかった。
そもそもこの男を地球に送り届ける対価なのだから、これ以上は余分だろう。
ただ、礼を言う代わりに、ネビュラの口からは別の言葉が零れていた。
「……あんた、名前は」
言ってから、なにを聞いているのかと、ネビュラはさっと顔を背けた。
男がこちらを見ている気配がしたが、無視して黙り込む。
別に、絆されたわけじゃない。
この体は嫌いだし、ネビュラの体の半分が機械であることに変わりはない。
けれど、それでも自分は「生きている」のだと思うことができる気がした。
たとえ体の半分が機械でも、機械とともに命を刻む、それが自分という存在なのだと。
「トニー・スタークだ。鉄のスーツで戦う時は、アイアンマンと呼ばれることもある」
君は? と尋ね返され、ネビュラは顔を上げた。
「ネビュラよ。銀河を守るガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの……見習いよ」
ガモーラも、クイルも、マンティスもドラックスも消えてしまったけれど。
タイタンにいなかった残りの二人、ロケットとグルートはまだどこかにいるかも知れない。
……いないかも、知れない。
たとえそうだとしても、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーであるなら、この銀河の危機になにもしないわけにはいかない。
だからこの男を地球に届けたら、自分は自分にしかできないことをしよう。
ようやく見えた目的にネビュラが決意を固めた時、――スタークの体がガクリと崩れ落ちた。
* * *
突如鳴り出した警報にオコエの顔がサッと青ざめるのを、スティーブは見ていた。
まるでデジャヴュだ。
誰もが心に大きすぎる傷を負ったあの惨劇から少しも立ち直れていないこのタイミングで、まるであの出来事の再来のように、オコエの腕に嵌めている警報装置が鳴り響く。
この場にいる、サノスによる「慈悲」を免れた者たちの視線が集まる中、オコエは顔を強ばらせながら硬い声で告げた。
「大気圏内に、何者かの侵入を補足」
ホログラムを起動すれば、浮かび上がった小さな地球の上空を飛来するシグナルが――ひとつ。
「……ひとつ? やつらの艦隊じゃないの?」
「少なくとも艦隊と呼べる規模じゃないわ」
ナターシャとオコエの遣り取りを横手に聞きながら、スティーブは思考する。
バナーによれば、サノスの目的はインフィニティ・ストーンを手に入れて、宇宙の生命を半分にすること。
そしてソーが言うには、インフィニティ・ストーンを手に入れたサノスは指を鳴らすだけでその目的を達成できるらしい。
ヴィジョンからマインド・ストーンを奪って全ての石を手に入れたサノスは、ソーの目の前で指を打ち鳴らした。
……その結果が、今だ。
多くの仲間を失った。
だが、目的を遂げたサノスは石を使ってどこかへ消えてしまったと言う。
それならば今更再び地球に艦隊を送り込む必要はないはずだ。
最早石は全てサノスの手の中にあるのだから。
では、サノスの手下でないのなら、この船に乗っているのは誰なのか。
――不意に脳裏を過ぎった面影に、スティーブの心臓がズキリと痛んだ。
もしかしたらと思う反面で、臆病な心が「期待はするな」と脅しをかける。
目の前で親友が消える姿を見せつけられたばかりだ。
あんな思いは、もう二度としたくない。
「彼」の不明を知った時、スティーブは覚悟をしたのだ。
ヴィジョンもローディもいない「彼」が、たったひとり遠い宇宙で敵の船に囚われたなら、状況は絶望的だった。
根っからの兵士であるスティーブは、別れとは唐突であり、どうしようもなく理不尽であることを身に染みて知っている。
だから覚悟したのだ。
もう二度と「彼」には会えないかも知れない、と。
だが――だが――もしも本当に「彼」だったら?
「彼」が――ずっと地球の未来を憂いて、足掻いて、戦い続けてきた、あのトニー・スタークが、そんな簡単に死ぬだろうか?
どんなに絶望的な状況でも、いつだってその天才的な頭脳と閃きで全てを乗り越えてきた、あのトニー・スタークが?
「どこに向かっているか分かるか?」
「おそらく……ここに」
オコエの返事でいよいよ緊張が高ぶる中、ふと、ナターシャと目が合った。
誰よりも付き合いの長い友人は、どうやらこちらのことなどお見通しらしい。
じっと見つめてくる眼差しを、スティーブは無言で見つめ返した。
あの日、シベリアで起きたことを、スティーブは誰にも話さなかった。
もちろんジモの企みは明らかにされ、スティーブたちが何のためにそこへ向かったのかは、然るべき者には報告されただろう。
だが、あの日、スティーブの隠し事が明るみに出て、それがもとでトニーと決定的に決裂してしまったことを知る者は、当事者であるスティーブとトニー、そしてバッキーを除いておそらく他にはいないだろう。
しかしただひとり、ナターシャだけは、真実に辿り着き得る者だった。
優秀な元スパイである彼女は、きっとゾラがあの日見せた情報を繋ぎ合わせて真実に辿り着いてしまっただろう。
決定的な映像をジモに見せられるまで確信こそなかったが、スティーブでさえ辿り着いた答えだったのだから。
じっとこちらを見つめる瞳が、言っている。
――向き合う覚悟はあるのか、と。
彼女とトニーは決して気の合う関係ではなかったが、互いの力を認め合っていた。
もしもスティーブが彼に対して不誠実な行いをすれば、きっと彼のために怒るだろうほどには、確かな絆で結ばれている。
だが、この二年間、スティーブは彼から逃げていたわけではない。
彼を傷つけた己の弱さと戦うためにこそ、彼の隣に立つことを己に禁じたのだ。
許されるとは思っていない。
だから許してくれとも言わない。
……言えるわけがない。
だが、それでももしも彼が再び自分を必要としてくれたなら、その時こそ、絶対に裏切らない。
そのための手紙と電話だった。
――覚悟はあるのか、だって?
それならば、二年前からできている。
「オコエ、この場は君に任せる。ひとまず様子を見に行くから、一緒に来られる者は来てくれ」
スティーブの指示にオコエが頷く。
本当なら彼女に指示を出せる立場ではないのだが、ティチャラがいない今、どうやら戦闘に於いてはひとまずスティーブの指揮下に入るようだ。
扉に向かったスティーブに真っ先についてきたのはナターシャとソーで、ソーのすぐ後ろにはロケットも続いた。
それからローディと、この場に残るかと思ったバナーまでついてきた。
ちらりと振り返ったスティーブに、バナーはいつもの控え目な笑みを浮かべた。
「もしかしたら、トニーかも知れないからね」
「もしそうなら、ちゃんと五体満足か、やつご自慢のスーツを引っ剥がして確認しなきゃな。あいつのことだ、今度はいったいどんな無茶をやらかしたやら……」
軽口の中に隠しきれない不安を滲ませながら、ローディがバナーに苦笑を向ける。
当たり前だが、スティーブだけじゃなく、誰もがトニーの生存そのものを危惧していた。
目の前で塵のように崩れて消えていく仲間を見せつけられたのだ、彼がそうなっていない保証などどこにもなかった。
外に出て待つこと暫し、やがてワカンダ上空に現れた船は、あの敵が乗っていた円形の宇宙船でもワカンダを襲った宇宙船でもなかった。
「――おい、ウサギ」
「ああ! あれはクイルの船だ!」
どうやらソーと縁故のある船らしく、ソーとロケットは船を見るなり歓声をあげている。
トニーでなかったことに落胆を隠しつつ、スティーブは気持ちを引き締めた。
敵ではないようだが、まだ油断はできない。
スティーブはオコエに通信を飛ばし、船が通れるようにバリアの一部解除を頼んだ。
船はドーラ・ミラージュが警戒する中、スティーブたちから少し離れた場所に着陸した。
真っ先に駆け寄ったのはロケットだった。
タラップが降りるのをもどかしそうに見つめていると、やがてそこから一人の人間が降りてきた。
「お前は……ネビュラ?」
「――ロケット。……そう、あんたは生き延びたの」
現れた人間――青い肌をした女は、ロケットを見るなり全てを悟ったように呟いた。
「……お前ひとりか? クイルたちは……」
皆まで言えずに言葉を切ったロケットに、ネビュラはゆっくりと首を横に振った。
ロケットはなにかに耐えるように両手に拳を握ったが、やがて肩を落として力なく項垂れた。
「……ウサギ。こいつは誰だ?」
「ネビュラはガモーラの妹だ。血は繋がってねーけどな」
「妹もいたのか……。だが、その妹がどうして地球に? それも、どうやってここに来たんだ?」
「この星に用があるのは私じゃない。ここに行くよう指示したのもあの男が……」
とネビュラが言いかけたところで、タラップを降りてくる足音が、もうひとつ。
俄に緊張が走る中、現れたのは――トニー・スタークだった。
「トニー!!」
ローディとバナーが喜色に満ちた声で名前を叫ぶ。
叫びこそしなかったが、ソーも「生きていたか」と呟きながら安堵を滲ませた笑みを浮かべ、ナターシャはなにも言わずに微かに口角を持ち上げた。
地球を守っていた男の帰還だ。
そうして誰もがトニーの生還を喜ぶ中、しかしスティーブだけが動けずにいた。
生きていた。
生きてくれていた。
それだけで言葉に言い表せない激情で指先が震えているのに、けれど彼を目の前にして喜びの感情を浮かべることすら、今のスティーブには息苦しかった。
自分は許されないことを彼にした。
なにもかもをなかったことにして再会を喜ぶには、自分はあまりに彼を傷つけ過ぎた。
それでも、彼から目を逸らすことはできなかった。
久々に目にしたトニーは、少し痩せたようだった。
彼をアイアンマンたらしめるアーマーも、億万長者にして天才発明家らしく堂々としたスリーピーススーツも着ていない彼は、どこか小さく、草臥れて見えた。
その彼と、不意に視線が交わった。
タラップを降りかけていた足を止め、トニーが息を呑んだように目を見開く。
その大きな目が――いつだって彼の感情をありありと浮かべるその無垢で綺麗な目が――傷ついたように歪むのを、スティーブは心臓を握り潰される心地で見つめていた。
――目を逸らすことなど、できるはずがなかった。
それはほんの数秒か、あるいはもっと長く見つめ合っていたのか。
二人の間で止まった時を動かしたのは、彼の親友であるローディだった。
「トニー! お前、よく無事で……!」
名前を呼ばれ、トニーはハッとしたようにローディに向き直った。
視線が逸れたことでようやく動きを取り戻したスティーブだが、しかしそのことを名残惜しく感じた。
二年も、離れていたのだ。たとえどんな目で見られたとしても、彼が自分に向けてくれる感情であるなら、それは得難いものだった。
「ローディ。お互い命があってなによりだな」
「ああ、そっちも……随分とやられたようだ」
頬や額に残る傷跡も痛々しいトニーの様子に、ローディは苦い笑みを浮かべた。
鉄のアーマーでその身を覆う彼らは誤解されがちだが、いくらスーツが衝撃を吸収すると言っても限界がある。
いざスーツを脱いだトニーが傷だらけだったことなど、珍しくもない。
きっと今度の戦いでも、かなりの無茶をしたのだろう。
「久しぶりだな、スターク」
そう言ったソーがその逞しい手で肩を叩いた、たったそれだけの衝撃に耐えきれず蹈鞴を踏んだトニーを見て、スティーブはサッと顔色を変えた。
「トニー!?」
「――――ッ」
ローディが叫びながら咄嗟にトニーの手を掴む。
トニーは声にならない悲鳴をなんとか喉の奥に飲み込んだが、顔を歪めながら左の脇腹を庇うようなその仕草に、誰もが彼の負傷を察した。
「トニー? 腹に怪我したのか?」
「――見せて」
ローディ、バナー、ソーと、揃って狼狽える男たちを押し退けて、ナターシャはトニーの着ているパーカーのジッパーに手をかけると、彼が止める暇もなくサッとそれを下ろした。
まず目を奪われたのは、彼の胸に光る装置だった。
かつてそこにリアクターを埋め込んでいた彼は、もう何年も前に手術でそれを取り外したはずだった。
だと言うのに、以前と同じものかは分からないが、それを再び埋め込む決意を彼にさせたのは、果たして『誰』なのか。ドキリと、嫌な鼓動が鳴る。
そうしてパーカーの下には何も着ていなかったらしいトニーの腹が露わになると、そこにある赤黒く変色した傷跡を見て、誰かの息を呑む声が響いた。
「……貫通してる。刺されたのね」
「あの紫色の大男に、ちょっとな」
「傷は塞いでるみたいだけど、これじゃお世辞にも治療とは言えないわ」
「ナノ粒子で『蓋』をしただけだ。ガーゼや包帯じゃあ止血もできそうになかったんでね。まあ無傷とはいかなかったが、奴に腹を刺されても生きて戻って来たんだ、上出来だろう?」
どこか自嘲するように笑うトニーは、明らかに顔色が悪かった。
ナターシャの手から裾を取り戻すとジッパーを閉じて隠してしまったが、それで怪我がなかったことになるわけではない。
その証拠に、立っているのもやっとのようで、ローディが支える腕を離すことができずにいる。
「……とにかく治療をしよう、トニー。幸い、ワカンダの医療技術はどこよりも高い」
「分かってるさ、ブルース。医療技術だけじゃなく、あらゆるテクノロジーの最先端を行くのがワカンダだ。……だから、ここに来たんだ」
ふらつきながらも歩き出そうとするトニーを制し、ナターシャがさっとこちらを振り返った。
「スティーブ。トニーを運んでやって」
「――ああ」
ナターシャがなにを思って自分に振ったのかは分からないが、否やがあるはずもない。
だが、納得いかないのはトニーの方だった。
「なっ、……必要ない。自分で歩ける」
近寄るスティーブを睨もうとして失敗したような顔で見上げてくるトニーの視線から逃れるように目を伏せ、スティーブは無言でトニーに手を伸ばした。
その手を掴んで止めたトニーが、更になにかを言おうと口を開ける。
けれど結局、トニーの口から言葉が出てくることはなかった。
スティーブもなにも言わず、トニーの背中に腕を回すと、膝裏を掬って抱き上げた。
こんな運ばれ方を許すトニーではなかった。男としての矜恃だとか、ヒーローとしてのプライドだとか。今までだって、肩を貸すことはあっても抱き上げて運んだことはなかった。
けれど、トニーの口から文句や罵倒が飛び出ることは終ぞなかった。
ただ、スティーブのスーツの端を指先で微かに掴んできた。
抱き上げる腕は、微かに震えていた。
* * *
――どれくらい時間が経ったのか。
トニーが目覚めた時、室内はまるで怪我人を気遣うように薄暗く照明が落とされていた。
治療のために運ばれたあのハイテクが詰まった王女のラボではなく、どうやらゲストルームにでも移されたらしい。
不思議と、あんなに痛みを訴えていた腹の傷はすっかり沈黙していた。
流石はワカンダの最新医療技術だ。
タイタンからの唯一の同行者となったネビュラの忠告を無視し、先を急ぐために「ジャンプポイント」とやらを連続で駆使したせいで腹の傷が悪化してしまったのだが、どうやら自分はまだちゃんと生きているらしい。
もちろん、そうでなければ困る。
そうでなければ、ストレンジが自分を生かした意味がなくなる。
あの男は自分が死ぬと分かっていながら、全てをトニーに託したのだ。
ストレンジだけではない。
目の前で塵となって崩れ、風に散っていったあの愚かな子のため――なによりも誰よりも優しく勇敢だったあのヒーローのためにも、トニーは絶対にやり遂げなければならない。
だからワカンダに来たのだ。
自らの技術に絶対の自信を持つトニーだが、自分こそが頂点に立っていると自惚れているわけではない。
トニーの技術とワカンダのそれを合わせれば、きっと今までにない未来に辿り着くことができる。
……ただ、この場に「彼」がいたことだけは、予想外だったが。
いや、嘘だ。
少し考えれば予想できたことだ。
アベンジャーズが組織として機能しないのであれば、ワカンダ以上に宇宙からの外敵に対処できる場所はない。
少なくともティチャラが事態を静観するはずがないのなら、地球に残った「元」アベンジャーズたちがそこに集結するのは自明の理だ。
トニーはただ、分かっていて目を逸らしていただけだった。
あの時電話をかけられなかったことは、良かったのか、悪かったのか――自分でも分からない。
二年という月日を費やしても、結局、電話ひとつかける覚悟を持てなかった。
けれどかけなければならないどうしようもない理由があり、信頼する仲間であるブルースに後押しされた、それを言い訳にできる今ならば、と思ったことも確かだった。
二年経った今でも、あの日のことを思い出すと胸が痛む。
「彼」の行為を許すことは、どうしてもできない。
だが、たとえ許すことができなかったとしても、それでも自分は――。
カタリ、と微かな物音が響き、トニーの思考は中断された。
てっきり誰もいないと思っていた室内に、誰かがいる。
ゆっくりと体を起こしてそちらを見たトニーは、どこかで予想していた姿を認め、無言でじっと見据えた。
薄闇の中、影に紛れるように、部屋の隅にひっそりとスティーブ・ロジャースが佇んでいる。
かつてはヒーローの象徴であった、あの清廉潔白なキャプテン・アメリカとは思えないうらぶれた髭面に、破れてほつれたボロボロのスーツを着ている。
それでいて背筋をぴんと張って立つ姿も、その濁ることのない真っ直ぐな眼差しも、どうしようもなく、いっそ腹立たしいほどに、かつてのスティーブ・ロジャースそのものだった。
今更、もう逃げ出すこともできない。
なにより、彼から逃げたままではサノスに勝つことはできない。
だが、そうしてあらゆる感情を飲み込んでじっとその目を見返しても、なぜか相手もなにも言わず、ただ時間だけが徒に過ぎていく。
先に折れたのは、トニーだった。
「……キャプテン・アメリカのそんな髭面を見たら、世の女性が大いに嘆くだろうな」
こんな時にも真っ先に口をついて出るのはそんな皮肉で、自分で自分を嗤いたくなった。
彼に会ったら言ってやりたいことが、それこそ山のようにあったはずなのに、いざ本人を目の前にすると、まるで言葉が出てこない。
どんなに言葉を重ねても、このぐちゃぐちゃに絡んでほつれて蟠った心を言い表すことなど、できるわけがないのだ。
かつてはトニーの皮肉に説教を返してきた生真面目なアメリカの英雄は、けれど今は説教どころか返事すら寄越さない。
ただ言葉よりも雄弁に語る瞳に真っ直ぐと見つめられ、その無言の訴えに、トニーの心は苛立った。
この男の、こういうところが嫌いなのだ。
まるで善意と誠意の拳で殴られている気分になる。
その善意と誠意を受け入れられない自分こそが悪なのだと思わされる。
彼にそんなつもりはないと分かっているからこそ、余計に自分の卑しさを思い知らされる。
――本当に、狡い。
けれどここで絆されてやるつもりはなかった。
彼の心を汲み取ってやることは簡単だが、自分たちに必要なのは「言葉」なのだ。
かつて自分たちの絆は、伝えるべきことを伝えなかったからこそ壊れてしまった。
同じ過ちを繰り返すのは、愚か者だけだ。
だから彼にも、沈黙は許さない。
「黙ってないで、なにか言ったらどうだ」
その意思を持ってあえて強い口調で言えば、スティーブの真っ直ぐな瞳が揺らいだ。
なにを口にするべきか躊躇うように言葉を矯め、それから吐息に混じらせるように呟いた。
「……君が……生きていてくれて、良かった」
噛み締めるように呟かれたその言葉に、思わず鼻白む。
別に今更謝罪が欲しかったわけではないが、開口一番にまさかこちらの安否を心配されるとは。
なにを期待していたわけでもないが、的外れなそれに、ついつい皮肉が転がり出た。
「死んでた方が、気がかりがひとつ減ってたんじゃないか」
「ッ、トニー! 冗談でもそんなこと……!」
「――今のはナシだ。我ながら最低のジョークだ」
弾かれたように怒鳴り返され、トニーは小さく舌打ちするとともに気まずげに顔を逸らすと、すぐに前言を撤回した。
どうしようもなく、失言だった。
トニー・スタークは皮肉屋だが、たとえ自分自身のことだとしても、人の生死をジョークにすることほど下衆なことはない。
脳裏を過ぎるのは、あの幼いヒーロー。そして全てを託して消えていった男と、ともに戦った男たち。
目の前で人が跡形もなく消えていく光景は、凄絶だった。
新たなトラウマになるくらい、酷い現実だった。
きっとこの男も、目の前で誰かが消えていくところを見せつけられたに違いない。
或いは彼自身、彼らと同じように消えていたかも知れないのだ。
己の想像に、トニーの肩が震えた。
ただの想像でも、そんなことには耐えられない。
ピーターを守れず、スティーブたちまで失っていたら、もうどうやって歩けばいいのかも分からなくなりそうだ。
「……私だって、あんたが生きていてくれて……」
囁きは、しかし途中で掻き消えた。
その先に続く言葉を口にすることは、今のトニーには決して簡単なことではなかった。
「――二年、経った。それでもまだ、あんたを許すことができないんだ」
トニーは顔を上げると、スティーブを見据えながらきっぱりと言い放った。
しかし彼は失望した様子もなく、悲しむでもなく、ただ全てを受け止めようと、じっとこちらを見つめ返している。
「あんたは、私を守るためだと言った。だが、あんたが守ったのは私じゃない。あんたが守ったのはあんたの親友と、親友を失いたくなかった自分自身だ」
彼を嘘吐きだと罵りたいわけじゃない。
トニーを守りたかった、それはきっとこの男の本心だったに違いない。
だが、結果的にスティーブの行動は、ただトニーを傷つけただけだった。
トニーはただ、あんな形ではなく、あんな風にもう誤魔化せないからと白状するのではなく、彼の口から真実を伝えて欲しかったのだ。
親友、と呼べる仲ではなかった。
仲間ではあった、けれど彼は他の誰とも違った。
トニーにとって、スティーブは特別だったのだ。
――そう思っていたのが自分だけだったことに、ただ失望したのだ。
「あの男があんたにとってどういう存在かなんて、嫌というほど分かってる。父と母がここにいれば、許してやれと言ったかも知れない。
それでも、未だにあの日の夢を見るんだ。父を殺した男を守るために、父が作った盾を、私に振り下ろすあんたの夢を――」
トニー、と。掠れた声でスティーブが名前を呼ぶ。
きっと彼自身が、誰よりも分かっている。
あの時、トニーの胸に盾を突き立てたその時に、トニーの信頼も、ハワードとの友情も、粉々に砕けてしまったことを。
そうまでして守りたいものを守っておきながら、壊してしまったものも手放せずにいる。
苦しげに寄せられた眉を見ても、辛そうに揺らぐ瞳を見ても、トニーの心が満たされることはない。
ただ同じ苦しみに襲われるだけだ。
彼を許せたら、どんなに楽だろう。
なのに、それなのに。
「……それでもあんたを許せない私は、心の狭い男か……?」
もう自分がどんな顔をしているのかも、トニーには分からなかった。
ただ、ずっと距離を保っていた男が思わず駆け寄って抱きしめてくるくらいには、酷い顔をしていたのだろう。
憎い男の腕の中で、トニーは抗うこともせずに体の力を抜いた。
触れる体が熱い。
誰よりも憎いはずの男の腕の中が、この世で一番安心できるなんて、なんという皮肉だろう。
「……許さなくていいんだ、トニー。僕は……それだけのことを君にした。許してくれなんて、言えるはずもない」
ぎゅうときつく抱きしめられ、トニーは小さく呻いた。
彼が許しを求めていないことなんて、彼の目を見れば分かった。
それがスティーブ・ロジャースという男の善意であり、誠意なのだ。
彼の手紙に書かれていた「I'm sorry.」は過ちに対する謝罪であり、赦しの請願ではないことくらい、よく分かっていた。
そしてそれこそが、トニーの懊悩だった。
許したいのは、他でもないトニー自身だ。
彼を許して、二年前から止まった時を先に進めたいのに、それができない。
許したいのに、許せない。
それが苦しい。
もう、ずっと。
「……教えてくれ、キャプテン・アメリカ。君にとって僕は、なんだった?」
「トニー……」
「僕はずっと、ひとりでやってきた。アベンジャーズが解散したって、昔に戻るだけだと思った。でも、だめだった。なにをやっても、あんたとやっていた時みたいにうまくはいかなかった」
ソコヴィア協定は確かに足枷ではあったが、きっとアベンジャーズが一丸となっていれば、もっとうまくやれたはずだ。
アベンジャーズを率いるのは、スティーブ・ロジャース。
そしてアベンジャーズを支えるのが、トニー・スタークの役目だった。
アベンジャーズが不利にならないよう、政府の役人とコネを築いて協定の調整に自分が当たれば、決して悪いようにはならないと思っていた。
誰かを守りたいという善意で戦うアベンジャーズの仲間たちが、市民の理解を得られないことで悪意に晒されることがないよう、守りたかった。
それなのに、結局なにひとつうまくいかなかった。
守るべき仲間は離散し、愛する親友は足を失い、スーパーロボットは愛を選んで行方を絶った。
残ったのは、鎖に繋がれた自分だけ。
本当に、なんという皮肉だろう。
「教えてくれ……僕は、僕だけが、君を必要としていたのか……?」
君にとって僕は、友人だったのか、仲間だったのか。
それとも――そのどれでもなかったのか。
「――パートナーだ」
項垂れるトニーの頭を抱え込み、スティーブは迷いのない声できっぱりと言い放った。
その声は真っ直ぐに、トニーの心臓を貫いた。
「ただの友人でも、ただの仲間でもない。君は僕の、パートナーだ」
パートナー。
それは友であり、仲間であり、相棒であり、――人生の伴侶を表す言葉でもある。
彼がどういうつもりでその言葉を選んだのかは分からない。
けれどスティーブの腕の中、その分厚い胸に額を押し付けながら、トニーは大きく目を見開いていた。
「僕らはあまりに正反対で、でもだからこそ、僕には君がいないとだめだった。僕が見えないものも、君なら見える。だから僕は君になら背中を預けられた」
嗚呼――そんなこと。彼に言われるまでもない。
古き良き精神を温め続ける正義の男と、新しきを恐れず未来を生きるトニー・スターク。
正反対だからこそ何度となくぶつかり合い、そしてそんな二人だからこそ、どんなことでも乗り越えられた。
対極に立つからこそ、どうしようもなく惹かれたのだ。
「君とともにいたかった。だけど、トニー……僕は君を傷つけてしまう。だから、側にいることはできなかった。……君を、守りたかったから」
背中に回された腕が、微かに震えている。
ふと、トニーを抱き上げたスティーブの腕もまた震えていたことを思い出す。
だからあの時、トニーはなにも言うことができなかった。
彼もまた自分と同じように、触れることを恐れていたのだと知ってしまったから。
トニーは下ろしていた腕をそろりと持ち上げると、その手をスティーブの背中に回し、触れる寸前で躊躇いながらも、そっとその背中に触れた。
ビクリと、慄く背筋を宥めるように、抱き締める腕に徐々に力を込めていく。
触れ合う頬から、胸から、掌から伝わる熱に、ほんの少し、なにかが溶けていくような気がした。
「……まだ、あんたを許すことはできない。だけど、スティーブ。僕には君が必要なんだ」
スティーブ、と彼の名を呼べば、抱き締める腕の力がぐっと強さを増した。
思えば、その名を呼ぶのは二年ぶりだった。
トニーが名前を呼ぶのは、心から信頼している者だけだ。
分かってしまえば、答えはとてもシンプルだった。
彼を許せなくても、まだ彼の名前を呼ぶことができる。
そして彼がまだ自分を必要としてくれるなら――こうして彼を受け止めることが、できるのだ。
トニーは顔を上げると、スティーブの背中に回していた腕を彼の頬へと添え、そっと持ち上げた。
スティーブは泣いてこそいなかったが、今にも泣き出しそうな目でトニーをじっと見返した。
「なあ、スティーブ。あんたが言うように、過去は変えられない。もう昔の僕たちには戻れない。だったら、スティーブ――いっそ新しい僕らになろうか」
まだぎこちない笑みを浮かべながらもそう言えば、遂にスティーブの瞳が決壊した。
「トニー、トニー……ッ!」
壊れたスピーカーのように何度も何度も、何度も名前を呼びながら、スティーブはトニーにしがみついた。
百歳を過ぎたいい大人のくせに、まるで子供だ。
トニーは今度こそ自然に、ふ、と吐息で笑った。
「トニー、本当に、本当にすまな、」
「それはもう聞いた、スティーブ。僕が聞きたいのは、もっと別のことだ」
謝罪を繰り返そうとするスティーブの口を手で押さえ、トニーは涙に濡れた綺麗な青を間近に覗き込んだ。
額と額が擦れ合う。
なんなら鼻先でさえ触れ合う距離で、まるで掌越しにキスをするように、トニーはそっと吐息に乗せて囁いた。
「――You missed me?」
僕がいなくて、寂しかったか、と。
笑みにしなった柔らかい瞳で見上げれば、泣いた男は掌にキスを送るように、囁き返した。
「――So much, Tony...」
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