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賽は投げられた

  最近目の調子がおかしい。
  そう感じ始めたのは一月ほど前のことだ。
  瞬きをする瞬間、それこそ幻覚かと思うほどのほんの刹那、奇妙な映像が見える。
  見たこともない人や景色が、あたかも目の前にあるかの如く見える。
  それがその空間に刻まれた「過去の記憶」であることに気付いたのは、つい最近のことだ。
  そして、今ではもう当たり前のようにその「記憶」を見ることができる。

「どうしたの、光彦くん?」

  間近から声をかけられ、光彦は慌てて視界を変換させた。
  すぐに見慣れたいつもの景色が戻ってくる。
  肩までの髪をカチューシャで留めた少女が、首を傾げながら覗き込んでいた。

 「ボール見つかった? 歩美も一緒に探すよ?」

  そうだった。
  自分は今友人たちと遊んでいる最中で、予想外に飛ばされてしまった野球ボールを探していたのだった。
  しかも運悪く丈足の長い草地に入り込んでしまったものだから、なかなか見つけられずにいると、何か嫌な映像が無理矢理入り込んできてそのまま立ち尽くしてしまったのだ。
  その映像を思い出し、軽い吐き気を覚える。
  けれど光彦はそれを必死に飲み下すと、何でもないような笑みを浮かべた。

 「すみません、向こうの川に落っこちちゃったみたいです。ちょうど暗くなってきましたし、そろそろ帰りませんか?」
 「えー、まだもうちょっと遊びたい!」
 「歩美ちゃん、この間門限過ぎて怒られたとこじゃないですか」

  尚も駄々をこねる歩美の背中を押しながら、光彦はちらと草むらを振り返った。
  今はもう何の映像も見えない。
  けれど、確かに見た。

  もつれ合う二つの人影。
  徐々に動かなくなる手足。
  すでに呼吸の絶えたソレを引きずりながら運んでいた男の顔。
  そして、投げ出された鞄の中から覗いていた携帯のサブ画面に映し出された日付。

  もうソレはそこにはないかも知れない。けれど、まだあるかも知れない。
  続きを見たいとは思わない。
  ただいつも、込み上げてくる吐き気を抑えるのに必死だった。

 (……もう嫌だ……)

  ――タスケテ。
  もうずっと、そう叫んでいる。
  その声が誰かの耳に届いたことは、ない。





   二〇九八年、九月一日、午前十時二十三分。
  人や車の往来が激しい都会の真っ只中、一際高い高層ビルの屋上に黒羽快斗は横たわっていた。
  ここへ通じる扉があることにはあるが、三つの鍵とセキュリティに守られたこの場所は緊急時にのみ解放されるため、おざなり程度の柵があるだけであとはひどく殺風景だ。
  そのためここからは地上も空もよく見える。
  特に、なにものにも視界を遮られずに空を見渡すことのできるこの場所を、快斗はとても気に入っていた。

  後頭部で組んだ両手を枕代わりに、目を瞑って吹き荒れる冷たい風に晒される。
  流れる雲が時折陽の光を遮るのに混じって、一羽の鳥が旋回する度に彼の頭上に影を作る。
  快斗はゆっくりと瞼を持ち上げた。

  鳥は真っ白な鳩だった。
  左足に少し擦り切れた布を巻いている。

  かつては繁殖していた鳩も今では絶滅危惧種のひとつだった。
  中でも白鳩は動物保護区で管理されるほど貴重な存在で、こんな場所で見られるものではない。
  それが、そんな事情などまるで知らぬとでも言いたげに、鳩は吹き抜ける風に身を預けて悠々と遊んでいる。
  保護という名目のもとで一生を鳥籠の中で過ごす鳥たちよりも、その鳩はずっと生き生きして見えた。

 『――またサボリか?』

  と、唐突に響いた声に驚きもせず、快斗は空を見上げたまま気乗りしない様子で答えた。

 「なに、萩原さん。シゴト?」
 『GPSは外すなと言っただろ。管理に怒られるのは俺なんだぞ』
 「外してないよ」
 『機能しなきゃ同じなんだよ、阿呆。いいからさっさと戻って来い。シゴトだ』
 「……了解」

  冷たいコンクリートから体を起こし、うんとひとつ伸びをする。
  本当なら一日中ここに寝転がりながら何をするでもなく傾いていく太陽を眺めていたいところだが、一度としてその希望が叶ったことはない。
  大抵は日が沈む前に呼び出され、いつ日が暮れたのか気付く間もなく夜が更けていくのが常だ。
  そしてそれは今日も変わらない。

 「行くぞ、キッド!」

  呼び掛けると同時に快斗はビルを飛び降りた。
  頬に吹き付ける鎌風を苦ともせず、死に対する恐怖がないのか、何の抵抗もなく落下していく。
  その横に沿うように、キッドと呼ばれた先ほどの白い鳩が快斗と平行して降下した。
  翼を背に流し降下してゆくその様はまるで獲物を狙う鷹のそれだ。

 「窮屈で悪いけど、本部に戻るまではまたここに入っててくれな」

  快斗は落下したまま上着のジッパーを下げた。
  キッドは嫌そうに深紅の瞳を眇めたが、渋々快斗の懐へと飛び込んだ。

  そもそも絶滅危惧種であるということは、それだけ希少価値が高いということだ。
  強欲な連中に目を付けられれば後々面倒になる。
  かつてキッドはその理由から翼を折るほどの痛手を負ったことがあるため、多少窮屈でも人目に触れない方が賢明だと判断したのだろう。
  彼は非常に頭のいい鳩だった。

  快斗はキッドを懐に仕舞うと、右上腕部分に嵌められたリング型装置の作動スイッチを入れた。
  その途端快斗の姿が消え、ただビルとその周りの景色が見えるだけとなった。
  時折微かに蜃気楼のような歪みがちらちらと見えるが、それすらもじっと注視しなければ分からない。
  完全に姿を消すことはできずとも、一般人の目を誤魔化すには充分だった。

  これは擬態化スーツと呼ばれる特殊装置で、その名の通り周囲の風景との擬態化を可能にするものだ。
  いつ何時任務に駆り出されるか分からない快斗はいつもこのスーツを着用している。
  制作者は発明好きな天才科学者で、自らを錬金術師と称するだけあり、彼が創ったものは独創的かつ実用的なものが多い。
  たとえば、快斗が今履いている靴も錬金術師殿の作品だ。
  風の力を動力に作動するこの靴は、風力を蓄積することによって爆発的な跳躍を可能にする。
  つまりこの風力飛翔ブーツと擬態化スーツさえあれば、ビルから子供が飛び降りただのと騒がれることもなく、行きも帰りもひとっ飛びだ。
  そのため、毎日のようにこのビルの屋上にやって来る快斗は、きちんと扉を潜ったことが一度もなかった。

  ぐんぐんと地上が近付くにつれ、快斗は着地に備え態勢を整えた。
  と言っても、この高さでは何をどうしたところで墜落は免れない。
  衝撃を和らげようにも限度がある。
  ただ、快斗は頭を下に落下していた態勢から、先に足が地面に着くようくるりと反転した。

  そしていよいよ地面に衝突しようという寸前、快斗の体は不自然な力の作用によってふわりと浮き上がった。

  音もなく、振動もなく、まるで人の落下などなかったかのように、次の瞬間には快斗は既に人混みの中に立っていた。
  雑然とした空間の中に混じった微かな違和に気付く者はひとりもいない。
  ただ己を覆う殻の外全てのものに無関心だとでも言うように人々は流れていく。
  一体この中のどれだけの人が、すれ違っただけの見ず知らずの人間に関心を抱くのか。
  たとえ今ここで擬態化を解いたところで誰も騒ぎ出したりはしないだろう。
  人間というのは面白いもので、自分の理解の範疇を超える現象を目の当たりにした時、他人に明確な同意を得られない限りその現象を錯覚や幻覚で片づけてしまうのだ。
  だからこそこんな無茶ができるのだが、それを喜ばしいと感じたことは一度もなかった。
  ただ思い知らされる、いっそ怖いぐらい自分と隔絶した世界。
  まるで別世界でひとり孤独に佇んでいるような――

  と、懐に入り込んでいたキッドに嘴で腹を突かれた。
  くすぐったさに思わず身を捩りながら快斗は小声で文句を言う。

 「こら、じっとしてろって」

  すると今度は猫がするように腹に頭を擦りつけてきた。
  あんまりごそごそと動くものだから快斗は叱ろうとして、けれど、不意にキッドが何を言おうとしているのかに気付き言葉を飲み込んだ。

  キッドは頭のいい鳩だ。
  言葉こそ話せないが意思の伝達はできる。
  それに自分たちはもう五年もずっと一緒にいるのだ。
  こんな風に立ち尽くしている時、快斗が何を考えているのかなど彼にはお見通しなのだろう。
  彼も、この人混みの中にある寒々しい孤独を何より嫌っているから。

 「……ごめん。サンキュ、キッド」

  キッドがいる限り自分は決してひとりではない。
  けれど、この孤独が決して拭われないこともまた、快斗はよく分かっていた。
  それでもキッドは望んで快斗の側にいてくれる。
  自分を裏切り続ける相棒を変わらず信頼してくれる。
  今も、小さく鳴く声が「気にするな」と告げている。

  快斗は詰めていた息をふっと吐くと、小さく笑いながら本部へと向かって歩き出した。



「――円谷光彦、帝丹小学校に通う一年生。それが今回の標的よ」

  そこで彼女は忙しなくキーボードを打っていた手を止め、呼び出した二人を振り返った。
  赤みがかった茶色の髪が緩く揺れ、日に焼けていない真っ白な肌が覗く。
  膝上までの短い白衣のようなワンピースを着た彼女の首には灰色の幅広いリングが嵌められており、そのリングから伸びたコードは全て所狭しと並べられている大がかりな機械に接続されていた。
  彼女のような細身の女性とは何とも不似合いな光景だ。
  けれど、彼女こそがこの組織のブレインを担うあらゆる情報の伝達者、宮野志保だった。

  警察にも軍にも属さない特殊機関でありながら世界政府公認の極秘機関――World Government Organization。
  それが、志保が所属する組織の名だ。
  ここに所属する者は皆何かしら特殊な力を持っている。
  いわゆる超能力のようなものだが、違うのは、彼らの能力は科学的にも認められているということだった。
  彼らは普通の人間と何も変わらない。
  ただ、人が誰しも与えられていながら眠らせている力を、何らかの拍子に呼び起こしてしまっただけなのだ。
  その力をどうやって呼び起こすのかは未だ解明されていない。
  しかし、彼らがどうやって能力を使うのか、その科学的仕組みは既に解明されている。

  中でも志保の能力は非常に珍しいものだった。
  彼女は機械とシンクロすることができる能力者だが、数ある能力の中でも、生命の流れが存在しない無機物との同化ができるものなど他にない。
  しかも電脳化の進んだ現代において、彼女の能力はとても貴重なものだ。
  まるで自分の手足のように機械をコントロールできる彼女に引き出せない情報はない。
  その能力を手に入れるためには大きすぎる代価を払わなければならなかったのだが、転んでもただでは起きない、とはよく言ったものだ。
  彼女はその力を生かし、今では組織の生命線とも言うべき情報班班長を担うと同時に、この日本支部を支える支部長も兼任していた。

  志保は銀の鍍金が剥き出しになったままの義手でエンターキーを打った。

  目の前に等身大のホログラムが映し出される。
  それは米花町の東商店街で標的が買い物をしている時の記録映像だった。
  七歳にしては利発そうな顔つきと礼儀正しい言葉遣い。
  端から見ればただのしっかりした子供でしかなくとも、見る人が見れば分かる。
  彼を取り巻く周囲の環境が、彼を大人びた子供にならざるをえなくさせたのだ。

 「彼はこの一月の間に五回、警察に電話を入れているわ。それも全く別の公衆電話から匿名で。そしてそのどれもが、捜査が難航していた事件や発覚すらしていなかった事件に関する目撃証言。五件とも彼の通報によって犯人確保及び事件発覚に至ったと言っても過言ではないわね。
  警察は事件の重要参考人である彼を見つけだそうと躍起になってるわ。その前に彼、円谷光彦を確保すること。それが今回の任務よ」

  そう言って志保は並んで壁にもたれ掛かっている二人を見遣った。
  まだ高校生ほどの少年と二十代半ばの青年。
  WGOの秘蔵っ子黒羽快斗と彼の上司萩原研二だ。
  彼らは組織内でも最も任務遂行が難しく危険度が高いと言われる、機動班の特別機動隊に所属していた。

  そもそも機動班は能力者の保護及び捕獲が主な任務だが、彼らの所属する特別機動隊は能力犯罪の取り締まりや犯人の確保及び連行を任務とする。
  そのため、自身があらゆる能力に対抗しうる能力を持っていなければ成り立たない。
  その中でも隊長と副隊長という肩書きを持つ萩原と快斗は、特にその能力を認められた能力者だった。
  志保を組織の頭脳とするなら、彼らはその指令を確実にこなす手足と言えるだろう。

  志保は止めていた手を再び酷使しながら、彼らの映像受信装置に標的の映像と標的に関するあらゆる情報を転送し始めた。
  首から提げたゴーグルと手に持ったサングラスがそれぞれ、快斗と萩原の映像受信装置だ。
  二人は装置を装着すると、パソコンのディスプレイに打ち込まれる文字のようにカタカタと流れていくデータに素早く目を通した。
  もちろんこのデータは装置に蓄積されるが、いざという時に頼れるのは己の記憶に刻み込んだ情報だけだと、彼らはよく理解している。
  萩原はもちろん、まだ十七歳の快斗だとてそういった場面に出くわしたことが一度や二度ではないのだ。

  データを頭に叩き込みながら、快斗がふと沸いた疑問を口にした。

 「その電話をかけてきたのがこの子だって、どうやって割り出したの?」
 「簡単よ。通話記録から発信場所を割り出せば居住地区は特定できるし、政府の衛星追跡装置をハッキングすれば簡単に見つけだせるわ」
 「あ、そう……」

  はは、と乾いた笑いを吐き出しながら快斗は適当な答えを返した。
  彼女はおそらく世界でもトップレベルのハッカーだ。
  こんなことでいちいち驚いてなどいられないと、それ以上は何も言わないよう努めた。
  すると志保は殊更気のない声で言うのだ。

 「ああそれから、ダイブした時にハッキングされた痕跡を数カ所発見したから」

  途端、重い沈黙が降りる。
  その言葉の意図が何か、それが分からない者はここでは生きていけない。
  とは言え、志保に言われるまでもなく、快斗も萩原もある程度予測していたことではあった。
  組織の主力とも言うべき自分たちに任務が回されるとは、つまりそういうことなのだ。
  要するに最も危険度が高く、遂行困難な任務。

 「くれぐれも注意しなさい」

  転送完了とともに志保から有り難い忠告を受け取った二人は、微妙な面持ちでそろそろと部屋を後にした。



 * * *

  学校からの帰り道をとぼとぼと歩きながら、光彦は胸に渦巻くもやもやしたものを晴らそうと長い溜息を吐いた。
  午後一時十五分、まだ太陽が傾き始めて間もない時間帯。
  下校時間には少々早すぎるが、担任の小林先生から早退するよう勧められ、光彦は心配顔の友人を残して下校した。
  生憎両親は共働きで姉も学校に行っているため、小林先生が家まで車で送って行くと言ってくれたのだが、光彦はそれを断わった。
  僕ももう小学一年生ですし、ひとりで帰れますよ。
  光彦はそう言ったが、本当はとてもひとりで帰れるような状態ではなかった。

  今日もあの映像を見た。
  授業中に突然、数時間前の同じ場所へと飛ばされた。
  誰もいない教室で三人の子供たちが喋っている、ただそれだけの場面だった。
  けれど、過去の記憶に引きずられた時、光彦はいつも凍えるほど体が冷たくなる。
  まるで金縛りのように身動きが取れなくなり、映像によってはショックで発作を起こすこともあった。
  それほどの負担がこの小さな体に掛かっているのだ。

  光彦は未だに熱の戻らない指先を擦り会わせた。
  その指が震えているのは何も寒さのせいばかりでなく、わけの分からない恐怖にこそ震えていた。

  状況は日々刻々と深刻化している。
  始めは瞬きの合間にちらつくだけだった映像が、今では目を開けていても入り込んでくるようになった。
  どこからが現実でどこまでが過去なのか。
  このままいけばいずれ自分は過去に囚われてしまうのではないかという恐怖。

  それを振り払おうと光彦が握りしめた拳に力を込めた時、前触れもなく現れた人影にぶつかり、光彦は転けてしまった。
  軽く尻餅をついたけれどなんとか両手で体を支える。
  光彦はすぐに謝ろうとして、けれど、見上げた人物のあまりの異質さに息を呑むと同時に言葉も呑み込んでしまった。

  首もとから膝下まですっぽり覆う、九月にはまだ早すぎるロングコート。
  長い前髪の間からのぞく、氷のように冷たい瞳。
  頭にのせられた帽子の下からは長すぎる銀色の髪が伸びていて、片方だけ持ち上げられた口元には煙草が銜えられていた。
  帽子からコートからズボンから靴まで、全身黒尽くめの男。
  そんな男にすぐ目の前で見下ろされれば、光彦でなくとも思わず息を呑んでしまうだろう。

 「ご……ごめんなさい……」

  光彦はやっとのことで謝罪を口にしてみるが、男は一向に動こうとしなかった。
  ただ持ち上げられた男の口角がまるで獰猛な獣のそれのように怖ろしく感じる。
  こくりと喉を鳴らし、光彦はそろそろと立ち上がった。
  わけのわからない恐怖に突き動かされるまま一歩二歩と後退る。
  だが男に光彦を追おうとする気配は見られない。
  怖いと感じるのは自分の勘違いだろうか。
  そう、光彦が思った時――

「――何か見えたか?」

  ざわっ、と肌が粟立った。
  ただ声を聞いただけなのに、言いようのない恐怖が背中を駆け抜けた。
  男の声があまりに重く固く冷たかったせいかも知れない。
  空気でさえこの男に触れるのを恐れるように震えている。
  それと同時に凄まじい量の映像が怒濤の如く光彦の視界へと入り込んできて、光彦の体は金縛りのように動かなくなった。

  まるで壊れた映写機で映画を見た時のように、ぶつ切りにされた映像が一瞬のうちに何度も切り替わる。
  ひとつひとつの映像はバラバラで繋がりなどまるでないのに、その全てに共通していることがひとつだけあった。
  あちこちに飛び散った、紅、紅、紅。
  無理矢理視界にねじ込まれる映像に埋もれ、やがて全てが赤色に染まっていく。
  指に触れるぬるぬるとした感触。口の中に広がる錆びた鉄の味。
  視界を染め鼻孔を突き鼓膜を震わせるそれは他でもない、人の命が尽きる瞬間。

 「うわあああ――っ!」

  光彦は叫んだ。
  それすら誰かの悲鳴に掻き消され、自分が本当に叫んでいるのかどうかも分からない。
  それでも、叫び続けた。
  叫ばずにいられなかった。

  もう何度も人の死を見てきた。
  殺されたり、事故に遭ったり、自殺した人もいた。
  なぜ自分にそんなものが見えるのかは分からない。
  ただ、誰かの強い思い――残留思念とでも呼ぶべきものが自分にその無念を訴えてくるのだ。

  けれど、こんなにも多くの思念を背負った人を見たことはなかった。
  こんなにも人を殺すことのできる人がいるなど、光彦は考えたこともなかったのだ。

 「運が悪かったな」

  どこか遠くからあの男の冷たい声か聞こえたような気がした。
  止め処なく押し寄せてくる映像に支配された視界に男の姿は映らない。
  全ての感覚を奪われた状態では逃げ出すこともできない。
  自分もこの人たちのように殺されるのだろうか。

 (……いや、だ……)

  怖い。
  死にたくない。
  もう見たくない。
  こんなもの、もう一秒だって見ていられない。

  気が狂わんばかりに必死で叫ぶ、誰にも届かなかった言葉。


 「助けて――っ!」


  途端、視界がクリアになった。
  ばさばさとすぐ側で鳥の羽音がする。
  いつの間にか体は宙に浮いていて、自分が誰かに抱えられていることに気付いた。

  光彦はおそるおそる目を開いた。
  まず視界に映ったのは真っ白い鳥だった。
  先ほど聞いた羽音の正体はあれに違いない。
  しかも、その鳥は鳩だった。
  絶滅危惧種に認定された指定保護動物だ。
  中でも白鳩は今ではもう滅多に見られない幻の鳩だと、前に読んだ専門書には書いてあった。
  その白鳩が、まるでこの状況を見守るようにゆっくりと旋回している。

  次に視界に映ったのは不自然に盛り上がった地面、そのこちら側に立つ見知らぬ男の背中、そして向こう側に立つ黒尽くめの男の姿だった。
  黒尽くめの男の表情に先ほどの笑みはない。
  ぴりぴりと緊張した空気が光彦にも伝わってくる。
  こちらに背を向けている男の表情は見えないけれど、対峙する彼らが仲間同士だとはとても思えなかった。
  もしかしなくても自分は助かったのだろうかと思った時、

 「大丈夫?」

  と、声をかけられ、光彦は自分が誰かに抱えられていたことを思い出した。
  慌てて振り仰げば、予想外に若い顔が間近にあった。
  光彦に比べればずっと年上だが、大人と言うには若すぎる。
  あちこち跳ねた奔放な髪はフードにおさめられ、ゴーグルの奥の悪戯っぽく光る双眸がこちらをじっと見つめている。
  口元に浮かべられた笑みがひどく人懐っこい、活発そうな少年。
  その肩に先ほどの鳩が留まった。

 「おまえ、まだ一年生だろ? ひとりで帰るなんて危ないなー」

  まるで荷物か何かのように光彦を小脇に抱え、少年――快斗は窘めるように眉を寄せて見せた。
  すると光彦は叱られた子犬のように俯いてしまった。
  確かにひとりで帰ろうとしたことは自分でも間違いだと思う。
  おかげでこんなわけの分からないことになってしまった。
  けれど、今は反省している場合ではない。

 「あの、あなたは……? それに、あの男の人……」

  光彦は快斗に抱えられたままちらりと視線を動かした。
  盛り上がった土を間に挟み、二人の男は未だ睨み合ったまま微動だにしない。

  いったい何が起こっているのか。
  いつもと変わらない道をいつもと同じように歩いていただけなのに、昨日とはまるで違うことばかりだ。
  なぜ自分が襲われたのか。
  なぜあの男は自分を狙ったのか。
  そもそも、なぜ、突然こんなわけの分からないものが見えるようになったのか。
  光彦にはまるで見当もつかなかった。
  けれど彼らならその理由を知っているような気がすると、理不尽な直感が告げている。

  幼いがゆえに曇りのない真っ白な双眸で見つめられ、快斗は苦い笑みを浮かべた。

 「まだ子供なのに、気の毒にな。もっと別の能力だったら誰にも気付かれず暮らしていけたかも知れないのに」
 「能力……? どういう意味ですか?」
 「……後できっちり説明してやるよ。今はそれよりあいつをどうにか……」

 「――子供扱いしないで下さい!」

  思わず怒鳴った光彦に快斗は目を瞬かせた。
  光彦も怒鳴るつもりはなかったのか、自分で自分の声の大きさに驚いているようだ。
  しかしすぐに気を取り直すと、挑むように言い放った。

 「そんなの関係ないじゃないですか。あなただって、そりゃ僕よりずっと年上ですけど、大人じゃありません。
  気の毒かどうかなんて僕が決めることです。僕はほんとのことが知りたいんです!」

  けれどその言葉が言い終わるより先に、光彦は快斗に抱えられたまま後方に飛び退らされ、気付けば先ほど立っていた地面が土ごとえぐり取られていた。
  喋っている最中だったためついでのように舌を噛んでしまったけれど、それについて文句を言う余裕はなかった。

  地面を抉ったのは黒尽くめの男だった。
  男の左の肩より先はまるで獣のそれのようで、銀色の毛皮に覆われた指先には鋭く尖った爪が剣呑な光を放っている。
  もうひとりの男は左の脇腹を抱えるように片膝をついていた。
  この位置からでも、ぽたぽたと地面に滴り落ちるものが血であることが分かる。
  光彦は縋るように快斗を見上げた。
  彼らが何者かは分からないけれど、この場をどうにかできるのは、血を流している男を除けば自分を抱えているこの少年しかいない。
  けれど、見上げたその顔が先ほどの人懐こいものとはあまりにもかけ離れていて、光彦は何も言うことができなかった。

 「その銀の毛並み……肉体を獣化できるってことは、あんたベラクルスの十二使徒のひとりだな」

  快斗の言葉に男はただ無言のまま微かに目を眇めた。
  だが、答えはそれで充分だった。
  快斗は光彦を地面に降ろすと、背に庇うように立ちはだかりながら言った。

 「我々は世界政府機関機動班の特別機動隊だ。WGOの命のもと、犯罪組織〝ベラクルス〟の重要参考人として、あんたを連行する」
 「ふん……狗どもが」

  抑揚のない声で男が吐き捨てる。
  その声には感情というものがまるでこもっていなかった。
  生き物に対して何の感慨も抱いてないような声。
  おそらく人間が――彼自身を含めた人間全てが、彼にとってはどうでもいい存在なのだろう。
  だから、脅す声にも心が伴わない。

  けれど快斗は怯むどころか挑むように睨み付けながら言った。

 「こいつは渡さねーぜ」

  その挑発するような笑みが気に障ったのか、男は爪のぎらつく左腕を持ち上げながらゆっくりとこちらに向かって動き出した。
  光彦の肩がびくりと震える。
  再びあの怖ろしい思念に囚われるのではないかと考えたのだ。
  けれど、突然盛り上がった地面が快斗と男との間に割り込み、男はそれ以上進むことができなかった。
  男の四方は厚い土の壁でぐるりと囲まれている。
  いつの間にか立ち上がっていた上司に快斗は別段心配したふうもなく声を掛けた。

 「萩原さん、大丈夫?」
 「任務中は隊長と呼べ」
 「……大丈夫そうだね」
 「馬鹿にすんなよ、青二才。ここは俺が引き受けるから、おまえは早くそのガキを本部に連れてってやんな」

  見れば、深手を負ったはずの左脇腹を土が覆っている。
  おそらくそれで止血しているのだろう。
  大地の守護を受ける彼、萩原研二は、大地を意のままに操ることができるのだ。
  さすがに特別機動隊隊長なだけあって戦い方を心得ていると、快斗は軽く頷き、

 「んじゃ隊長、後で本部で――」

  落ち合おう、そう続くはずだった言葉が、途中で途切れた。
  キンッ、という金属音がしたかと思うと、一瞬後には土の壁がガラガラと音を立てて崩れ落ちていた。

  この壁は萩原が自分の能力で創り出したもので、その強度はおそらく鉄よりも硬い。
  だが、それがいとも容易く崩された。
  幾筋もの直線が混じり合ったように、切断面は真っ直ぐに斬り崩されている。
  まるで鋭すぎる刀や剣で斬った痕のようだ。
  快斗も光彦も、そして壁の向こう側にいた萩原も目を瞠っている。
  毛皮と爪に覆われていた男の手はいつの間にか人のそれに戻っており、その手には鋭い鋼の刀が握られていた。
  それが壁を斬っただろうことは疑うべくもない。
  快斗は握った手の平に嫌な汗が滲むのを感じた。

  あんな刀、さっきはどこにもなかった。
  だとすれば考えられる答えはひとつ、それは男が自分の、或いは他の誰かの能力によって創り出したということに他ならない。

  物質の変化には多くの制約がつく。
  能力者と言えど、逆らうことのできない絶対の真理をねじ曲げることはできない。
  そのため通常能力者が物質を変化させる時、変換式と呼ばれる真理を数式化して表わしたものを用いる。
  と言うより、それがなければとてもできる芸当ではないのだ。
  そして何万何億とある式の中からたったひとつの式を見つけなければならないため、物質の変化には非常に時間がかかる。
  錬金術師の異名を誇る我らが鑑識班の科学者殿も、物質の変化を基本に発明を行っているが、日がな一日研究室にこもりっぱなしなのはこの変換式に最も手を焼くからだ。

  もしこの刀を創り出したのがこの男であるなら、男は物質を変化させることができる能力者ということになる。
  しかもこのたった数秒で刀を創り上げたと言うなら、変換式なしで物質の結合を組み換えたということだ。
  そんなことができる能力者など見たことも聞いたこともない。

 「まいったな……ほんと、志保ちゃんたら面倒な任務ばっか回してくれるんだから……」

  快斗は引っ手繰るように光彦を抱き上げると、踵を返し猛然と駆け出した。
  相手はベラクルスの十二使徒だ。
  快斗と萩原だけでは手に余る。

  それは、WGOでも未だにその実態を掴み切れていない未知の能力者組織だった。
  分かっていることと言えば彼らが自らの肉体を獣化できる十二人の能力者から成る組織であることと、かつて彼らをまとめていた今は亡き彼らの先導者がベラクルスと呼ばれていたこと、そしてもうずっと昔から世界政府機関が追い続けている国際的犯罪組織だということだけ。
  彼らは自らをベラクルスの十二使徒と名乗り、ベラクルスの名のもとに数え切れない罪を犯してきた。
  快斗の属する極秘機関WGOは彼らを取り締まるために存在すると言っても過言ではなかった。

 「志保ちゃん!」

  走りながら名前を呼べば、待機していた志保がすぐに応答する。

 『なに?』
 「奴らのひとりと接触した。標的は確保したけど、隊長が負傷してる。誰でもいいから応援呼んで」
 『……OK。三キロ先に赤井君がいるから、何とか合流して』

  言い終わらないうちにゴーグルのレンズに送られてきた地図が映った。
  点滅する赤い点もこちらに向かって近付いてくる。
  志保からの連絡を受けた彼もこちらに向かっているのだ。
  あの人が来るなら態勢を立て直せるかも知れないと、快斗は口角を持ち上げる。

  ――けれど。

 「お兄さん、後ろ……!」

  光彦の脅えた叫び声が聞こえたかと思うと、快斗が振り返るよりも前に眼前に一匹の狼が飛び出した。
  咄嗟に光彦を放り出して構えた快斗の両腕に、剥き出しになった狼の牙が思い切り噛みつく。
  けれどその牙は快斗の皮膚より数センチ手前で押し留められていた。
  快斗の表情には苦悶の色が浮かんでいるが、その腕には傷ひとつない。

  だが噛み千切れないと知ると、狼はあっさりと快斗から飛び退いた。
  白い牙の合間から赤い舌を覗かせて、鋭い爪をぎりぎりと地面に突き刺している。
  銀色の毛並みが美しい、ひどく大きな狼。
  息ひとつ乱さず涼しげに佇む姿は、まさにその名に相応しい幻の神獣――

「……舜狼」

  快斗は苦々しげに呟いた。
  その名の通り、舜狼とは普通の人間など思いも寄らない速さで奔る狼のことだ。
  その姿は星を散りばめたような銀色の毛並みに、熊ほどの大きさを持つという、実在しない想像上の山の神。
  それが今、眼前にいる。
  言うまでもなく、この狼は先の黒尽くめの男に違いなかった。

  男がここにいるということは、萩原はやられたと見て間違いないだろう。
  舜狼相手に赤井の応援を待つだけの余裕もない。
  状況は絶望的だ。
  ……だと言うのに。

 「ほんと、ついてねーぜ」

  ぺろり、快斗が唇を舐める。
  その表情はどこか喜んでいるようにさえ見えた。

  快斗の能力は〝力〟と名がつくあらゆるものを無効化するものだ。
  それは衝撃力であったり摩擦力であったり、重力でさえも無効化することができる。
  そしてその殆どはオートで発動するため、快斗は普段、意識して能力を使うことがほとんどない。
  だが、快斗にはもうひとつ、誰にも知られていない力があった。
  その力を使うことはあまりない。
  というか、制御できていないから使うことができないのだ。
  その力をほんの一瞬だろうと制御できたことはただの一度もない。
  そのため快斗は制御装置と呼ばれる腕輪型の封環をいつも両手首につけて、能力の最大値を大幅に下げている。
  だが、そもそも制御装置とは能力者が自己の能力を制御するための装置ではない。
  暴走した力に食われてしまわないよう、力を封じ込めるための装置なのだ。
  それを外せば下手をすれば命を落とすことも有り得る。
  けれど、次の瞬間には死ぬかも知れないと分かっていながら、快斗は笑みさえ浮かべて左手首の封環に指をかけた。

  手の平には汗が滲み、心臓は早鐘のように鳴っている。
  体が拒絶しているかのように、耳の奥でキンと耳鳴りがする。
  血が逆流し、指先から髪の一本までが熱くなる感覚。

  カツン、と甲高い音を響かせながら、封環が地面に落ちた。

  その瞬間、風が疾った。
  生暖かい熱風のようなものが快斗を中心に有り得ない風速で疾り抜ける。
  その風が吹き抜けた場所だけがまるで切り離されたかのようにあらゆる動きを止めた。
  風のそよぎ、雲の流れ、鳥の羽ばたき、人の歩み。
  空中を流れる粒子のひとつでさえ静止している。
  瞬く間に周囲を包み込んだその熱風は、一瞬にして全ての力という力――全ての生命の動力とでも言うべき〝時間〟を奪い去った。

 「……くっ……」

  がくりと、快斗はその場に膝をついた。
  背後に隠れていた光彦はその姿のまま固まっている。
  正面に見据えた狼も微動だにしない。
  額から噴き出る汗を袖で拭い、ふらつく足を叱咤して、快斗はゆっくりと狼に近付いた。

  鼓膜が破れそうなほど耳鳴りがひどい。
  まるで高熱を出した時のように体は重く視界がぼやける。
  やはり片方だけにしろ制御装置を外すことは、快斗にはまだ早すぎたのだ。
  その負担に耐えかねて体のあちこちが悲鳴を上げている。
  けれど、どれほどの無茶をしても、快斗はこの男を捕まえたかった。
  なぜなら――…


「〝動くな〟」


  不意に響いた声に、快斗はまるで金縛りにあったかのように動けなくなった。
  重くも低くもない、荒々しさの欠片もない声だというのに、なぜか従わずにはいられない。
  快斗は何が起こっているのか俄に理解できなかった。

  封環を外した時、快斗の周囲は時間の流れを止める。
  その中で動くことができるのは快斗ただひとりだ。
  だと言うのにその快斗が動きを奪われ、快斗の能力の干渉を受けない第三者が現れた。
  その誰かはどうやら背後にいるらしく、顔を見ることもできない。
  まさか新手の十二使徒か。
  そう思い気を張りつめた快斗の横を、何の気負いもなくひとりの人影がコツコツと通り抜けた。
  後ろ姿しか見えないが、頭から足の先まで全身黒尽くめの人間。
  フードのようなものを被り、膝下までのコートですっぽりと全身を覆っている。
  声と後ろ姿だけでは男か女かも分からないけれど、成熟した大人の背中には見えなかった。

  その人は無言のまま狼の前まで歩いて行くと、動かない体にそっと手を伸ばし、優しくその頭を撫でた。
  まるで母が子を愛おしむように、――神が人を慈しむように。

 「〝起きろ〟」

  その声が再び絶対の力をもってそう呟かれた瞬間、時を止めていた狼が息を吹き返したように動き出した。
  有り得ない、と快斗は目を瞠る。
  快斗の能力の干渉を受けないどころか、他のものへの干渉も解くことができるなんて。

  と、漸く状況を理解した狼が快斗を見るなり牙を剥きだしながらグルグルと唸り声を上げた。
  快斗は汗が頬を伝っていくのを感じた。
  今動かれれば非常に拙い。
  無茶な解封を行ったおかげで身体は思うように動かないし、舜狼相手に子供ひとり守りながら勝てる可能性は零に等しい。
  けれど、今にも狼が足を踏み出そうとした瞬間……

「――ジン」

  宥めるようなその声に、狼は嘘のように大人しくなった。
  必要ない、そう告げるように翳された手に、不満ながらも従っている。

 「あんた、何者だ……?」

  快斗は絞り出すように呟いた。
  頭の芯が痺れたように思考に靄がかかっている。
  いよいよ身体が負荷に耐えられなくなってきたのか、それともそれすらもこの存在による影響なのか。
  快斗にはもうそれを判断するだけの力も残っていない。

  ゆっくりとこちらを振り向いたその人と目が合った。
  まるで雲のない空を、水面に揺れる湖面を、そのまま閉じこめたように何一つ穢れのない、まさに清廉潔白な瞳。
  それは、とても人が持てるものとは思えない輝き。
  フードの下から覗くその蒼い蒼い双眸に吸い込まれてしまいそうだ。
  そう感じた瞬間、どこかに転がしたままだったはずの封環が、カチンッと音を立てながらひとりでに快斗の手首に嵌った。

 「封環を解くのはまだ早いよ、黒羽快斗」

  なぜ名前を知っているのか。
  なぜこんなことができるのか。
  だが、混乱する頭の片隅では、既にもう答えが出ていた。

  十二使徒が主と仰ぎ、その命に従うのはただひとり。

 「あんたはまさか――…」

  薄く色づいた口元がまるで花が綻ぶように微笑んだ。
  その先に続く言葉を分かっているとでも言うように、静かに、厳かに。

  その時、どこからともなく突風が吹き抜け、その強さに快斗は思わず目を瞑った。
  あまりの強さに呼吸さえもままならない。
  風は全てを包み込み、快斗の肌を優しく撫でながら通り過ぎていく。
  どこか懐かしい香りがするのは気のせいだろうか。
  暴風と呼ぶには優しすぎる、けれど力強く吹き抜けていくその風に、無性に感情を急き立てられ……

 気付いた時には、狼の姿も人の姿もなくなっていた。

  快斗は慌てて辺りを見渡すが、彼らの姿はどこにも見当らない。
  ただ何事もなかったかのように再び時間が流れ始める。
  あんなに吹き荒れていた風も何食わぬ顔で吹き抜けていくだけ。

  奴らを取り逃がしたのだと、すぐに状況を飲み込むことが快斗にはできなかった。

  十二使徒との接触をあんなにも待ち焦がれていたと言うのに、いざ対峙してみてこの様とは情けない。
  いいところまで追いつめたとは言え、捕まえるどころか傷ひとつ負わせられなかった。
  萩原は傷を負い、封環まで解いた快斗でも叶わなかった。
  結果的に見ればこちらの惨敗だ。
  まさかこれほどまでに彼らと力の差があるとは思わなかった。

  けれど。
  ふと見遣れば、地面に横たわった光彦が静かに寝息を立てている。
  時間を止めるなどという無茶に付き合わせてしまったけれど、どうやら何も悪影響はなさそうだ。
  奴らは捕まえられなかったけれど、何とかこの子供を守ることはできたのだ。
  それだけが唯一の救いだと、快斗は安堵の息を吐いた。

  その途端、まるで反動のように疲労が押し寄せてきた。
  軽い眩暈を起こしているのか、定まらない視点に小さく舌打ちを漏らす。
  体のあちこちが痛んでいた。
  それでも何とか光彦を本部まで連れて行かなければならない。
  快斗は痛む身体に鞭打って立ち上がり、ふらつく足を叱咤して光彦を抱き上げた。
  けれど襲い来る疲労に抗う術もなく、快斗は数歩歩いたところでどうすることもできずに倒れ込んだ。
  最後の意地で光彦を下敷きにすることはなかったが、快斗はそのまま意識を手放したのだった。



 * * *

 「気が付いた?」

  覚醒とともに視界に飛び込んできた見慣れた顔と聞き慣れた声に、快斗は軽く目を瞬いた。
  栗色の髪に銀縁眼鏡を掛けた、見るからに人の良さそうな青年。
  首から聴診器を垂らし白衣を羽織った出立で柔らかい笑みを向けている。

 「……新出先生」
 「そろそろ目が覚める頃だとさっき連絡を入れたから、直に萩原隊長と宮野支部長が来られるよ。何か言い訳を考えておいた方がいいんじゃないかな」

  そう言ってくすくす笑う医療班班長、新出智明に恨めしそうな視線を投げ、快斗は面倒くさそうに溜息を吐いた。
  ここはWGO医療班の心身治療室と呼ばれる休息室だ。
  どうやら気絶した快斗は萩原か赤井あたりによって本部に連れ戻されたらしい。
  相手が十二使徒のひとりだったとは言え、任務遂行中に標的の安全も確保できないまま気絶したとはなんとも情けない。
  上司二人は普段生意気な部下にここぞとばかりに説教を垂れるだろう。
  まあそれはいつものことだから良いとしても、気掛かりなのはあの子供のことだ。

 「大丈夫だよ、あの子なら君のおかげで傷ひとつない。今は宮野支部長のところにいるよ」

  何気なく視線を巡らせただけで気付いたらしい新出にそう告げられ、快斗は安堵の息を吐いた。
  あの時、子供扱いしないでくれと光彦は叫んだ。
  誤魔化しのない真実が知りたいのだと。
  必死に叫ぶその姿はかつての自分と重なる気がした。
  かつて――父の死を突き付けられ、真実を偽るなと吠えた時の姿と。

 「……あいつ、大丈夫かな。まだ七歳のガキなのに、もう家族や友達のところには帰れないって知ったらどうするんだろう。そりゃ奴らに殺されるよりマシだろうけど……」

  しん、と沈黙が下りる。
  快斗の言いたいことがよく分かっている新出は何も言わず、ただぽんぽんと快斗の頭を優しく撫でた。
  ここにいる限り自分の身を守ることはできる。
  だが、ここではただ生き延びる他に得られるものは何もなかった。
  たった七歳の子供をそんな場所に閉じ込めるなんて、それが任務だと分かっていても簡単に割り切れるものではない。

 「――子供だと思ってなめんじゃねえ!」

  と、唐突に響いた怒声に、二人は吃驚眼で声の方へと振り向いた。
  するとそこには萩原研二と宮野志保、そして円谷光彦が立っていた。
  声の主は言うまでもなく萩原だ。
  煙草を銜えた口元にニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、ベッドに転がっている快斗を楽しそうに見下ろしている。
  志保は突然怒鳴り声を上げた萩原を迷惑そうに睨み付けていたかと思うと、呆れた顔をこちらに向けた。

 「貴方、自分のことを棚に上げてよくそんなことが言えるわね」
 「子供だと思ってなめんじゃねえ! それ以上下らねーこと言ってみろ、俺がその口潰してやる!
  こりゃおまえが八つの時に言った台詞だ、忘れたとは言わせねーぜ」

  そう。
  父が死に、父の後を継いでWGOの長官となった男に向かって、快斗は泣きながらそう吠えたのだ。
  WGOの長官と言えば世界政府に認められた人間だ。
  その男に向かってこれほどの暴言を吐いた者は快斗が最初で最後だろう。
  そして、それに対して何の罰則も受けなかった者も。

 「あの……」

  ベッドに転がったまままだ動けない快斗に駆け寄り、光彦はぺこりと頭を下げた。

 「今日は助けて頂いてどうも有り難う御座いました。それから、色々と失礼なことを言ってすみませんでした」

  快斗はきょとんと目を瞬いた。
  失礼なことと言われても何も思い当たらなかった。
  強いて言うなら子供扱いしないでくれ云々くらいだが、快斗としては何も不快に感じなかったのだから、謝られる筋合いは全くない。
  まるで叱られた子犬のようにしゅんとしている光彦を慌てて慰めようとして、

 「気に病むことないわ。そんなことを気にするほど繊細じゃないもの」
 「そうそう、こいつなんか八歳で大人を脅迫した男だぞ。おまえなんか可愛いもんだぜ」

  上司二人に言いたい放題言われた快斗は、こめかみに青筋たてながらもなんとか苦い笑いを浮かべるだけにとどめた。



  「それで、あの子はこれからどうするんだ? 志保ちゃんから話したんだろ?」

  一段落ついた頃、快斗がそう切り出した。
  光彦は管理班の班長に連れて行かれたためここにいない。
  新しく確認された能力者はIDの取得やら名簿への登録やらと色々と忙しいのだ。
  彼の今後についてという少し重い話題をするのは彼がいない時に、そう思って快斗は光彦がいなくなってからその話題を振ったのだが。

 「あの子はうちで預かるわ」
 「――へ?」

  間の抜けた声は男二人の口から発せられた。
  萩原も、器用に煙草を引っかけたまま口をぽかんと開けている。

 「彼の能力はレコーダー……つまり、過去の記憶を読みとるものよ。情報班にもってこいでしょ」
 「待て待て! あんなガキを任務に就ける気か?」
 「任務と言っても我々情報班は貴方たち機動班のサポートでしょ。何も危険はないわ」
 「いやいや、そうじゃなくて!」
 「もちろんそれも心配なんだけど……」

 「志保ちゃん(あんた)と一緒なんて平気なの(か)?」

  宮野志保。
  元鑑識班のマッドサイエンティストにして現情報班の鉄の女。
  彼女の部下になるなんて果たして光彦の身が保つのかと案じる二人の男共に、志保はうっすらと冷笑を浮かべながら言った。

 「貴方たち、明日の任務を楽しみにしていなさい」



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