隠恋慕
恋心
「お前、いつから知ってたんだ」
とても事情を知らないとは思えない発言の数々を聞いてそう問いかけた新一に、快斗はあっさりきっぱりとこう答えた。
「最初から全部知ってたよ」
対組織戦に向けて本格的にプロジェクトが起動し始めた頃、まだコナンだった新一は極度の不眠症に陥ったことがあった。
それは、灰原哀と同じく組織の科学者だった女性、ジュリア・オーウェン――モニカという名のコードネームで呼ばれていた女性が組織から持ち出したAPTX4869に関する資料を見たことが原因だった。
そこに書かれていた驚愕の事実。
あの薬はそもそも毒薬でも、肉体を若返らせる薬でもなく、肉体の老化を恒久的に止めるための薬――不老不死を得るための薬として作られたものであること。
哀の脱走後、モニカによって進められた研究の成果では、一時的にではあるがマウスによる臨床実験で一部の被験体に老化の停滞が認められたこと。
そしてコナンと哀のDNAを採取した結果、実は全く成長や老化と呼ばれる活動が行われていなかったこと。
それらの事実を受け、哀とモニカが導き出した結論は――
不完全なAPTX4869を服用した結果、コナンと哀は肉体の若返りというイレギュラーな効果を得たものの、実際はそのイレギュラーな変化を経たことで本来の目的である『不老不死の肉体』へと偶発的に変異してしまった、と。
「申し訳ないけれど、一度変異した肉体を元に戻すための薬を作るには膨大な時間と大掛かりな設備、それに多くの人員が必要だわ。貴方が望むなら一から薬を作ることも厭わないけれど、私が生きている間に完成することはまずないでしょうね。
でも、貴方を工藤新一に戻してあげることはできるかも知れない。志保ちゃんが既にいくつか試作品を作ってくれているみたいだし、それに私が進めた研究結果を加えてさらに試行錯誤を重ねれば、そう遠くない内に元の姿に戻ることはできるはずよ。
ただしそれも、年を取らない不老不死の体として、だけれど……」
それを聞いた時、流石にショックを隠せなかった。科学者として研究に携わっていた哀は或いは予想がついていたのか、新一ほど驚いている様子はなかったけれど。
年を取らない。そう言われてもピンとくるものはなかった。
若返りなんて有り得ないことを体験した新一でも、体験したからこそ実感があるのであって、年を取らなければ実際にどういう弊害が生じてくるのか、正直想像もつかなかった。
よく言うように、肉親や親しい友人に置いていかれることを辛く感じるのかも知れない。年を取らない人間がひとつところにいては気味悪がられるだろうから、あちこちを点々と移動しなければならないかも知れない。或いは、時が経つにつれてひとつの戸籍を使い続けることもできなくなり、工藤新一という名さえ捨てなければならなくなるのかも。
第一、人はそんなに長く生き続けられるものなのか。肉体が滅びずとも、精神が先に狂ってしまうのではないか。いや、そうなる前に自分ならむしろ自ら命を絶とうとするだろうか。
――この工藤新一が自殺?
そんな馬鹿な。
とてもじゃないが考えられない。それでいて考えずにはいられない。いつしか思考の渦に呑み込まれ、囚われて、眠れないまま幾夜を無駄に過ごしたことか。
でも、それを誰かに告げようとは思わなかった。ただ守りたい一心でこれまで全てを秘密にしてきた蘭にはもちろんのこと、計り知れない危険の中、命を預けることだってできたキッドにさえも。話したところでどうにもならないのに、ただでさえお人好しの彼にこれ以上自分のことで重荷を背負わせたくなかったから。
――だと言うのに。
「最初から全部知ってた、だと……?」
地を這うような声だった。
しかし快斗はなんの気負いもなく、あっけらかんと答えた。
「当たり前だろ? この俺を誰だと思ってんだよ。世紀の大怪盗……はもう廃業しちまったけど、他でもねーお前の相棒だぜ?」
それは暗に情報を盗み出したと言いたいのだろうか。新一の目がますます据わる。
「それに……ほっとけるわけねーだろ。だってお前、ほっといたら絶対なんにも言わねーし。言わずに……そのままいなくなる気だったくせに」
「……快斗、おまえ……」
傷ついた声でそんなことを言う快斗に、いつまでも怒りは持続しなかった。
快斗を傷つけてしまうだろうとは思っていたが、それでもこんな薄情な探偵のことなどいつかは忘れて自分の道を進んでくれるだろうと思っていた。
それなのに。
「新一は分かってないんだ。なんにも言わずにいなくなっても、俺なら黙って納得してくれるなんて思ってた? なにをおいてもお前のことを捜しに行くとは思わなかったの? それこそ、死ぬまで見つからなかったとしても、俺は絶対に諦めたりしない。ぶっ倒れて死ぬその瞬間まで、体が動く限り新一を捜すよ」
真っ直ぐに見つめてくる眼差しの強さに、思わず息を呑む。痛いほど真剣な思い、それを疑うことなどできるはずがない。
快斗は本気だった。本気で死ぬまで新一を捜し続けるつもりだったのだろう。あのままなにも言わずに快斗の元を去っていたなら。
「普通の生活に戻れるって、昨日、そう言ったよな。それってなに、怪盗を廃業して、これで気兼ねなくマジシャンの道に進めるとか、そういうこと? それとも普通に大学に進学して、そこで可愛い彼女でも見つけて結婚して、子供を作って、幸せな家庭でも築いて。それが新一の言う俺の幸せ?」
「それは……分かんねーけど。それもひとつの幸せの形なのは確かだろ」
「――全っ然、違うよ」
力一杯否定され、新一は戸惑った。
確かに幸せの形なんて人それぞれで、それを押しつけようなどとは思わないけれど。マジシャンになることでも家庭を築くことでもない快斗の幸せとは、ではいったいなんなのか。
「新一といることだよ」
「……へ?」
「新一といるだけで、俺は世界で一番幸せになれるんだ」
思いもしなかったことを言われ、新一は目を見開いた。
なぜか鼓動が早い。いや、それどころかなんだか顔まで熱い。もしかしなくても色々なところが色々と拙いことになっている気がする。
「血反吐を吐くような戦いの中でも、新一がいるなら俺は世界で一番幸せだし、華やかな歓声の中でも、新一がいないなら世界で一番不幸だ」
もうやめろ、それ以上喋るなと、早くなっていく鼓動が悲鳴を上げる。
けれど実際は言葉をかける余裕なんてまるでなくて。
そしてとうとう、逃れられない楔を打ちつけられてしまった。
「分かってるか――愛してるって言ってるんだ、新一、お前を」
未だ恋も知らない心に。
愛を、捧げられた。
***
宣言通り、あの日から快斗は片時も新一の傍を離れなかった。新一のセーフハウスであるマンションに転がり込み、当然のようにここで暮らしている。
高校も自主退学して高認にも合格している快斗はセンター試験まで特にすることもなく、変装なしでは外に出られないため必然的に引き籠もりがちになってしまう新一と一緒に、日がな一日家の中にいる日も多い。
新一としても別に知らぬ仲でなし、ワシントンにいた頃は当たり前のように二人で暮らしていたのだし、気楽な同居生活がまた始まるのだと思っていたのだが……
その矢先の、あの告白。
恋愛音痴の新一でも流石に気づいた。快斗がもう、恋なんて甘酸っぱい時期など疾うに通り過ぎた果ての、恋なんかよりもずっと深くてもっと重たい、愛という名の感情で自分を思ってくれていることに。
新一は、蘭とのそれが恋にならなかったことにもう気づいている。確かに恋しく思う時期はあったはずなのに、胸焦がれるような灼熱や荒れ狂うような嫉妬を覚える前に、いつの間にか凪いだ海のように穏やか気持ちへと変化してしまった。
理由なら分かっている。コナンとして接してきた日々、温かい家庭そのものの生活を家族として過ごす内に、彼女への思いがまるで本物の家族に向けるような愛情へと変わってしまったのだと。
しかしそれなら、『妻』としてでもよかったはずだ。なのにそうならなかったのは、『温かい家庭』というものこそが自分には縁のないものだと、気づいてしまったから。
とても家庭的な蘭。夫より早く起きて朝食の支度を済ませ、仕事へと出かけていく夫を見送り、昼間は自分の趣味のために時間を費やし、夕食を作って夫の帰りを待つ。
ごく普通の夫婦の在り方、けれどそこに自分の姿を当てはめることはできなかった。自分の体が普通じゃないと気づく前から、自分ではそんな風な善良で誠実な夫にはなれないと気づいていた。事件と聞けば飛び出して、日本どころか海を越えてどこまでも行ってしまうだろう自覚があるし、銃や爆弾を持った相手だろうと躊躇うことなく立ち向かい、多少の犠牲はやむを得ないと無茶をするだろうことは目に見えている。
それを分かっていながら、また、同じことが彼女に言えるだろうか?
――待っていてくれ、なんて。
そんなことは言えない、そのことに気づいた時から、それは恋じゃなくなった。新一の初恋は実るどころか破れもせずに、恋ではなくなってしまったのだ。
あれから、新一には恋愛というものが分からなくなってしまった。体の異常を知ってからは、恋愛そのものを不要なものとして切り捨ててしまった。
だから新一にはよく分からない。快斗が自分に向けてくれる感情も、自分が快斗に抱いている感情も。
結局、新一は快斗に応えられなかった。
快斗のことは好きだ。できることならずっと一緒にいたいと思う。でも、それは恋じゃなかった。まして愛であるはずがない。
それでも告白を嫌だとは思わなかったし、困ったけれど、嬉しくなかったわけでもない。
ただ快斗の気持ちに追いつけないだけだ。少なくとも、今はまだ。
「今はそれでいいよ。無理に応えろなんて言わないから、嫌いじゃないなら傍にいさせて」
そんな快斗の言葉に甘えて、この曖昧な生活をスタートさせた。
快斗は優しい。
昔からその傾向はあったけれど、告白されて以来、目に見えて優しくなった。
いや――甘くなった、というか。
「しんいち」
気のせいでなく、名を呼ぶ声でさえ甘ったるい。それはもう、聞いている方が恥ずかしくなってしまうくらいには。
ソファに座って本を読んでいた新一の首にまとわりつき、猫のように頭をすり寄せてくる快斗はちょっと笑ってしまうくらい可愛いと思う。
新一は読んでいた頁に指を挟んで本を閉じ、じゃれてくる快斗の頭をぽんぽんと叩いた。
「どうした?」
「ううん、どうもしない」
「? 変なやつ」
変、と言われたのに、快斗は嬉しそうに喉を鳴らして笑う。本当に猫みたいだ。
……それだけで終わっていれば、だが。
「枯れそうだったから」
「枯れる? なにが?」
「俺、新一が足りなくなると枯れちまうから。今まで会えなかった分の新一を補給してるんだ」
「――…ッ」
一瞬で頬に血が上るのが分かった。というか、鼓動がうるさい。それになんだか胸も苦しい。
最近はこんなことがしょっちゅうで、『動悸・息切れ・眩暈』なんて、どこかの製薬会社のキャッチコピーのような症状にすぐ陥ってしまう。不老不死なんてふざけた体になっておいてなんだが、そのうちあっさり死ぬんじゃないかと本気で思う新一だ。
「お前……ほんと、キザ」
「新一、照れてる?」
「照れてねーよ!」
「そお?」
あからさまな嘘をやんわりと受け流してくれるところも、なんだかだるだるに甘やかされている感じがして恥ずかしい。
そうかと思えば、公安部からの呼び出しで、お忍びで警察庁に出かけた時に、話に没頭するあまり連絡するのも忘れて翌日の明け方に帰宅した時の快斗の動揺ぶりときたら。
「新一、どこも怪我してねーなッ?」
「お、おう。悪ぃな、仮眠のつもりがうっかり寝ちまって。降谷さんも気を遣って寝かせといてくれたみたいで、遅くなった」
「……なんでもいいよ、新一が無事なら」
そう言って玄関先で抱きついてきた快斗の寄る辺無さときたら、もう二度と無断外泊はすまいとこの新一に決心させるほどで。
(……ほんと、大事にしてくれてんだな、お前)
新一は栞を挟んで本をテーブルに置くと、片手を快斗の首に回して自分からもそっと頬を寄せてみた。ぴったりと合わさった頬からじわりと滲んでくる心地いい快斗の熱。
こうして寄り添うのは新一も好きだ。他の友人はもちろん、親友である服部でも、もしかしたら初恋だったかも知れない蘭でも、こんな風に落ち着いた心で触れ合うことはできないだろう。この距離を自然なものとして受け入れられるのは、きっと快斗だから。
「新一……?」
自分からくっつくのは平気なくせに、くっつかれるのは恥ずかしいのか、珍しく顔を紅くした快斗にくすりと笑みを零す。
けれど新一が冷静でいられたのはそこまでだった。
なぜなら、呆けたように新一を見つめ返していた快斗が、そっと瞼を閉じて顔を近づけてきたから。
「――っ」
まさか、そんな、これは、まさか!
と焦る新一になどお構いなく、快斗の顔が徐々に近づいてくる。しかも予想外にゆっくりなのは、もしかしなくても新一に選択権を授けたつもりなのだろう。受け止めるのも、逸らすのも自由だ、と。
新一の鼓動は今や破裂寸前だった。耳の真裏でドックドックと心臓が大合唱している。快斗に聞かれる前に逃げ出さなければ、そう思うのに、近づいてくる唇から目が離せない。
そして新一は――目を閉じた。
目を閉じ、口も堅く閉じて、鼻に蓋があるならそれすら閉じていただろう。
要するに、息さえ止めてしまったのだ。
どこもかしこも力がこもって強張った唇に、軽く、なにかが触れる。それが快斗の唇だったのかどうかなんて、新一には分かるはずもなかった。
幸いすぐに離れていったお陰で新一が呼吸困難に陥ることはなかった。それでも目を開けられずにいると、コツンと額になにかをぶつけられる感触がして、新一は恐る恐る目を開けた。
ぶつかったのは快斗の額だった。額を寄せ合い、鼻の頭も触れ合いそうな距離でじっと見つめてくる快斗と目が合う。吸い込まれるような、青にちょっと赤みがかった、不思議なアメジストの彩り。その瞳が緩くカーブを描き、にっこりと、まるで今にも溶けてなくなってしまいそうなくらい甘やかな、嬉しそうな笑みを浮かべている。
未だかつてこんな目を向けられたことは一度もない。こんな、愛しくて愛しくてたまらないのだと雄弁に語る眼差しなど。
――恥ずかしい。
逃げるように瞼を閉じれば、また唇にあの感触が降ってきた。しかも今度は一度だけじゃなく、強張った唇をほぐすように優しく何度も触れてくる。その度に快斗はわざとちゅ、ちゅ、と小さな音を立て、新一を追い詰める。ああこれはキスなのだと、今自分は快斗とキスをしているのだと知らしめる。
恥ずかしくて苦しくてたまらない。それなのに、触れる度に胸に降り積もっていくこの痺れるような感覚はなんなのか。嫌悪でも戸惑いでもなく、温もりを感じてしまうのはなぜなのか。
まだ、分からない。
分かりたくない。
もう少しだけ。
どうしようもなく苦しくなって思わず開けてしまった上唇を軽く吸い上げてから、快斗はようやく離れてくれた。
はあ、と詰めていた息を吐く。ずっと熱い胸の内で渦巻いていたせいか、ひどく熱い息だった。
「……キス、しちゃったね?」
そう言って笑う顔がやけに男くさい。息を吐く新一の頬にそっと掌を添え、滑らかな親指がひどく艶めかしい動きで下唇を撫でてゆく。その感触にさえ震えてしまう。
「ふ……」
「しんいち、かわい……」
思わず声を漏らせば、顔を赤らめた快斗がひょいとソファの背を飛び越えて新一の正面に回り込んできた。
「ね、新一、嫌じゃなかった?」
「……」
「逃げなかったよな、新一」
どう答えていいのか分からず、新一は紅い顔を背けた。
嫌じゃなかった、逃げなかった、でもだからそれがどういうことなのかなんて聞かないで欲しい。
そんな心の声を察してくれたのか、快斗はそれ以上なにも言ってこなかった。その代わりのように、飽きずにまた顔を寄せてきて。
新一は三度、目を閉じた。
少しずつ、少しずつ、自分の中のなにかが色を変えていく。
たとえるなら、それはそう、まるで花が綻び咲いていくように。
鮮やかに色づいていくように。
この花が咲ききったなら認めよう。
――これが『恋』と呼ばれるものなのだと。
BACK * TOP * NEXT
