隠恋慕
K.I.D. 8
傷は時間と共に順調に回復していった。
嬉しくて、そして同時に切なくて。
短くて長い、奇妙な生活が終わろうとしていた。
お互いに何を言うわけでもなく、ただ傷の治りを喜んで。
それ以上に複雑な気持ちを悟られまいと、無理な笑顔を交わした。
起きあがれるようになり、
立てるようになり、
歩けるようになり、
物を運べるまでになった。
終わりが、近い。
いつしか笑顔の中に、隠しきれない寂しさが滲んで。
気付いていながら、気付かない振りをして。
隣りに感じる熱がいつか消えること。
笑顔が、吐息が、声が。
いつか消えること。
気付かれないよう、悟られないよう。
背中を向けて、ひとり、涙の夜を過ごす。
* * *
「………もう、平気なのか?」
朝起きて隣りに眠るその人が居ないことに気付き、不安を抱えながら階下へ降りて、安堵の溜息をついた。
キッチンで新一の朝食を作る姿。
キッドは笑って言う。
「ああ、もうだいぶ動けるようになったよ」
「すげー回復力だな…さすがと言うか」
ふ、と儚くなってしまいそうな笑みをかき消すための苦笑をもらす。
キッドとの生活で、新一の生活に幾つもの変化が生じた。
朝を摂らなかった新一は、キッドと志保との二人にたしなめられて、しぶしぶ摂るようになった。
昨日までは志保が準備に来てくれていたのに、今日はキッドが準備をしている。
コト、と差し出された皿を受け取る。
「……意外。料理ウマイんだ」
「ん。結構ウマイぜ。味も保証付きv」
「何でも出来る奴だな」
くすりと笑って、二人で朝食を食べた。
食後のコーヒーを飲みながら、キッドは話す。
「…俺が帰っても、ちゃんと朝は食べろよ?じゃないと自慢の推理力も衰えちまうぜ」
「ああ………そうだな。」
カップの中で湯気を立てるコーヒーに痛いほどの視線を向けて、呟いた。
俺が帰っても。
ああ。
そうだ。
今日で……終わりだ。
今日で。
昨晩告げられた言葉。
『2週間以上も仕事放ってたから中森警部も怒ってると思うんだよね。もう体もだいぶ良いし、明日には帰れるよ』
乾いた笑いを顔面に張り付けて、良かったな、と返した。
傷が治って良かった。
死ななくて良かった。
生きてて…良かった。
正直、新一にはなぜこんなにも寂しく思うのかわからなかった。
キッドが来る前には感じなかったもの。
当たり前の日常を、当たり前と思えなくなったのはキッドが来てから。
わからないのはその理由。
心を占める痛いほどのこの感情はなんだろう、と。
問いかけても返らない答えを、誰に問うわけでもなく、それでも探した。
結局見つからずに迎えた最後の朝。
「いつ行くんだ?」
「ん、一度志保ちゃんに最後に看てもらって、一息ついてから。」
「そっか……」
会話を続けることが出来ずに、唇を噛みしめる。
「俺、明日の晩予告出すから。」
「えっ!?」
突然言われた言葉に驚きを隠せなかった。
「その…大丈夫なのかよ」
「体なら新一と志保ちゃんのおかげでもう随分とvそれに前から決めてたしな、明日の標的は」
「……この頃やたらごそごそしてると思ったら、そういうことか。」
「怒んないでよv下調べが重要なんだからさ。それでさ~………」
「……なんだよ」
照れくさそうに笑った後、ぽつりと呟く。
「また来てくれるよな?」
「……お前の捜査に?」
「そ。あの約束…忘れてない?」
「忘れてない。」
新一は笑顔を返した。
コーヒーに注いでいた視線を上げて、満面の笑みを。
その笑顔に一瞬見惚れて、キッドはコーヒーとともにゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込む。
新一はそんなキッドの様子には気付かなかった。
そうだった。
これは終わりじゃない。
この生活が終わっても、この怪盗とは変わらず顔を合わせることが出来るだろう。
あの約束がある限り。
理由が、言い訳が、動機が。
自分にはあるのだ、と。
キッドの言葉を噛みしめて、心を慰める。
「……怪盗キッドの相手はこの俺にしか勤まんねぇんだろ?」
「そうだ。他の何人も、お前には敵わない」
「しゃーねーから行ってやるよ。病み上がりで、捕まっても知らねぇぜ」
ここ何日かで久しぶりの、心からの笑顔。
その笑顔が怪盗をも魅了することを、新一は知らない。
「もう大丈夫よ。傷口もほぼ完全に塞がったわ。でも精密な検査はしてないんだから、一度はちゃんと病院に行きなさいよ」
「サンキュ、志保ちゃん。お世話になりました」
最後の診察も無事終わり、退院許可を志保からもらった。
「お礼って言ったらなんだけど、志保ちゃんのタメにさっきお菓子作ったんだよ」
そう言って、いつのまにそんなものを作ったのか、冷蔵庫の中から箱を取りだしてくる。
それを志保に預けた。
「おいしいと思うから遠慮なく食べてねv」
「あら、ありがとう。有り難く受け取っておくわ」
「ごめんな新一、勝手に食材借りちゃって」
「別に構わねえよ」
「新一にも作っておいたから…また、食べてね」
「…ああ。サンキュ」
二人の間の微妙な空気を感じ取って、志保は密かに溜息をこぼした。
まだ何も言っていないのか、この怪盗は、と。
あれだけ気持ちを吐露しておきながら肝心の相手に伝えないなんて、案外、平成のルパンはシャイなのかしら。
「それじゃ、私ちょっと調べ物の途中だからこれで失礼するわね」
あっさり不適な笑みだけを残して、阿笠邸へと引き返して行った。
キッドは玄関まで見送り、再びリビングへと戻ってくる。
「志保ちゃんはあっさりしてるねぇ~。ま、最後って訳じゃないから良いんだけど」
「そうだな。…でも、そう見えても案外寂しがってくれてるぜ。あいつはあんまり感情を見せないからな」
他の誰でもない、自分にも言い聞かせながら。
決して表には見せない感情があるのだと、どこかで気づいて欲しくて。
自分にもわからないこの感情を。
「そんじゃ俺、準備してくるな」
そう残して、一人で寝室へと向かうキッド。
来るときにも身ひとつでやってきたのだから、準備と言っても何もないのに…と苦笑する新一。
新一もひとり、クローゼットへと向かった。
扉を開ければ、ぱっと目に付く位置に綺麗にアイロンがけまでされて畳まれたスーツとマント、シルクハットにモノクル。
なかなか消えない血を、翌日新一が必死に洗い流した。
純白の衣にはまだうっすらと残るその赤に、今でも背筋が凍る思いがする。
あの時のキッド。
全身傷だらけで呼吸も乱れ、立っているのもやっとと言った様子。
思い出しただけで胸が痛む。
あんな彼は二度と見たくないと、きゅっと唇をひき結んだ。
「新一、俺の服知らない?」
ぱたぱたと階段を降りてきてそう尋ねるキッドに、クローゼットからそれらを引き出してキッドに示す。
「これだろ?お前の荷物っつったらこれしかねーもんな」
「ああ………洗ってくれたんだ……」
「まぁな。血なんか見慣れてるけど…お前の血は見たくなかったから」
嬉しそうに笑ったキッドが照れくさくて、肩をすくめて見せた。
それらを鞄に押し込んで渡す。
「この鞄はやるよ。このままだと目立つからな…」
「ありがと、新一……」
ゆっくりと鞄を受け取るそのままの手で、キッドは新一の体を抱き寄せる。
突然のことに対処しきれず、新一はキッドに体重を預ける。
痛いほど締め付ける腕に新一は困惑した。
「キッド………?」
「まだ快斗って呼べよ。」
「快斗?」
キッドの鼓動をすぐ近くに感じる。
トクトクと鳴るその音が、自分のそれと重なって。
次第に早まる自分の鼓動を悟られたくなくて、腕に力をこめて、体を捻らせてキッドを仰いだ。
視線が絡み合う。
キッドの笑顔が目の前。
沈黙が息苦しくて、新一が先に声を紡いだ。
「どうしたんだ?快斗…」
「………お前が、そんな嬉しいこと言ってくれるから…。」
言葉の意味が理解できなくて、その先を尋ねようとした。
けれど、何かを言う前に言葉を奪われる。
新一の唇を塞ぐのは、キッドの唇。
「…んっ!?」
困惑して目を見開く新一に苦笑しながら、それでもキッドはやめなかった。
蒼い瞳が揺らいで、次第に熱を帯びていくのがわかる。
こういう時は、目を閉じるのが普通だろ……。
キッドのしなやかな指が新一の瞼をそっと塞ぐ。
「……な、に?…ぁっ」
問いかけようと開かれた唇に、割り込むように舌を押し込む。
逃げる新一をしっかりと捕まえて、赤く甘い唇を堪能する。
触れる吐息、交わる熱、漏れる声、全て。
感じたかった全てを貪るように、キッドは長く深いキスを新一に与えた。
「…………ごめん、立てる?」
いつの間にか足の力まで奪われ、その場に座り込んでいる新一に声をかける。
甘ったるく優しい、キッドの声。
新一は喘ぐように空気を求め、胸が上下している。
息苦しさとキッドから与えられた感覚とのために、頬は上気して赤く染まっていた。
「……平気………。」
ぐっと熱が上がって、自分が赤面していることを感じ、新一は顔を上げることが出来ないで居た。
キッドは苦笑し、ちょっとゴメンと言って廊下に出て行ってしまう。
なんだ、今の……?
キッドと、キスを?
なんであいつはそんなことを。
なんでキスなんか。
なんで、
どうして。
嫌じゃなかったんだ、俺は…?
熱気を振り払うように頭を振り、唇にそっと指で触れる。
さっきまで触れていた感触に、泣きたい衝動に駆られた。
わからない。何も。
だけど、この感情はなんだろう、と。
怒りや悲しみなんかじゃなくて。
なぜだか痛くて切なくて。
何も……。わからない……。
ふ、と息をつく。
洗面台に手をついて、水に濡れた自分の顔を鏡越しに見つめた。
熱に浮いた自分の心を水と共に拭い去る。
大好きな人が側にいて。
大好きな人の嬉しい言葉に、自制が利かなくなった。
何をやってるんだ、俺は。
好きだから。
愛してるから。
何度でもその顔を見たいと思うから、胸の中のこの気持ちを伝えずに、ただ側に居ようと決めたはずなのに。
驚いていた。
嫌われたら……どうしよう。
キィ、と鳴らして扉を開いたキッドに、新一は振り向く。
その顔にはまだ火照りが残るものの、大体普段の彼のそれと同じだった。
「新一…」
「…もう行くのか?」
「ああ。」
「そっか。」
沈黙。
コレが最後じゃない。
だけどこの生活は終わり。
最後に沈黙じゃ、嫌だ。
「……明日、覚悟しとけよ、怪盗キッド。容赦しねぇからな」
そう言って、思い切り意地の悪い笑顔を浮かべた。
キッドも一瞬の間はあったものの、すぐさま不適な笑みを浮かべる。
すっと差し出された鞄を受け取り、キッドは玄関に向かう。
靴を履き、ノブをまわし扉を開く。
歩き出した足をふととめて後ろを振り向いて、その笑顔のまま言った。
「お手柔らかに、名探偵。あなたのそういう笑顔も、たまらなく好きですよ」
そう残して、ぱたりと扉は閉められた。
その扉に視線を送ったまま、苦笑をこぼす。
最後はきっちり怪盗として去っていくキッド。
『笑顔モタマラナク好キデスヨ』
最後の言葉が耳をこだまする。
再び体が熱くなりだして、新一はハッと体を強張らせた。
『好キデスヨ』と。
『好キ』と。
………好き?
その言葉がこだまする度に胸が熱くなる。
痛くなる。切なくなる。
好きだ、と。
好きだから?
だから。
こんなにも。
この胸が痛み、切なくなるのか。
「俺は……あいつが………?」
答えるものは誰もいない。
誰かが居たという温もりを残して、家の中はシンと冷えている。
やがて温もりもその熱を失う。
答えを知っていた人は、すでに居なくなった後。
新一の熱を、頬を流れる滴が奪った。
「今晩は、中森警部殿。お久し振りです」
そう言ったキッドの心中は穏やかでなかった。
新一の気配を感じなかった。
まさか、と思った。
けれどいくら探しても愛しい人の姿はどこにも見えず、気配すら感じられない。
焦りが心の中に滲み出す。
罵声を飛ばす警部の声も、穏やかに罵る若い探偵の声も、何も聞こえはしなかった。
聞きたい声は聞こえない。
見たい姿も見あたらない。
感じたい温もりは、其処にはなかった。
何かあった?
――昨日は元気だったのに。
忘れてる?
――彼に限って有り得ない。
此処に来れない理由が?
――何時も何よりも優先してくれていたのに。
昨日のキスを、怒ってる?
――確かめに、行かなければ。
「申し訳ない。今夜は訳ありでしてね…少し、手荒になるかも知れません」
口元を歪めるだけの笑み。
その瞳は欠片も笑っては居なかった。
その場にいた全ての者は背筋を凍るような冷たさが走り抜ける。
予告通り少々手荒に宝石を奪い、それと気付かれないようにさり気なく月に翳し、目当てのものではないと気付くと、紙くずでも捨てるかのように放って返した。
「お騒がせして申し訳なかった。今宵はこれにて失礼しよう…」
誰にも言葉を口にする間を与えず、マントを翻し夜空に舞った。
焦り。
予感。
嫌な、予感。
このまま彼と会えなくなってしまうような、そんな予感。
恐怖にも似たそれ。
彼と会えなくなるのは、恐怖以外の何でもない。
急がなければ、と。
工藤邸へと急ぎ足で走り抜けるキッドの姿が、夜の闇に紛れることなく、悲しげに浮かび上がっていた。
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