隠恋慕
Speak low, if you speak love.
世界でいちばん、
「――自分を慰めてくれるなら、相手なんて誰でもいいのよね」
一夜をともに過ごす女たちは口々にそう言うけれど、そんなことはない。
来るものなら拒まないわけではなく、これでもきちんと選り好みしている。
好みの顔で、好みの性格で。胸はないよりはあった方がいいし、脂肪がつきすぎているよりは適度についているぐらいが丁度いい。
ついでに体の相性がよければもっといい――なんて。
目が覚めたとき、隣で寝ているのが胸もなければ無駄な脂肪などまるでない〝男〟だったときには、流石の快斗も驚きを隠せなかった。
この男が誰なのか、快斗はよく知っていた。
かつて日本で高校生探偵として名を馳せ、今や世界を舞台に活躍する世界的に有名な探偵、工藤新一。
初めての邂逅から十年という時を重ねても、この顔を忘れられるはずもない。
その男が、一糸纏わぬあられもない姿で隣で眠っている。それも、その体に色濃い情事の跡を残して。
今まで酒で記憶を飛ばしたこともなければ、褥をともにした相手にこうして跡をつけることもなかったというのに。
首筋や胸に散る鬱血痕は、普通に考えるならば自分がつけたものということになる。
次に思い浮かんだのは、果たして自分は「した」のか「された」のか、ということだった。
慌てて後ろを確認するが、心配していた名残はない。
少なくとも掘られてはいない、その事実に安心していいのかなんなのか。
混乱する快斗の横で、その騒々しい気配を察した工藤がようやく目を覚ました。
朝に弱いのか、それとも昨夜の名残か、半覚醒状態でふらつきながらも快斗を振り向く。
その目が裸の快斗を見遣り、ついで室内を見渡し、そして最後に自分の体を見た。
その様子を見守っていた快斗は、工藤がなにかを言う前に、つい言い訳のように口走っていた。
「その、ごめん。飲みすぎて全く覚えてないんだけど……俺、工藤になにかした……かな」
この期に及んでその言い草は我ながらひどかったが、記憶がない以上は確認するしかない。
だが、てっきり怒るか呆れるかするだろうと思った工藤は、しばらく呆けたように快斗を見た後に。
「あー、うん。俺も覚えてないから。ここはお互いになかったことにして、忘れようぜ」
にっこりと笑いながらそんなことを言われ、快斗は拍子抜けしてしまった。
そのまま是とも否とも答える暇もなく、工藤はさっさとベッドを抜け出してしまった。
そのとき、動いた拍子に溢れたものが工藤の太腿を伝うのを見てしまい、快斗は己がやらかしたことを思い知った。
自分が彼を抱いたのだ。
だが、状況も証拠も揃っているのに、彼はこちらを責めるどころか忘れようと言う。
申し訳なさは感じるものの、だからと言って男相手に責任を取ることもできないし、裁判沙汰などにされて困るのはこちらである。もちろん、このプライドの高い男がそんなことをするとは欠片も思わなかったが。
もろもろの事情を考えて、工藤の提案に乗るのが一番だと判断した快斗は、シャワールームに消えた工藤に簡単な書き置きを残して、早々に部屋を退出することにした。
世界的な知名度を誇る東洋の魔術師、カイト・クロバ。
セレブ御用達の最高級ホテルから、単独公演でマジックショーのワールドツアーをもこなすこの若き天才マジシャンは、その若さと甘いマスクで、今やハリウッドスターと肩を並べるほどの有名人となっていた。
その黒羽快斗は、その昔、白いタキシードを纏って月夜を騒がす怪盗紳士をしていた過去を持つ。
父親の死の真相を突き止め、そして父の死の陰謀を巡ってある犯罪組織と戦っていたのだ。
まるでアメコミのスターのようだが、それは快斗にとっては紛れもない現実だった。
そしてその時に得た戦友とも呼ぶべき永遠の好敵手、それが工藤新一だった。
容赦のない推理と慧眼を持って快斗を幾度となく窮地に追い込んだ――それでいて命さえ危ぶまれる危険な戦場で背を預けることができた、唯一無二の相手。
その彼と偶然再会したのが、つい一月前だった。
工藤は、快斗のヨーロッパツアーの間の警護と通訳を兼ねて一時的にスタッフとして雇われた。
全く探偵らしからぬ仕事だが、歴としたライセンスを持ちながら、彼は仕事の選り好みが激しい探偵としても有名だった。
まず、彼は事務所というものを持たない。
一所に留まっていることがほとんどないために、固定電話の意味がないのだ。
仮にあったとしても結局のところ携帯に転送させてしまうので、合理主義の彼にはそもそも無用の長物だったのだろう。
だから一般人から依頼が舞い込むことはほとんどない。
そのため、彼への仕事の依頼は自然と紹介という形を取ることが多かった。
それさえ別件で忙しければ別の探偵を紹介されることも多く、そうした理由から「選り好みが激しい探偵」などと言われている。
しかしそれが彼の名声を貶めているというわけでもなく、余程強運でなければ彼に仕事を頼むことはできないという、一種のジンクスめいた扱いを受けていた。
そのジンクスを破り、見事今回の依頼を成立させた快斗だが。
別に工藤に依頼を出したわけではなく、「ヨーロッパ圏の言語に強く、警護の知識とスキルを持つ人物」を探していたところ、快斗のファンのひとりであるとある大富豪の爺さんが彼を紹介してくれたのだ。
そしてたまたま手がけていた依頼を片付けたところだった彼が、その依頼を引き受けてくれたというわけだった。
偶然に偶然が重なり、実に十年ぶりの再会を果たした快斗は、正直なところ、少し浮かれていた。
探偵と名乗る者は数あれど、彼はもともと快斗自ら好敵手と認めるほどにお気に入りの探偵だ。
怪盗業から足を洗い、日本から世界へ舞台を移したために会うこともなかったが、時折噂を耳にしては「まーた派手にやってるな」とニヤけてしまうぐらいには彼のことを気にかけていた。
その彼と、向こうはこちらのことなど知らないとしても、久しぶりの再会だったのだ。
スタッフである以上良好な関係を築くのは当たり前だが、それだけでなく、彼と話をするのは楽しかった。
だから昨日、工藤を飲みに誘ったのも自然なことだった。
(――んで、最初はバーで飲んでたんだよな。でもいくら変装してても俺も工藤も目立つし、払っても払っても女が寄ってくるのが面倒だったから、部屋に移動したんだよ。そこまでは覚えてる)
それで、部屋でワインを開けた。ルームサービスで頼んだ、決して安くないワインだ。
それを二人で飲みながら、他愛もない話を楽しんだ。
人目がなくなったことで変に気を遣う必要もなかったし、気が緩んでたのは確かだ。
そして――その後の記憶がどうしても思い出せない。
いや、思い出す必要などなかった。
飲みすぎた自分は箍が外れて、工藤をベッドに誘ったんだろう。
ツアーの最中に人肌が恋しくなることはままあることだった。
そしていつもならバーで知り合った後腐れのなさそうな女性と一夜を過ごし、翌朝何事もなかったように別れる。
その後の連絡を取り合ったりもしない。
それが今回、なにをトチ狂ったのか男の工藤を誘い、挙句同じく酔っていただろう工藤がうっかりその誘いに乗ってしまったのだろう。
そうは思うが、飛ばしてしまった記憶のことが快斗には気がかりだった。
「おはようございます」
いつものように涼しげな出で立ちで挨拶をする工藤に、スタッフたちからも口々に挨拶が返される。
そんな彼らの顔が妙に夢見心地なのは今に始まったことではない。
工藤新一は外国人の目から見ても「いい男」に映るようだった。
童顔と称される日本人だが、快斗と同じ二十七歳という工藤はそれなりに精悍に、男らしい顔立ちになっていた。
それでも母親の美貌を色濃く残す顔立ちは、筋骨逞しい外国人男性の中にあれば「華」と称されるほどに麗しい。
そのうえ彼にはどこにいても人の目を惹きつけるオーラがあった。
探偵という職業柄、裏方に立つことが多い彼だが、それこそステージに立っても遜色ない、他を圧倒するほどの空気を持っている。
その彼に微笑みながら声をかけられれば、いくら目の肥えた女性たちだって思わず赤くもなるというものだ。
中には男も混じっているのが気にならなくもないが。
「……おはよう、工藤」
「おはよう、黒羽」
朝のあれこれのために遠慮がちに声をかければ、工藤は普段どおりに返事をくれた。
そのことにホッとしつつも、快斗は工藤の体のことが気がかりだった。
シャワールームまで歩く工藤の足取りはぎこちなかった。
相手の性別が変わろうとやることに大差のない快斗と違い、彼には無理をさせたに違いない。全く覚えてないが。
しかし平然と立っている彼を見ていると、今朝のことが夢だったんじゃないかとも思えてくる。
「それではミーティングを始めましょうか」
スタッフのひとりの声かけで、みんながテーブルへと集まってくる。
公演自体には関わりのない工藤も、警備や安全面の責任者を務めるために、ミーティングには加わってもらっている。
同じくテーブルに着こうと踏み出した一歩がふらついたのを見て、快斗は咄嗟に腰に腕を回してその体を支えた。
やはり大丈夫ではなかったようだ。
「気をつけて」
工藤にだけ聞えるように声を落として囁けば、同じく潜めた声で「悪ぃ」と返される。
むしろ謝らなければならないのは自分の方だと、慌てて伝えようとした言葉が喉に詰まった。
微かに赤く色づいた耳と、その横――髪の毛先に隠れてほとんど見えない白磁の肌に滲んだ赤い跡。
(うわあ……!)
一気に意識してしまい、快斗は弾かれたように手を離した。
(う、お、男だから! 工藤は男だからー!)
滑らかな肌だとか、柔らかな髪だとか、美味しそうな耳たぶだとか。
そんなものに色香を感じたなんて、そんなこと、有り得ない。
いやもちろん、そういう嗜好を持つ人がいることは知っているし、別段偏見もないけれど。
快斗が好きなのはあくまで女性だ。
(てゆーか、野郎のナニとか想像しただけで萎えるから!)
実際には萎えるどころか、溢れるほどに吐き出していたわけだが。
いやだから、そうじゃなくて。そうじゃなくて。
快斗は雑念を振り払うように両手で思い切り頭を掻き回すと、何事かと目を丸くしているスタッフ一同に誤魔化し笑いを浮かべてさっさと席についた。
その向こうで、肘をついた右手で隠した口元で呆れたように溜息を吐く探偵になど、もちろん気づくこともなく。
***
父親からその依頼を紹介されたとき、新一はあまり深く考えることなくそれを引き受けた。
ちょうど面倒だった麻薬組織絡みの事件が片付いたところで、充実していたがやはりハードな仕事だったこともあり、マジシャンの警護くらいなら丁度いい息抜きになるか、という軽い気持ちだった。
カイト・クロバの名はもちろん新一も知っていた。
事件三昧の朴念仁だが、知識としての情報を仕入れることだけは怠らない。
――東洋の魔術師。
――マジック界の革命児。
――今、世界でもっとも注目されるいい男。
そんな、どこかで目にした雑誌の煽り文句が思い出される。
実際に会った黒羽は、新一と同い年ということもあって、愛想もよくて話しやすい気さくな人物だった。
仕事柄あらゆる分野の有名人とやらにお目にかかる機会の多い新一だが、彼らが持つ独特の空気――己のステータスを自負し、相手との付き合い方もまたその人物のステータスで判断するような――そういったものがまるで感じられない。
なんというか、ちょっと庶民的というか。
それでいて会話の端々で感じられる頭の回転の速さは、彼を凡庸から逸脱させるには十分すぎるものであった。
そんな、今までの依頼人とは一味も二味も違う黒羽と親しくなるのに、そう時間はかからなかった。
話し上手で聞き上手という黒羽は、その豊富な知識で新一を飽きさせることはなかったし、新一から話を聞きだすのも上手かった。
もちろん探偵の矜持として守秘義務を侵すことはないが、その微妙なラインをよく心得ている相手は、こちらがなにを言わずともそのラインを飛び越えることはなかった。
もちろん、マジックの腕は超一流だ。
この工藤新一が、トリックを見破るのを忘れてその技に見惚れたのは人生二度目である。
そして心の底からマジックを愛する男は、商売道具であるはずのマジックを仕事でもない場所で惜しげもなく披露しては、驚く新一を見て子供のようにはしゃぐのだった。
半年をかけてヨーロッパを回るこのツアーを長いとも思っていたが、あっという間に一月が過ぎてしまった。
そしてこの一月で、黒羽とはただの依頼人から友人と呼べるまでの間柄になっていた。
黒羽と飲みに行ったのも、昨日が初めてというわけでもなかった。
ただ昨日はタイミングが悪かったのだ。
バーのカウンターで並んで酒を飲んでいたところを、黒羽のファンだという女性陣に捕まってちょっと賑やかになってしまった。
このままだと店にも迷惑がかかるからと、黒羽の部屋に移動することにした。
騒ぎのせいで酒も醒めてしまったし、気分もやや白けてしまったこともあって、部屋で飲みなおすのもいいなと思ったのだ。
むしろ余計な邪魔が入らない分、部屋で飲む方が気楽だとさえ思った。
そのときは。
――それがまさか、あんなことになるとは思わなかったのだ。
新一はもちろん、昨夜のことを覚えていた。
いっそ本当に忘れられたらこの羞恥心も一緒に消えてくれるのだろうが、それはそれで腹立たしい気もする。
飲みすぎているな、とは思っていた。
ワインが美味かったせいもある。
気の置けない友人と二人きりという環境もまずかった。
ちょっとぐらい酒が過ぎてもここにいるのは自分ひとり、それが外部に漏れるわけでもなければ、彼の名に傷がつくわけでもない。
それならここで水を差すより、酔いつぶれてしまってもまあいいか、と思ってしまったのだ。
その結果。
酔った男は、なにを思ったのか新一を口説きだしたのだ。
「工藤の肌ってすげー綺麗だよな、触ってみてもいい?」
「なんか香水つけてるのかな。いつも、いい匂いがする」
「俺、お前の目、すごい好き。澄んでて、真っ直ぐで。ずっと見てたいし、見てて欲しい」
なにかおかしい……そう思い始めたときには、黒羽の口が自分の口とくっついていた。
今思えば、自分もずいぶんと酔っていたのだ。
それでも頭の片隅に探偵としての意識が残っていたおかげで記憶を飛ばすまでには至らなかったが、普段の自分ならもっと早く状況の異様さに気づいていただろう。
まして口付けられるまで接近に気づかなかったなんて。
触れた口の合間から熱い舌が潜り込んできてようやく、新一は黒羽を突き飛ばした。
情けなく尻餅をついた黒羽は、なにが起きたのか分からないとでも言うように呆然としている。
その顔を見て、ああこいつはこんな風に拒絶されたことなどないのだろうと、誘えばどんな女もこの腕に陥落してきたのだろうと、沸騰した頭の片隅で思った。
よもやこの自分が女のように扱われるなんて冗談ではない。
「バーロー、俺が女に見えるかっ? 慰み者にされる気はない! ちょっと頭冷やせ!」
怒鳴りつけてから、ハッとした。
呆然とこちらを見上げていた男の目から、ぽろりと、涙が滴った。
予想もしなかった事態にうろたえる新一を余所に、ぽろりぽろりと幾粒も涙が零れていく。
「え、おい……黒羽?」
声をかけても反応しない相手が心配になり、新一は躊躇いながらも黒羽の頬に手を伸ばした。
指先を冷たい涙が濡らしていく。
それでもなにも言わない黒羽に、流石になにかがおかしいと思い、新一は彼の前に座り込むと、頬に触れた手はそのままに真っ直ぐ彼を見つめた。
「どうした、黒羽。なんで泣いてるんだ。俺が怒鳴ったからか?」
「……違、う」
「なら、どうした?」
やっと反応を返したことに安堵しつつ、先を促すように親指の腹で頬を撫でれば、黒羽はずっと見開いていた目をぎゅっと閉じて、くしゃりと顔を歪めた。
「……工藤に、嫌われたく、ない」
思ってもみなかった返事に、新一は軽く目を瞠った。
いい年をした大人の男が、それも世界中の人間を鮮やかに騙す大胆不敵な男が、子供のように泣いている理由が――自分に嫌われたくないから、だなんて。
「あー……吃驚したから、怒鳴っただけで。別に嫌いになっちゃいねーよ」
言いながら、嫌いになるという選択肢はまったく思い浮かばなかったことを自覚する。
うん、まあ、口がちょっとぶつかっただけだし。
舌も入れられたけど。
初心な女じゃあるまいし、まあどうということもない。
「ほんと……?」
「ほんとほんと」
「絶対?」
「ああ、絶対」
なんだかだんだん子供の相手をしている気になって、おざなりに相槌を打っていた新一は。
「俺が、怪盗キッドでも、嫌いにならない?」
その言葉に動きを止めた。
「……は?」
「俺が、怪盗キッドでも。名探偵は、嫌いにならないでいてくれる?」
「え……おま……黒羽がキッド!?」
大きな声に驚いた黒羽がびくりと肩を揺らし、再びぼろぼろと泣き始める。
新一は最早混乱していた。
黒羽がキッド。
その名前自体がもう懐かしい、かつて日本を騒がせた怪盗だ。
新一が某犯罪組織を壊滅させたのとほぼ時を同じくして世間から姿を消した。
新一にしては珍しく気に入っていた泥棒で、専任だった中森ほどではないが、いなくなった怪盗に寂しさを感じることもあったけれど。
その怪盗が華々しくマジシャンデビューし、今や世界中で引っ張りだこの売れっ子マジシャンになっていたというのか。
この、目の前で泣いている男が。
俄かには信じられないが、けれど彼は先ほど確かに新一のことを「名探偵」と呼んだ。
彼の怪盗もまた、気障ったらしく自分をそう呼んでいた。
ということは、やはりこの男が怪盗キッドなのか。
もうなにに驚けばいいのか。
「やっぱり……俺のこと、嫌いなんだ……」
「いやおまえ……嫌いとかって問題じゃないだろ。てゆーか俺、探偵だし……」
「そんなの、関係ないよ。だって、俺が世界でいちばん信頼してるのは、名探偵だもん」
不覚にも、その台詞には揺らいでしまった。
男も女も老いも若きも、誰彼構わず魅了してはひらりと飛んでいってしまう怪盗が、この自分までもを夢中にさせた怪盗が、新一のことを特別だと言う。
「キッドはやめたよ。目的は遂げたから。ずっと夢だったマジシャンにもなった。だけど、ずっと寂しかった。ずっと足りなかった」
「……その足りないものを埋めたいから、人肌が恋しいんだろ。それなら俺じゃなくたって……」
「誰かじゃだめだ。名探偵じゃなきゃ、だめだ」
――おまえじゃないなら、誰もいらない。
そうして泣きじゃくる男に、絆されないやつがいるだろうか。
少なくとも新一には無理だった。
「ああもう、……そんなに泣くな。目が溶けちまう」
両手を伸ばし、黒羽の頭を引き寄せてそっと瞼に唇を落とす。
そしてそのまま、迷子の子供のような顔をしている男の唇を塞いだ。
キスは、涙の味がした。
「名、探偵……」
「言っとくが、男となんて初めてだからな。味は保障しねえぞ」
「……!」
そこからはもう、嵐のようだった。
新一だとてそれなりに経験値を積んできたわけだが、マジシャンの繊細な指先は新一など思いもよらない動きですぐに新一を翻弄した。
もう上も下も分からない状態で、それでも求められていることだけは分かった。
深く深く、誰にも触れさせたことのない場所に黒羽を受け入れ、それでも足りないとばかりに所有を刻まれ、何度となく名前を呼ばれ。
過ぎる感覚に意識を飛ばす度に、甘い口付けで呼び戻された。
(……だいたい、初心者を相手に覚えてるだけでも5回って……どんだけ絶倫だ、あの男)
未だに下半身には違和感があるが、意地でもそんなものは顔には出さない。
別に新一は怒っているわけではない。
酒の勢いで襲われたわけだが、受け入れたのは自分だ。つまり和姦である。
記憶がないというのも失礼な話だが、散々さらした己の痴態を思い出されるのも微妙だ。顔から火が出る。
それに、だ。
酒の勢いだとしても、キッドであることを明かされたことや、自分を特別視してくれていることを聞けたことが、全てを帳消しにしていた。
抱かれたことも、最中は嵐のようだったが、まあ終わってしまえばどうということもない。
たとえ今夜黒羽が知らない女を抱いたとしても、それはそれだ。
多少腹は立つかも知れないが、別に自分たちは恋人でもなんでもないのだから。
(あーでも、俺はしばらく誰ともヤれねーな……)
服の下に隠した跡を思い、新一は心中で乾いた笑みを零した。
シャワールームの鏡を見て昇天しかけた新一だ。
それだけは文句を言ってもいいかも知れない。
「――では以上です。お疲れ様でした」
ミーティングが終わり、各々席を立ち上がる。
新一も腰に気をつけながら立ち上がるが、やはり踏み出したところで力が入らずによろめいた。
「わ、大丈夫ですか?」
隣に座っていたスタッフの男が咄嗟に支えてくれ、新一は礼を言おうと顔を上げたのだが。
ぐい、と。
腰を引かれ、背後によろめく。
その背に誰かの胸があたる。
振り向けば、なんだか変な顔をした黒羽が立っていた。
「カイト?」
「あ、いや、なんでもない。あっち手伝ってきてくれる、ジェフ?」
「OK!」
そのまま何事もなく走り去っていく彼の背を見送り、新一は背後の黒羽に向き直った。
「黒羽? どうした?」
「いや……ごめん。なんか、工藤に誰かが触ってるの見たら……」
その先の言葉が見つからずに困惑する黒羽を見て、新一は思わず笑みを零した。
――なんだ、酔ってなくても子供だな。
新一は周囲に人の気配がないことを確認すると、黒羽の襟をぐいと引き寄せ、真っ直ぐとその目を見据えながら言った。
「俺を捕まえたかったら、余所見なんかしてんなよ――怪盗キッド」
黒羽の目が大きく見開かれる。
それに声をあげて笑いながら、新一は部屋を出て行った。
そのすぐ後を追いかけてくる気配を、背中に感じながら。
追いかけるのが好きだけれど、たまには追われるのも悪くない。
世界でいちばん、だめなひと!
TOP
一夜をともに過ごす女たちは口々にそう言うけれど、そんなことはない。
来るものなら拒まないわけではなく、これでもきちんと選り好みしている。
好みの顔で、好みの性格で。胸はないよりはあった方がいいし、脂肪がつきすぎているよりは適度についているぐらいが丁度いい。
ついでに体の相性がよければもっといい――なんて。
目が覚めたとき、隣で寝ているのが胸もなければ無駄な脂肪などまるでない〝男〟だったときには、流石の快斗も驚きを隠せなかった。
この男が誰なのか、快斗はよく知っていた。
かつて日本で高校生探偵として名を馳せ、今や世界を舞台に活躍する世界的に有名な探偵、工藤新一。
初めての邂逅から十年という時を重ねても、この顔を忘れられるはずもない。
その男が、一糸纏わぬあられもない姿で隣で眠っている。それも、その体に色濃い情事の跡を残して。
今まで酒で記憶を飛ばしたこともなければ、褥をともにした相手にこうして跡をつけることもなかったというのに。
首筋や胸に散る鬱血痕は、普通に考えるならば自分がつけたものということになる。
次に思い浮かんだのは、果たして自分は「した」のか「された」のか、ということだった。
慌てて後ろを確認するが、心配していた名残はない。
少なくとも掘られてはいない、その事実に安心していいのかなんなのか。
混乱する快斗の横で、その騒々しい気配を察した工藤がようやく目を覚ました。
朝に弱いのか、それとも昨夜の名残か、半覚醒状態でふらつきながらも快斗を振り向く。
その目が裸の快斗を見遣り、ついで室内を見渡し、そして最後に自分の体を見た。
その様子を見守っていた快斗は、工藤がなにかを言う前に、つい言い訳のように口走っていた。
「その、ごめん。飲みすぎて全く覚えてないんだけど……俺、工藤になにかした……かな」
この期に及んでその言い草は我ながらひどかったが、記憶がない以上は確認するしかない。
だが、てっきり怒るか呆れるかするだろうと思った工藤は、しばらく呆けたように快斗を見た後に。
「あー、うん。俺も覚えてないから。ここはお互いになかったことにして、忘れようぜ」
にっこりと笑いながらそんなことを言われ、快斗は拍子抜けしてしまった。
そのまま是とも否とも答える暇もなく、工藤はさっさとベッドを抜け出してしまった。
そのとき、動いた拍子に溢れたものが工藤の太腿を伝うのを見てしまい、快斗は己がやらかしたことを思い知った。
自分が彼を抱いたのだ。
だが、状況も証拠も揃っているのに、彼はこちらを責めるどころか忘れようと言う。
申し訳なさは感じるものの、だからと言って男相手に責任を取ることもできないし、裁判沙汰などにされて困るのはこちらである。もちろん、このプライドの高い男がそんなことをするとは欠片も思わなかったが。
もろもろの事情を考えて、工藤の提案に乗るのが一番だと判断した快斗は、シャワールームに消えた工藤に簡単な書き置きを残して、早々に部屋を退出することにした。
世界的な知名度を誇る東洋の魔術師、カイト・クロバ。
セレブ御用達の最高級ホテルから、単独公演でマジックショーのワールドツアーをもこなすこの若き天才マジシャンは、その若さと甘いマスクで、今やハリウッドスターと肩を並べるほどの有名人となっていた。
その黒羽快斗は、その昔、白いタキシードを纏って月夜を騒がす怪盗紳士をしていた過去を持つ。
父親の死の真相を突き止め、そして父の死の陰謀を巡ってある犯罪組織と戦っていたのだ。
まるでアメコミのスターのようだが、それは快斗にとっては紛れもない現実だった。
そしてその時に得た戦友とも呼ぶべき永遠の好敵手、それが工藤新一だった。
容赦のない推理と慧眼を持って快斗を幾度となく窮地に追い込んだ――それでいて命さえ危ぶまれる危険な戦場で背を預けることができた、唯一無二の相手。
その彼と偶然再会したのが、つい一月前だった。
工藤は、快斗のヨーロッパツアーの間の警護と通訳を兼ねて一時的にスタッフとして雇われた。
全く探偵らしからぬ仕事だが、歴としたライセンスを持ちながら、彼は仕事の選り好みが激しい探偵としても有名だった。
まず、彼は事務所というものを持たない。
一所に留まっていることがほとんどないために、固定電話の意味がないのだ。
仮にあったとしても結局のところ携帯に転送させてしまうので、合理主義の彼にはそもそも無用の長物だったのだろう。
だから一般人から依頼が舞い込むことはほとんどない。
そのため、彼への仕事の依頼は自然と紹介という形を取ることが多かった。
それさえ別件で忙しければ別の探偵を紹介されることも多く、そうした理由から「選り好みが激しい探偵」などと言われている。
しかしそれが彼の名声を貶めているというわけでもなく、余程強運でなければ彼に仕事を頼むことはできないという、一種のジンクスめいた扱いを受けていた。
そのジンクスを破り、見事今回の依頼を成立させた快斗だが。
別に工藤に依頼を出したわけではなく、「ヨーロッパ圏の言語に強く、警護の知識とスキルを持つ人物」を探していたところ、快斗のファンのひとりであるとある大富豪の爺さんが彼を紹介してくれたのだ。
そしてたまたま手がけていた依頼を片付けたところだった彼が、その依頼を引き受けてくれたというわけだった。
偶然に偶然が重なり、実に十年ぶりの再会を果たした快斗は、正直なところ、少し浮かれていた。
探偵と名乗る者は数あれど、彼はもともと快斗自ら好敵手と認めるほどにお気に入りの探偵だ。
怪盗業から足を洗い、日本から世界へ舞台を移したために会うこともなかったが、時折噂を耳にしては「まーた派手にやってるな」とニヤけてしまうぐらいには彼のことを気にかけていた。
その彼と、向こうはこちらのことなど知らないとしても、久しぶりの再会だったのだ。
スタッフである以上良好な関係を築くのは当たり前だが、それだけでなく、彼と話をするのは楽しかった。
だから昨日、工藤を飲みに誘ったのも自然なことだった。
(――んで、最初はバーで飲んでたんだよな。でもいくら変装してても俺も工藤も目立つし、払っても払っても女が寄ってくるのが面倒だったから、部屋に移動したんだよ。そこまでは覚えてる)
それで、部屋でワインを開けた。ルームサービスで頼んだ、決して安くないワインだ。
それを二人で飲みながら、他愛もない話を楽しんだ。
人目がなくなったことで変に気を遣う必要もなかったし、気が緩んでたのは確かだ。
そして――その後の記憶がどうしても思い出せない。
いや、思い出す必要などなかった。
飲みすぎた自分は箍が外れて、工藤をベッドに誘ったんだろう。
ツアーの最中に人肌が恋しくなることはままあることだった。
そしていつもならバーで知り合った後腐れのなさそうな女性と一夜を過ごし、翌朝何事もなかったように別れる。
その後の連絡を取り合ったりもしない。
それが今回、なにをトチ狂ったのか男の工藤を誘い、挙句同じく酔っていただろう工藤がうっかりその誘いに乗ってしまったのだろう。
そうは思うが、飛ばしてしまった記憶のことが快斗には気がかりだった。
「おはようございます」
いつものように涼しげな出で立ちで挨拶をする工藤に、スタッフたちからも口々に挨拶が返される。
そんな彼らの顔が妙に夢見心地なのは今に始まったことではない。
工藤新一は外国人の目から見ても「いい男」に映るようだった。
童顔と称される日本人だが、快斗と同じ二十七歳という工藤はそれなりに精悍に、男らしい顔立ちになっていた。
それでも母親の美貌を色濃く残す顔立ちは、筋骨逞しい外国人男性の中にあれば「華」と称されるほどに麗しい。
そのうえ彼にはどこにいても人の目を惹きつけるオーラがあった。
探偵という職業柄、裏方に立つことが多い彼だが、それこそステージに立っても遜色ない、他を圧倒するほどの空気を持っている。
その彼に微笑みながら声をかけられれば、いくら目の肥えた女性たちだって思わず赤くもなるというものだ。
中には男も混じっているのが気にならなくもないが。
「……おはよう、工藤」
「おはよう、黒羽」
朝のあれこれのために遠慮がちに声をかければ、工藤は普段どおりに返事をくれた。
そのことにホッとしつつも、快斗は工藤の体のことが気がかりだった。
シャワールームまで歩く工藤の足取りはぎこちなかった。
相手の性別が変わろうとやることに大差のない快斗と違い、彼には無理をさせたに違いない。全く覚えてないが。
しかし平然と立っている彼を見ていると、今朝のことが夢だったんじゃないかとも思えてくる。
「それではミーティングを始めましょうか」
スタッフのひとりの声かけで、みんながテーブルへと集まってくる。
公演自体には関わりのない工藤も、警備や安全面の責任者を務めるために、ミーティングには加わってもらっている。
同じくテーブルに着こうと踏み出した一歩がふらついたのを見て、快斗は咄嗟に腰に腕を回してその体を支えた。
やはり大丈夫ではなかったようだ。
「気をつけて」
工藤にだけ聞えるように声を落として囁けば、同じく潜めた声で「悪ぃ」と返される。
むしろ謝らなければならないのは自分の方だと、慌てて伝えようとした言葉が喉に詰まった。
微かに赤く色づいた耳と、その横――髪の毛先に隠れてほとんど見えない白磁の肌に滲んだ赤い跡。
(うわあ……!)
一気に意識してしまい、快斗は弾かれたように手を離した。
(う、お、男だから! 工藤は男だからー!)
滑らかな肌だとか、柔らかな髪だとか、美味しそうな耳たぶだとか。
そんなものに色香を感じたなんて、そんなこと、有り得ない。
いやもちろん、そういう嗜好を持つ人がいることは知っているし、別段偏見もないけれど。
快斗が好きなのはあくまで女性だ。
(てゆーか、野郎のナニとか想像しただけで萎えるから!)
実際には萎えるどころか、溢れるほどに吐き出していたわけだが。
いやだから、そうじゃなくて。そうじゃなくて。
快斗は雑念を振り払うように両手で思い切り頭を掻き回すと、何事かと目を丸くしているスタッフ一同に誤魔化し笑いを浮かべてさっさと席についた。
その向こうで、肘をついた右手で隠した口元で呆れたように溜息を吐く探偵になど、もちろん気づくこともなく。
***
父親からその依頼を紹介されたとき、新一はあまり深く考えることなくそれを引き受けた。
ちょうど面倒だった麻薬組織絡みの事件が片付いたところで、充実していたがやはりハードな仕事だったこともあり、マジシャンの警護くらいなら丁度いい息抜きになるか、という軽い気持ちだった。
カイト・クロバの名はもちろん新一も知っていた。
事件三昧の朴念仁だが、知識としての情報を仕入れることだけは怠らない。
――東洋の魔術師。
――マジック界の革命児。
――今、世界でもっとも注目されるいい男。
そんな、どこかで目にした雑誌の煽り文句が思い出される。
実際に会った黒羽は、新一と同い年ということもあって、愛想もよくて話しやすい気さくな人物だった。
仕事柄あらゆる分野の有名人とやらにお目にかかる機会の多い新一だが、彼らが持つ独特の空気――己のステータスを自負し、相手との付き合い方もまたその人物のステータスで判断するような――そういったものがまるで感じられない。
なんというか、ちょっと庶民的というか。
それでいて会話の端々で感じられる頭の回転の速さは、彼を凡庸から逸脱させるには十分すぎるものであった。
そんな、今までの依頼人とは一味も二味も違う黒羽と親しくなるのに、そう時間はかからなかった。
話し上手で聞き上手という黒羽は、その豊富な知識で新一を飽きさせることはなかったし、新一から話を聞きだすのも上手かった。
もちろん探偵の矜持として守秘義務を侵すことはないが、その微妙なラインをよく心得ている相手は、こちらがなにを言わずともそのラインを飛び越えることはなかった。
もちろん、マジックの腕は超一流だ。
この工藤新一が、トリックを見破るのを忘れてその技に見惚れたのは人生二度目である。
そして心の底からマジックを愛する男は、商売道具であるはずのマジックを仕事でもない場所で惜しげもなく披露しては、驚く新一を見て子供のようにはしゃぐのだった。
半年をかけてヨーロッパを回るこのツアーを長いとも思っていたが、あっという間に一月が過ぎてしまった。
そしてこの一月で、黒羽とはただの依頼人から友人と呼べるまでの間柄になっていた。
黒羽と飲みに行ったのも、昨日が初めてというわけでもなかった。
ただ昨日はタイミングが悪かったのだ。
バーのカウンターで並んで酒を飲んでいたところを、黒羽のファンだという女性陣に捕まってちょっと賑やかになってしまった。
このままだと店にも迷惑がかかるからと、黒羽の部屋に移動することにした。
騒ぎのせいで酒も醒めてしまったし、気分もやや白けてしまったこともあって、部屋で飲みなおすのもいいなと思ったのだ。
むしろ余計な邪魔が入らない分、部屋で飲む方が気楽だとさえ思った。
そのときは。
――それがまさか、あんなことになるとは思わなかったのだ。
新一はもちろん、昨夜のことを覚えていた。
いっそ本当に忘れられたらこの羞恥心も一緒に消えてくれるのだろうが、それはそれで腹立たしい気もする。
飲みすぎているな、とは思っていた。
ワインが美味かったせいもある。
気の置けない友人と二人きりという環境もまずかった。
ちょっとぐらい酒が過ぎてもここにいるのは自分ひとり、それが外部に漏れるわけでもなければ、彼の名に傷がつくわけでもない。
それならここで水を差すより、酔いつぶれてしまってもまあいいか、と思ってしまったのだ。
その結果。
酔った男は、なにを思ったのか新一を口説きだしたのだ。
「工藤の肌ってすげー綺麗だよな、触ってみてもいい?」
「なんか香水つけてるのかな。いつも、いい匂いがする」
「俺、お前の目、すごい好き。澄んでて、真っ直ぐで。ずっと見てたいし、見てて欲しい」
なにかおかしい……そう思い始めたときには、黒羽の口が自分の口とくっついていた。
今思えば、自分もずいぶんと酔っていたのだ。
それでも頭の片隅に探偵としての意識が残っていたおかげで記憶を飛ばすまでには至らなかったが、普段の自分ならもっと早く状況の異様さに気づいていただろう。
まして口付けられるまで接近に気づかなかったなんて。
触れた口の合間から熱い舌が潜り込んできてようやく、新一は黒羽を突き飛ばした。
情けなく尻餅をついた黒羽は、なにが起きたのか分からないとでも言うように呆然としている。
その顔を見て、ああこいつはこんな風に拒絶されたことなどないのだろうと、誘えばどんな女もこの腕に陥落してきたのだろうと、沸騰した頭の片隅で思った。
よもやこの自分が女のように扱われるなんて冗談ではない。
「バーロー、俺が女に見えるかっ? 慰み者にされる気はない! ちょっと頭冷やせ!」
怒鳴りつけてから、ハッとした。
呆然とこちらを見上げていた男の目から、ぽろりと、涙が滴った。
予想もしなかった事態にうろたえる新一を余所に、ぽろりぽろりと幾粒も涙が零れていく。
「え、おい……黒羽?」
声をかけても反応しない相手が心配になり、新一は躊躇いながらも黒羽の頬に手を伸ばした。
指先を冷たい涙が濡らしていく。
それでもなにも言わない黒羽に、流石になにかがおかしいと思い、新一は彼の前に座り込むと、頬に触れた手はそのままに真っ直ぐ彼を見つめた。
「どうした、黒羽。なんで泣いてるんだ。俺が怒鳴ったからか?」
「……違、う」
「なら、どうした?」
やっと反応を返したことに安堵しつつ、先を促すように親指の腹で頬を撫でれば、黒羽はずっと見開いていた目をぎゅっと閉じて、くしゃりと顔を歪めた。
「……工藤に、嫌われたく、ない」
思ってもみなかった返事に、新一は軽く目を瞠った。
いい年をした大人の男が、それも世界中の人間を鮮やかに騙す大胆不敵な男が、子供のように泣いている理由が――自分に嫌われたくないから、だなんて。
「あー……吃驚したから、怒鳴っただけで。別に嫌いになっちゃいねーよ」
言いながら、嫌いになるという選択肢はまったく思い浮かばなかったことを自覚する。
うん、まあ、口がちょっとぶつかっただけだし。
舌も入れられたけど。
初心な女じゃあるまいし、まあどうということもない。
「ほんと……?」
「ほんとほんと」
「絶対?」
「ああ、絶対」
なんだかだんだん子供の相手をしている気になって、おざなりに相槌を打っていた新一は。
「俺が、怪盗キッドでも、嫌いにならない?」
その言葉に動きを止めた。
「……は?」
「俺が、怪盗キッドでも。名探偵は、嫌いにならないでいてくれる?」
「え……おま……黒羽がキッド!?」
大きな声に驚いた黒羽がびくりと肩を揺らし、再びぼろぼろと泣き始める。
新一は最早混乱していた。
黒羽がキッド。
その名前自体がもう懐かしい、かつて日本を騒がせた怪盗だ。
新一が某犯罪組織を壊滅させたのとほぼ時を同じくして世間から姿を消した。
新一にしては珍しく気に入っていた泥棒で、専任だった中森ほどではないが、いなくなった怪盗に寂しさを感じることもあったけれど。
その怪盗が華々しくマジシャンデビューし、今や世界中で引っ張りだこの売れっ子マジシャンになっていたというのか。
この、目の前で泣いている男が。
俄かには信じられないが、けれど彼は先ほど確かに新一のことを「名探偵」と呼んだ。
彼の怪盗もまた、気障ったらしく自分をそう呼んでいた。
ということは、やはりこの男が怪盗キッドなのか。
もうなにに驚けばいいのか。
「やっぱり……俺のこと、嫌いなんだ……」
「いやおまえ……嫌いとかって問題じゃないだろ。てゆーか俺、探偵だし……」
「そんなの、関係ないよ。だって、俺が世界でいちばん信頼してるのは、名探偵だもん」
不覚にも、その台詞には揺らいでしまった。
男も女も老いも若きも、誰彼構わず魅了してはひらりと飛んでいってしまう怪盗が、この自分までもを夢中にさせた怪盗が、新一のことを特別だと言う。
「キッドはやめたよ。目的は遂げたから。ずっと夢だったマジシャンにもなった。だけど、ずっと寂しかった。ずっと足りなかった」
「……その足りないものを埋めたいから、人肌が恋しいんだろ。それなら俺じゃなくたって……」
「誰かじゃだめだ。名探偵じゃなきゃ、だめだ」
――おまえじゃないなら、誰もいらない。
そうして泣きじゃくる男に、絆されないやつがいるだろうか。
少なくとも新一には無理だった。
「ああもう、……そんなに泣くな。目が溶けちまう」
両手を伸ばし、黒羽の頭を引き寄せてそっと瞼に唇を落とす。
そしてそのまま、迷子の子供のような顔をしている男の唇を塞いだ。
キスは、涙の味がした。
「名、探偵……」
「言っとくが、男となんて初めてだからな。味は保障しねえぞ」
「……!」
そこからはもう、嵐のようだった。
新一だとてそれなりに経験値を積んできたわけだが、マジシャンの繊細な指先は新一など思いもよらない動きですぐに新一を翻弄した。
もう上も下も分からない状態で、それでも求められていることだけは分かった。
深く深く、誰にも触れさせたことのない場所に黒羽を受け入れ、それでも足りないとばかりに所有を刻まれ、何度となく名前を呼ばれ。
過ぎる感覚に意識を飛ばす度に、甘い口付けで呼び戻された。
(……だいたい、初心者を相手に覚えてるだけでも5回って……どんだけ絶倫だ、あの男)
未だに下半身には違和感があるが、意地でもそんなものは顔には出さない。
別に新一は怒っているわけではない。
酒の勢いで襲われたわけだが、受け入れたのは自分だ。つまり和姦である。
記憶がないというのも失礼な話だが、散々さらした己の痴態を思い出されるのも微妙だ。顔から火が出る。
それに、だ。
酒の勢いだとしても、キッドであることを明かされたことや、自分を特別視してくれていることを聞けたことが、全てを帳消しにしていた。
抱かれたことも、最中は嵐のようだったが、まあ終わってしまえばどうということもない。
たとえ今夜黒羽が知らない女を抱いたとしても、それはそれだ。
多少腹は立つかも知れないが、別に自分たちは恋人でもなんでもないのだから。
(あーでも、俺はしばらく誰ともヤれねーな……)
服の下に隠した跡を思い、新一は心中で乾いた笑みを零した。
シャワールームの鏡を見て昇天しかけた新一だ。
それだけは文句を言ってもいいかも知れない。
「――では以上です。お疲れ様でした」
ミーティングが終わり、各々席を立ち上がる。
新一も腰に気をつけながら立ち上がるが、やはり踏み出したところで力が入らずによろめいた。
「わ、大丈夫ですか?」
隣に座っていたスタッフの男が咄嗟に支えてくれ、新一は礼を言おうと顔を上げたのだが。
ぐい、と。
腰を引かれ、背後によろめく。
その背に誰かの胸があたる。
振り向けば、なんだか変な顔をした黒羽が立っていた。
「カイト?」
「あ、いや、なんでもない。あっち手伝ってきてくれる、ジェフ?」
「OK!」
そのまま何事もなく走り去っていく彼の背を見送り、新一は背後の黒羽に向き直った。
「黒羽? どうした?」
「いや……ごめん。なんか、工藤に誰かが触ってるの見たら……」
その先の言葉が見つからずに困惑する黒羽を見て、新一は思わず笑みを零した。
――なんだ、酔ってなくても子供だな。
新一は周囲に人の気配がないことを確認すると、黒羽の襟をぐいと引き寄せ、真っ直ぐとその目を見据えながら言った。
「俺を捕まえたかったら、余所見なんかしてんなよ――怪盗キッド」
黒羽の目が大きく見開かれる。
それに声をあげて笑いながら、新一は部屋を出て行った。
そのすぐ後を追いかけてくる気配を、背中に感じながら。
追いかけるのが好きだけれど、たまには追われるのも悪くない。
世界でいちばん、だめなひと!
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