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蒼い瞳の伝説 1


 学校のつまらない授業が終わり、警視庁からの呼び出しもなく久しぶりに何の予定もない午後。
 そんなのんびりした時間を楽しみながら家に帰って、ポストの中身を確認した瞬間、新一は愕然とした。

「――あんの野郎、性懲りもなくこんなもん送りつけやがって!」

 新一の手の中には真っ白な小さなカード。
 それには数行の文字と可愛らしいマーク――キッドマークが描かれていた。そこに書かれた気障な文句も、すぐには理解しがたい暗号めいた文章も、これが本物であることを示している。
 それは、怪盗キッドからの犯行予告状だった。
 相手にしないと本人に言い放ったのはつい先日。それにも関わらず、あの大胆不適な怪盗は探偵の自宅のポストにわざわざ直接予告状を届けてくれたのだった。





 別に律儀に出向かなくとも、警視庁に連絡さえしなければそのままばっくれることもできただろう。怪盗がわざわざ探偵に予告状を送りつけるなんて、どこの誰が予想できようか。
 けれど、その勝ち気な性格ゆえなのか、売られた喧嘩を買わずにいることが新一にはできなかった。
 新一としてはあの大胆不敵な怪盗に、こんな傍迷惑なものは金輪際くれるなと言ってやりたいのだった。
 そんなわけで、現在新一はキッドの予告現場にいる。
 もちろん少しもいい顔をしなかった中森警部には涼しい顔で、

「奴から挑戦されては、黙っていられないでしょう?」

 なんとも悪戯な笑みを浮かべてそう豪語した新一に、警部は何も言えなくなってしまった。
 実際、書かれていた暗号を解いたのは新一なのだから、現場に関わる権利は充分にあるのだ。それでも警部があまりいい顔をしなかった理由はひとつ。現場の指揮が乱れるから、だ。
 と言うのも、警視庁内に置いて新一の存在は一課のみならず二課、果ては署内全土に渡って知られている。そしてその容姿はもちろん、誰をも凌ぐ新一の頭脳、探偵としての能力の高さに惚れ込んでいる者も少なくない。
 つまり、警視庁内には多くの工藤新一ファンがいた。
 現場の指揮が乱れる理由は外でもない、新一ファンの警官たちが浮き足立つからなのだ。
 けれどそんな警部の心配虚しく、新一ファンの警官たちはこの素敵な運命にこっそりと喜ぶのだった。

「二課にはキッド専任の探偵がいると聞いていましたが、今日はいないようですね、中森警部」
「ああ、白馬君のことだな。彼は今倫敦に行っとる」
「倫敦ですか。白馬というと、白馬警視総監の?」
「そうだ。でなきゃ高校生の子供なんぞ現場に入れたりせん!」

 自分も高校生の子供である新一は笑うしかなかった。
 キッド専任の高校生探偵、白馬探。
 噂だけは聞いていたのでちょっと顔を合わせて話をしてみたいなと思っていたのだけれど、残念ながら今日は不在のようだ。彼は噂によればシャーロキアンだというので話が合うかもしれないと思ったのだが……
 そうこうしているうちにも時間は経ち、キッドの予告時間が迫ってきた。

(俺がいるからにはそう簡単に盗らせねえぜ、怪盗キッド)

 心なし浮かぶ笑みは遊びを見つけた子供と大差ない。
 なんだかんだ言って新一もキッドには大いに興味を持っていた。謎が大好きで好奇心旺盛な高校生探偵が、存在からして謎に包まれた怪盗に心躍らされないはずがないのだ。



 突然、シューッという音とともに床のそこここから煙が噴き上げた。驚いた警官たちが気付いたときには、もう部屋中に煙が充満していた。
 ひとり、またひとりと倒れていく。
 その中に、酸素マスクをはめ口元に笑みを浮かべた警官がひとり――
 怪盗キッドだ。
 予告時間を告げる鐘の音が遠くの方で響いている。
 時間ぴったりに現れた怪盗は慣れた手つきでショーケースの鍵を開けると、そこに飾られていた赤く輝くビッグジュエルを素早く胸ポケットに仕舞い込んだ。
 イミテーションでないことはすでに確認済みだ。警察無線を傍受して盗聴器で確認したけれど、警部は今回偽物を置かなかった。なによりこの怪盗の目を誤魔化せるわけがなかった。
 主を失った台座は警告と警報の鳴き声をあげるが、哀しいかな、護衛の者はすでに夢の中である。

(案外チョロかったな)

 本日の戦利品を懐に仕舞ったキッドは、もうここに用はないと踵を返した。
 名探偵を挑発したのだからもう少し遊べると思っていたのに、とんだ期待はずれだ。ここに辿り着くまでに仕掛けられていたトラップはさすがというべきものだったけれど、それでも直接彼に追いつめられた時の比ではない。
 或いは催眠ガスに大人しくやられてくれたのかも知れないと、キッドが眠りこけている警官たちを見回した時……
 ガチャリ、という耳障りな音とともに手首に触れた金属の冷たい感触。

「――ご苦労さん、怪盗キッド?」

 目の前には、マスクこそしていないがハンカチで口元を覆った名探偵が、意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
 確認するまでもないが、キッドの腕にはめられたのは手錠だった。やはり大人しく催眠ガスにはやられてくれなかったようだ。
 だというのに、キッドは動揺した様子もなく余裕の笑みで言った。

「こんばんは、名探偵。まさか起きてらっしゃるとは思いませんでしたよ」
「ふん…俺がそんな簡単にやられるタマに見えっかよ?」
「いいえ。けれど、これでも何人も逃れる暇のないよう設置したのですけれどね」

 至る所に設置した即効性の催眠ガスは瞬く間に部屋を覆い、そこから逃げ出そうとする間に全身にまわってしまうような代物だ。たとえ入り口付近にいる者だろうと驚いている間に眠ってしまう。それなのに、ショーケースの隣りに警部とともに立っていたはずの新一が、どうして眠らずにいるのか。
 引き始めた煙に呼吸をしても問題なさそうだと見当をつけ、キッドは酸素マスクを外した。

「ま、俺の反射神経と状況判断が恐ろしく良いんだと言っておくぜ」
「さすがは名探偵」

 キッドはくすりと笑みをこぼす。手錠をはめられすでに逃げ場はないというのにキッドの態度は相変わらずだ。
 新一は少しだけむっとして言い放った。

「観念しろ。お前は俺に捕まったんだぜ?」

 それでもキッドは笑みを崩さない。
 どころか、続いた言葉に新一は絶句した。

「何を仰るんですか。繋がったのは貴方の手と私の手…私が捕らえたともとれますよ?」

 言うなり、キッドは新一を横抱きにするとすぐ側の窓からダイブした。
 ここは四十階建てビルの三十八階。遙か下方には綺麗な夜景が所狭しと広がっているけれど、そんなものを楽しんでいる余裕など新一にはなかった。
 突然襲った浮遊間に続いて落下し、新一は手近にあったキッドのスーツを力の限り掴んだ。

(何考えてやがんだ、このバ怪盗――!)

 バンジージャンプのように命綱があったり自分から飛ぼうとするならわかるが、なんの覚悟も前触れもなくこんな上空から夜空にダイブさせられれば新一でなくともびびるだろう。
 けれど束の間落下したかと思うと、キッドの背中にハングライダーが開き、数秒後には二人は夜風に乗って悠々と飛んでいた。
 ようやく自制心を取り戻した新一は掴んだスーツの襟元をぐいと引き寄せると、勢いよく文句を浴びせた。

「この野郎、何しやがんだ!」
「驚きましたか?」
「うるさい! ったく、何考えてんだよ…」

 手錠をはめられたままあの場から退散するには確かにこの方法しかなかったのだろうが……
 それにしても、新一には絶対にキッドが愉しんでやっているとしか思えなかった。
 けれど地上から遠く離れたこの足場も何もないこんな上空では抵抗するだけ無駄だと、新一は大人しくキッドに抱えられることにした。この体勢は死ぬほど気に入らなかったけれど、新一が暴れれば暴れるだけこの男の思うつぼのような気がする。
 上空の冷たい風に熱を奪われ、寒さのために腕に力を入れた頃、ようやくキッドは地上へと舞い降りた。

「ここまで来ればさすがに大丈夫だと思うんですがね…」
「なにがだよ?」
「いえ、こちらの話ですよ」

 曖昧な言葉で濁しながらニッ、とキッドは笑んでみせる。
 キッドは自分を付け狙う暗殺者のことを言っていたのだけれど、それは新一の知らないことだ。新一の方もキッドの笑みにそれ以上何も言う気がないことを悟り、特に問いつめようとしなかった。

「それよりも名探偵、この手錠を外して下さる気はありますか?」
「何言ってやがる。このまま警察につきだしてやるっ」
「そうですか。それでは、名探偵にこれを差し上げましょう」

 スッと差し出されたのは手錠のかけられていない方の手。自然とそこへ視線を遣れば、ぽんという音とともに小さな煙が生じて、一瞬後にはその手の中に赤い薔薇が現われた。
 何もなかったはずのそこに唐突に現われた一輪の薔薇。
 新一はある程度のマジックであればその鋭い観察眼でタネを見抜くことができた。けれど、タネは分かっているのに見抜くことのできなかったマジックは初めてだった。
 たった今目の前でされた初歩的なマジックのタネを見抜くことができず、新一はまじまじとその手を見つめた。
 キッドはくすりと笑みをこぼしながらその薔薇を新一のブレザーの胸ポケットへと差し込む。

「赤い薔薇も良くお似合いで」

 直後、ガチャリと響いた金属音に新一はぎくりと体を竦めた。見れば、いつの間に抜け出したのか、キッドの腕から外された手錠はもう片方の自分の手にまわされていた。
 つまり新一は両手に手錠をはめられてしまったのだ。

「な…! キッド、いつのまにっ」
「私に鎖など効きませんよ。鍵のあるものなら全て解く自信がありますから」

 楽しげに笑う怪盗を新一は心底腹立たしげに睨み付けた。
 一瞬の油断。
 けれどその一瞬が命取りだ。
 右手でマジックをしながらどうやって左手の手錠を解いたというのか、それこそ魔法のようなものだが、そんなことよりも手錠を解く隙を与えてしまった自分に新一は歯噛みした。

「ご安心を。用事が済めば宝石はちゃんとお返しします」

 新一をその場に残し、キッドは月明かりの見える場所へと歩いていった。
 わずか数メートルの距離。そこでキッドは宝石を月へ翳した。その中に赤い光は見あたらないが、もう溜息すら出てこなかった。
 命の石、パンドラ。
 大事な人の命を奪った忌まわしい組織の欲する、永遠を与えるという石。
 本当にそんなものがあるのか知らないが、永遠なんて馬鹿げたものを欲する輩のために多くの命が奪われてきたのは事実だ。
 多くの犠牲の上に成り立った永遠の命に果たしてどれほどの価値があるのか。虐げられた犠牲者たちの命よりも価値があるのだろうか。
 ――そんなはずは、ない。
 そんな元凶のもとは葬り去ってやると、キッドが宝石を握る手に力を込めた、その時。

「…う、わぁ――っ」

 聞こえてきた新一の叫び声に、ばっと振り返った。
 そこには、後ろから何者かによって拘束され口に布を押し当てられている新一の姿があった。
 新一は必死に抵抗を繰り返すが少しも効果はなく、それどころか暴れていた手足は次第に動かなくなり、やがてぐったりと男に体を預けるようにして意識を失ってしまった。
 即効性の麻酔薬――クロロホルムでも嗅がされたのか。

「名探偵!」

 キッドがそう叫ぶと、新一を抱え上げた男はニッと顔を歪め、そのまま闇に溶け込むように姿を消した。
 一瞬にして感じなくなった気配。
 キッドはわけがわからずその場に立ち尽くした。
 あいつは誰なのか。
 近くにいたのにまるで気配を感じなかった。
 キッドを見てもまるで表情を崩さなかったのだから、間違いなくプロだ。
 けれど、なぜ名探偵が狙われたのか。キッドを狙う輩じゃなかったのか。
 名探偵を狙うということは黒の組織の残党だろうか。しかしそれなら彼を連れ去らずに殺していたはずだ。彼が狙われているのは命なのだから。
 では、なぜ彼は連れ去られたのか。
 キッドが思考を巡らせていると、微かに車のエンジン音が聞こえてきた。気を研ぎ澄ませ、キッドはその音のする方角を必死に探る。
 冗談じゃない。いくら厄介な敵とは言え、目の前で連れ去られて黙っていられるほど自分は悪人じゃない。
 ……それが名探偵だというなら、尚更だ。
 方角を定めたキッドは夜の闇の中を駆け出した。気配を断ち、できる限りの速さで車を捜す。けれど、それはすぐに視界の中に飛び込んできた。凄まじい速さで走り抜ける、ブラックカラーの車。

(どうしてこう、後ろめたいことしてる奴ってのは黒が好きなんだか…っ)

 再び夜空にその翼を広げ、キッドは新一を拉致した車を上空から追いかけた。



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