隠恋慕
蒼い瞳の伝説 3
小さい頃からホームズが大好きだった。
如何なる時も冷静沈着。その文句がぴったり当てはまる名探偵は、幼かった自分の憧れであり理想の姿であった。
だから、父親のこの言葉を何の抵抗も感じずに受け入れられた。
――いいかい、新一。どんな時も冷静沈着。これはおまえにとって最も必要な、そして最も大切なことなんだよ。
冷静沈着。
その言葉の奥に隠された真意は、興奮を抑えろ、ということだったのだ。
幼い頃はそんなものに疑問を持たなかった。ただ目が蒼いというだけで別に人と違った見え方をするわけでもない。少しその色が変わっていたとしてもこれが自分にとっての普通で、人なんてそれぞれ別の生き物なんだから違いがあっても不思議はないと思っていた。だから、端から見れば異様なこの訓練も、自分にとっては日常のことだった。
そして今――
父親の巧みな話術とある男との訓練、そして自分の勝ち気な性格によって、それは見事に身につけられた。どんな時も冷静に物事を考えることができたし、ポーカーフェイスも見事なものだ。それはある意味他人と一線をおくという結果になってしまったかもしれないけれど、その時の自分は探偵という職業に夢中でそんなことには気付かなかった。
父親によって、知らない間に身を守る術を身につけられていた。だから伝説なんてものを知ることはなかったし、また知る必要もなかった。
でも本当は、あの人はできることならそんなものを知らずに俺が一生を過ごすことを望んでいたのかも知れない。
「…あなたが証拠…?」
予想通りの反応を返され、新一は我慢しきれずに笑ってしまった。
当然、キッドは怒る。
「答えて下さい、名探偵」
「ああ、悪ぃ…、だっておまえ、ポーカーフェイス崩れちまってるぜ…っ!」
確かにキッドのポーカーフェイスは見事に剥がれ落ちていた。文字通り目が点になってしまったかのような顔で、それまで身に纏っていた冷涼な気配もどこへやら、である。
けれどもちろん納得していないキッドが強く質すと、ひとしきり笑ってから、新一は表情を引き締めて先を続けた。
「つまりな、そのまんまだよ。俺が証拠。多分俺が、奴らの探してる蒼い瞳を持つ人間だ」
「…貴方が、本物の?」
「ああ、多分本物だ。この世でただひとりって言うんだから、その目は普通に蒼いだけじゃないはずだろ?」
「ええ、きっとそうでしょう」
だがキッドが見る限りでは新一の目もただ蒼いだけで、そんな目は他にいくらでもありそうなものだ。だから余計に、なぜ新一が自分が本物だと言い切れるのかがわからなかった。
そんなキッドの気配を敏感に察知して、新一は困ったような笑みを浮かべる。
「信じられないって顔してるな。俺が適当な嘘を吐く人間に見えるか?」
「そんなことはありませんが…あまりに突拍子もない話ですから…」
「確かにな。なら、見せてやるよ」
「え…?」
ここまで来たからには今更隠しても仕方がないし、証拠を求めるなら見せてやろうではないか。
新一は立ち上がってキッドの方へと近づいた。
さも当たり前のように月明かりを背負い、あくまでその顔を見せようとしないキッド。今ならそのシルクハットを奪って素顔を拝見することもできるだろう。
けれど、新一は敢えてそれをしなかった。キッドも近づいてくる新一にさして警戒していない。
ただ月明かりを正面からその身に受けている新一は、どこか人外の妖しさを含んでいるように感じた。
真っ直ぐ伸びた漆黒の髪がかかる肌は白く透き通っていて、蒼い瞳は激しく輝き、その存在を誇示している。先ほど抱え上げた華奢な体とは思えないほど、その存在感は強かった。
新一が目の前でニッ、と笑んだかと思うと、瞳が妖しい煌めきを帯びる。まるで眼球という薄い膜の奧に炎を秘めているかのように揺らめいている。もとから蒼いはずの瞳がさらに深く濃くなった。
――蒼い炎が、揺らめいていた。
それは確かにこの世に唯一としか言いようのない輝き。
キッドはしばらくの間、吸い込まれるようにその瞳を凝視していた。
すると、新一が急に堅く目を閉じて頭を振った。そして次に開いたときには普段の瞳に戻っていた。
「…信じた?」
咄嗟に返事ができなかったキッドは、けれど弾かれるように怒鳴り声を上げた。
「――ッそんな重大な秘密を簡単に明かしていいんですかっ!」
「うるせえな、おまえが初めてだよ」
新一は子供のように唇を尖らせながらキッドを睨み付けると、不機嫌そうにそう言って自分の椅子へと腰掛けた。
対するキッドはまたもやの爆弾発言に目を剥いていた。
(…もう俺、今夜は何があっても驚かなさそう)
目の前の彼は何と言った?
自分が初めて。つまり、その秘密を教えられたのは今も昔も自分以外にいないということだ。
そうなると当然次に浮かんでくる疑問は、なぜ自分にその秘密を話したか、ということになる。
「…なぜ貴方は私に話したのですか? 私も貴方を狙うかもしれないんですよ?」
そんなことは有り得ないと自分が一番よくわかっているが、キッドは聞かずにいられなかった。
別に自分は彼自身にこそ興味はあっても、蒼い瞳の伝説なんてものには全く興味がない。その瞳を持つ者にどんな価値があるのかさえ知らないのだ。たとえ知ったところで、そういう下らない伝説には興味を持てないだろうと思う。下らない伝説など永遠をくれる石パンドラだけで充分なのだから。
けれど、この質問に困ったのは新一の方だった。
明確な理由があっての行動ではないだけに、どう説明していいのかわからない。なぜかはわからなが、彼には全てを打ち明けてしまいたかったのだ。
ただなんとなく……
それでは駄目だろうか?
「別に…ただおまえに話したかっただけだ。おまえ、そんなものに興味なさそうだし」
「確かに興味ありませんが…」
「だろ? ならいいじゃねえか」
まあこれもひとつの礼だと思えよ。
そう言って新一は手元のコーヒーを飲み下し、少し冷めてしまったそれに不味いと顔をしかめた。
「貴方は今までにも狙われたことが?」
「組織の残党に狙われたことはあったな。ジンのように凄腕の奴はそうそういなかったけど。だがこの目の所為で狙われたのは初めてだ。こんなものに大した意味や伝説があるなんて思ってなかったし…」
「では、貴方は新たに今までとは別の理由で、貴方を狙う輩を作ってしまったということですね」
「…別に俺が作りたくて作ったわけじゃねーよ」
新一はムッとしながらキッドを睨み付けた。
もちろんキッドもそういうつもりで言ったわけではないのだが、ただ純粋に新一が狙われるということが嫌だったのだ。
けれどこればかりは先天性的なものなのだから仕方ない。何もそんな目を持つことを新一が望んで生まれてきたわけではないのだから。
「それで、これから貴方はどうするつもりですか?」
「どうするって言われてもな…相手がどんな奴かもわからない以上、動きようがない」
できれば金輪際あんな男とは関わりを持ちたくない。
黒の組織を壊滅に追い込めたのは「工藤新一は死んだ」という強味があったからだ。ずっと闇の世界で生きてきたあんな男に、何の切り札もなく叶うはずがなかった。だからと言って大人しくやられるばかりの自分でもないけれど。
「…でしたら、及ばずながら、私もあなたに助力しましょう」
新一は弾かれるように顔を上げた。
キッドはいつもの不適な笑みを浮かべている。
思いも寄らなかったキッドの申し出に、新一は思い切りその顔を凝視した。
なぜキッドはそんなことを言い出したのだろうか。何度か助けられたこともあったが、自分たちは決して馴れ合ってきたわけではない。手を組んで危機を脱したことはあってもあくまで一時的なものに過ぎなかった。それなのに、どうして急にそんなことを言い出したのか。
「…どういうつもりだ?」
「そんなに警戒されなくとも、深い意味はありません。強いて言うなら、私はすでにこの件に関わってしまっているので、今更引き返しようがないのですよ」
「関わっているだと?」
「貴方を攫った男に姿を見られていますからね。別荘に貴方がいないことに気付けば、連れだしたのが私だとすぐに知れるでしょう」
「平気だろう。おまえが来たときにはあいつはもう依頼人とやらを連れに行ってたぜ?」
「いいえ。意識のない貴方を抱えた彼が別荘に入る時、彼は私に笑いかけましたから。私の尾行に気付いていながら何もしなかった理由はわかりませんがね」
その言葉に新一は瞠目した。
(なんだって…!)
それでは、すでに自分はキッドを巻き込んでしまっていたと言うのか。
新一は顎に手をかけて深い考えに沈んでいった。
黒の組織を潰したときも、頼んだ覚えはないが手を貸してくれた相手だ。できることならこれ以上自分の問題に巻き込みたくない。ただでさえもう充分に関わりを持ってしまっているのに、これ以上また面倒事に巻き込むようなことになるなんてと、あの時のこのことキッドに連れ出されてしまった自分に歯がみした。
連れ出されていなければキッドが助けに来ることはなかった。助けに来なければあの男にその姿を見られることもなかったのに。
新一の思考を読みとって、キッドはそれをうち破るかのように言った。
「私を巻き込んだなどと思っているのなら、それは思い違いですよ」
「――え?」
「巻き込まれたわけじゃありません。自ら飛び込んでいった者の責を貴方が感じることはない…そうでしょう?」
「だけど、もしあの男の矛先がお前に向いたりしたら…あいつは殺し屋なんだぞ」
「それこそ、ご心配なく。今更この命を狙う輩がひとりふたり増えようと、大した問題ではありません。それに伝説には興味ありませんが、貴方にはあるんですよ。私がこの問題に関わるのは自業自得。嫌だと言ってもすでに私の好奇心は貴方へ向けられてしまいましたよ」
クスクス笑うキッドの声が勘に障る。
キッドが言うように好奇心や興味で終えてしまえるほど、これは簡単な問題ではないのだ。
相手は殺し屋。すでに幾度となく懸けてきた命を、彼はまた懸けなければならない。
それなのに戯けて話す相手に腹が立って、新一は椅子から勢いよく立ち上がるとキッドの胸ぐらを掴み上げた。
「冗談言ってる場合じゃねえんだぞ!」
「誰が冗談で命を懸けるんです」
「遊びじゃないんだっ、関係ない奴が出しゃばるんじゃない!」
「――貴方が心配して下さるほど、私の命は大事ではありませんよ?」
その途端、新一は怒りに顔を歪めて、瞳に哀しげな色を浮かべた。
興奮した所為だろうか、瞳の奧にあの炎を見た気がする。
キッドはわかっていた。突っ張ってはいるけれど、結局のところ新一はキッドの身を心配しているのだ。彼は自分以外の命が自分のために犠牲になることをこの上なく嫌う優しい探偵だから。人の死を多く見てきた彼だからこそ、たとえそれが殺人鬼だろうと強盗犯だろうと、消えていい命など決してないのだと知っている。
だからこそ、惹かれている。
「……失くなっていい命なんてあるわけねえだろ…ッ」
低く吐き捨て、新一はキッドから手を離すとくるりと背を向けた。
その後ろ姿を、キッドは笑みを浮かべながら見つめている。
(相変わらず甘いこと言ってら…)
たとえ甘いことであってもそれを望まずにはいられない。どうしようもないのはそんな探偵に惹かれている自分の方だと、苦笑をこぼした。
「とにかく、絶対にお前の力なんか借りねえからな! 勝手に関わるんじゃねえ!」
新一は背中越しにそう怒鳴ると、そのままリビングを出ていこうと憮然とした足取りで歩き出した。
けれど、ドアまで辿り着く前に突然襲ってきた発作に胸を締め付けられ、あまりの痛みに顔が歪んだ。
(な…っ、こんな、時に…!)
こんな弱味は決してキッドに見せたくない。だから新一は敢えて悲鳴を上げる心臓を無視し、普通を装ってノブに手をかけた。
痛みにどうにかなってしまいそうだ。ノブを握る手に力がこもり、扉がギシギシ言うのがわかる。けれど、それがわかったところでこの持て余した力をどうすることもできず、新一はただ耐えるように力を込め続けた。
名探偵も意地っ張りだな。
そんなことを思いながら出ていこうとする彼の背中を無言で見つめていたキッドは、ノブを掴んだまま動かなくなった新一を不審そうに見遣った。
一向に動こうとしない新一にどうかしたのかと声をかけようと椅子を立ち上がった時、新一の体が崩れるように倒れ込んだ。右肩を扉に強か打ちつけ、体を縮めてずるずると床に落ちていく。
キッドは慌てて走り寄ると、新一の体を支えるように抱え上げた。
「名探偵! どうした、大丈夫か!」
新一が両手で掴んでいるのが胸であることを見て、心臓に何かあることに気付いた。
そういえば弛緩剤を打たれたと言っていた。あれがもし弛緩剤でなかったとしたら……
「おい、しっかりしろ! どうしたんだ!」
いくら叫んでも新一はただ苦しそうに胸を掴み続けるだけだった。握る手には多分力がこめられ続けているのだろう、血が滲み出す。苦痛に歪んだ表情と丸まった体が小刻みに震える様子が、その痛みの凄まじさを物語っている。
これ以上掴んでいては手の怪我まで悪化してしまうと、キッドは新一の手を自分の手で掴んだ。すると、その華奢な体のどこにそんな力があるのかというくらい強い力で握りかえされ、その痛みにキッドは思わず顔を歪めた。
やがて、それまで堅く瞑られていた瞳を開き、新一が睨み付けながら苦しげに口を開いた。
「俺…を、…助ける気が、あるならっ、……隣り…へ…!」
呼吸の合間に紡がれる途切れ途切れの言葉を読みとってキッドが頷くと、新一はそのまま意識を手放した。
開かれた瞳には蒼い炎が輝いていた。今はもう再び瞼の奧に隠されてしまっている。自力で抑える余裕もないほど激しい痛みだったのだろう。
キッドは掴んでいた手を離すと、すぐさま隣りへと駆け込んだ。
いつでも冷静沈着でクールなはずの怪盗が、変装するのも忘れて白装束のまま……
「ふん…。野郎、逃げだしやがったか」
後ろで煩く罵り倒す喧しい客は意識の外へ放り出して、男は愉しげな笑みを浮かべた。
新一を部屋に放置すると男はそのまま依頼人を迎えに車を出した。けれど依頼人を連れて帰ってきてみれば、すでにそこに新一はいなかった。
或いは逃げ出すかも知れないとは思っていた。薬は確実に自分が帰ってくるまで充分に効いているはずだったけれど、あの子供ならもしかして、と。
予想通り消えてしまった子供に堪えようもなく笑いが込み上げる。
「全く、殺し屋が聞いて呆れる! あのアレスともあろう者が、こんな簡単な依頼もこなせないとはっ!」
と、唐突に耳に入ってきた雑音に、アレスと呼ばれたその男は軽く目を細めた。
「五月蠅ぇよ。二度と叫べないようにしてやっても構わねえんだぜ?」
嘲るような笑いと共にかけられた冷ややかな言葉に、もうひとりの男は凍り付いた。
冷や汗を体全体から流し、震える手をぎゅっと握りしめる。
「悪かった…。だが、君が依頼をしくじったのは初めてだ。些か動揺しても仕方あるまい」
「そうだ、初めてだ。今まではきっちりやってきてやっただろう?」
「だが、肝心のあの子供が居ないのだから、依頼料を払うわけにはいかない!」
「へえ? 随分と冷てえじゃねえか」
「と…ッ、とにかく! あの子供を連れてきたら約束の金は払おうじゃないか!」
目の前の卑小な男も報酬も、アレスにとっては別段どうでも良かった。すでにアレスの興味はあの子供――工藤新一へと変わっていたのだから。
だが、依頼料を頂けないとなると面白くもない。
「ま、そのうち連れてきてやるさ。まだまだリストには沢山いるんだからよ」
アレスの手にあるのは、何枚あるかわからない分厚い書類。すでに多くの名前の上には取消線がある。無事に帰った者もいれば、或いは……
何しろ、彼の気に入る人間など極めて少ないのだから。
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