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promised clover




「――…って、知ってたか?」

翻る白いマント。
どこか寂しげな眼差し。
そして、風に揺れるクローバー。

探偵はその言葉に自分の全てを懸けた。



「いつか真実を手に入れたら、この始まりの地で、きっと――…」




promised clover

― 枯れない約束 ―





 街を彩る赤と緑、ショーウインドウに並べられたポインセチア。
 陽気な音楽にどこか浮き足だった人々。
 どこもかしこもクリスマス一色に染まったこの日、12月24日に、新一はひとり浮かない顔で窓の外を眺めていた。

 ここ数年続く暖冬のせいか、今年はまだ一度も雪を見ていない。
 今日も今日とて雪などとても降りそうにないいい天気で、残念ながらホワイトクリスマスにはなりそうになかった。
 新一にしてみれば、寒くなくていいじゃねーか、なんて現実じみた感想しか持ち合わせていないのだが。
 所詮探偵なんて現実主義者でなければなれないのかも知れない。

 そんな下らないことを考えていると、子供たちのひどく浮かれた声が聞こえてきた。

「サンタさん、今夜来てくれるんだよね♪歩美、逢ってみたーい!」
「でも、夜遅くまで起きてる悪い子のところには来てくれないんですよね…」
「バーカ、サンタを見るよりプレゼント貰う方が大事に決まってんじゃねーか!」
「…元太君はどうせうな重でもお願いしたんでしょう」
「光彦君はなにをお願いしたの?」
「僕はですね…」

 くすりと、新一は思わず笑みを漏らした。
 サンタクロースが存在すると信じている子供たちが微笑ましかった。
 そう言えば自分は何歳頃までサンタクロースの存在を信じていただろうか。
 両親も自分も無信教だが、お祭り好きの彼らがこんなおいしい行事を放っておくはずもなく、幼気な子供相手に随分手の込んだ芝居を打たれたものだ。
 その懲りすぎた演出のせいで、不自然さを感じた新一は自力で犯人、もといサンタに扮した父親を突き止めてしまったのだが。
 小学校に上がる頃にはもうサンタに関する世間一般の認識を理解していた気がする。
 今思っても、なんとも可愛げのない子供だった。

「――コナン君?」

 と、不思議そうに自分を覗き込んでいる歩美に気付き、新一は慌てて体を引いた。

「な、なに?」
「どうかしたの?ずっと呼んでるのに、コナン君全然気付いてくれないんだもん」
「あはは…ちょっと考え事してて…」

 笑って誤魔化しながら、心中で舌打ちする。
 そうだ。
 今の自分は工藤新一ではない。
 江戸川コナンという、小学一年生の子供なのだ。

 小さくなってすぐの頃こそ慣れない名前に反応できないこともあったが、今ではもうすっかり慣れたはずだった。
 それが、最近になってまた、自分がコナンであることを忘れてしまいそうになるようになった。
 原因は分かっている。
 ――〝彼〟が、あまりに普通に接するから。
 だから、まるで工藤新一に戻ったような錯覚を起こしてしまうのだ。
 この手もこの足も、何もかも〝彼〟とは釣り合わない姿のままだと言うのに。

「ねぇ、コナン君はサンタさんに何をお願いしたの?」

 歩美の質問に、元太や光彦も興味深そうに聞き耳を立てている。
 普段クールで大人びている江戸川コナンの欲しいものとは何か、みんな気になるのだろう。
 けれど、新一はそんな彼らの期待に応えず、軽く肩を竦めながらつまらなさそうに言った。

「俺は何ももらわねぇよ」
「えー!なんでっ?」

 素直に驚きながら歩美が詰め寄る。
 コナンはもらわないんじゃなくてもらえねんだよな、などと元太が嬉しそうに茶化すが、あながち外れてもいない。
 新一にしては珍しく、どこか自嘲めいた笑みを浮かべながら言った。

「…欲しいものがないだけだよ」

 人から与えてもらって満足できるような温い願望など持ち合わせていない。
 あるのは、身も心も灼け焦げて、悪くすれば命すら危ぶむような切望だけ。

 だから、この日に願うことはただひとつ。

 ――奇跡。

 それこそが、今最も新一の必要としているものだった。



 居候している毛利家には寄らず、新一は真っ直ぐ阿笠邸に向かった。
 以前は小学生から束の間高校生に戻れる息抜きの場所として訪れていた阿笠邸だが、今ではここに来ない日の方が少ないくらいだ。
 その理由は、同級生の灰原哀の様子を見に来るためだった。

「あいつは?」
「相変わらず、地下の研究室にこもりっきりじゃよ」

 迎えに出てくる阿笠博士の表情を見れば聞くまでもないことだとは思いながらも、新一はいつもと同じ質問を繰り返す。
 それに対する博士の返答も代わり映えのしないものだった。

 新一は博士と二、三言葉を交わし、地下の階段を降りた。
 以前は博士の研究室だったそこは、いつの間にか哀の研究室に変わっている。
 組織の研究室ほど充実した設備はないが、哀はこの研究室でAPTX4869の解毒剤の開発を行っていた。
 けれど、近頃の彼女が地下にこもりきっている理由は他にあった。

 ドアノブの回る音が微かに響く。
 こちらの存在にはとうに気付いているだろうに、だからこそだろう、哀は振り返ろうともしない。
 新一も特に気にすることなく、一週間前と比べてずっと散らかった室内を見回した。

 哀はここ数日間ずっと学校を病欠していた。
 理由は風邪。
 けれどそれは阿笠が学校側に対する言い訳として言っているだけで、実際はこの通り四六時中パソコンに向かいっぱなしなのだ。
 まるで何かに取り憑かれたように研究に没頭している。

「あまり根詰めすぎるなよ」

 溜息とともにもれた囁きに哀の肩がぴくりと揺れた。
 けれどキーボードを打つ指が止まったのも一瞬で、すぐに再開すると、哀は突慳貪に言い放った。

「…放っといて」
「顔色悪いぞ。ちゃんと寝てないだろ。おまえがそんなだから博士も心配して…」
「――そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょう!?」

 小さな拳を思い切り叩きつけ、哀は立ち上がりざまにこちらを振り仰いだ。
 反動で椅子が転がるが、そんなものはどちらの気にも留まらなかった。
 憎しみすら込められているような哀の瞳を、新一はただ静かに見返している。

「怒るなよ」
「…っ、わかってるわよ。これはただの八つ当たりだわ。責められるべきはあなたじゃなく、私だもの」
「…そういうことを言ってるんじゃない」
「いいえ、私にはそれだけよ」

 下唇を噛み締め、椅子を起きあがらせると、哀は何事もなかったかのように再びパソコンに向き直った。

 彼女が素直に言うことを聞くようなたまじゃないことは分かっていたが、予想と全く違わない反応に、新一は再び出そうになった溜息をすんでで堪えた。
 毎日似たような遣り取りを繰り返せばこれぐらいのことは新一でなくとも容易く予想できるだろう。
 哀は普段はクールに見えて、一度自分を見失うと手がつけられなくなる。
 とは言え、放っておけば彼女はいくらでも無茶をするだろう。
 ただでさえこの一週間必要な睡眠を摂っていないのに、これ以上無理をすると言うのなら、こちらも別の手段に訴えるしかない。

「…大丈夫なの」

 と、届くか届かないか微妙な囁きが聞こえ、新一は苦笑を浮かべた。
 切り捨てたはずの罪悪感が少しだけ顔を覗かせる。

「この通りさ。そんなに焦らなくていい」
「…いいえ」
「少し寝ろよ」
「いいえ、嫌よ。まだ何も――っ」

 ――…何も。
 その先の言葉は紡がれることなく、哀のキーボードを打つ手が崩れ落ちた。
 脳が事態を認識する間もなく意識が眠りにつく。
 支えのなくなった体が机にぶつかる寸前、差し出された手がしっかりとその体を受け止めた。
 その左手首には、照準器の開いた腕時計型麻酔銃。
 哀の首には麻酔針が刺さっていた。

「悪ぃな、灰原…」

 でもおまえには感謝してるんだぜ?

 細い腕で、それでも新一は哀の体をしっかりと抱き上げた。
 一週間以上も食事や睡眠をまともに摂らなかった人間の体など、コナンの姿でも容易く抱えられる。
 もともと細かった哀だが、今では病的なほどに痩せてしまっていた。

「あ、哀君!?どうしたんじゃっ」

 昏睡している哀を抱えて階段を上がっていると、心配で様子を伺っていたらしい博士が慌てて駆け寄ってきた。

「心配いらねーよ。言っても聞かないから、麻酔で眠らせたんだ」
「そ、そうか…わしゃてっきり過労で倒れでもしたのかと…」
「大して変わんねーよ」

 普通なら一時間も経たないうちに切れるような麻酔だが、疲れ切った今の哀では目が覚めるのに少なくとも五、六時間はかかるだろう。
 それでも全然足りないくらいだが、その間に少しでも休息を取ってくれればいい。
 どうせ目が覚めたら疲れ切った体に無茶を言って再び地下にこもってしまうのだから。

 博士と二人で哀をベッドに寝かせると、新一は阿笠邸を後にした。
 いつもならこのまま毛利探偵事務所に向かうところだが、今日は違った。
 下手に痕跡を残さないためにとあまり上がらないようにしていた自宅に、新一は入っていった。
 人が住まなくなって久しい屋敷には埃っぽい空気と冷たい空気が充満している。
 その中を、新一は自室へと向かった。

 ベッドには、あの日――幼馴染みの毛利蘭とトロピカルランドへ行った日と同じシーツがかけられている。
 無地に近い薄い水色のシーツ。
 その上にそっと腰掛け、新一は握りしめていた右手をゆっくりと開いた。

 赤と白のカプセル。

 あの薬と同じ形なのは哀の自責の念の現れだろうか。
 このたった一粒を造り出すのに、どれほどの労力と苦痛を彼女は噛み締めてきたのだろう。
 その、小さな少女の思いがぎっしり詰まったカプセルの重みに、新一はきつく瞼を閉じた。

 …目を覚ましたら、きっと彼女は怒るだろう。
 否、怒るなんてものでは済みそうもない。
 きっとそうされるのが一番苦手なのだとも知らずに、泣いてしまうかも知れない。
 それでも新一がこうしてここにいるのは、他ならぬ自分の心が決めたことだからだ。
 他の何を捨て置いても、これだけは譲れないのだと気付いてしまった。
 だから。

「…後は頼んだぜ、博士」

 目を開く。
 口許に笑みを掃く。

 躊躇いはない。
 後悔もしない。

 あるのはただ、覚悟と切望だけ。

 こくりと飲み下されたカプセルが、やがて心臓を灼き尽くすような熱を生み出した。





 冴え渡る真冬の空気を切り裂いて、まるで鳥のようにうまく風を捉えながら、怪盗は縦横無尽に夜空を舞った。
 今夜も難なく手に入れた獲物が懐に微かな重みを与えている。
 何もこんな日に予告しなくてもいいじゃないかと、家族や恋人のいる多くの関係者様方から恨みを買いそうだが、それはお互い様だ。
 キッドだとて、24日と25日の限定公開のビッグジュエルさえ来日しなければ、今日のこの日に予告を出そうなどとは思わなかっただろう。
 そうすれば、今頃は幼馴染みの少女が張り切って準備していたクリスマスパーティでご馳走にありついていたかも知れない。
 だが、怪盗の表情は曇るどころか喜びに満ちていた。

 いつもいつも奇抜な方法で逃走する怪盗を追ってこられる者はいない。
 けれど、いつだって怪盗が気紛れのように羽を休めるその場所に、彼はいるから。
 彼に逢えるのだと思えば、イブの犯行もさして悪くないと思えるほどには、怪盗は彼のことを気に入っていた。

 小さな体に大人びた双眸。
 犯罪者を前に少しも引けを取らない、あの気迫。
 子供は、自らを江戸川コナンと名乗った。
 けれどその正体が現在行方不明中の高校生探偵、工藤新一であることをキッドは知っていた。
 きっかけなんてない。
 強いて挙げるとすれば、それは少年と目があった瞬間、それこそが彼が工藤新一であると気付いた瞬間だった。

 あんな目を持つものがこの世に二人といていいはずがないのだ。
 あんな、魂を根こそぎ奪っておきながら、それでも足りないとばかりにこの心を激しく揺さぶる眼差し。
 彼はキッドが唯一認めた人間なのだ。
 無条件で大切に思う父や母、幼馴染みとは別に、自分と対等に立っていられる存在。
 それが、工藤新一。

 キッドは迷うことなく目的地へ降り立った。
 そこに小さな探偵がいるのは当前だと疑いもせずに。

 ――けれど。

「遅かったな、キッド」

 いつものように背後から声を掛けられ、振り向いたキッドの視線の先にいたのは――工藤新一だった。
 この寒空の下、大して着込みもせずにマフラーひとつで平然と立っている。
 驚きのあまり声のでないキッドに、新一はなんの気負いもなく軽く右手を持ち上げてみせた。

「この姿でおまえに会うのは初めてだな。
 初めまして、怪盗キッド。工藤新一、探偵だ…」

 杯戸シティホテルの屋上での邂逅のように、新一はキッドに負けない不敵さで挨拶をしてみせる。
 どこか自分と似た面差しの彼とちゃんと対面したのは、これが初めてだった。

「め、いたんてい、…いつの間に元に…?」
「ああ、ついさっきだ」
「さっきって…」

 新一はなんでもないことのように言うが、彼が元の体に戻れば工藤新一が生きているとばれ、下手をすれば組織に見つかる可能性もある。
 彼のことだから何かの理由があってのことだろうが、そんな体でふらふら表を出歩けば彼らに見つけて下さいと言っているようなものだ。
 それに――…
 過去、新一が何度か元の体に戻ったことがあるのは知っているけれど、それが彼の体に多大な負荷を与えているのは明らかだった。
 新一は以前、自分でその時のことを、全身の骨が熔けて心臓が灼けるような痛みだと話してくれたことがある。
 その時はことのついでのような口調だったけれど、強がりな彼がそんな風に言うのだから余程のことなのだろうとキッドは思った。
 確かに、奇跡のような偶然で戻ってしまったこともあった。
 けれど今の新一の口調はまるでそのことを予期していた者のそれだ。
 なぜ新一はそんな危険を冒してまで元の体に戻ったのか。

 けれど、そのことを問い質す間もなく新一は話を進めた。

「今日は用事があって来たんだよ」
「用事?」
「ああ。じゃなきゃ、誰もこんなイブの夜に来やしねぇよ」

 自分で勝手に来たくせに、新一はうんざりしたように溜息を吐く。
 それに茶々を入れる余裕もない怪盗に気付き、新一は口調を改めると静かに告げた。

「…できるなら、もっとこう、気の利いたシチュエーションでと思わなくもなかったんだけどな」

 そう言った苦い笑みが妙に胸をざわめかす。
 黒っぽい服を着込んだ彼。
 コートも羽織らず、マフラーひとつで佇む彼。
 まるで吹き抜けていく風にこのまま吹き飛ばされてしまいそうな、或いは夜の闇に消えてしまいそうな、そんな儚さをキッドは感じた。

「思ったより時間はないらしい」

 それは一体どういう意味なのか。
 彼も自分も組織に命を狙われるという危険な立場ではあるけれど、それは今も昔も変わらない。
 何か彼を追いつめるような事態が起きているのか。
 だがキッドが入手している組織の情報では彼らにそんな動きは見られなかった。
 では、何が彼を急き立てているのだろうか?

「こんな状況で口にするのは卑怯かも知れない。でも、どうしても嫌だったんだ。何も言わずに、何もせずに終わるのだけは」

 終わるって、何が終わるんだ。
 干涸らびた喉が引きつって声にならない。
 なぜだろう、この先を聞いてはいけないような気がする。
 まるで、今まで築いてきたもの全てが崩されてしまいそうな感覚。

 聞きたくない。
 キッドは耳を塞ぎたくなった。
 彼が何を言おうとしているのか、本当は頭のどこかで気付いていた。
 だからこそ、聞きたくない。
 でも、だからこそ、聞かずにはいられない。

「キッド、俺はおまえのことが――…」



「駄目よ!!」

 飛び起きた哀は、はあはあと短い呼吸を繰り返しながら何もない虚空へと手を伸ばした。
 当然、掴みたかったものはその手の中にはなく、ただ虚しく空を掴む。
 哀はすぐに現状が呑み込めず、暫く呆然とその手を見つめていた。
 ここはどこだろう。
 なぜ自分はこんなところにいるのか。
 やがてここが見慣れた阿笠邸の寝室だと言うことに気付き、哀は漸く状況を理解した。

「…やられたっ」

 哀の記憶は新一との会話の最中でぷつりと切れている。
 一瞬で強制的に意識を失わせる方法など、そういくつもない。
 博士が彼のために作ったあの麻酔銃を使われたのだ。

 哀は泣きそうな顔で下唇を噛み締めると、すぐさまベッドから飛び降りた。

「あ、哀君!まだ寝てた方が…」

 様子を見に来たらしい博士が擦れ違い様に声をかけるが、哀は返事も返さず地下の研究室へと駆け込んだ。
 そのまま一目散にデスクに向かい、鍵の掛けてあった引き出しを引いた。
 開けた覚えもないのに、抵抗なく引き出されたそれ。

「やっぱり持ち出されてる…!」

 予想通り、そこに保管していたはずのカプセルはなくなっていた。
 哀は悔しさや怒りで震える指をぎゅっと握りしめた。

 なぜ。
 同じ言葉がぐるぐると頭を巡る。
 なぜ――何も言っていないのに、彼は気付いてしまったのか。

 そこに仕舞われていたのはAPTX4869の解毒剤、それも試作品ではなく完成品だった。
 何度もラットで実験し、哀が初めて完成を認めた薬。
 けれど、彼は薬が完成していることを知らないはずだった。
 なぜならそれは決定的な欠陥があるからこそ、完成を告げられなかったものなのだから。

 薬は確かに完成した。
 APTX4869の解毒剤とするならば、これ以上のものは今は存在しないだろう。
 この薬を飲めば、退化した人間の身体を元通りにすることに何ら問題はない。
 ただ、それを投与される人間の側に問題があったのだ。

 実験を行ったラットはAPTX4869を投与される以前と全く変わりない状態にまで回復した。
 細胞の増殖能力と自己治癒能力を高めさせる分、以前より頑丈になったくらいだ。
 だが、薬の投与を何度か繰り返したラットは、個体差はあるが、およそ三回から六回の実験の間に、ことごとく死亡した。
 APTX4869もその解毒剤も、変化時の苦痛を耐えうるだけの力を与えるために自己治癒能力を一時的に高めるが、何度も変化を繰り返したことによって免疫ができ、それがうまく機能しなくなってしまったのだ。
 新一は既にもう何度も成長と逆成長を繰り返している。
 自己治癒能力が機能しない状態で薬を飲めば、おそらく彼もラットと同じ結果となるだろう。
 そのことに気付いた哀は、定期検診と偽って新一の身体の状態を調べた。
 その結果は、哀にとって最悪のものであった。

 緩やかに破壊されていく細胞。
 細胞破壊を抑制するためのシグナルがうまく送られていなかったのだ。
 その上、自己治癒能力も低下し始めている。
 これではたとえ薬を投与せずとも細胞は死滅していくばかり、つまり――…。

 自分の身体のことだからだろうか、新一はうすうす気付いていたらしく、検査結果を伝えてもあまり驚かなかった。
 むしろ驚いていたのは自分や博士、そして彼の両親ばかりだった。
 それどころか彼は「すぐに死ぬと決まったわけじゃないんだから焦らなくていい」などと言ったのだ。
 哀は怒った。
 何が「焦らなくていい」だ。
 時間があるという保証などどこにあるのだ。
 いつ死ぬかも分からない淵に立たされているのは他でもない新一自身だと言うのに、なぜそんなことが言えるのだ、と。
 それでも返ってきたのは困ったような、宥めるような笑みばかりで…

「…博士、工藤君はどこ?」

 自分について地下室まで降りてきた博士に、哀は自分の手をじっと睨み付けたまま振り返らずに尋ねた。

「新一なら君を寝かせた後すぐに隣に戻ったようじゃが…」
「今すぐ工藤君を見つけてちょうだい」
「哀君?」
「説明している時間はないの!早くしないと工藤君の命に関わるわ!」

 哀の剣幕に圧され、博士は戸惑いながらも足早に工藤邸へと向かった。

 おそらくもう手遅れだ。
 あれから軽く五時間は経っているし、その間新一が薬を飲まずにただ持っている可能性はゼロに等しい。
 それに、彼の居場所を突き止めることは不可能だろう。
 引き出しに鍵を掛けなかったと言うことは、自分の犯行を隠す必要がなかったと言うことだ。
 哀が目覚め、新一の犯行に気付き、居場所を突き止めるまでの時間を考えた上で、これ以上時間を稼ぐ必要がないから彼は鍵を掛けなかったのだ。
 不可抗力とは言え、こんな時に安穏と眠っていた自分に哀は心底腹が立った。
 それでも当然納得などできるはずもなく、新一の向かいそうな場所を必死で考えた。

 そもそも彼はなぜ解毒剤を持ち出したのか。
 明日突然死ぬかも知れない爆弾を抱えているのは確かだが、言い換えれば十年二十年と生きられるかも知れないのだ。
 その間に彼が無事元の身体を取り戻せる可能性は決して低くない。
 なのに、どうして彼は死ぬかも知れない危険を冒してまで元の身体に戻ろうとしているのか。
 そうまでしてやり遂げたい何かがあったのか。
 それを成し遂げる為に薬を飲んだとすれば、彼が向かった先は――?

(…死んだら承知しないから…工藤君…)

 机に落ちた水滴を拭い去り、哀は博士の後を追った。



 がくりと膝の力が抜け、新一は引き寄せられるままに地に膝を着いた。
 息が詰まる。
 声が出ない。
 まるで喉が塞がれてしまったかのように、ヒューヒューと情けない音が聞こえるだけ。
 ぐらつく視界に逆らうこともできず、片手を地について漸く平衡を保っていられる状態だった。

「名探偵っ!」

 突然倒れた新一を心配し、怪盗が足早に駆け寄ってくる。
 普段鉄壁のポーカーフェイスを自慢としている男がなんとも情けない間抜け面を晒していて、そうさせたのが自分なのかと思うと、そんな場合でもないのに思わず笑ってしまった。

「うわ…っ、おまえ顔色悪すぎ…!」

 そりゃそうだ。
 本当は歩くどころか立ってもいられないほど、体調は最悪なのだから。
 上着を着ていないのは、寒さも感じられないほど身体が熱いから。
 きっとこれが人の体温かと疑いたくなるほど発熱しているのだろう。
 おかげでうまく頭が働かないし、気を抜けばすぐにでも気絶してしまいそうだ。
 それでも意識を手放さずにいられるのはただ、意志の力。

 本当はもう自分の身体がぼろぼろだと言うことも、本当はとっくに解毒剤が完成していたことも。
 このガラクタのような身体を今一度使い物になるようにするために哀が研究室にこもっていたことも。
 新一は全部知っていた。
 知らないふりをしていたのはただ、自分の為に無茶をする彼女に掛ける言葉を見つけられなかった自分から逃げていただけ…

 一月前に体重が激減したことも、一週間前に怪我した傷口が未だに塞がらないことも、三日前に血を吐いたことも、哀は知らない。
 解毒剤を飲むために必要な体力はもう自分には残っていない。
 分かっていた。
 分かっていながら、それでも新一は薬を飲んだ。
 なぜなら、新一にはどうしてもやっておきたいことがあったから。
 それは組織を潰すことよりも、幼馴染みにただいまを言うよりも、もっとずっと馬鹿げていて、もっとずっと大事なこと。

 平成のホームズとまで言われた探偵の、一世一代の大舞台。

「キ、ド…」

 呼吸の合間に切れ切れになりながらも彼の名を呼べば、キッドは今にも泣きそうな表情を惜しげもなく見せた。
 以前汐留のビルの屋上からわざと転げて見せた時も、彼は新一の演技に引っ掛かって、本気で心配しながら後を追ってきてくれた。
 それだけではない、雪山で高熱に倒れた時も、炎に呑み込まれそうになった時も、いつだって彼はそうと分からないようこっそりと自分を助けてくれた。
 犯罪者のくせに憎めないやつ。
 その程度の認識だったのが、いつの間にか信頼し、どこか尊敬にも似た念を抱いていた。
 そう、彼のためならこの命をやってもいいと思えるくらい、自分は彼のことを――

「おまえ、凄い熱じゃねーか!」
「バーロ…んな心配そうな面してんじゃねーよ…。心配しなくても、用が済めばすぐ帰るから…」
「けど、名――」

 言いかけた言葉の先を奪うように、新一は思いきり咳き込んだ。
 右手を地面につきながら左手で口元を押さえる。
 ぬるりとした嫌な感触が手に触れたと感じた次の瞬間には、抑えきれなかった血がぼたぼたと滴り落ちた。

 キッドが目を瞠る。
 漸く事態が呑み込めたようだ。
 彼は新一同様、一を聞いて十を知る男だ。
 新一が今どういう状態でなぜ元の身体に戻りこの場へ現れたのか、おそらく気付いてしまったに違いない。
 責めるように見つめる瞳がその証。

「…おい、」
「――いいから聞け、キッド」

 手の甲で血を拭いながらぴしゃりと言い放つ。
 時間がないのだ。
 次はもしかしたらないかも知れない。
 だから、どうか、今は黙って聞いてくれ。

「いいか、キッド。疑うんじゃねえぞ。他の誰が疑っても、おまえだけは疑うな」

 たとえ世界中の誰ひとり、おまえのことを認めてくれなくても。

「この俺が、おまえを信じてる。」

 キッドの顔が歪む。
 それは怒っているようにも、馬鹿にしているようにも、…今にも泣き出しそうにも、見えた。

 哀に自分の身体の状態を知らされた時、真っ先に頭に浮かんだのは彼のことだった。
 自分と同じように秘密を抱え、その秘密に押し潰されそうになりながら気丈に笑ってみせる、馬鹿な怪盗。
 探偵と怪盗という立場でありながら、自分と彼とはひどく似た存在だった。
 初めは傷の舐めあいだったのかも知れない。
 それでも彼がいたからこそ、抱えきれないはずの秘密を抱えて立ち続けることができた。
 そう気付いた時、ふと思ったのだ。
 自分が消えれば彼はどうなるのだろう。
 気丈な彼のことだ、素知らぬ顔で相も変わらず不敵な紳士を演じ続けるかも知れない。
 或いは哀しみに暮れながら、愚かな探偵の仇を討つか。

 けれど、なぜか彼は壊れてしまうような、そんな気がしたのだ。
 気丈に振る舞う彼の内側が、子供の心のように脆く壊れやすいことに気付いてしまったから。

 だから自分は今夜ここへ来ることを決めた。
 幼馴染みも、両親も、友人たち、全ての守りたかった人たちを置いて、ただ彼に逢うためだけに。
 そして、心底そうして良かったと思っている。

「頼むから、そんな泣きそうな顔、しないでくれ…」

 そんな顔、おまえには似合わねーよ。
 いつか逢えたかも知れない本当の姿になら、似合うのかも知れないけれど…

「おまえのことが…好きだったよ……怪盗、…キッ、……」



「工藤ォ――――っ!!!」



 夜の東都をけたたましいサイレンの音が走り抜ける。
 それは医者も、警察関係者も、報道陣も叩き起こして、日本中の人々を震撼させた。
 行方を眩ましていた探偵が、24日の夜、米花中央市民病院に運び込まれたのだ。

 哀がその病院へ駆けつけた時、手術室の前のベンチにはひとりの少年が座っていた。
 両膝を立て、その膝の間に頭を埋めるようにして座っている、まだ年端もいかない少年。
 彼が誰なのか哀には分からなかった。
 だが幼馴染みの彼女がまだここにいないということは、彼こそが、新一が死ぬかも知れない危険を冒してでも逢いたかった相手に違いなかった。

「あいつ、血ぃ吐いたんだ」

 あちこちに跳ねた髪が揺れ、少年が昏く翳った眼差しを向けた。
 こちらに気付いていたのかと、哀は何も映さない、ただ虚空を見つめるような虚ろな瞳を見返した。
 寒気を感じるのはなぜだろう。
 ただ視線が合っただけなのに、近寄りがたいこの空気は何だろう。
 彼は一体何者なのか。
 哀がこくりと喉を鳴らすと、少年は獰猛な獣めいた目で哀を睨み付けながら言った。

「…あんたなんだろ?あいつの身体、こんなにしたのは…」

 ドクリと、嫌な鼓動が鳴る。
 彼は何を言っているのか。

「あいつ、信じられないくらい軽かったんだ…多分、臓器のいくつかがちゃんと元の大きさに戻らなかったんだろう。今頃医者は、あいつの腹の中の異常な光景に驚いてるだろうな…」

 そう言って、口の端を歪める少年。
 哀は確信した。
 彼は工藤新一が江戸川コナンであったことを知っている。
 そしておそらく、新一の身体を小さくした薬の制作者が自分であることも。

「あなた、誰なの?なぜ彼のことを知ってるの?」

 新一の正体を知っているのは哀を含めてもたった五人しかいないはずだ。
 そして彼らの全ては新一と親しい者だった。
 だが、目の前の少年を哀は見たことがない。
 しかもただ目が合っただけで寒気を感じるなんて、普通の人間相手ではありえないことだ。

 すると少年は押し殺したような声で、

「…あまり関わらない方があんたの身のためだぜ」

 とだけ言うと、再び膝の間に頭を埋めてしまった。

 射殺すような視線が隠れ、哀は思わず詰めていた息を吐く。
 哀にはまるで彼の吐息ひとつがあのジンのように怖ろしく感じられた。
 けれど、ここで引くわけにはいかない。
 彼が何者なのか、哀は知っておかなければならない。
 まさかとは思うが、彼が組織の関係者でないとは言い切れないのだから。

「…誰なの」

 カツンと、靴音が響く。
 まるでそれだけが唯一の音のように、乾いた空気を震わせる。
 少年は顔を埋めたまま、ぴくりとも動かずにくぐもった声を返した。

「…来るな」
「答えて。あなたは何者なの」
「…それ以上近寄るな」
「いいえ、答えてくれるまで引き下がらないわ」
「…やめろ…」
「あなたは一体、」

「――来るなっつーのが分かんねえのかっ!!」

 気付いた時には、哀の身体は壁に押し付けられていた。
 息が詰まる。
 それもそのはずで、哀の細い首を締め付けるように、少年の腕がぎりぎりと押し付けられていた。
 真っ直ぐに睨み付けてくる目はまるで獣のようだ。
 漸くまともに見た少年の顔は、どこか新一と似た面立ちをしていた。

「あいつは一度だってあんたを責めなかった。でも、俺は違う。もしあいつが死んだりしたら、俺はあんたを許さない…!」

 その声が、震えていたからだろうか。
 その顔が、今にも泣き出しそうだったからだろうか。
 哀は抵抗することも忘れ、ただ――泣いていた。

 苦しかった。
 こんな状況になっても誰ひとり自分を責めてくれないことが、ずっと苦しかった。
 新一がこんな身体になってしまったのは、他でもない自分が作り出した薬の所為だと言うのに。
 新一はもちろん、彼の両親ですら哀のことを責めなかった。
 それどころか、新一の身体を救うことができるのは君だけだからと頭まで下げられて…
 だから、真っ直ぐ新一のことだけを想い、それゆえに向けられる彼の憎しみの感情が、哀にとってはただひとつの救いのように感じられた。

 けれど締め付けていた力が不意に弱まったかと思うと、少年は哀の身体を解放した。
 急に入り込んだ酸素に肺が吃驚して軽い痙攣を起こす。
 哀はげほげほと咳き込みながら、涙の滲んだ目で少年に尋ねた。

「どうして…?」

 なぜ殺さないのかと、むしろ責めるように見つめる哀に、少年は視線を逸らしたまま呟いた。

「…だって、あいつが言ったんだ」

 ――疑うな。
 たとえ、世界中の誰ひとり、おまえのことを認めなくても。
 たとえ、おまえ自身がおまえのことを信じられなくなっても。
 忘れるな。
 思い出せ。
 どこにいても、何が起きても。

「あいつが、俺を信じてくれるって…!」

 少年の手が再び哀の身体に伸びた。
 けれどその手は哀の首ではなく、哀の背中へとまるで縋るように回されたのだった。

「工藤…死んじゃったら、どうしよう…っ」

 哀の身体を抱き締めながら、少年は声を張り上げて泣いた。
 それまで涙ひとつ流さなかった頬にとめどなく雫が伝う。
 冷たく張りつめていた空気などどこかへ消え失せ、そこにはただ子供のように泣きわめく少年がいるだけだった。
 哀は少年を抱き締めることも突き放すこともできないままただ立ち尽くした。

 彼が何者かなど、もうどうでも良かった。
 哀だとて元は組織の科学者なのだ。
 たとえ彼が組織の関係者だろうと、新一のことを本気で気に掛けている彼をこの場から放り出す権利など哀にはない。
 ただ、彼にも負けない声で叫ぶのだ。

(どうか、彼を私たちから取り上げないで…!)

 望むものはただひとつ。
 あの日死ぬはずだった彼の命を引き留めた奇跡を、どうかたったもう一度だけ――


 バン、と。
 唐突に扉が開いた。
 医者と看護婦がぐるりと囲ったベッドを大慌てで引いて行く。
 看護婦のひとりが何か言っている。
 聞くことを拒否した脳が、唇の動きを読み取った。

 コチラデハ工藤サンノ充分ナ治療ガデキナイノデ、大至急別ノ病院ニ移シマス。

 唇が微かに動き、何かを呟く。
 そんな、と言ったつもりだった。
 頭が働かない。
 耳鳴りがひどい。
 何も聞こえてこない。

 もう何も、聞きたく、ない。



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