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promised clover




「少しは休んだらどうなの?」

 顔を見せるなり開口一番にそう言った女性に、快斗は苦笑を返した。

「休むも何も、まだ何もしてないし」
「これから舞台なんでしょ?ここ暫く公演続きで休みなしだったんだから、少しは横になりなさいって言ってるのよ」
「心配してくれてありがと、志保ちゃん」

 持ってきた花を花瓶に生けながら、志保は素っ気なく「どういたしまして」とだけ返した。

 ここは、今夜これから行われる黒羽快斗のジックショーの控え室だ。
 開幕前のステージ裏はファンからの贈り物とメッセージカードで溢れ返っている。
 その中にぽつりと置かれたパイプ椅子に腰掛けていた快斗に、関係者として志保が応援に駆けつけたのだ。
 快斗は素直に喜んだ。
 あの日以来、志保は快斗の掛け替えのない理解者となっていた。

 そう、今日は12月24日――クリスマスイブなのだ。
 あの日から、もう三年が過ぎた。

 高校を卒業した快斗は大学には行かず、マジシャンとしての道を着実に歩んでいた。
 ずっと続けていた危険な副業からは、一年前にFBIが組織の一斉検挙に成功して以来、手を洗っていた。
 志保は組織壊滅後に自ら精製した解毒剤で元の姿に戻り、現在は阿笠博士の助手として研究を手伝う傍ら、医師免許を取得した。

 全てはあの日から変わってしまった。
 だが、今も変わらない想いを、快斗も志保も心の奥底に抱えている。

「…凄い数のプレゼントね」
「ああ…俺の分と、あいつの分まであるからね」

 そう言って静かに笑う快斗に、志保はかける言葉を見つけられなかった。

 快斗はマジシャンになるという夢を叶え、志保は組織の影に脅える必要のない生活を手に入れた。
 けれど、本当の望みは叶えられなかった。
 本当に側にいて欲しい人はいつもここにいない。
 それどころか、この世のどこにももう彼はいなかった。

 三年前の今日、彼は静かに眠りについた。
 アメリカの病院に移送された彼は、そのまま目覚めることはなかったという。
 それでも未だに彼の存在を忘れられない世界中の人々から、この日には数え切れない贈り物が届けられる。
 たとえ受け取る相手がいなくても、無駄になるだけだとわかっていても。
 多くの人々が彼のために、そして彼のことを想い続けるマジシャンに、祈りを込めたプレゼントを贈ってくれるのだ。

「ほんとに欲しいものがもらえるなら、子供みたいにサンタにお願いするのにな…」
「…馬鹿ね。そんなの、人に与えてもらうものじゃないでしょう」
「うん…そうだね…」

 本当に欲しいものは、ただひとつ。
 この日に願うことは、ただひとつ。

「観客が待ってるわよ。行ってらっしゃい、魔術師さん」

 こくりと頷き、タキシードの皺を伸ばすと、快斗は舞台へと向かった。
 あの頃とは正反対の漆黒の衣装を身に纏い、ステージに上がれば鼓膜が打ち破れんばかりの歓声が上がる。
 その中にぽつりと空けられた席は、まるで快斗の心に空いた穴のように虚しく映った。
 ステージ正面の特等席はいつも空席だった。

 快斗はステージの中央に立つと、右手を前に軽く片膝を曲げながら優雅にお辞儀をした。
 すると、前触れもなくどこからともなく現れては、鳩の群が一斉に飛び立った。
 開幕の合図もなしに飛び出した鳩に観客は黄色い声を上げる。
 その鳩たちによって天から降りそそぐのは、ガブリエル・ノエルと呼ばれるモスローズだ。
 淡いアプリコットピンクの花弁がまるで薄く色づいた雪のように舞い落ちる光景はひどく幻想的で、そして――もの悲しい。
 いつの間にか館内はしんと静まり返っていた。
 それどころかふわりと辺りを包み込む甘い香りに涙を流す者さえいる。

 毎年12月24日にだけ行われる、開幕前のこのマジック。
 これは、世紀のマジシャンが今は亡き探偵へ贈る手向けの花なのだ。

 初めは、この美しいマジックの意味を知る者などいなかった。
 けれどいつだったか、人気若手マジシャンの特集を組んだ雑誌が載せたモスローズの花言葉、「尊敬」と「崇拝」の文字を目にしてから、彼らはその意味を理解した。
 これはクリスマスを祝うデモンストレーションなどではない。
 探偵を尊敬していたマジシャンが、彼の冥福を祈るために花を手向けているのだと。

 静やかに開幕されたマジックショーのオープニング。
 やがてその静けさを拭い去るように鮮やかな魔法を紡ぎ出す魔術師に、観客は魅せられるまま胸を高鳴らせ夢中になった。
 そして幕が下りる頃には、開幕前のあのしめやかさを覚えている者など誰もいないのだ。



 ステージを降り舞台裏に下がった快斗は、何をするでもなくひとりパイプ椅子に腰を落ち着けていた。
 いつもならスタッフや関係者たちと打ち上げだ何だと騒がしいのだが、この日だけは快斗の楽屋を訪れる者はいなかった。
 スタッフたちも気を遣ってくれているのだ。
 マネージャーを務める寺井もこの日だけはどんな賓客も通さないようにしてくれている。
 それもそのはずだろう。
 大事な人の命日に、それでもクリスマスを祝うため、己の心とは裏腹にこの魔術師は華麗で煌びやかなマジックを披露しているのだから。

 ふと、たくさんの贈り物の中に特別豪華な花束があることに快斗は気付いた。
 何とはなしに手に取ったメッセージカードには、工藤夫妻の名前が書かれていた。

 三年前のあの日、快斗は自分の正体がばれるのも構わず、新一を連れて病院へ駆け込んだ。
 キッドの衣装こそ着ていなかったけれど、事情を問い詰められれば、それまで全く接点のなかった快斗には言い逃れできなかっただろう。
 だが、世間は探偵を看取った少年をただの古い友人だと認識している。
 三年経った今も、亡くなった親友を忘れられないただのマジシャンだと思っている。
 快斗の正体はばれなかったのだ。
 なぜなら、あの工藤優作が快斗の身元を保証してくれたから。

 優作は快斗の父、黒羽盗一のことを知っていた。
 明確には言わなかったけれど、おそらく盗一が怪盗キッドであったことも知っていたのだろうと快斗は思っている。
 だから彼は快斗のことを全面的に信用してくれたのだ。

 あれから三年も経つと言うのに、彼らは毎年必ずこの日にメッセージ付きの花束を送ってくれる。
 まるで、いつまでも死んだ者に囚われ続けている快斗を気遣うように。

 分かっている。
 彼はもういない。
 それでも、もしかしたらと思わない日は一日もなかった。
 だってこの目は見ていないのだ。
 鼓動を止めた彼を、焼かれていく彼を、この目は何も見ていないのだ。
 まるで礼儀程度に知らされた文字でしか知らないから、もしかしたらと、希望を抱かずにはいられなかった。

 なのに、どうして。
 ここに彼はいないのだろう――…

…しんいち…



 コンコン、と扉を叩かれる音に、快斗はハッと顔を上げた。
 目尻に溜まっていたものを慌てて拭う。
 スタッフの誰かだろうかと思いながら扉を開けた快斗は、そこに立っていた見知らぬ人物に目を瞬いた。
 黒のパンツスーツを着た金髪の外国人女性。
 ローヒールだと言うのに目線は快斗と同じぐらいだ。

「…Hello. Did you want me?(こんにちは、何か御用ですか?)」

 快斗が訝りつつも話しかければ、女性はなんとも流暢な日本語で答えた。

「こんにちは。突然ごめんなさいね。今日は誰も通せないとは伺っていたのだけど、どうしても渡したいものがあって」
「渡したいもの…?」
「これよ」

 そう言って彼女が差し出したのは一本の四つ葉のクローバーだった。
 摘み取られたばかりなのだろうか、まだ生き生きとした緑色をしている。

「実は、私の警護しているあるVIPが貴方の大ファンなの」

 VIP?と快斗は首を傾げた。
 観客の中でも特に護衛の必要な要人などが来賓する場合、ショーの責任者である快斗にも当然知らせがあるはずだが、今日のショーにそのような人物が来るとは聞いていない。
 数人の芸能人がお忍びで来るという情報はあったが、外国からSPが付けられる程のVIPが来訪するなど初耳だった。

「VIPって、いったいどなたが?」
「Oh!It's a big big secret、お話できません!でも…」

 思わず尋ねた快斗に、彼女は大仰に驚いてみせながら言った。
 そして手にしていたクローバーを快斗の胸ポケットに差し込みながら、まるで内緒話でもするかのように声を潜めて囁いた。

「貴方ならこれを見ればきっと分かってくれるはずだと〝彼〟が言っていたわ」

 そう言って彼女は悪戯に片目を瞑ってみせた。
 そしてそのままくるりと踵を返すと、コツコツと廊下を歩いて行ってしまった。

 残されたのは一本の四つ葉のクローバー。
 快斗は胸ポケットからそれを取り出し、じっと見つめた。
 わざわざ快斗のショーを見るために来日したのか、或いは来日中にスケジュールの合間を縫ってやって来たのか…
 どちらにしろ、その人物を割り出す手がかりはこの一本のクローバーだけ。
 これを見れば分かるとはどういう意味なのか。

 考え込む快斗の思考に、ふと、ある記憶が過ぎった。

〝――…約束〟

(…約束?)

 そう、クローバーは約束だ。
 自分は確かに、クローバーに〝約束〟という記憶を持っている。
 何気ない日常のどこかでその言葉を耳にしたはず。

〝――…約束だって〟

 あれはいつだったか。

〝――…約束だって、知ってたか?〟

 あれはどこだったか……



〝クローバーの意味が約束だって、知ってたか?〟



 はっと、顔を上げた。
 不意に蘇った記憶。
 思い出した。
 あれは〝彼〟の台詞だ。
 まだ白い衣装を着ていた自分に、〝彼〟が教えてくれた。
 自分にとって何よりも大事な人との記憶だと言うのに、忘れるなんてどうかしている。

「…名探偵?」

 本当に彼なのだろうか。
 快斗はにわかに信じられなかった。
 だって彼は死んだのだ。
 その死に顔を見ていなくても、快斗はもう何度も彼の墓石へと足を運んだ。
 その土を掘り起こせば彼が眠っているのだと、狂った願望が浮かぶその度に何度も自分を戒めた。
 たとえこの腕の中に彼の骨を抱き締めようと、もう二度と彼のあの烈しい眼差しを見ることはできないのだと。

 それなのに。
 嘘よりも嘘みたいな希望に、縋らずにはいられなくて。

 快斗はクローバーを握りしめると、楽屋を抜け出しロビーへと駆け出した。
 タキシードが乱れるのも、ファンに見つかるのも、気にしている余裕はない。
 ただ、捜す。
 この三年の間、ずっと捜し続けていた姿を。

「いるのか…?」

 その問いに答える声はもちろんないけれど、快斗はもう、自分の感情を抑えることができなかった。
 ドクドクと心臓が早鐘のように打ち付ける。
 その音があまりに煩くて、観客の歓声も周囲の雑音も、少しも聞こえてこなかった。
 まるでそれが命であるかのように、人混みに潰されないようクローバーをしっかりと抱えながら、群がる観客の合間をすり抜けていく。

 快斗が漸く会場を抜け出たのは、あの外国人女性がちょうど車に乗り込もうとしていた時だった。

「待って!!!」

 声の限りに快斗は叫んだ。
 側にいたファンの女性たちが吃驚して固まるのも気にせずに。
 けれど、その甲斐もなく、彼女の乗り込んだ車は快斗に気付かず走り出してしまった。

「待っ…!」

 徐々に加速してゆく車。
 ゆっくりと遠ざかって行く。
 追いつけるはずもないのに、快斗は夢中でその車の後を追いかけた。

 諦められるはずがなかった。
 一日だって願わない日はなかった。
 思い出す必要もないほど、狂おしいほどに、彼のことを想っていたのだ。

 けれどどんなに追いかけたところでやはり距離は縮まることなく、やがて車は快斗の視界から消え去った。
 諦めきれない感情が未練がましく身体を急き立てる。
 いつの間にかタキシードは見る影もなく、だくだくに汗を掻いていた。
 荒い呼吸を無理にねじ伏せながら、快斗は袖口で汗を拭った。

 ナンバーは記憶している。
 そこから車の持主をあらうことなど快斗にとっては雑作もないことだ。
 けれど、仮に彼が生きていたとして、本気で自分に逢う気がないのなら、そんなものは滓ほどにも役に立たないだろう。
 彼にはそうするだけの力がある。
 それでも…と、快斗はクローバーをそっと握りしめた。

 このクローバーは確かに自分の手の中にある。
 〝約束〟は、この手の中にあるのだ。
 握りしめたクローバーだけが唯一の証。
 彼は生きて、そして自分に逢いたいと思ってくれているのだと信じたい。
 否――

(…疑わない)

 自分に言い聞かせるように、心の中で反芻する。

 疑わない。
 そして、忘れない。
 どこにいても、何が起きても。
 世界中の誰ひとり、自分自身でさえ自分を信じられなくなっても。

(俺を信じてくれるおまえだけは、俺は絶対疑わない)

 快斗はひとつ大きく息を吐くと、ゆっくりと踵を返し、会場へと足を向けた。
 その目には確かな光が湛えられていた。



「本当にあれで良かったの――新一?」

 自分の隣でモバイルパソコンを弄っている青年に、ジョディは不満そうに唇を尖らせながら問いかけた。
 東洋人特有の幼さの残る顔をサングラスの奥に隠し、一生消えない傷痕を真っ黒のスーツで覆った彼は、世間では死んだとされる名探偵工藤新一。
 新一は忙しなく動かしていた指を止めジョディに向き直ると、口元に微笑を浮かべながら言った。

「今、どうにも手が離せねーんだ」
「そんなの秀に任せればいいじゃない」
「彼にはもう別の任務を頼んじまったよ。それに、仕事に私事を差し挟むわけにはいかねーだろ」

 真面目な顔でそう言った新一に、ジョディは不満ながら、それでも頷いた。
 彼女だとて彼が忙しいのは重々承知している。
 彼は他ならぬFBIの任務、それも組織に関わる危険な事件ばかりを担当しているのだから。

 三年前の12月24日。
 アメリカに渡った新一はそこで手術を受けた。
 前代未聞の患者に、前代未聞の大手術。
 失敗してもおかしくなかった手術は、けれど、見事に成功した。
 それは、哀が解毒剤に耐え得る細胞組織の活性化を研究する一方で、工藤優作が息子のために手術医療の進展を押し進めていたからだった。

 そうして新一はかなり危険な状態ではあったが何とか一命をとりとめ、翌日の25日には意識も戻った。
 なのになぜ、工藤新一は死亡したとされたのか。
 それは意識を取り戻した新一自身がそうすることを望み、また優作もそうすることを新一に勧めたからだ。
 なぜなら、一命をとりとめたとは言え、新一にはまだもうひとつの問題が残っていた。
 新一が病院に運ばれたことがニュースになったため、組織に工藤新一が生存していると知れてしまったのだ。
 これでは助かったところで新一が彼らの標的になることは免れないし、新一に関わった周囲の人間にも危険が及ぶ。
 そこで、新一は自分が死んだことにするという大胆な道を選んだのだ。

 葛藤がなかったと言えば嘘になる。
 たとえ戸籍の上で死のうとも組織を暴くことはできるし、むしろその方が都合がいいくらいだろう。
 だが、戸籍を抹消されると言うことは、存在の証明を失うと言うことだ。
 もう二度と友人たちとは逢えないかも知れないし、普通の生活も当然できなくなる。
 もちろん探偵業も廃止だ。
 そして――
 工藤新一の死という絶望を〝彼〟に突き付けなければならないことが、何より心苦しかった。

 けれど、最終的に新一はこの道を選んだ。

 それからの一年間はただひたすらリハビリの毎日だった。
 その一方で、だいぶ渋ったけれど最終的に優作の協力を受け入れた新一は、組織壊滅のための準備を進めていた。

 そして彼らが新一のもとを訪れたのは、新一がもう支えなしでも歩けるほどに回復した頃だった。

「…私たちを恨んでる?」

 頬杖をついて窓の外を眺めていたジョディがふとそんな言葉を零した。

「まさか。なんで恨まなきゃならねーんだ?」
「だって…貴方をFBIに引き込んだのは私たちじゃない」

 彼女は今でも時折思うのだ。
 新一はあの時のことを恨んでいるのではないか――と。

 それは二年前のことだ。
 退院した新一は工藤家の別荘のひとつにまるで隠れるように住んでいた。
 米花町にある洋館よりもさらに古びた洋館。
 周辺の土地も工藤の私有地であったため、人の寄りつかないその洋館は丁度良い新一の隠れ家となっていた。
 そこに、かつて何度か顔を突き合わせたことのあるジェームズ・ブラックが現れた。
 両脇に二人のFBI捜査官――ジョディ・スターリングと赤井秀一を率いて。

 彼らがそこを訪れた目的は、新一をFBIに引き込むことだった。
 警察機関、中でもFBIは、対組織の捜査チームを編成し、長年黒の組織と対立してきた。
 ところがそこへ突然謎のサードパーティ――第三者が現れた。
 それはどの組織にも警察機関にも属さず、独自の方法で黒の組織に猛攻撃を仕掛けていた。
 そんな情報を耳にした彼らは、その第三者の身元を調べるとともに、できることなら自分たちの力として吸収したいと考えたのだ。
 そしてその第三者の正体を彼らに教えたのは、他ならぬ新一自身だった。

「あの時は、あの少年がまさか君だったなんて思いも寄らなかったよ…」

 運転席に納まっていたジェームズが懐かしげに言った。

 ベルモットの一件が切っ掛けとなり、彼らは江戸川コナンという少年と知り合った。
 その時、ジェームズは「FBIにスカウトしたいぐらいだ」と彼に言ったことがあるが、あれは冗談などではなかった。
 相手が小学一年生という子供でなければ、おそらく実際にスカウトしていただろう。
 それほど、江戸川コナンは子供とは思えない知識と頭脳を備えた不思議な少年だった。

 そして彼らは工藤新一に出会った。
 本当は新一ともそれより前にニューヨークでニアミスをしていたのだが、その時は通り魔に扮したベルモットを間に、間接的な接触にしかならなかった。
 だから彼らは江戸川コナンと工藤新一が同一人物であるなどという考えには少しも思い至らず、工藤新一のことを、ただ組織を一網打尽にするのに非常に有効な切り札であるとしか考えていなかった。
 何の後ろ盾もなく組織に仇成すほどの実力者をFBIに引き込むことができれば、組織を瓦解させるための大きな戦力になる、と。

 工藤の別荘に招き入れられ、新一から諸々の事情を聞き、コナンと新一が同一人物であると知った時の彼らの驚きは相当なものだった。
 よもや人間の肉体が縮むなどということが現実に有り得るなんて、にわかに信じられなかった。
 しかし、江戸川コナンが工藤新一だったというなら、あの知識量も推理力も頷ける。
 彼らは改めて工藤新一をFBIにスカウトした。
 だが、新一は彼らの要求を拒んだのだった。

『奴らに命を狙われている僕は、貴方がたにとってみれば爆弾のようなもの…この大事な時にわざわざ地雷を抱え込む必要はないでしょう』

 そう言った新一の瞳は、独りで戦う者の強さと孤独を内包していた。
 高が十九かそこらの子供が、まるで老獪な大人のようなものの言い方をする。
 少なくとも聞いていて快いものではなかった。
 だから、不意に込み上げてきた怒りにまかせて、気付いた時にはジョディの手が新一の頬を張り上げていた。
 今思えば好意の裏返しだったのかも知れない。

「…二人には感謝してるよ」

 え?と聞き返すジョディに、新一はただ曖昧な笑みを向けた。

 自分という存在の消滅は思った以上の重圧を新一に与えた。
 一年に及ぶリハビリ生活にもうんざりしていたのだろう。
 新一はひどく疲れていた。
 自分もまたただの人間だと言うことを新一は疾うに理解していた。

「俺はもうここから抜け出せない。でもそれは俺の意志でとどまってるんだ。誰も恨んだりなんかしないさ」

 それに、と新一が口角を吊り上げる。

「一番欲しいものさえ手に入るなら、後のことは大した問題じゃない」

 その笑みがあまりにも自信に溢れていたからだろう、ジョディは自分の心配はただの杞憂でしかないのだと溜息を吐いた。

「それで、その欲しいものはちゃんと来るんでしょうね?」
「ああ。あいつは絶対来る」
「凄い自信ね。何か根拠でもあるの?」

「――あいつがこの俺を忘れるわけないだろ?」

 その声には、いっそ憎らしいほどの自信が溢れていた。
 三年前に死んだはずの人間との約束を果たしにのこのこやって来る馬鹿が果たしているのだろうか。
 けれどそれは愚問だと、ジョディは思った。

 初めて見た黒羽快斗の――怪盗キッドのマジック。
 華やかで、鮮やかで、けれど隠しきれない哀しみが切ないくらいに溢れていた。
 あの彼が新一のことを忘れているとは思えない。
 無我夢中で車を追いかけてきた彼の目は、確かに新一を見つめていた。

(罪な子よね、ほんとに…)

「ボス、すみませんが時計台に向かってもらえます?」
「――仕方ないな」
「へ?」
「ほら、貸して。仕事が終わってからタクシーで、なんて悠長なこと言ってたら、彼が可哀想でしょ?今頃息を切らせながら時計台に向かってるわよ」

 ジョディはひったくるようにパソコンを新一から奪うと、楽しそうに片目を瞑ってみせた。
 新一はちょっとだけ吃驚したように目を瞬かせたかと思うと、ついで照れたようにはにかんだ。
 これだから放っておけないと、ジョディはくしゃりと新一の頭を撫でた。
 彼は、普段はその慧眼と巧みな話術で犯罪者も警察も手玉に取るFBIのジョーカーでありながら、時折無垢な子供のように笑う。
 たとえこの戦場から降りることが許されなくとも、この笑顔だけは守ってあげたい。

「きっちり捕まえて来るのよ!」

 車を降りた新一にジョディが声を掛けた。
 有り難う、そう言って駆けていく新一の後ろ姿を心配そうに眺めていると、車を動かしながらジェームズが言った。

「大丈夫。サンタクロースはいい子のところには必ずやって来るものだ」

 その言葉にジョディは嬉しそうに笑った。





 カンカンカン…

 階段を駆け上る靴音が聞こえる。
 こんなイブの夜に、吹きさらしの時計台に登ろうなんて物好きはまずいない。
 そう――
 こんな夜にこんな場所にやって来るのは、どこかの探偵とのちっぽけな約束を忘れずにいてくれた、どこかの怪盗ぐらいのものだろう。

 その足音が、躊躇うように扉の前で止まった。
 この先に何があるのか、或いは何もないのか、まるでそれを恐れているかのように。
 自然と笑みが浮かんだ。
 たったそれだけのことが、彼の想いの強さを語っているようで、ひどくくすぐったい気持ちになった。

 けれど、彼を安心させてやろうとドアノブへ伸ばした己の手が震えていることに気付き、驚いた。
 自分もまた、この先にあるものに微かな恐れを抱いていたのだ。

 この長い長い三年の間、一度も彼の姿を見なかった。
 あえて見ないようにして来たのだ。
 今日だって、ほんの少しバックミラーを覗くだけで、追いかけてくる彼の姿を見ることができただろう。
 なのにそうしなかったのは、もし見てしまえばどうしようもなく逢いたくなってしまうだろう自分に気付いていたから。
 そしてそれと相反して、堪えようもない不安がこの胸に内在していると気付きたくなかったから。
 素直に再開を喜ぶには、自分はあまりに彼を、そして自分自身を傷付けすぎた。

 震えは徐々に広がってゆき、やがて足にまで伝わってきた。
 扉を開けようにも足が動かない。
 手が、届かない。
 彼が自分を忘れるはずはないと豪語したその自信が、嘘のように萎んでいく。

 逢えない時間があまりに長すぎたのだ。
 一日だって無駄な日を過ごした覚えはないけれど、三年という月日は人の心を変えるには充分すぎた。
 もしこの先に彼がいなかったら、自分はどうしたらいいのだろう。
 たとえこの先に彼がいたとして、酷い仕打ちをした自分を、どうして受け入れてくれるなどと思えるだろう。

 ――けれど。

 目を閉じる。
 口元に笑みを掃く。

 躊躇いはしなかった。後悔もしなかった。

 自分は彼を信じている。
 それだけが、この身体を奮い立たせる力の源…


 その時、夜の静寂を打ち崩すように、耳を劈くような轟音が響き渡った。

 それは零時を告げる鐘の音。
 聖夜を告げる、鐘の音。
 そう、今日はクリスマスなのだ。

 その音に背を押されるように、勢いよく扉を開けた。

 はあはあと忙しない呼吸を全身で繰り返している青年。
 この寒さの中、額にはいくつもの汗が浮き出ている。
 馴染みのない顔。
 けれど、よく知っている顔。

 手紙を出した覚えはないけれど。
 靴下を下げた覚えもないけれど。

 漸く今、一番欲しかったものを手に入れた。



 おまえの目に映った俺は、ちゃんと微笑っているだろうか…?



「…ただいま、かいと」





 この言葉を君に伝えるため、僕は戦いに行くのだ。



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