隠恋慕
Second contact 5
「助かったよ。ありがと、二人とも」
白い衣装もそのままに頭を下げる快斗へ志保は小さく肩を竦め、白馬は照れくさそうに眉を寄せた。
現在、快斗は阿笠邸にいる。夜中ということもあり博士はとっくに眠ってしまっていた。だからこそこんな格好のまま地下室を拝借しているのだ。快斗は博士とも仲がいいが、自分がキッドであることを博士には知らせていなかった。
あの時、窮地に追い込まれた快斗を救ってくれたのは志保と白馬だった。もともと今夜の仕事にはRが関わってくるだろうからと、白馬は警察の捜査には参加せずに快斗のサポートへと回っていた。そして雲行きが妖しくなってきたことに気付いた白馬は咄嗟に志保へと連絡し、博士が発明したという変声器を持って志保が駆けつけ、白馬がそれを使って中森の声で怒鳴り、そして待機していた車をまわしてサイレンを取り付けて鳴らしたのだ。覆面パトカーなどが使う携帯用のものではあったが、効果は充分だった。
「おかげで新一も連れてかれずに済んだ…」
快斗はベッドに横たえられている新一の前髪を優しく梳いた。コートはハンガーに掛けてクローゼットへ、サングラスはベッド脇のテーブルへと置かれている今、ロシアンブルーと称されたRの素顔を隠すものは何もない。静かに寝息を立てるあどけない新一の寝顔が晒されていた。
一応のためにと志保に診て貰い、新一に撃たれたのが本当にただの麻酔銃であることが判明して、快斗は心底ほっとしていた。
「それにしても驚きですね。あのRがこんな少年で、宮野さんの隣に住んでいたなんて」
「…そうね」
素直に嘆息する白馬と違い、志保の声はなぜか固い。
快斗と白馬が怪訝そうに見遣ると、志保は鋭い視線を眠り続ける新一に据えたまま言った。
「彼、『解放者』と呼ばれてたんでしょ」
「うん」
「昔、…まだ私があそこにいた頃、聞いたことがあるのよ」
「解放者について?」
「ええ。知ってるでしょ? …私がいた場所がどんなにおぞましいところか」
命ある生き物を、人間でさえも、まるで子供の玩具のように弄ぶ。そこに罪悪感などというものは欠片も存在せず、あるのはただ果てのない欲望に忠実な探求心だけだ。その探求心を満たすためなら、人を人とも思わない扱いを平気でするような連中ばかり。そんな中で志保は生きてきたのだ。あそこがどれほど恐ろしい場所か、決して表現力が乏しいわけではないのに、言葉にして現すことは生涯無理だと志保は思う。
ただ、志保は加害者側であった。彼女自身がそう望んだわけではないとしても、志保はそれらを施す側の人間であって、施される側の心理は一生分からない。それでも、加害者であったはずの志保ですら恐怖するそれに、被害者であった者たちの恐怖がどれほどのものなのか。想像に難くない。
「そんな彼らが何より欲しがっていたのが『解放者』よ」
「…何、より…」
「私のいた組織は貴方が敵対する組織とは別物よ。パンドラなんて胡散臭いものを探すよりも、不老不死を科学的に研究し、薬を使って永遠を手に入れようとした。でも根底は繋がっているの。その彼らが共通して探し求めていたのが『解放者』よ」
けれど志保はあくまで薬の研究員であったため、解放者を狩る連中の会話を耳にした程度の情報しか持っていなかった。解放者が組織にとってどういう存在なのか、何のために必要なのか、何も分からない。それでも分かることがひとつだけある。
「彼は組織が求めてる人よ。…関わらない方がいい」
志保は快斗をひたと見つめながら静かに言った。快斗が新一に惹かれているのはもはや明白だ。牽制の意味も込めての言葉だった。解放者と呼ばれる新一と関われば余計な危険を背負い込むことになる。
けれど快斗は押し黙ったきり口を開かず、新一に向けた視線を動かそうともしなかった。
緊張の張りつめる雰囲気に白馬も声を出せずにいると、横たわっていた新一が微かに身じろいだ。
体がだるい。頭も痛い。灰姫の声に意識を持って行かれた後はいつもこうだ。全ての気力を――まるで生きる気力でさえも根こそぎ奪われていくような倦怠感に襲われる。指一本動かすのも億劫で、叶うことなら、このまま灰姫の誘いにこの身を任せてしまいたいとさえ思う。
だがいつまでも惰眠を貪っているわけにはいかないと、新一は瞼を持ち上げた。寝ぼけていた意識が一気に覚醒する。うっすらと拓けた視界には見知らぬ天井が映った。己の身は己の力だけで貪欲な愚者たちから守っていかねばならない新一にとって、そんなことはあってはならない事態だ。
新一は緩慢な動作で頭を振った。次第に前後の記憶がはっきりしていく中で、不意に視界に見知った顔が映る。快斗が覗き込んでいた。
「新一、よかった…」
「黒羽…」
心底ほっとしたような表情で見つめてくる快斗に新一は苦い笑みを浮かべる。
「…やっぱりばれてたんだな。態度でなんとなくそうじゃないかとは思ってたけど」
快斗は小さく、けれど確かに頷いた。
「当たり前だよ。あんだけ毎日逢ってたんだから…」
「…そう、だな」
新一は眉を寄せると顔を背けた。結局自らの手で自らの首を絞めたのだ。こうなる前にさっさと快斗の前から姿を消しておくべきだった。それなのにみっともなくも束の間の安息に縋ったりするものだから、己の正体がばれたばかりか、快斗までも危険な男に目を付けられてしまった。今更悔いても仕方がないことだと分かっていてもどうしようもなかった。
「新一、あの男は誰?」
と、背けたきり顔を向けようとしない新一に、快斗は不意に表情を改めて尋ねた。振り返れば予想と違わぬ真摯な瞳が覗き込んでいる。相変わらずの他人の面倒事まで背負おうとするお人好しぶりに、新一は苦笑を噛み殺した。
「…おまえの知らなくていいことだよ。これは俺の問題だ」
「なんで? 俺のことは守るとか言うくせにっ」
「いいんだよ。仕方ないんだ。だって、…これが俺の運命なんだから」
新一は諭すように快斗に笑いかけた。
運命なんて言葉は大嫌いだ。そこに己の意志など欠片も存在しないようで、まるで他人の意志にいいように操られているようで。生憎とそんなものに従順になれるほど大人しくはないし、受け身になって悲嘆に暮れるほど愚かでもなかった。
けれどこればかりは運命としか言いようがないのだ。たとえそれに抗うだけの力があったとしても、そうすることで誰かが哀しむことになるのなら、せめて最後の抵抗にと、その運命を己の意志で受け入れているのだと思いたかった。
苦しくないわけじゃない。十にも満たない幼さでその年頃の子供には到底考えつかないほどの辛苦を味わってきた。絶望もした。立ち直りもした。そうしてそれを何度も繰り返す内に、いつの間にか痛みに対して体も心も鈍くなっていた。
だが、それを快斗に言うわけにはいかなかった。新一はもう彼をこれ以上ないほど己の運命に巻き込んでしまった。だからこれ以上はどうしても関わって欲しくなかった。
――何より快斗を失いたくないから。
けれど快斗はそれでも食い下がるのだ。ここで退けば新一はもう手の届かない場所に行ってしまうに違いないと、苦虫を噛み締めたような顔で言う。
「ひとりで苦しむなよ…俺が、手を貸すから…」
目を覚す前からずっとそうしていたのだろうか、快斗はあやすように新一の髪を梳いている。優しく梳きながら、まるで祈るような顔で新一を見つめている。
何が彼にこんな表情をさせるのだろうか。ふと気になったけれど、なぜかそれを知るのは怖いような気がして新一は聞くことができなかった。ただ拒絶の意志を伝えるために緩く首を振る。
それでも引き下がらないと、快斗は語気を強くして言った。
「確かに味方なんて砂粒ほどにもいないかも知れない。俺だってそう思うし、そう思ったからひとりでやってきた。それでも、ひとりじゃどうしようもない時もあるだろ? 怪我した時、誰が拾ってくれる? 誰が治してくれる? …白馬や志保ちゃんがいるから俺は生きてられるんだ」
快斗に促されるように視線を巡らせれば、複雑な顔で押し黙っている白馬と目が合った。そこから奧へと更に視線を流せば、今度は難しい顔で腕を組んだまま壁に凭れている志保と目が合った。それぞれの事情など新一はひとつも知らないけれど、快斗の顔を見れば分かる。二人がどれほど彼の助けになっているか。
「俺も新一のそういう存在になりたい」
優しく梳いていたはずの手が伸びて背に回り、優しく、けれど離さないようにと両手を戒めるように抱き締められた。快斗の方々に跳ねた癖っ毛が頬に当たってくすぐったい。少し速くなった鼓動がとくとくと、新一の心臓にぴったり重なるように響いてくる。己の鼓動もまた速まっていることに、新一はそこで漸く気付いた。
くしゃりと顔が歪む。笑おうとして、けれど唇が震えて。うまくいかずに口端だけを緩く持ち上げたような形になって。新一は下唇をくっと噛み締めると快斗の肩に顔を埋めた。その胸をゆっくりと、けれど強く押し返す。
「…だめ、…なんだよ」
まるで今にも空気に溶けて消えてしまいそうな声だった。その、胸の押し潰されそうな、何か耐え難いものを必死に耐え、それさえ仮面で覆い隠そうとしてしくじってしまったような、表情。誰もが声を失った。
「俺はもともとおまえと関わる気はなかった。おまえさえ灰姫に手を出さなければ、一生知り合うこともないはずだった」
なんで…?、と声にならない声が快斗の唇から漏れる。
新一は逸らしていた視線を再び快斗に据えた。ここで逃げることは許されない。全てを受け入れると、その事実がどれほど己の心を抉るものだとしても受け入れると決めたのだから。快斗から逃げることはあの人から逃げるのと同じことだ。
新一は静かに告げた。
「だって、盗一さんを殺したのは俺なんだぜ…?」
空気が凍り付く。白馬も志保も声をなくした。快斗も目を瞠っている。見開かれた瞳がまるで信じられないものでも見ているかのようで痛かった。きっと一瞬前に口にした言葉など快斗の脳裏から消え去っているに違いない。それどころか真逆の感情に――憎悪に染まってしまったかも知れない。
だが、それでよかった。過去はやり直せない。既に犯してしまった罪をなかったことにはできない。罪を償うことはできても、生涯その罪が消えることはないのだ。それならいっそ憎まれたかった。手を貸すなど、まして「仲間」だなんて、言ってもらえる資格は自分にはないのだから。
苦痛を訴える体を叱咤してベッドから降りると、呆然としている彼らを避けて新一は扉へと手を掛けた。きぃ、という悲鳴のような細い音が静寂の中を通り抜ける。背中を向けたまま一度立ち止まると、動きを忘れてしまったかのように佇む志保と白馬にそっと声を掛けた。
「宮野さん。白馬探偵。…黒羽を、頼みます」
まるで彼らと新一とを引き裂くように、やけに大きな音を立てて扉は閉まった。
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