隠恋慕
Second contact 4
「新一、お皿並べてくれる?」
「この皿でいいのか?」
「うん、それ」
ぱたぱたとスリッパの音を立てながら新一がテーブルに皿を並べていく。快斗はフライパンを返す手を休めずに、キッチンのカウンター越しにその背中をじっと見つめていた。そこから何かを見つけだすことができないか、と。
怪盗Rと偶然接触した日から、快斗の中では新一がRなのではないかという確信に近い疑いが膨れあがるばかりだった。けれど、こうして家を訪れても新一は普段通りに招き入れてくれる。初めこそ快斗の来訪を拒んでいた新一だが、半ば押し切るような形で毎日訪れるようになってからは心底拒絶しようとはされていなかった。
突き放したり受け入れたり、一体この男は何がしたいのか。何を以て怪盗キッドを守るなどと言いだしたのか、それが快斗には分からなかった。快斗がRと出会ったのは一月前の邂逅が初めてで、新一と知り合ったのだってつい最近のことだ。二人の間に接点ができたとすれば、このたった一月ばかりのことだというのに。
と、いつの間にか眼前まで迫っていた新一が快斗を覗き込むようにして言った。
「…黒羽。焦げ臭い」
「え? …あっ!」
「ばか…」
「あちゃぁ~…」
ついつい思考に沈みすぎていたのか、見れば炒めていた野菜が焦げている。これではせっかくの料理が台無しだと快斗が顔をしかめると、それを見た新一がくすくすと楽しげな笑みを零した。その笑みに、快斗は思わず見とれてしまう。苦笑いや泣き笑いなら何度か見たことがあったが、こうして何の屈託もなく笑っている新一を見たのはこれが初めてだった。
幼馴染みの青子のように顔いっぱいに楽しさを滲ませたものではなく、紅子のように何かを企んだような艶笑でもない。新一はひどく柔らかい表情で笑っている。その表情に、快斗の心臓がどくん、と強く脈打った。またも早鐘のように鳴りだした鼓動に快斗は困惑してしまう。
「しゃーねーな。冷蔵庫に卵入ってるだろ。それでオムライスでもしよーぜ」
そう言って新一は予定していた野菜炒め用の大皿を仕舞うと、二人分の皿を並べ、箸をスプーンに替えた。
快斗は暴れる心臓を必死に抑え付けながら、新一の背中をじっと見つめた。
快斗が初めに抱いた工藤新一の印象は、まるで不健康のお手本のような男だ、というものだった。初対面から目の前で気絶された上に、その後も低血圧症だの頭痛持ちだの、果ては不眠症までと、次から次へと問題が出てくるのだからそう思ってしまうのも仕方がないだろう。
そして次に思ったのは、底の見えない男だ、というものだった。
新一は工藤財閥の跡取り息子だ。親や周囲の期待を裏切ることなく、優秀すぎる頭脳に充分な容姿を持って生まれた。眠った顔は年相応の少年にしか見えないが、凛とした立ち姿は人の上に立つに相応しい強さを備えている。それに権力者特有のあの鼻持ちならない態度も、身分や優秀さを誇示する素振りも新一には見られない。
まさに理想の跡継ぎだった。おそらく幼い頃から自分の使命というものを自覚し、それに相応しくなれるよう真っ直ぐに生きてきたのだろう。でなければこれほど特異な環境にありながらこんなにも真っ直ぐな目をしていられるはずがない。
なのにまるで仕方ないのだとでも言うように、新一はその身に降り掛かるもの全てを受け入れるのだ。快斗にはそれが理解できなかった――突然理不尽な運命を叩きつけられる辛苦を知っているだけに。
何を考えているのか全く分からない。それが、この男を深い霧の中に留まらせている原因だった。
けれど今、快斗はその底の見えない男のことをひどく気に入っていた。僅か十歳にして大学を卒業したという類い希なる頭脳を有しているだけあり、新一との会話は快斗に今まで感じたこともない刺激と興奮を与えた。誰とも――自分より二倍も三倍も長く生きているような大人との会話でも満たされることのなかった快斗の脳髄が、彼との会話でみるみる膨れ上がっていく。次に何をしでかすのか全く分からないところも、快斗の好奇心を大いに擽った。大海のように揺るぎない眼差しをしていたかと思えば、一方で幼い子供のように明け透けに怒ったり困ったりと、見ていてまるで飽きない。
だからこそ快斗は確かめることができなかった――怪盗Rはおまえなのか、と。
今夜は怪盗キッドの予告の日だ。久々にビッグジュエルが来日するという情報を得て、二日前にはもう予告状を届けてある。Rがそれを知らないはずがない。新一がRであるなら、それを知らないはずがないのだ。キッドを守ると言うからには、Rは何らかの形で今夜の仕事にも関わってくるだろう。
けれど新一の様子はまるで普段と変わらなかった。それが余計に快斗を困惑させる。
結局その日も新一に不自然なところを見つけることができないまま、快斗は工藤邸を後にしたのだった。
喧しいサイレンの音とともに点々と続く赤いランプが遠ざかっていくのを、快斗はビルの屋上から眺めていた。
夜空の彼方には、煌々と照らし出す月明かりの中に白い鳥が一羽。快斗が放ったリモコン操作式のキッドのダミー人形だ。本物そっくりに作られたそれを遠目から見ただけで人形だと判断するのは難しい。警察があれが偽物だと気付くのはリモコンの電波が届かなくなって人形が落ちる頃だろう。そこから足がつくことのないよう、細心の注意も払っている。
今夜の犯行も成功だった。ほぼ完璧だと言ってもいい。白馬が協力していない警備など所詮この程度だ。警察はキッドを見つけることすらできない。いっそ物足りなく感じてしまう程だ。月に翳してみた宝石の中に赤い石が見つからなくとも、もう落ち込むこともない。
それでもビルのフェンスに寄りかかり眼下を見下ろす快斗の双眸が未だ鋭い光を放っているのは、犯行の間中、姿こそ現さないけれどずっとその存在を誇示していた鮮やかな気配の持ち主――Rのせいだった。
今も、誰ひとりとして見つけることができなかった快斗の側に、当然のようにRの気配がある。まるで初めから居場所が分かっていたかのように。
快斗はとうとう痺れを切らし、視線も鋭いままに言い放った。
「――いるんだろ。隠れてないで出てこいよ」
かつんっ、と背後で小石の転がる音がした。おそらく老朽化して剥がれたビルのコンクリートをRがわざと蹴飛ばしたのだろう。彼ほどの男が足音を消せないはずもない。
快斗は殊更ゆっくりと背後を振り返った。アッシュブルーのコートが風に靡き、まるで翼のように彼の背後で踊っている。
Rは快斗の方を見ようともせず、ただぼんやりと空中の月を見上げていた。
「あんたは何がしたいんだ?」
幾分苛ついた声が出てしまうのは仕方ないだろう。実際、いくら考えても埒のあかない疑問に快斗は苛立っていた。
Rは色んなことを知っている。パンドラのこと、キッドのこと、快斗のこと、組織のこと。けれど快斗はと言えば、パンドラについては組織とRに与えられた知識しかなく、Rについてはその存在から目的までまるで分からない、組織とも均衡状態になって等しい、といった状態だ。
情報が足りなかった。この際、パンドラや組織のことは後回しにしてもいい。せめてRが誰なのか、何のために存在するのか、なぜ快斗を守ろうとするのか、それだけでも知りたかった。
快斗は未だにRを敵だとは思えなかった。守りたいとまで言われた相手でもあるし、それに――その正体が新一なのかと思えば思うほどに、できることならともに闘いたいと思った。
足に大怪我を負いながら、大量に出血していながら、この男は平然としていた。自分と似た危うさを持ち、自分以上に死に近い場所に立っていた。いつ死んでもおかしくない。いつ消えてもおかしくない。
快斗はRを――新一を失いたくなかった。なぜかは分からなくとも、強くそう思った。だから一方的に守られるのではなく、ともに闘いたいのだ。RにRで在り続けなければならない戒めがあるというなら、その呪縛から解き放ってあげたかった。それができないなら、せめてともに背負いたいと思った。
けれどどれほど待ってもRはひと言も返さず、居心地の悪い沈黙がこの場を支配した。
それでもめげずにひたと眼差しを彼に据え続けていると、月を見上げていたRが漸く快斗の方に顔を向けた。何かを言おうと快斗が口を開く。
が、そこから言葉が紡がれる前に唐突に殺気が辺りを包み込み、二人はさっと身を固くした。
風を切り裂く微かな音とともに何かが飛び去る。向かい合っていた二人はそれを避けるように咄嗟に背後へと飛び退いた。快斗はすぐにそれが銃弾であることに気付いた。
こんな時に組織の連中だろうか。そう思い身構えた快斗だったが、何事もなかったかのように闇の中からすらりと現れた男は、全く見覚えのない男だった。黒いコートに黒い帽子という全身黒尽くめの男で、肩には先ほど自分たちを襲っただろうライフルが掛けられている。男の背後には銀色の髪が悠々と風に揺れていた。
「まだキッドと連んでいたのか」
男は快斗には見向きもせずにRを見遣ると、口許に酷薄な笑みを浮かべた。口端から覗く歯がまるで肉食獣のそれのように獰猛に映る。
どうやら男の目的は初めから快斗ではなくRのようだが、言っている意味が分からなくて快斗は眉をひそめた。快斗がRと知り合ったのはつい最近のことだ。「まだ」と称されるほど長い付き合いはしていない。
だが快斗の隣に佇むRの体は目に見えて強張った。
「余程そいつが大事らしいな…」
薄ら寒くなるような低い声で男が楽しそうに呟く。
するとRは快斗の前に飛び出して、快斗と男との間を裂くようにして立ち塞がった。
「――キッドには手を出すな!」
夜の暗闇を薙ぎ払うように、凛とした声が高々と響く。その声に快斗は思わず目を瞠って息を呑んだ。Rがこれほどまでに激昂するところや怒鳴るところを見るのはこれが初めてだった。
口調を厳しくすることは幾度もあった。パンドラに関わるなと告げる時の声はいつだって真剣そのものだった。けれど、彼が口調を荒げたことは一度としてなかったのだ。
驚く快斗にRは振り返りもせず、肩越しに言った。
「こいつの狙いは俺だ。おまえはさっさと消えろ、キッド」
固い声に促され、快斗は躊躇った。確かにここは彼の言葉に従って素直に退場すべきだろう。無関係の危険にまで首を突っ込むような愚かな真似はするべきではない。キッドとして目的を果たすためには直ぐにこの場を離れるのが賢明な判断だ。
けれど。もしRが新一なら――いや、新一じゃなくとも。
もう既に失いたくないと感じている存在をひとり危険の中に放って己だけ逃げ出すことなど、快斗にできるはずがなかった。
「てめぇっ、ボーッとしてないでさっさと消え――っ」
「…R!」
いつまで経っても動こうとしないキッドをRが苛立たしげに怒鳴りつけるが、言い終える前に突然がくりと膝をついたかと思うと、Rは頭を抱えて蹲ってしまった。歯を噛み締めるぎりっ、という音が微かに聞こえる。力の入った指先が容赦なく肉に食い込み、爪が柔肌を抉った。サングラスの影から覗く顔はひどく苦しげで、見るのも痛々しい。
それは唐突な出来事だったが、快斗は何が起こったのか分かった。その光景はあの、道ばたで頭を抱えて倒れていた少年――新一の姿と全く同じだった。
新一は昏倒してしまうほどのひどい頭痛に悩まされていた。怪盗Rの正体が工藤新一だというなら、おそらく同様の苦しみを味わっているに違いない。
あの時も受け止めたのは快斗だった。そして今回も、倒れそうになる体を快斗の腕がしっかりと受け止めた。苦悶に満ちていたRの表情が微かに和らいだようだった。
抱え込んだRが力無く快斗を見上げ、乱れた呼吸の合間に喘ぐように囁く。
「…ば、ろぉ…逃げろ、…言った…のに……」
切れ切れに届く声が快斗の胸を締め付ける。快斗は細い体を力一杯抱き締めた。
「だって置いてけないよ――新一」
Rの――新一の体がびくっ、と跳ねる。それが何よりの肯定だった。だが、そんなもの今更だ。だって快斗は確信していたのだから。ただ面と向かって確かめることができなかったのは、もしそれを言ってしまえば、Rと同じように新一にまで拒絶されるかも知れないと思えばこそだった。
けれど新一は快斗の予想を裏切って笑みを浮かべるのだ。諦めたように哀しげで、それでいて苦しみから解き放たれたかのように清々しい。それは綺麗な笑みだった。きっと快斗が悩み苦しんでいたように、新一もまた快斗に言わずにいることに苦しんでいたのだろう。
そうして無理矢理に体を起こした新一は快斗の背に腕をまわし――抱き締めた。
束の間、呼吸も鼓動も全てを忘れる。次いで耳元に聞こえた低い呻きとともに崩れていく体を見て、快斗は我に返った。
「な…!」
見れば、新一の背中に、先端に羽根のようなものがつけられた針が刺さっている。新一は動けない体で抱きつくことで、男が向けていたライフルの銃口から快斗を守ったのだ。
快斗の中に言いようのない怒りが込み上げる。
「てめぇ…っ」
「安心しろ。ただの麻酔銃だ」
こいつは殺すなとの命令なんでな。
男は憤る快斗を嘲笑うような冷えた眼差しで見据え、ライフルを肩に担ぐとゆっくりとこちらへと歩を進めた。
快斗は完全に気を失ってぐったりしている新一の体を急いで抱き上げる。仰け反る頭を自身の首元に埋めるようにして固定し、いつでも動けるように回した腕にぎゅっと力を込めた。新一を抱えたままこの男と対峙するのはまず無理だ。どう動くべきか目まぐるしく思考を巡らせながら快斗は逃げるように数歩退く。
すると男は、今度は懐から拳銃を取り出し、それを構えながら言った。
「解放者を寄越せ」
弱者を見下ろすように男は殊更ゆっくり近づいてくる。
快斗は無言を返すだけで何も言わなかった。否――言えなかったのだが。
男の口から出た言葉が何のことか、快斗には全く分からなかった。『解放者』とは一体何のことか。状況から見て新一のことを言っているのはまず間違いないが、聞き慣れない単語にどんな反応を返せばいいのか分からない。こういう場合は下手なことを言うよりも黙っていた方が利口だと判断したのだ。
そうしてじりじりと迫ってくる男に快斗が無言で後退っていると……
『怪盗キッドォ! 今度こそ逃がさんぞォ!』
突然聞こえてきた拡声器の声に、両者の動きがぴたりと止まった。
聞き慣れたそれは中森警部の声だ。てっきり今頃はダミーに引っ掛かって見当違いの方向に向かっているとばかり思っていたのだが、珍しくも冴えていたのか、何にしてもこのタイミングでの登場は非常に有り難かった。
眼下を覗いてみれば一台ではあるが確かにサイレンの赤いランプを点滅させている車がある。快斗はにやりと口角を吊り上げた。
「…どうやら警察のご到着のようですね」
「ちっ」
男は軽く舌打ちするとくるりと踵を返し、闇に紛れるような黒いコートを靡かせて、直ぐ側に隣接している少し高さの低いビルに飛び移った。それから非常扉の鍵を素早く銃で撃ち抜いてするりと身を滑り込ませたかと思うと、あっと言う間にその姿は見えなくなってしまった。ひどく慣れた動き。プロ中のプロだと快斗は思った。
そうして誰もいなくなった屋上でふぅ、と小さく息を吐くと、快斗もまた新一をしっかりと抱き締めてビルの階段を駆け下りて行った。
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