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Third contact 5


 黒い衣装を嫌味なほどうまく着こなした痩身の紳士を、少年は飛びつくようにして引き留めた。驚いたように目を瞠る紳士。震える手で力一杯抱き締める少年。
 やがて紳士は親が子にするように少年の頭を撫でると、ひどく柔らかい笑みを浮かべた。そう、まるで――これから死にに行こうとしている者の笑みとは思えないほどの柔らかい笑みを。
 知っている。これは記憶だ。黒い衣装はステージ衣装。ここはステージ奥の控え室。これは、彼の最期のショーだった。
 喚いている少年は、自分。
 そして、微笑っている紳士は――…

「…ごめんね」

 待って。
 行かないで。
 俺をおいていかないで。
 俺を独りにしないで。
 謝る必要なんかないのに。
 あなたは何も悪くないのに。
 俺のせいであなたは死んだのに、どうして。

 どうしてあなたは、微笑ってくれるの。



「人は、いつ死ぬと思う?」

 唐突に景色が変わった。ノイズのかかった視界の中、誰かの声だけが耳に届く。

「親父は死んだ。今はもう声を聞くことも触れることもできない。でも、思うんだ。なら、俺の頭の中に残ってるこの映像は何だろう? 覚えている声は? 体温は?」

 徐々にノイズが晴れていく向こうに、ぼんやりと人影が見えてくる。

「親父はまだ生きてる。まだここにいる。親父を思う俺がいる限り、親父はずっと生き続けるんだ」

 照れたような、はにかんだ顔を向ける少年。
 知っている。これも記憶だ。見慣れたリビング。甘ったるそうなミルクたっぷりのコーヒー。
 珍しく真剣な話になった時、凝視する俺に照れながら話してくれた彼は――…



「俺のこと、好き?」

 再びシーンが変わる。ずしりと重い足。ずきずきと痛む体。何より鼓動が煩くて。
 何度となくその手を振り払ったのに。彼の父親を殺したのが俺だとも告げたのに。なのに彼はこんなところまでやって来て、俺を好きだと言ってくれた。
 こんな俺のために。時の流れに逆らって、俺とともに無限の孤独に堕ちてくれた。

 ああ、そうだよ。
 もうずっと前からそうだった。
 それでも俺とおまえのために、必死で見て見ぬふりをしてきた。
 灰姫の警告に逆らって、何より畏れた孤独すら受け入れて。
 そうまでしても、俺はおまえを守りたかった。

 だって俺は、世界中の誰よりも、おまえのことが好きだから。



「――…ぃと」



 心配そうに見下ろす快斗の視線を遮るように、新一は両手で顔を覆った。泣きたくなんかないのに、溢れてくる涙が止められない。こんな風に泣いたことなどなかった。それなのに、彼の前ではみっともなく泣いてばかりいる。こんな情けない姿、見せたくないのに……
 快斗は、漸く目を覚ましたかと思えば突然泣き出した新一を、為す術もなく抱き締めた。

「新一? どこか痛いの? 大丈夫?」

 全身傷だらけの大怪我人に向かって「どこか痛いのか」なんて、笑ってしまう。けれど新一の口から漏れたのは笑みではなく、言葉にならない微かな嗚咽だった。

「…ごめん」

 やがて漸く新一の口から漏れたのは、そんな謝罪の言葉だった。
 新一は顔を覆ったままだ。快斗の顔がまともに見られない。今、彼がどんな顔をしているのか、それを見るのが怖い。

「巻き込んで、ごめん。おまえにあんなことさせて、ごめん。こんなはずじゃなかった。俺、…おまえだけは、絶対に守るつもりだったのに…」

 抱き締めてくれる腕の力が次第に強くなっていくのが分かる。

「俺が盗一さんと出会わなかったら、盗一さんは死ななかった。盗一さんが死ななければ、おまえがこんな世界に足を踏み入れることもなかった。そうすればおまえは俺と出会わなかったし、そうすればそんな体に、――不老不死なんかにもならずにすんだのにっ!」

 灰姫の呪縛。それは、不老不死の呪い。灰姫とは哀しみと憎しみの念が形となった魂の結晶だ。その灰姫の分身とも呼ぶべき解放者の魂と灰姫の魂は、やがてひとつに戻る。そしてその瞬間――解放者に流れる時間は完全に止まる。
 この世でただひとり時を持たない存在。海や大地や空ですら刻一刻と移り変わっていくその中で、ただひとり、自分だけが取り残される恐怖。その恐怖は心を喰らい、朽ちない体を残し、やがて精神は緩やかな死を迎えるだろう。それがどれほど苦しいものか、恐ろしいものなのか。誰より自分が、よく分かっていたはずなのに。
 刻印への接吻は誓いの成立。誓いの成立は灰姫との融合。一度融合した魂は、解放者が再び分裂させるまで離れることはない。そして、融合した魂の分裂が意味することは――受肉者の死。
 永遠をうつろうことに疲れた快斗はいずれ死を願うかも知れない。けれど、新一は快斗を殺せない。何があろうと、たとえ快斗がどんなに変わってしまおうと、快斗だけは殺せない。どれほど快斗が死を望んでも、新一にはそれを叶えてやることができないのだ。
 自分はまた間違えたのだろう。かつて彼の父親を死に誘った時のように、またも道を踏み外した。
 ――だけど。
 この道が間違いだなんて分かっていたけど、だけど……

「それでも俺は、おまえと一緒にいたかった…!」

 頭がよくて、口がうまくて、芸達者で。
 見かけによらず、甘いものが大好きで。
 マジックが得意で。
 魚が苦手で。
 ……お人好しで。
 快斗と一緒にいる時間が楽しかった。くるくる変わるその表情を見ているだけで苦しくなった。照れたようにはにかむ笑みも、痛いほど突き刺さる真剣な眼差しも、全部、全部。

「大好きだった…! ずっとずっと、俺はおまえが大好きだったんだ――快斗!」

 顔を覆っていた手を掴まれる。その手を痛いほどの強さで剥がされ、涙に濡れて赤くなった目が顕わになった。滲む視界の向こう、顔を歪めた愛しい男が唇を引き結びながら見つめている。その顔が今にも泣き出しそうで、新一はまた涙を流した。

「…俺、新一はずっと俺の中に親父を重ねて見てるんだと思ってた。親父のために、…親父に報いるために俺を守ろうとしてくれてるんだ、って…」

 その言葉に新一は小さく頷いた。
 確かに初めはそうだった。新一にとって盗一の存在はあまりに大きすぎた。快斗にとってもそれは同じことで、だからこそ快斗は盗一の影を追って怪盗の衣装を受け継いだのだが、より盗一の影に縛られていたのは、快斗ではなく新一だったのだ。
 持主の手元を離れた宝石たちを元いた場所へ戻す一方で、新一は常に快斗のことを気に掛けていた。いつ組織の手が彼のもとにまで伸びるか。いつ、黒羽盗一が怪盗キッドであったことに彼が気付くか。快斗は知らないだろうが、快斗の知らないところで新一はずっと快斗を守り続けて来たのだ。必要以上に踏み込まず、けれど決して離れずに。快斗が思っている以上に新一はずっと快斗の側にいたのだ。
 確かに快斗と盗一を重ねて見ていた頃もあった。幼い快斗が時折垣間見せる影が盗一を思い起こさせたこともあった。
 けれど今、盗一の面影を残す快斗の顔は、こんなにも似ているのにこんなにも違う笑みを新一に向けるのだ。親が子を慈しむような優しさではなく。同じ闇を抱く者の易しさでもなく。胸が焦がれ灼けつくほどの、烈しさで。

「盗一さんは俺に生きることを教えてくれた大事な人だ。だけど快斗――おまえが俺を生かしてくれる。おまえだけが俺を人でいさせてくれる。おまえがいなかったら…俺は生きていられない…」

 自分のことを心に想ってくれる誰かがいるから生きていられる。そう言ってくれたのは快斗だ。それなら自分が、これから先ずっと彼のことを想い続けるから。自分が、彼を永遠の孤独から守り抜くから。
 だから。

「俺と一緒に生きてくれるか…?」

 掴まれていた腕はいつの間にか解放されていて、新一はその手で快斗の襟をぐいと引き寄せた。二人の視線が間近でかち合う。滲んでぼやけた視界でも、快斗が微笑っているのが分かった。その顔が近づき、そっと新一の額に唇が触れた。

「その答えならとっくに出したはずだけど?」

 嬉しそうに、快斗は何度も何度も新一の顔に軽い口付けをおとした。

「俺もね、新一に言わなきゃいけないことがたくさんあるんだ。Rの秘密を知る内に、親父はあることに気付いた。なぜ新一と俺はこんなにもそっくりなのか? …その理由は、この印を見れば分かるだろ」
「――!」

 そう言って快斗が見せたのは、心臓の真上、新一のそれと同じ場所にある刻印だった。
 黒い羽を広げた見事なアゲハ蝶。蒼い蝶と対をなすようなそれに、新一は目を見開いた。

「黒羽の姓がどこから来たのか、俺は知らない。けど、親父の胸にあったこの印が俺が生まれた日に消え、今度は俺の胸に浮かび上がった。そしてこの砕けたパンドラが全ての答えだと思う」

 差し出された手の上に無造作に転がる大小の石の欠片を新一は呆然と見遣った。それはかつてパンドラと呼ばれ、欲の亡者どもの手を転々としてきたあの灰姫のなれの果てだった。どんなに砕いても熱で溶かしてもびくともしなかった石が、粉々に砕かれている。
 それは――呪縛が打ち砕かれた証だった。かつて絶望の内に引き離されたふたつの魂は、今漸くひとつになることができたのだ。

「おまえは俺の、俺はおまえの解放者だったんだよ」

 声もなく快斗の刻印を凝視していた新一は、その上にそっと指を辿らせた。トクトクと心臓の鼓動が伝わってくる。呼吸の度に僅かに動く蝶はまるで生きているかのようだ。その蝶を優しく撫でながら新一が呟いた。

「…俺は自由か」
「ああ」
「俺は、…人として生きていけるんだな」
「ああ、そうだ」
「人並みに、時がくれば死ねるんだなっ」
「そうだよ、新一。きっともう灰姫の声は聞こえない。体の痛みも、いずれ感じられるようになる。俺とともに生きて、俺とともに死ぬんだ」

 新一は――微笑った。涙で濡れた顔で、それでも綺麗に微笑った。それは今まで見たことのない笑みで、快斗は思わず息を呑んだ。
 初めてRに会った時、彼は皮肉を込めた笑みを見せた。初めて新一に会った時、彼は全てを受け入れたような静かな笑みを見せた。それからRと新一と過ごした多くの時間の中で、快斗は彼のいろんな表情を見てきた。堪らず笑ってしまったようなあどけない笑みも、哀しみを覆い隠した切ない笑みも。でも、いつでも、心のどこかに拭いきれない孤独を内包していた。
 今彼は、漸く心から微笑えるようになったのだろう。漸く、快斗に心を明かしてくれたのだろう。

「もう俺のこと拒まないでね?」
「うん…」
「もう無茶はしないで。新一も生きてるんだってこと、ちゃんと覚えててね?」
「うん…分かった」
「――好きだよ、新一」
「……うん」

 やがて安心したように微笑った快斗は、その体勢のまま新一に体を預けるようにして目を瞑った。首元に当たる快斗の唇が規則正しい呼吸を繰り返す。快斗が眠ったのだと気付いた新一は体を起こそうとして、けれど思い直すと、快斗の頭を抱えて自分も目を瞑った。
 たぶん、ずっと寝ていなかったのだろう。張りつめていた緊張の糸が切れ、それまで気付きもしなかった疲れがどっと押し寄せたに違いない。新一が姿を眩ましてから、快斗は寝る間も惜しんで新一の行方を探ってきた。そして漸く見つけた時、そのまま取るもの取らずに飛び出してきたのだ。疲れを癒す間もなく、息を吐く間もなかった。そんな状態でも快斗は新一を組織の手から救い出し、ここまで運んできてくれた。
 自分たちにはまだ問題が山とある。けれど今は全てを忘れて少しの間眠ることを、無慈悲な神でもきっと見て見ぬふりをしてくれるだろうと、新一も堕ちるように眠りに入った。



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