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怪盗キッドの戦いの結末

 快斗にとってそこは、とても特別な場所だった。
 己の人生において最も重要なふたつの存在――幼馴染の青子と初めて出会った場所であり、そしてまだ名前も知らなかった『彼』の存在を、己の魂の奥深くへと刻み込まれた場所でもある。
 時告ぐる古き塔が二万の鐘を歌った、まさにそのとき、東の空より飛来し、白き罪人たる怪盗キッドを滅ぼした光の魔人――工藤新一、その存在を。
 快斗は時計台の上、普通なら一般人が立ち入ることを許されない、巨大な鐘を支える支柱のひとつに背を預けながら、眼下に広がる夕陽に沈みゆく町並みを見つめていた。
 いつもなら、この時計台の真下にあるホールでちょっとした路上パフォーマンスを披露しているのだが、今日は違った。『関係者以外立ち入り禁止』の警告を無視し、かつての怪盗よろしく建物内へと潜り込み、柵ひとつない、この吹きっさらしのステージに立っている。
 ここから見渡す景色は、快斗にとってはとても慣れ親しんだものだった。この町に暮らし、この町で育った。愛すべき世界だ。

「――見ているだけでいいのかしら?」

 その背に声を投げられ、快斗は背後にちらりと視線を向けた。そこに人影はない。気配も感じられない。しかしだからこそ声の人物に思い当たった。
 しばらく視線を向けたまま凝視していると、丁度対角線になる柱の影からひとりの女が姿を現した。レザーのライダースーツを身に纏った、豪奢な金髪の長身美女。

「……ベルモット」

 警戒も露わに声も低くその名を呼べば、女――ベルモットは、ふふ、と吐息で笑いながら軽く肩を竦めてみせた。

「そんなに警戒しなくても平気よ。今の私は爪も牙も折られて、鎖で繋がれたただの猫も同然」

 あの組織の幹部にして、『千の顔を持つ魔女』と呼ばれた女が、ただの猫とは。聞いて呆れる。快斗は警戒を緩めることなく、ただ爪と牙を隠しただけの女豹をじっと見つめた。
 彼女がなぜあの組織にいたのか、そして組織が壊滅した今、なぜ牢獄に繋がれることもなくこうして外に出ることを許されているのか――詳しい経緯を聞いたわけではないが、ある程度の推測はしている。
 彼女は、ある意味で快斗と似た立場にいる人間だ。己の目的を遂行するために、罪にその手を染めた。しかし快斗と彼女とで決定的に違うのは――人を殺すという、その一線を越えたか否か。
 けれど今となっては、それも虚しい戯言だろう。直接手を下したわけではない。だが、多くの命を奪った。
 快斗もまた、平凡で幸福な、なにも知らなかった頃の日常に戻ることなど、もうできなかった。

「……で、その『鎖』とやらはどこだ? 近くにいるんだろ?」

 いくら組織壊滅の一端を担ったと言っても、ベルモットはFBIの赤井秀一やCIAの本堂瑛海、日本の公安の降谷零のように組織に潜入していた諜報員とは立場が違う。紛うことなき犯罪者だ。その彼女が一切の監視もなく外を出歩けるはずがない。それを揶揄しての『鎖』だろう。
 案の定、柱の影からはもうひとつの人影が姿を現した。柱を挟んでベルモットとは逆側から現れたのは、警視庁警備局警備企画課に所属する公安警察官、降谷零、その人だった。

「……なるほど? ここは日本。管轄で言うなら、FBIよりも公安の方が適役、ってわけか」

 快斗は中途半端に向けていた体を向け直すと、レザージャケットにチノパン姿の降谷と向かい合った。
 この男との面識は、ほとんどない。彼がまだ組織に潜入していた頃に、ベルツリー急行で偽りの姿で対面したことや、組織壊滅プロジェクトの一端で何度かコンタクトを取ったことはあるが――その全ては新一を介し、『怪盗キッド』として行ってきた。
 つまり、黒羽快斗としてこの男の前に立つのは、これが初めてである。

「……驚いた。コナン君――工藤君にも相当驚かされたが、まさかあの怪盗キッドまでもが、こんなに若い学生だったとは」

 日本の公安警察官である降谷は当然、怪盗キッドの存在を知っていた。そして組織壊滅プロジェクトに加担する者として、その世界的に有名な怪盗がこのプロジェクトの重要なファクターを担っていることを知る、数少ない人間のひとりでもあった。
 だが、降谷が知っていたのは、キッドとコナンがなぜか協力関係にあり、そしてキッドに連絡を取ることができるのはコナンだけ、ということのみだった。ベルモット同様、変装が得意な怪盗がいったいどこに潜り込み、なにをしているのか。小出しに情報を与えられることはあっても、全てを知るのは小さな探偵だけだった。
 しかしそれも、怪盗という、そもそもが犯罪者であることを鑑みれば当然だろう。本来ならコナンを尋問してでも怪盗の正体を暴くのが警官として正しい姿なのだろうが、降谷も、警視庁の小田切も、そしてFBIの赤井でさえも、それをしなかった。
 しかしなにもそれは、共通の敵と戦う仲間意識、などではなく。

「いいのか。引退したと言っても、過去は消せない。我々が君の正体に目を瞑ったのは、彼を――工藤君を危険にさらさないためだ」

 プロジェクトのブレインを担った、江戸川コナン。その正体が、組織に殺されたはずの高校生探偵、工藤新一であることを知っているのは、降谷とFBIの赤井、ジェイムズ、ジョディ、そして怪盗キッドだけだった。ここにいるベルモットや警視庁の小田切も薄々気づいていたようだが、コナンが自ら正体を明かしたのは、この五人だけだ。
 だからこそ、FBIも降谷も、怪盗とただひとり接点を持つ工藤新一の周囲を探って怪盗の正体を暴く、という行為を自らに禁じた。自分たちのどんな行動から組織の連中に目をつけられるか分からないからこそ、プロジェクトのブレインである工藤新一を守るために、これまで怪盗の正体には一切触れずにきたのだ。
 だというのに、ここにきて、こうして自ら正体を明かしてみせる理由はなんなのか。よもやこの怪盗が『うっかり』正体をさらして『しまった』などとは疑うべくもない。彼はあの工藤新一と同じ場所に立ち、同じ世界を見ている男だ。
 いっそ怒りすら滲むような鋭い視線で睨む降谷を見返し、快斗は静かに告げた。

「――あいつを、守るため」

 赤く燃える太陽を背負って逆光となった顔、そして吹き抜けていく風に黒いスタジャンを靡かせるその姿に、ベルモットも降谷も、白いマントの幻影を見た気がした。

「俺がこれまで正体を明かさなかったのは、そうする必要がなかったからだ。……まあ、ベルモット……あんたには分かっていただろうけど」

 ちらと視線を投げれば、ベルモットは目を瞑りながらひょいと肩を竦ませた。その口元には笑みが浮かんでいる。
 ベルモット――正しくは大女優シャロン・ヴィンヤードだが――は、快斗の父親である黒羽盗一に弟子入りして変装術を学んだ過去を持つ女だ。初代怪盗キッドと接点を持ち、その息子である快斗の存在も知っていた彼女なら、二代目怪盗キッドの正体を推測するのにそれほど苦労はなかっただろう。

「怪盗キッドは、あの戦いにおけるワイルドカード――工藤新一にしか使えない、切り札だった。だけど俺の戦いが終わった今、この先の戦いにあいつは二度とそのカードを使わないだろう」

 快斗の悲願であった、パンドラの破壊は成し遂げた。最早快斗が『怪盗キッド』である必要はなくなった。たとえ、この先も続くだろう工藤新一の戦いをキッドとして助けようと言ったところで、彼は絶対に首を縦に振らないだろう。快斗の戦う理由が「工藤新一を守りたい」という、ただそれだけだと、分かっているから。
 けれど、もちろん、そこで大人しく手を引くつもりなど、快斗には毛頭ないのだ。
 怪盗キッドの戦いは終わった。シルクハットにタキシード、マントを靡かせる怪盗紳士は二度と現れないだろう。
 だが、それはただの衣装に過ぎない。タキシードを脱ぎ捨てたところで、黒羽快斗が世界を魅了した大泥棒であることは変わらない。
 だから快斗は、燃える夕陽を背負いながら、まるで月光に照らされた彼の怪盗の如く不敵な笑みを浮かべて言うのだ。

「見ているだけでいいのか、と聞いたな。もちろん、そんなつもりはない。衣装は脱いだ。だが、ステージを降りる気は――ない」

 あの頃とは違う、黒いスタジャンにジーンズの、どこにでもいる学生姿で。
 けれど纏う空気は、あの巨大な組織を壊滅させた怪盗紳士と、遜色劣らぬ烈しさで。
 その返答に満足したように、ベルモットもまた悪い笑みを返した。

「ふふ。それを聞いて安心したわ。やはり貴方は、『こちら側』に立つ男……」
「一緒にされたくはねーけど、敢えて否定もしねーよ」
「あら、いいじゃない? キングを守るナイトは、多いに越したことないでしょう?」

 カツンカツンとヒールを踏み鳴らし、ベルモットは快斗へと歩み寄った。そしてあと一歩の距離を空けて立ち止まったかと思うと、すっと持ち上げた右手の人差し指を、快斗の胸にトンと突きつけた。

「貴方も、私も。守りたいものを守るために、この手に剣を握っている。ハリボテじゃ意味がないの。鋭く研がれた刃でなければ、なにも守れない」
「…………」
「覚えておきなさい、ファントム・キッド。これは私と貴方にしかできないことよ。たとえ同じ泥に沈んだことのある、バーボンやライにもできないこと。私と、そして貴方の心臓を撃ち抜いたシルバー・ブレットを守れるのは、私たち二人だけ」

 真っ直ぐと見つめてくるベルモットの目を、快斗もまた逸らすことなく真っ向から見返した。彼女の言いたいことを、快斗は正確に理解していた。
 工藤新一を守るものは大勢いるだろう。しかし、ベルモットと快斗は彼らとは違う。あらゆる柵を捨てて、工藤新一というキングを最優先にして守ることのできるナイト。それが自分たちだ。
 それは、この手を罪に染めることであったり。そして――己の命すら、投げ出すことであったとしても。

 その様子を少し離れた場所で見ていた降谷は、小さく溜息を落とした。
 世界を股にかけた大怪盗と、世界的犯罪組織の幹部を務めた女。世界中の警察機構が喉から手を出して欲しがるだろう大犯罪者二人が、たったひとりの少年を守るため、こうして睨み合いながらも手を携えようとしている。
 本来なら、是が非でも引き離すべき場面なのだろう。目の前で取り交わされようとしている取引、それを押さえるのが公安警察官である降谷の本来の役目である。
 だが、降谷はなにも言わなかった。
 江戸川コナン、そして工藤新一という少年は、降谷にとってもまた、特別な存在だったから。
 まだ組織に潜入していたときから、彼には公安としての正体を見破られていた。しかしそれを吹聴するどころか、彼はこちらが舌を巻くほどの演技力で知らぬふりを隠し通し、ときには正体がばれそうになった窮地を救われたことさえあった。
 小さな体に、アンバランスすぎる頭脳。その正体が高校生探偵の工藤新一だと知った今でも、自分よりも一回りも年が離れた子供であることに変わりはない。その子供に、自分も、FBIも、CIAも、そして世界中にその根を蔓延らせた犯罪組織でさえも、踊らされて。
 末恐ろしい子供だと思う。慧眼と称してもまだ足りない、まさに神か、悪魔の眼を持った子供。
 その子供を――降谷もまた、守りたかったのだ。自分にできる限りの、手を尽くして。



「頭の固い日本の公安警察の貴方が、まさかキッドとの手引きをしてくれるとは思わなかったわ」

 降谷の愛車、白のRX―7の助手席に大人しくおさまったベルモットが、いつぞやかのように片肘をついて窓外を眺めながら、ぽつりと零した。
 この逢瀬を言い出したのはベルモットだ。どういう手段を使ったのかは分からないが、怪盗キッドである黒羽快斗からの招待に応じ、こうして時計台へと足を運んだのだ。
 しかしそれには、現在日本で彼女を拘束している、彼女の監視役を務める降谷の承認が必要だった。降谷の許可がなければベルモットは外に出ることはできず、できたとしても監視の目を潜り抜けるしかなかったため、彼女をより不利な立場へと追い込んだだろう。
 その要求に応じた降谷を、意外だと、ベルモットは揶揄したのだが。

「――彼と、同じですよ」

 ハンドルを握りながら、降谷はフと苦い笑みを浮かべた。
 工藤新一を守るため。
 そう言った子供の、真っ直ぐで迷いのない澄んだ眼差し。
 ……振り払えない柵に縛られたこの身を口惜しく感じてしまうほどに、ほんの刹那、その眼差しを、羨ましい、と感じてしまった。それは誰にも言えない秘密だ。

「僕は、僕にできる方法であの子を守る。だから貴方は――貴方たちは――貴方たちにしかできない方法で、あの子を守ってください」

 だからそれは、降谷の心からの言葉だった。
 それを分かっているだろうに、ベルモットは愉しげにくいと口角を吊り上げたかと思うと。

「それは、公安として?」
「意地悪ですね。もしそうだとしたら、仲間に秘密で貴方をこうして連れ出すわけがないでしょう」

 既にこの行為は公務を逸脱している。分かっていて、キッドと彼女を引き合わせた。
 そんな降谷に、ベルモットは声をたてて笑った。そうして一頻り笑ったあと、降谷から顔を背けて窓外を見つめながら、呟いた。

「私、貴方のこと、大嫌いだったけど。ほんの少しだけ、好きになれそう」



 ***

 新一と暮らしているマンションに戻ってきた快斗は、ここに出入りする際に施している変装を早々に解き、新一がいるだろうリビングに向かった。
 そこでは、リビングのローテーブルに置かれたノートパソコンの前で突っ伏して眠っている新一がいた。恐らくは各国の警察機関から届けられる情報を整理していたのだろうが、それに疲れて眠ってしまったのだろう。今も次々と奔流のように届けられるメッセージがパソコンに映し出されている。
 それをそっと閉じ、快斗は眠る新一の背中と膝裏に腕を回して抱き上げた。流石に気づいた新一が小さく唸りながら寝ぼけ眼を開けるのへ、瞼に軽く口付けた。

「ん……かい、と……おかえり」
「ただいま。新一もお疲れ様」
「いや、まだ、とちゅう……」

 やりかけていたことを思い出し、卓上のパソコンをのろのろと振り返る新一を、快斗は問答無用で寝室へと連れ込んだ。

「んな寝ぼけた頭でやったって効率悪ぃだろ。晩飯できたら起こしてやるから、それまで寝てろ」

 引き篭もりなのをいいことに、昨日も夜遅くまでパソコンと睨み合っていたことを快斗はちゃんと知っていた。快斗だとて手伝えるのだが、新一は『黒羽快斗』が警察機関と関わることを良しとしなかった。
 ……だからこそ、彼らとは一線を画するベルモットと接触を図り、別ルートからの情報源を確保するしかなかったのだが。
 まさか公安の降谷零とも繋がれたのは、嬉しい誤算だった。

「……なんか、機嫌いいな」

 ベッドに下ろした新一にキスを贈れば、新一は擽ったそうにそれを受けながらも、快斗の微妙な変化を敏感に感じ取ったらしい。
 しかしそれを悟られる快斗ではない。

「そりゃあ、新一との新婚生活満喫してるんだもん。嬉しくないわけないだろ?」

 誤魔化すための嘘どころか、まったく心からの本音を口にすれば、新一の顔がボッと赤く染まった。

「なっ、し、新婚ッ……?」
「そうだよ。だって新一、プロポーズしてくれただろ?」
「プロポーズ……!」
「違うの?」
「ち……違、わねえ、けど……!」

 みるみる赤くなっていく新一に、快斗は極上の、それでいて今にも泣き出しそうにも見える笑みを浮かべながら言った。

「俺を、幸せにしてくれるんだろ……?」

 いつか――いつか、この手から離れてしまうときが来たとしても。決して離さない。
 いつか永遠に別れなければならないときが来たとしても、絶対に手放さない。
 キッドの戦いは終わったけれど、黒羽快斗は、工藤新一とともに戦い続ける。

(たとえ血反吐を吐くような戦いの中でも、新一がいるなら、俺は世界で一番幸せになれる、から)

 その言葉をどうか忘れないでくれと――今はただ、祈りを捧げるように瞳を閉じた。
 
 
 
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