忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ねじれた感情

 ――見つけた。
 その石を目にした瞬間、それこそが快斗がずっと探し求めていた宝石であることを確信した。

『――信じて頂けたでしょうか?』
『Oui, mademoiselle.』



 その日、快斗はいつものように時計台前の広場で路上パフォーマンスを行っていた。
 まだ始めたばかりの頃は、観客と言えば広場で遊んでいる子供たちがメインだったのだが、人が人を呼び、いつの間にかわざわざ快斗のマジックを見に足を運んでくれる大人たちの姿が多くなっていた。
 その中に、ひとり異質な空気を持った外国人の老紳士が混じっていることに、快斗は始めから気付いていた。純粋にマジックを楽しみにしている客とは違い、男の目は快斗そのものを興味の対象としている節がある。
 けれど男の放つ気配は快斗が常に警戒している類のものではなかったため、ひとまず目の前のギャラリーを満足させるべく、今日も最高のショーを披露して見せた。

『素晴らしい腕をお持ちですね』

 ショーが終わり、ファンと名乗る女の子たちから花やら差し入れやらを受け取っていた快斗のもとに、ショーの間中終始無言で見物していた老紳士が歩み寄ってきた。見た目を裏切らぬ英語での会話に、快斗の周りにいた女の子たちが遠慮するように去っていく。

『……有り難う御座います。残念ながら、最後まで貴方を驚かすことはできなかったようですが』

 言外にこちらもそちらを気に掛けていたのだと告げれば、男は慌てたように頭を下げた。

『これはとんだ失礼を……! 驚きよりも懐かしさが勝っておりましたもので、つい……』
『懐かしい?』

 自分の記憶の中に存在しない初対面の相手に首を傾げれば、男は胸ポケットから一枚の紙を取りだし、それを手渡しながら言った。

『まるでお父上のマジックを見ている心地でした。宜しければ、一度こちらをお訪ね下さい。『赤い涙』について貴方様にお話ししたいことがあると、主が申しております』

 その台詞に、快斗は自分の心がざわめき立つのが分かった。
 ――『赤い涙』。
 そんな単語は、快斗が探し求めているものを知らなければ到底口に上ることのないものだ。
 快斗の変化にも気付かず、男は頭を下げると踵を返してしまった。たとえ僅かであったとしても、殺気を抱く相手を前にこんなにも無防備に背を向ける男が組織の関係者だとは思えない。
 だが、彼はパンドラのことを知っていた。父のことも。

(罠か、それとも本物か……?)

 迷ったのも一瞬で、快斗はすぐに思考を切り替えた。
 罠でもなんでも、確かめずにおくわけにはいかない。これが真にパンドラの情報なら万々歳だし、たとえ罠でも、その時は容赦なく叩き潰すまでだった。



 男から渡された紙に記されていたのは、新宿にある高級ホテル、それも最高級スイートルームだった。怪盗家業のためにこっそり築いた財産をを表立って使うことのできない一高校生男児には、一生足を踏み入れることはないだろう場所である。
 マジシャンの黒羽快斗として招待された快斗は、高級ホテルのスイートルームを訪れるのに恥ずかしくない程度の正装で、扉をノックした。既にフロントに頼んで来訪は告げてあったため、程なくして扉が開いた。

『よくぞお越し下さいました、黒羽様。奥で主がお待ちです』

 昼間の老紳士に相変わらずの低姿勢で招き入れられ、快斗は気を張りつめながらも部屋の中へ足を踏み入れた。
 天高く月が昇った今、正面に張られた硝子の向こうには東京の目映い夜景が広がっている。それを見た者なら誰もが感嘆の溜息を漏らすだろう光景を前に、けれど夜景など見慣れた快斗は特に感動した様子もなく、奥で待つ『主』様のもとへと向かった。
 革張りのベージュのソファに腰かけていたのは、ソバージュがかった柔らかそうなブロンドが美しい、透き通るような白い肌をした美女だった。すっと背筋を伸ばした姿、膝の上で重ねられた両手は、上流階級らしい気品に満ちている。どこから見ても文句なしの良家の子女だ。
 まだ二十代にしか見えない彼女が老紳士の言う『主』なのだろう、彼は彼女の脇に控えるようにひっそりと立った。

『今宵はお招き頂き有り難う御座います、マドモアゼル・モンティジョ』

 そう言って快斗はどこからともなく取り出したユリの花束を彼女へ渡した――流暢なフランス語で。
 彼女は僅かに瞠目した後、薔薇色の唇に花のような笑みを浮かべると、フランスの国花とも言われるユリの花束を受け取った。

『さすがは盗一様の御子息、いえ――我がフランスが生んだ怪盗紳士でいらっしゃいますね』
『フランス訛りの英語を話す従者を持つスイートルームの宿泊者となれば、かなり限られますからね。失礼ながら、一通り調べさせて頂きました』

 怪盗云々には敢えて触れず、快斗は軽く頭を下げた。
 男の話す英語は完璧な発音だったが、他人の声色からイントネーションに至るまで見事に模写してしまう快斗だからこそ、その微妙な差異に気付くことができたのだろう。男がフランス人、或いはフランス語を日常的に使う人物なら、その彼の主たる人物もまたフランス語圏の人間である可能性が高い。後は近頃日本に入国したフランス人、それも高級ホテルのスイートルームに泊まれるような人物を割り出せばいい。航空会社の乗客名簿に該当者がいなかったことから、自家用ジェットの可能性に切り替えて調べたところ、それはすぐにヒットした。
 ――古くから続くフランスの名門貴族のご令嬢、マリー・アンヌ・ド・モンティジョ。その彼女が秘密裏に来日し、快斗に接触してきた目的はなんなのか。
 少し調べた程度では、相手に会う前の予備知識程度の情報しか手にすることはできなかった。

『僕に話したいことというのは、どのようなお話ですか?』

 単刀直入に本題を切り出した快斗は、マリー・アンヌのほっそりとした右手に促され、彼女の向かいに腰かけた。

『その前に、私について知って頂きたいことがあります。貴方も気になっておられることかと思いますが、私と盗一様との関係についてです』

 それに快斗は静かに頷きを返した。

 彼女が盗一と出会ったのは、彼女がまだ五歳の頃のことだった。当時まだ駆け出しのマジシャンだった盗一は、アルバイトで日銭を稼ぎながら、パリの郊外で路上パフォーマンスを行っていた。無名の、それも東洋人のマジシャンの噂は密やかに、けれど確実に広まっていた。
 そんな時に、彼女の父モンティジョ伯爵と盗一は知り合った。
 考古学の権威として世に知られていた伯爵は、たまたまパリで開かれた学会に出席した帰り、盗一の路上パフォーマンスを目にした。そして一目で彼のマジックとその人柄に惚れ込んでしまった伯爵は、自身が若い頃にマジックを囓っていたこともあり、ぜひ後援者にならせてくれと申し出た。
 盗一はあまりに突然のことにその場は返事を保留にして貰ったのだが、その後の熱心なアプローチに負けて、結局厚意に甘えさせて貰うことになったのだ。そうして盗一がパリに滞在中は、伯爵の家で世話になることになった。

『それから二年もしない内に、盗一様はプロマジシャンとして華々しくデビューされました。それでも相変わらずパリにいらっしゃる時は家に泊まって下さいましたし、私もよく遊んで頂きました』

 ありがちな話だが、父親以外で身近にいた初めての異性として、盗一はマリー・アンヌにとって憧憬とも言うべき初恋の人であった。伯爵は当然そんな彼女の幼い恋心に気付いていたけれど、なにも言わずに温かく見守ってくれた。早くに母を亡くし、父子二人きりの生活だったけれど、時折訪れる盗一と、いつしか彼に連れ添うようにして現れるようになった素敵な女性とともに、彼女は幸せな毎日を送っていた。

『ですが、そんな私たちをある悲劇が襲いました』

 彼女の家は、古くはフランス王家に連なる由緒ある血統だった。そのため、代々受け継がれてきた家宝と呼ぶべき逸品が数々残されていた。
 その中のひとつ、世にビッグジュエルと呼ばれる大粒の宝石が狙われ、――悲劇が起きた。
 宝石を狙った賊に襲われ、危うく命を落としかけたマリー・アンヌを庇い、伯爵が殺されたのだ。家宝こそ盗られはしなかったが、彼女はそれよりもずっと尊いものを、唯一の肉親であった父を奪われたのだった。

『私は、父を殺した賊を憎みました。この先の自分の人生、その全てを擲ってでも、父を殺した賊を殺してやりたい。そう思いました』

 けれど、伯爵の訃報を聞いて妻とともにすぐに駆けつけた盗一が、彼女を踏み止まらせてくれた。

『憎しみで憎しみを消すことはできない。それでも父の死に報いたいのなら、決して血を流さない方法で報いればいい。そうすれば、君を誰より愛していた父上が悲しむこともないはずだから、と』

 彼女の悔しさを否定せず、尚かつ道を踏み外しかけていた彼女を優しく諭してくれた。
 父を悲しませたくない。けれど、父を奪った者たちは許せない。
 ずたずたに傷付けられた未熟な心で必死に足掻くマリー・アンヌに手を差し伸べてくれたのは、やはり盗一だった。

 ――この日、平成の世に再びアルセーヌ・ルパンが生まれた。

『盗一様はこの宝石を狙う者から私を守るため、そして父を殺した者たちを誘き出すため、かつてフランスの偉大な作家が生み出した怪盗紳士に自ら扮して下さいました』

 このまま宝石を彼女の手元に置いておいては、再び賊がそれを奪いに来るかも知れない。そうなれば彼女の命も危うい。
 その危険性を憂慮した盗一は、大胆な行動に出た。自ら盗人となり宝石を盗むことで、賊の目を自分に向けさせたのだ。そうすることで彼女を危険から遠ざけ、尚かつ彼女から父を奪った者たちを誘き出した。
 そしてその日から、黒羽盗一と石を狙う組織との戦いが始まったのだった。

 父らしいと言えばあまりにらしすぎる理由に、快斗は唇を噛み締めながら俯いてしまった。
 たったひとりの少女を助けるために、怪盗となることを決めた父は格好いいと思う。全てを警察に委ねることもできたはずなのに、自分の手で、力で、誰かを守ろうとする父は心底誇らしい。
 けれど――たとえどんな理由があったとしても――もう二度と会えないという事実は変わらない。それが、ただ、哀しかった。

『……ひとつだけ、恨み言を言わせて貰っていいですか』

 快斗の囁きに口元を引き締めながらも、マリー・アンヌは毅然と頭を下げた。
『覚悟しております。あなた方ご家族から盗一様を奪ったのは私も同然です。いえ、危険を承知しておきながら自らの私怨のためにあの人を止めなかった罪はなによりも重いものであると存じ上げて、』

『――笑ってよ』

 遮るように言われた言葉に、マリー・アンヌは瞠目した。
 顔を上げれば、ぎこちないけれどそれでも笑った快斗が優しい眼差しを向けてくれている。その面影はやはり彼の父とよく似ていて、彼女の視界は徐々に歪み始めた。

『貴方、笑う時に眉が下がるんだ。俺やおふくろや親父への罪悪感でいっぱいで、もうずっと笑ってないんだろ? 親父は貴方の笑顔を守りたかったはずなのに、それじゃ報われないよ』

 なぜ、彼は笑いかけてくれるのだろう。辛くないはずがないのに。苦しくないはずがないのに。
 それでも人を許し、愛せる強さを――自分も持てるようになれるだろうか。

『私、……盗一様のお墓にお参りさせて頂いても宜しいでしょうか……? この八年間、ずっと貴方や千影様に申し訳なくて……それ以上に、私と関わることでお二人を危険に曝すことが怖くて……ずっと、行けなくて……』

 怪盗キッドの正体が黒羽盗一であると組織に気付かれたのは、宝石の所有者であったモンティジョ伯爵と盗一の関係に気付かれたからだ。たとえ有名マジシャンの墓参りだろうと、これ以上彼女が盗一との関わりを仄めかせば、組織は盗一がキッドであったことをより強く確信し、残された家族にまで害が及ぶかもしれない。
 そうなることを恐れて、彼女は千影との交友も断ち切り、まるで隠れ住むように暮らしてきた。そうしていつの間にか心から笑うことなど忘れてしまった。

『いつでもおいで。きっと母さんも気にしてるはずだから』

 静かに涙を流す彼女にハンカチを差し出せば、彼女は泣きながらもにこりと笑みを浮かべた。

『――ところで、その宝石は今どこにあるの?』

 怪盗となった父が盗み出したと言っていたが、快斗の部屋に仕掛けられていたあの隠し部屋の中にそれらしいものはなかった。第一、そんな大変なものをそこらへんに転がしておくとは思えない。まさか父が死んで、在処が分からなくなってしまったのだろうか。

『いえ、今は私の手元にあります。盗一様とスイス銀行に預けていたものを、先日私が出して参りました』
『――スイス銀行!』

 プライベートバンクにおいて世界一の伝統と実績を誇る、あのスイス銀行に預けていたというのか。それは如何に組織の者であっても、たとえその情報を手に入れたところでそう易々と手は出せないだろう。それどころか、下手をしたら二度と世に出ない可能性だってあったかも知れない。

『探しても見つからないわけだ……』

 すっかり仰天してしまった快斗だが、不意に居住まいを正したマリー・アンヌにつられて姿勢を正した。

『実は、貴方にお話したいことというのは、その宝石についてなのです』

 彼女が視線を向ければ、脇に控えていた老紳士が心得たように部屋のセーフティボックスから木箱を取りだし、彼女に手渡した。
 両の掌に丁度載せられるくらいの木箱だ。そう――ビッグジュエルと呼ばれる宝石を保管するには、丁度いい大きさの。

『これがその、我が家に伝わる家宝のひとつ、〝la larme rouge〟です』

 そう言って彼女は木箱をテーブルの上に置き、丁寧に蓋を開け、快斗の前に差し出した。
 『la larme rouge』――英語に直訳すれば『the red tear』、つまり『赤い涙』である。その名の通り鮮やかな紅色の宝石だった。

(これが……パンドラ……)

 その石を目にした瞬間、それこそが自分がずっと探し求めていた宝石であることを快斗は確信した。
 ホテル特有のオレンジ灯の光を受け、深い紅の輝きを放っている。それは想像していたような禍々しいものではないけれど、確かに人の心を魅了する不思議な力を持っていた。

『この宝石には逸話があります。十八世紀にとある錬金術師が生成したものだと伝え聞いているのですが、満月の光に翳すと赤い滴を零すと言われているのです』

 やはり、パンドラの伝承と合致する。しかし嘘か誠か、一万年に一度地球に近づくというボレー彗星と関連づけるには、この宝石が作られた時期が十八世紀だと歴史が浅すぎる。それとも、その錬金術師とやらがこの宝石を生成する原料として用いたものこそがパンドラだったのだろうか。
 とは言え快斗にはパンドラどころか、ボレー彗星と呼ばれる彗星が実際に存在するのかどうかも、正直なところ分からなかった。特定の周期で地球に接近する周期彗星の中で現在確認されているのは、最長のものでもおよそ三七〇年。一万年もの周期を持つ彗星があるとは思えない。
 いや――そもそも、パンドラが不老不死を与える石なのだとしたら、一体誰がそれを証明したというのか。一万年も生きてきた人間が、どこにいるというのか。

『……失礼だけど、貴方はこの石が不老不死を与えると信じてるの?』

 この宝石を家宝として受け継いできた人に対して、その宝石の真偽を確かめるようなことを尋ねるのは失礼なことだろう。そう思いながらも遠慮がちに尋ねれば、彼女は緩く首を振った。

『いいえ。そもそもこの宝石にそんな伝承はありません。考古学者だった父の手元に、たまたま古い伝承の一部と類似した逸話を持った宝石があったために、誰かが勝手な憶測を立てたのだろう、と……盗一様は仰いました』

 石があったから考古学者となったのか、考古学者となったから石の価値に気付いたのか。そんなことは彼らにとってどちらでもいいのだ。ただ過去の遺物や伝承の研究に携わっていた男の手元に曰く付きの宝石があった、その事実が、彼らにその石が自分たちの探し求めていたものだと思わせてしまったのだろう。

『伝承にある『命の石』が本当に存在するのか、それは私にも分かりません。ですが、父を殺し、盗一様を殺し、そして貴方の命までをも奪おうとしていた者たちが『パンドラ』と呼び探していたのは、間違いなくこの宝石です』

 信じて頂けましたでしょうか、と尋ねる彼女に、快斗はしっかりと頷いた。
 この宝石が確かに組織が探しているパンドラであることは分かった。だが、では、この宝石を砕けば全ては終わるのだろうか。人々の心の中から不老不死などという馬鹿げた夢が消えることはなくとも、少なくとも母を苦しめ、彼女を苦しめ、自分を苦しめてきた者たちからその愚かな願望を奪うことができるのだろうか。
 この衣装を脱ぎ捨て――『彼』のもとへ行くことが、できるのだろうか。
 感情の見えない眼差しでじっとパンドラを見つめたきり微動だにしない快斗を見て、マリー・アンヌは胸に秘めていた決意を口にした。

『快斗様。どうかこの宝石を受け取っては頂けないでしょうか』
『……え?』
『私は、もう二度とこの宝石を世に出すつもりはありませんでした。愛する人たちを苦しめた宝石に憎しみこそ抱けど、愛着など微塵も持ち合わせておりませんでしたから。ですが、今、貴方にはこれが必要なのでしょう? 八年の沈黙を破って甦った怪盗の目的は、この石の破壊なのでしょう?』

 全てを見透かされていることに戸惑ったのは一瞬で、彼女も同じ憎しみを抱いたことのある復讐者だったのだと思えば、敢えて自分を繕う必要はないのだと、快斗は肩の力を抜いた。

『……いいの? 俺はパンドラを塵も残さずこの世から葬り去るつもりだよ』
『そうして頂くことが、私の望みでもあるのです』

 一片の迷いもなく言い切ったマリー・アンヌに、すっかり根負けした快斗は苦笑を漏らした。

『分かった。折角の厚意だし、有り難く頂いておくよ』
『よかった……!』

 安心したように両手を合わせて胸の前で握り締める彼女に、「ただし」、と快斗は人差し指を口元に宛いながら、まるで夜を駆ける気障な怪盗が如く冷涼な気配を一瞬にして纏った。それだけでまるで室内にあの涼やかな、背筋をすっと這い昇る静かな冷たさを持った夜の気配が充満したように感じる。
 少年の背後に広がる夜景がスポットライトとなり、黒いスーツが純白のタキシードに変わる。その、圧倒的な存在感。
 今彼女の目の前に座るのは少年でもマジシャンでもなく、夜の支配者たる月下の奇術師――怪盗キッドだった。

『ただし、ステージはこの私が用意します。貴方はどうぞ、怪盗キッドの最後のショーを、ごゆるりとご堪能下さい』



 ***

 ここからおよそ五キロほど離れた上空に、闇に包まれた米花市を真昼のように照らし出すサーチライトの光を撒き散らしながら、十機ほどのヘリコプターが旋回していた。いくら凶悪犯罪の発生率が高い東京と言えども、これほど厳重な警備が行われる事件はひとつだけだ。つまり、この物々しい警備は全て怪盗キッドのためだけに用意されたステージなのだった。
 存在こそしているものの、事実上解散させられた対策本部でこれほどの警備が行えるのも、偏に長年キッドを追い続けてきた中森警部の熱意と強引さがあってのことだろう。その彼との追いかけっこも今夜が最後なのだと思えば、不思議と名残惜しさを感じる。目的を果たすための手段でしかなかったはずの怪盗業が、いつの間にか自分の生活の一部になっていたのだ。
 それでも、父の残したこの衣装に一抹の寂しさは感ずれど、全てを終わらせて『彼』のもとへ行くことに、快斗にはなんら躊躇いはなかった。

(見てるかな……しんいち……)

 次第に高まってゆく鼓動は、これから行おうとしている最後のショーに向けての緊張なのか、それとももうじき『彼』に会えることへの喜びなのか。
 それは快斗にも分からなかったけれど、緊張を解すように、気持ちを高めるように、胸の奥にいつも大事に仕舞い込んでいる携帯電話をぎゅっと握り締めた。



 毎年この時期に米花博物館で開かれる『世界の宝石展』に、今年はフランスの貴族、マリー・アンヌ・ド・モンティジョ伯爵令嬢から、これまで門外不出だった家宝のビッグジュエル『赤い涙』を借りることになり、米花博物館側が喜んだのも束の間。契約が決まった翌日に怪盗キッドから予告状が届き、館長は卒倒したという。下手をすれば国際問題にも発展しかねない状況に館長は慌てて警察に届け出ると、その責任をさっさと警視庁へと押しつけてしまった。

「心配せずとも、我々日本警察が必ず宝石を守ってみせますよ!」
『有り難う御座います、ムッシュー・ナカモリ』

 館長室の応接セットに腰かけながらゆったりと微笑んだパリジェンヌに、その場にいた者たちはうっすらと頬を染めた。
 いつものようにキッドの捕り物に参戦している白馬はどこか浮かない表情を浮かべながらも、今はフランス語が話せない中森に代わって通訳をしていた。

「それにしても、キッドの奴はなにを考えとるんだ? ワシや白馬探偵はともかく、モンティジョ嬢にまで同席するよう指定してくるとは……」

 刻々と迫り来る予告時間に向けて万全の態勢を整えつつも、いつもと違う怪盗の様子に中森は首を捻った。
 今回の予告状は暗号ではなく、単純に標的と犯行時刻が記されており、更に中森警部を始め捜査本部の警官全てと白馬探偵、それから宝石の所有者であるモンティジョ伯爵令嬢までもが同席するようにと記されていた。
 しかし、まるで関係者全てを集めようとするキッドの指示に一抹の不安を覚えたのは、怪盗の存在理由を垣間見た白馬だけだった。

(黒羽君……もしかして君は、今夜の犯行で……)

 ぎゅっと握った拳を見つめ、白馬は唇を噛み締めた。

『――Ladies and gentlemen!!』

 と、唐突に館内全て、いや、博物館の周りに屯する野次馬にまで響き渡る大音量で、スピーカーからキッドのものと思しき声が流れ出た。
 相変わらずの派手な演出に野次馬から大歓声が上がり、続いてキッドコールが始まった。
 その声さえも掻き消す勢いでキッドは続けた。

『今宵は私の最大の、そして最後のショーにお集まり頂き、有り難う御座います。今日を限りに私はステージを降りますが、皆さんの心の中で永遠に生き続けられるよう、今宵は私の持てる限りの力を尽くし、最高の魔法をご覧に入れましょう!』

 ドォン、という派手な打ち上げ音とともに、博物館の四方から一斉に花火が打ち上げられる。色とりどりの火花を撒き散らすその中に、ふと、まるでヘリのサーチライトをスポットライトのようにその身に受けながら悠然と佇む怪盗の姿が博物館の屋上に浮かび上がった。
 白いタキシードにシルクハット、そして風に靡くマント。奇抜でありながら、これ以上なくその存在に似合ったスタイル。
 人々はたった今怪盗が口にしたことが信じられなくて、けれどこの素晴らしいマジシャンの勇姿を一瞬も逃さず目に焼き付けたくて、呆然と屋上を見上げている。
 キッドの発見とともに捕獲の号令を受けた警官たちが次々と屋上に押し寄せ、囲いの外の、とても人が立つ場所とは思えない場所に佇む怪盗を確保しようと囲いを越えるが、彼らの手が届くよりも先に怪盗はその場を離れた――徒歩で、なにもない上空を。

「凄い……! また、空中を歩いてる!」

 警官が驚くのも当然だ。これは以前鈴木財閥の相談役、鈴木次郎吉がキッドのために用意したビッグジュエル、ブルー・ワンダーを盗みに来た時にも見せたマジックだ。
 だが、以前のようにキッドを吊り上げるヘリが真上にあるわけでもなく、ワイヤーを引っ掛けられるような建物が左右にあるわけでもない。同じマジックは二度繰り返してはならない、その原則に従い、一度タネを見破られたマジックは二度と用いない、ということだ。
 どれほど歩きにくい場所でも足場があるならまだしも、上空では手も足も出ない。どうすることもできず屋上で右往左往している警官たちに向かって、怪盗は優雅に一礼した。

「皆さま、ご機嫌よう」

 ぽんっ、と煙が吹き出したかと思えば、それまでキッドがいたはずのところから大量の鳩が飛び出し、夜にも拘わらず四方へと飛び去った。
 キッドの姿が見えなくなってから後も、観客の口からキッドコールが止むことはなく、あちこちに施された仕掛けから飛び出す数々のイリュージョンに、歓声が止むこともなかった。



 その、数分後。
 展示場から一時館長室へと保管場所を移された『赤い涙』とその持ち主を守るように立ちはだかっていた中森警部と白馬探偵を前に、キッドは常と変わらない飄々とした態度で対峙していた。
 既に宝石はキッドの手の中にある。

「キッド……! 今夜が最後の犯行だと……ッ?」

 犯罪者が犯罪を辞める。喜ばしいことのはずなのに、驚愕の中にどこか悲しそうな色を滲ませた中森に、キッドは苦笑するしかない。彼は父の代からキッドをずっと追いかけ続けてくれた、言わば旧友のようなものなのだ。仕方ないだろう。
 キッドにとって、警察諸君を含むギャラリーは全て大切なファンだった。だから、これまで追い続けてくれた警察に、応援し続けてくれた観客に、感謝の気持ちと礼儀を以てショーの幕引きと為すのは、キッドの中では当然のことだった。

「ええ、中森警部。私が私のために盗みを行うのは、今夜が最後です」
「馬鹿な……!」

 狼狽える中森の前に一歩進み出た白馬が、きつい、けれど縋るような目で睨みつけながら言った。

「つまり、この『赤い涙』こそが貴方の目的の宝石だった、ということですか……?」
「……そういうことになりますね」

 怪盗はくっ、と口角を吊り上げると、この状況の中、椅子に腰かけたまま静かにこちらの様子を見守っていたモンティジョ嬢に向き直り、一礼した。

『マリー・アンヌ・ド・モンティジョ伯爵令嬢。そういうわけですので、この宝石はお返しできません。もう二度と……誰の手にも渡ることはないでしょう』

 突然フランス語で話し始めたキッドになにを言ったのか聞き取ることができず、中森は隣にいる白馬に「奴はなんと言っているんだ!」と怒鳴るように問い掛けた。
 イギリス留学が長い白馬は、英語の他にもEU加盟国の主立った言語であれば多少は喋ることができる。

「この宝石は返さない、と……」
「なんだと!」

 当然だ。この宝石がこれまでキッドが探し続けていたものだとすれば、それ以外の宝石は必要がなかったから返却していただけに過ぎない。そして目当てのものが見つかったのなら、それを返さないのは道理である。
 けれど、あまりのことに息巻く中森と青ざめる館長を余所に、モンティジョ嬢は動揺することなく静かに立ち上がった。

『――構いません。貴方に、お譲り致します』

 キッドを除き、この場で唯一フランス語に堪能だった白馬は、彼女の発言に目を瞠った。

『なっ、なにを言っておられるんです?』
『所有者である私が構わないと言っているのです。こちらの博物館への違約金でしたら、言い値をお支払い致します。ですからこの宝石は、今より怪盗キッドのものです』
『――Merci Beaucoup, mademoiselle.』

 いつの間にか警官の波を飛び越えてモンティジョ嬢の目前に迫った怪盗は、彼女の前に跪きながら、その白い手を取って優雅に口付けた。モンティジョ嬢は怪盗の奇行に驚くことなく、甘受している。
 どこか作為めいたものを感じた白馬がなにかを言うより先に、怪盗はこの部屋を飛び出していた。中森を筆頭に一斉にキッドに向けて駆け出す警官の群れを見送り、白馬はモンティジョ嬢へと振り返った。

『……始めから、彼に譲渡するつもりだったのですか?』
『……仰っている意味が、分かりかねますが』

 花のような笑みで煙に巻こうとする彼女は、どことなく怪盗と似ている。おそらく彼女から真実を聞き出すのはとても骨が折れるだろう。

『――白ではなく、黒でもない場所。貴方も、そこにいるんでしょうね』

 なにかを知っているような口振りの白馬に、彼女は嬉しそうに破顔した。



 遠くに感じる警察の追跡の他に、執拗にまとわりつく嫌な気配を、米花博物館を出た時から快斗は感じていた。
 おそらくは――組織の残党。
 獲物が掛かったことに薄笑いを浮かべ、快斗は敢えて対峙しやすい人気のない場所へと向かってハングライダーを飛ばした。
 組織が長年探していた『赤い涙』、その宝石を大々的に狙えば、こそこそと隠れていた連中を誘き出せると思っていた。だからこそわざわざマリー・アンヌに米花博物館に宝石を出展するよう持ちかけ、更に博物館側に迷惑が掛からないよう、正式ではなかったとしても彼女の口から「宝石をキッドに譲渡する」旨を証人の前で話させたのだ。
 これで、捕らえ損ねていた残党も粗方拿捕することができる。つまり、新一の更なる安全が確保されると言うことだ。所詮快斗の行動のベクトルは、全てが新一を中心に働いているのだった。

 適当な廃墟を見つけ、快斗は翼を折り畳むと静かに舞い降りた。向こうも気取られていることに気付いているのだろう、隠す気など毛頭ない殺気も露わに、非常階段を駆け上る耳障りな音を撒き散らしながら次々と姿を現した。

「……宝石をこちらに渡してもらおうか」

 拳銃を片手にお決まりの脅し文句を口走る男たちに、快斗は嘲笑を浮かべた。

「この宝石を手に入れたところで、今更どうするつもりだ? お前らの組織はもう跡形もない。投げられたボールを拾ってきても、それを受け取る飼い主が監獄の中じゃ無意味だろう?」

 だが、男たちも負けじと笑みを浮かべた。

「貴様はその宝石の価値を理解していない。それを欲しがる者はいくらでもいる。それを手に入れてどうするか、それは後でじっくり考えるさ。餌さえちゃんと与えてくれるなら、飼い主なんざ誰でもいいんだ」

 事実、組織が瓦解し、野放しになった残党どもをこれ幸いと懐に抱き込もうとする別の組織が存在する。それも、二つや三つどころでなく。
 組織の跡地とともに瓦礫に呑み込まれていった男が遺した言葉を思い出し、快斗は不愉快そうに顔をしかめた。
 ――不老不死。そんなものに、どれほどの価値があるというのか。
 いや、この際、そんなことはどうでもいい。価値観の問題ではないのだ。問題は、それを欲する者たちが、他人の犠牲の上に己の願望を満たすことを厭わない、最低の人種ばかりだということだ。その歪んだ願望のもとに、一体どれほどの人々の命が踏みにじられてきたことだろう。マリー・アンヌが――父が――新一が、どれほどの傷を負ってきたことだろう。

「お前らみたいな奴らがいるから……」

 ふつふつと腹の底から湧き上がる、この暗く冷たく重たい感情は、紛れもない殺意だ。
 分かっている。この思いもまた、歪んでいることは。

 けれど、では。歪みを正すには、どうすればいいのか。


「お前らみたいな奴らがいるから、
 俺みたいな人間が手を下すしかねえんじゃねえか――!」


 快斗の絶叫と、撃鉄を起こす金属音とともに周囲がライトアップされたのは、ほぼ同時だった。
 気付けば、キッドを囲んだ男たちを更に取り囲むように、完全武装の警官が拳銃を構えていた。おそらく、警視庁の特殊急襲部隊だろう。残党どもの気配と混ざって気付かなかった快斗だが、懐の携帯が振動を伝えてきた瞬間、全てを理解した。

「君たちは既に包囲されている。観念したまえ」

 そう言った男は、警視庁の刑事部部長、小田切敏郎警視長。日本警察の指揮官として組織壊滅プロジェクトの一端を担った男だ。彼がここにいるということは、間違いなく『彼』が関わっている。
 腹の底から凍えきっていたはずの快斗の体に、血が巡ってゆくように温かさが広がってゆくのが分かった。
 確保されていく男たちを後目に、あれほど抑えがたかった衝動を静めた快斗は、小田切だけが見守る中、静かに夜の闇の中へと沈んでいった。
 そうして彼らが気付いた頃には、彼の怪盗の姿はこの世のどこにもなくなっていた。

 もう二度と怪盗は――復讐を果たすために甦った罪人は、現れない。たとえこの先愚かな人間どもが幾度となく同じ過ちを繰り返したとしても、彼らを止めるのは復讐者ではない。その歪みを正してくれるのは――真実を映す、あの蒼い双眸。

 彼だけだ。
 彼だけが、自分を導いてくれる。
 たとえどれほどの激情に流されようと、どれほどの苦痛に押し潰されようと、彼の存在が、この捻れた感情を解きほぐしてくれる。

(しんいち、しんいち……!)

 どことも知れない路地裏に駆け込み、快斗は胸を押さえて蹲った。そこには大事な、大事な彼とを繋ぐ唯一の絆が仕舞われている。
 その、今の快斗にとっては命ほどにも掛け替えのない重みを抱き締め、快斗は嗚咽を噛み締めた唇の間から何度となく彼の名前を囁き続けた。
 止まらない想いが胸の中をめちゃくちゃに暴れ回っている。その想いが、自分を生かしてくれる。

(しんいち…こんなにも、俺はお前を……)

 ――愛してる。

 それだけが、快斗の真実だった。
 
 
 
BACK * TOP * NEXT

PR