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Peter Pan Crime 1




 快斗は全身を襲う突き刺すような激しい痛みとともに覚醒した。
 あまりの激痛に飛び起きようとするが、体の自由がきかずにただ呻くことしかできない。
 いったい自分の身になにが起きたのか――軽い混乱はあったが、自分がいる場所に気づき、すぐに納得した。
 白い天井に白いシーツ、独特の薬品臭さとこの季節感のない空気の生ぬるさ。
 ここは病院だ。
 体を動かせないほどの激痛も、場所柄を考えれば有り得ないことではなかった。
 ただ、なぜそんなところにいるのか、皆目検討もつかなかったが。

「――快斗!」

 と、こちらの呻き声に気づいたらしい誰かの声に名前を呼ばれ、快斗は視線だけを動かした。
 泣き腫らしたような赤い目と疲れた顔をした母親の顔があった。

「よかった、快斗……!」

 赤い目から更なる涙を流しながら、母、千影は快斗の右手を両手でぎゅっと握り締めた。
 声を出そうと腹に力を入れるだけで走り抜ける痛みに顔をしかめながらも、快斗は状況を知りたくて懸命に言葉を紡いだ。

「……母、さん……俺、どうしたの……?」

 ベッドから動けない自分、そして傍らには泣き腫らした母親の姿、とくれば、事故だか病気だかで病院に担ぎ込まれたとしか思えないが、それにしては前後の記憶が快斗には全くなかった。
 ここに担ぎ込まれる前、自分はなにをしていたかを思い出そうとしてみても、頭の中は濃い靄がかかったようにぼんやりとしていて、なにも思い出せない。
 そもそも、今日はいつだ?
 そんな息子の異変に気づいているのかいないのか、千影は右手で涙を拭うと、安堵したような呆れたような苦笑を零しながら答えてくれた。

「あんたは車に轢かれそうになった子供を助けて、自分が轢かれたのよ。一時は心肺停止にまでなっちゃって、いよいよ母さんは天涯孤独になっちゃうのかと覚悟しちゃったわよ」

 そんな言葉で茶化してみても、息子の一大事にこの母親がひどく心を痛めたであろうことは一目瞭然だった。
 父親を事故で亡くしてからこちら、母一人子一人で支え合って生きてきたのだ。
 その上息子までも、だなんて、いったいどれほどの心配をかけてしまっただろうか。
 心なしか少し老けたようにも見える母に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「そっか……。心配かけてごめん。で、その子供は無事だったの?」
「ええ、かすり傷ひとつないわ。あんたは母さんの自慢の息子よ。でも、あまり無茶はしないでね。じゃないとあたしの方が先に参っちゃうわ」
「うん、了解」

 俺もこんなに痛いのはもう御免だ、と苦笑を零す。
 それにぼんやりと残る記憶の中で、ずっと握っていてくれただろう右手に残る熱は嬉しかったけれど、同時に切なくも思った。
 泣きながら自分の名前を呼び続けている母の姿が容易に想像できた。
  千影は握っていた手をそっと放すと、包帯とガーゼだらけの痛々しい息子の頬を優しく撫でた。

「楽にしてなさい。あたしはあんたが目を覚ましたって、警部さんに連絡してくるから」
「警部……って、警察? なんで?」
「なんでって、あんたは一応、ひき逃げ事件の被害者なのよ?」

 ここ、警察病院だし。
 などと言われ、快斗は目を瞠った。
 まあ普通に考えて人身事故に警察が関わらないはずがなく、それがひき逃げ事件ともなれば、被害者たる快斗は最大の証人となるわけだ。
 残念ながら、快斗には子供を助けた記憶も車に轢かれた覚えも全くなかったが。

「ごめん、俺、なんにも覚えてない」

 だから快斗は素直にそう白状したのだが。

「……ええ、そうでしょうね」

 なぜか静かな微笑とともにそんなことを言われて、快斗は内心で首を傾げた。
 しかし千影はそれ以上なにも言わず、ただもう一度、いいから休んでなさい、と言い残して病室を出ていった。
 その理由は、すぐに分かった。



「――頭部外傷による逆行性健忘ですね」

 一時的なものかそうでないかは今の段階では分かりませんが、検査の結果、脳に損傷はありませんでしたから心配ないでしょう。
 無責任な医者の言葉を聞き流し、快斗はただ目を瞬いた。
 逆行性健忘。いわゆる記憶喪失というやつだ。
 ただし快斗の場合、自分の名前すら忘れてしまう全健忘とは異なり、数年分の記憶が抜け落ちてしまっただけらしいが、生憎とまったく自覚がなかった。
 確かに事故前後の記憶はなく、頭の中もすっきりしないが、傍らに佇む女性が母親であることも認識できるし、ここが病院で自分が入院しているという事実の認識もできる。
 だが、すぐに現実を突き付けられた。

「快斗。あんた、今自分が何歳だか分かる?」

 既に話を聞かされていたらしい千影は狼狽えることもなく冷静に、静かに問う。
 自分の年齢。
 そんなもの、答えるのは簡単だと口を開いて、快斗は言葉に詰まった。
 ……中学、は、卒業した。
 江古田中学を出て、進学校に進む必要性も特に感じなかった快斗は、無難に学区内の江古田高校に進学を決めた。
 入学式の様子もぼんやりと思い出せる気がする。
 けれど、高校生活を送っている様子はまったく思い出せなかった。
 新しい学校、新しい同級生。情報は山とあるはずなのに、そのなにひとつとして出てこない。
 もしかして、まだ高校には入学していないのだろうか。
 覚えていると思った入学式も、実はテレビかなにかの映像と混同しているのかも知れない。
 だとしたら、まだ十六歳にはなっていないのだろうか。
 けれど、その推測はあっさりと崩された。

「快斗、あんたは今、十八歳なのよ。もう半年もしないうちに高校も卒業するの」

 静かに告げられたその言葉が初めて衝撃となって快斗を襲った。
 ――十八。
 つまり、丸二年以上も自分の記憶は抜け落ちているのか。
 少し年を重ねて見えた母の様子は気のせいなどではなく、確かにそれだけの時間が過ぎていたのだ。
 快斗の心中に、急に焦りが浮かび上がった。
 診察を終えた医師が去ったあと、千影は、ベッドから起き上がれない快斗の周りを囲むように立っていた刑事の中の、恰幅のよい男性に向かって腰を折った。

「そういうことですから、警部さん、この子が回復するまでは大したお力にはなれないかと思います」
「いや、奥さん、どうか気にしないで下さい。息子さんのお陰で尊い命が救われたんです。我々は息子さんに心からの謝意と敬意を払います」

 今はただ、一日も早く回復されることを祈るばかりです。
 そう言って深々と頭を下げる警部に、ありがとうございますと千影は微笑んだ。

「それに犯人も既に捕まっておりますから、安心して回復に努めてください」
「まあ……! 昨日の今日で?」
「はい。偶々現場に居合わせたのが、その、恥ずかしながら普段から我々も世話になりっぱなしの探偵でして」
「存じておりますわ。高校生探偵の工藤新一君でしょう? 彼が息子の救命措置を取ってくれたと伺っております」
「ええ、彼なら救命士にも劣らない措置ができますし、彼が車種もナンバーも犯人の顔も覚えていたお陰で、犯人もすぐに捕まりました。今回の事故は不運でしたが、息子さんは強運をお持ちのようですな」

 恰幅のよい警部は誇らしげに、まるで自分の息子を自慢するようにそう言った。
 それから二、三言葉を交わして、警部と、警部に付き従っていた男女の刑事は病室を出ていった。
 どこかぼんやりとした頭で母親と彼らとの会話を聞くともなく聞いていた快斗は、なにをどこから考えればいいのか分からず、軽く途方に暮れていた。
 おそらく日常生活に支障はないだろう。
 医者も体が治れば退院していいと言っていたし、或いは明日か明後日か、ひょっとした五分後にはすべてを思い出しているかも知れない。
 それでも、空白の時間は快斗の中に決して小さくはない穴を空けた。
 そこからじわじわと滲み出てくる焦燥感や喪失感といったものと、これから付き合っていかなければならないのだろうか。

「――はい」

 と、思考の泥沼に沈みかけた息子を慮ってか、千影が快斗の鼻先にずいと花を差し出した。
 途端に鼻孔に香ってくる柔らかな香りに、快斗は目を瞬かせた。
 網籠の植木鉢にこんもりと盛られた、さして大きくもない花籠だ。

「これ、お見舞いにもらったの。可愛いでしょ?」
「あ、うん……」

 無邪気に笑う母がなにを考えているのか、快斗にはよく分からなかったが、確かにその通りだったので頷けば、千影は嬉しそうに笑った。
 そして母親の顔を浮かべたかと思うと、諭すように言うのだ。

「心配いらないわ、快斗。あなたはたくさんの人に愛されてるの。みんなあなたを助けてくれるわ。ちょっとぐらい記憶がないからって、尻込みすることないのよ。快斗が快斗らしくあれば、記憶があろうとなかろうと、そんなこと関係ないでしょ?」

 たとえば、退院したあとだとか。復学したとして、もしかしたら友人かも知れない人に自己紹介から初めてもらわないといけない罪悪感だとか。
 ふとした時に話題に上る思い出話、それについていけない自分だったり、それを気遣って流れる気まずい空気だったり。
 そんな小さな違和感を感じ続けなければならないのかと思えば、気が重くなった。
 或いは、街ですれ違った誰かに声をかけられても、それが友人なのかも分からずに曖昧に話を合わせるしかないのだろうか、とか。
 そんなとりとめもないことを、今悩んだところでどうしようもないことを考えてしまった快斗だったが、確かに母の言う通りだと思った。
 罪悪感はあるだろう。違和感も、焦燥感も、喪失感も。記憶が戻らない限り、きっとずっと消えずにあるのだろう。
 けれど、そんなものを後生大事に抱えてこの先ずっと生きていくなんて馬鹿らしい。
 悪いと思えば謝ればいいし、分からないなら聞けばいい。
 自分が気を遣えば周りだって気を遣う、それなら自分は自分らしく、自然であればいい。
 そうすればいずれそれが本物になる。

「……うん。なんか、柄にもなくびびっちまったみてえ。サンキュ、母さん」

 なんだか胸がほっこりした。千影がくれた言葉のお陰だ。
 そう思って礼を告げた快斗だったが、千影は、ふふ、と意味深に笑った。

「お礼なら、あたしじゃなくてこのお花をくれた人に言って頂戴」
「そういえば誰からもらったんだ?」

 快斗が担ぎ込まれたのは昨日のことらしい。
 ここは警察病院だし、生死の境を彷徨った快斗は面会謝絶状態だったので、目が覚めるまでは身内である千影しか入室を許されなかったらしい。
 となると青子か中森のおじさんあたりかな、と思い、快斗はちょっとはにかんだ。
 幼馴染みの青子のことを、快斗は昔からずっと憎からず思ってきたのだ。
 高校三年生になっているらしい今、彼女との関係がどう変化しているのか、にわかに気になり出した。
 しかし、残念ながら快斗のその予想は外れた。というか、全くの予想外だった。

「探偵の工藤君よ。私が病院に着くまであんたに付き添ってくれてて、そのあとすぐに現場に戻っちゃったんだけど、あとで花だけ届けに来てくれたの」

 そう言えば、先ほど警部がそんな名前を口にしていた。確か、警察が普段から世話になっている探偵だったか。
 命を救われた上にひき逃げ犯まで捕まえてもらったりと、随分と世話になったらしい。
 単なる義理だとしてもわざわざ見舞いの花まで寄越すなんて律儀なやつだなと、あまり深く考えずにそう思った快斗だったが、千影は眉尻を下げた情けない表情を浮かべたかと思うと、まるで嘘を告白するように言った。

「……ほんとはあたし、あんたが記憶障害かも知れないって聞いてひどく取り乱しちゃったんだけど、工藤君が言ってくれたのよ。大丈夫、心配ない、彼が彼らしくあれば全てうまくいく、って」

 だからほんとは、今言ったこと全部彼の受け売りなの。
 それを聞いて、快斗はちょっと驚いた。
 この母が――東洋の魔術師と謳われた父の妻だったこの人が、一筋縄ではいかない人物であることを快斗は知っている。
 無害そうな微笑が実は鉄壁の防壁であり、自分たちに害を為そうを企む者たちが、彼女の笑みの前に幾度散っていったことか。
 さすがは黒羽盗一の妻だと、知る人は知っている。
 その母が取り乱す姿というのも想像つかないが、そんな母を、探偵は言葉ひとつで宥めたのだという。
 聞けばまだ高校生、自分とさして変わらない年の子供が。

(つーか、高校生のくせに警察にまで頼られる探偵って、どんなやつだよ?)

 その探偵とやらに、にわかに興味が湧いた。

「その工藤ってやつ、また会えるかな? 俺からも直接お礼が言いたいんだけど」
「う~ん、どうかしら。警部さんも言ってたけど、まだ学生さんだけどとっても有能な探偵さんだから、あちこち引っ張りだこですごく忙しいみたいよ。このお見舞いの花も、いつ来れるか分からないからって持ってきてくれたんだし。そう言えば青子ちゃんも、警視庁に差し入れに行くと必ず工藤君を見るって言ってたわね~」

 脳天気な母の言葉に、快斗は思わず顔をしかめた。
 いくら有能だとしてもそれはどうなのだろう。
 公僕として給料をもらっているわけでもないだろうに、一介の学生をそこまで使役していいものだろうか。

「とにかく、今は休みなさい。あんたの目下の仕事は、しっかり休んでさっさと元気になることよ。あんたのことだから心配いらないだろうけど、あんた、一応受験生なんだからね!」

 びしっ、と指を突き付けられ、快斗は半笑いを浮かべた。
 受験生、などと言われても、焦りなど微塵も感じない。
 昔から頭のデキは妙にいいのだ。
 というか、良すぎた。
 あまりに良すぎるのでちょっと手を抜くくらいじゃないと世間が大騒ぎするため、目立ちすぎないようこれまではうまく立ち回ってきた。
 この母にはしっかりと見抜かれているようだが。

「わーったよ。どうせ寝てるだけだし、暇なら勉強でもしてる。それより、いろいろ聞きたいことあるんだけど……」
「分かってるわよ。学校のこととか、お友達のことでしょ? もちろん、青子ちゃんのことも♪」

 言い当てられ、気まずいやら気恥ずかしいやらで快斗は顔を赤らめた。
 実はさきほど青子の名前が出てから、彼女のことが気になって仕方なかったのだ。

「心配しなくてもまだ彼氏はいないみたいよ~? あんたも含めて、だけど!」
「うっ、うるせえな、あんなちんちくりん、俺の方がお断りだっつーの!」
「あーら、そんなこと言って、他の誰かに持ってかれちゃっても知らないから」

 というか、どうしてそんなことまで見抜かれているのだろう。
 その疑問がそのまま顔に出ていたらしく、千影は闊達に笑いながら言った。

「母はなんでもお見通しなのよ!」





 ――その数時間前。
 快斗が子供を庇って病院に担ぎ込まれた、その日の夜。
 とある美術館で、一人の探偵が奇声を発していた。

「そんな……っ、なぜ君がここにいるんだ――怪盗キッド!」

 白馬探は、目の前に悠然と佇む白い怪盗を、まるで亡霊でも見るような目で凝視した。
 今日の夕方、白馬のもとに届けられた報告が正しければ、今夜ここに怪盗は現れないはずだった。
 そしてそれを確かめるためにこそ白馬はここへ来たのだ。
 やはり怪盗は現れなかった、交通事故に遭って病院に搬送されたのだから当然だ、つまり怪盗の正体はやはりあの黒羽快斗なのだと、そう確信するためにここへ来たというのに。
 しかし、確かに怪盗はここにいた。
 白馬の知る彼と、寸分違わぬ出で立ちで。
 狼狽する探偵に、怪盗はくすりと笑みをこぼした。

「なにを今更。ちゃんと予告状を差し上げたでしょう?」

 だからこうして警備に来ているのだろうと笑われれば、白馬には返す言葉もなかった。
 黒羽快斗こそ怪盗キッドの正体だと確信している白馬だが、ここにいるのが本物のキッドでも、きっと同じように返したに違いない。
 混乱する白馬を余所に、怪盗はその日も鮮やかな手際で標的を盗んでみせた。
 まるでこちらの行動全てを見透かしているかのような怪盗の慧眼を前に、警察はもちろん、白馬もまた手も足も出せずに、ただ怪盗を見送ることしかできなかった。



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