隠恋慕
Peter Pan Crime 2
その日、新一は学校が終わるなり、早々に帰宅した。
いつもなら一緒に帰る幼馴染みの毛利蘭も置いて、一人で、さっさと。
本当は学校も休んでしまいたいほどに、とにかくひどく疲れていたのだが、丸一年近く休学していた身としては、たとえ高熱を出そうとも、這ってでも登校しなければならないのが現状だった。
新一は脱いだブレザーをソファに放ってネクタイを緩めると、携帯電話を取り出した。
メモリーには登録していない番号を打ち込み、呼び出しをかける。
待ち構えていたのだろう、相手はすぐに出た。
『――はい』
年齢を感じさせる、少し枯れた声が答えた。
「メールを見ました。彼の様子は?」
『もう大丈夫でしょう。しばらく入院しなければなりませんが、後遺症もないそうです』
「そうですか……よかった」
新一は電話口を押さえ、深い安堵の息を吐いた。
それだけがずっと気掛かりだったのだ。
入院ぐらい、どうということはない。
彼ほどの能力があれば、たとえ高校を卒業できなかったとしても、彼を迎え入れたいという大学などいくらでもあるだろうし、そもそもどうしても大学に行かなければならないというわけでもない。
それよりも心配だったのは、彼の体の方だ。
命が助かったことはとても幸運なことだけれど、人は、呼吸をしているだけでは『生きている』と言えないことがある。
それがなければ、『生きている』と言えないものがある。
彼にとってのそれが、その洗練された指先――しなやかな手のひら――魔法を生み出す彼の体そのものなのだ。
それが失われなかったことが嬉しい。
祈ったこともない神に、感謝したくなるほどに。
『ですが、その……』
受話器の向こうで、相手が言いにくそうに口籠もる。
彼の言いたいことを察し、新一はピンと背筋を伸ばした。
「やはり覚えてないんですね?」
『……はい。ここ二年ほどの記憶がないそうです』
言いにくそうに、それでもそうとしか言えないのだと、諦めたように告げる声。
しかし、それは予想していたことだ。
新一は気丈に言った。
「では、昨日お話しした通りにいきましょう」
『でっ、ですがそれでは貴方が、』
「――寺井さん」
有無を言わさぬ声に遮られ、受話器の向こうで寺井は口を噤んだ。
新一はそっと、たった二十四時間前に起こった出来事を脳裏に思い浮かべた。
日曜だった。
その日は快晴で、夜には綺麗な満月が見えるだろうと天気予報が言っていた。
月を加護に持つ怪盗がショーを行うには、うってつけの天気だ。
そう言ってやれば、件の怪盗は悪びれもなく、俺って強運だからね、と笑っていた。
そう、新一は怪盗を知っていた。
怪盗を名乗るその人物の正体が、実は隣町の公立高校に通う男子高校生であるという事実も、知っていた。
――黒羽快斗。
かつて『東洋の魔術師』と謳われた偉大なマジシャンの一人息子。
その事実を知ったとき、彼のマジシャンほど稀代の大怪盗に相応しい男はなく、そしてその遺志を継ぐに相応しい男もまた、その息子たる彼以外にはないと、素直に感じた。
だが、自分たちは探偵と怪盗だ。
対極に立つはずの自分たちの間に、決して浅からぬ関係があることを表立って明かすわけにはいかなかった。
だから、二人は自分たちが知人であることを秘密にした。
身内はもちろんのこと、それぞれの協力者にさえ明かさなかった。
その密約を破ったのは――新一だ。
新一の目の前で、快斗が轢かれた。
危険運転の暴走車に轢かれそうになった少女を庇ってのことだった。
新一ではとても間に合わなかった。普通でない運動神経と反射神経を持った快斗だけが、その事態に対処できた。
現場は、一瞬にしてパニックに陥った。
膝小僧と肘を擦り剥いて泣き喚く少女。
その少女を腕の中に抱き込み、頭から血を流したまま動かない快斗。
それでも新一は冷静だった。
暴走車の運転手の人相と車種、ナンバーを記憶に留め、すぐに救急車と警察を呼ぶよう、傍に立っていた女性に指示を出した。
そうしておいて、快斗の救命措置に取りかかった。
……手は、震えそうだった。それでも、やるべきことを間違えたりはしなかった。
止血をほどこし、呼吸と脈を確かめて。息がないと分かると、人工呼吸と心臓マッサージをひたすら繰り返して。
その甲斐もあって、快斗はすぐに息を吹き返した。
そしてうっすらと意識を取り戻した快斗の言葉を聞いて――声を失った。
「あ、んた……だれ、……だ……?」
途切れ途切れの掠れた声で、そう告げられた。
なにが起きているのかはすぐに分かった。
以前、蘭も似たような状態になったことがあった。
――記憶障害。
早い話が、快斗は新一を新一として認識できなくなっていた。
今だけのことかも知れない。頭を強く打って、混乱しているだけかも知れない。
でも、そうじゃなかったら?
新一は青ざめた。
今夜はキッドの予告日だ。
キッドは予告を決して違わない。キャンセルすることはあっても、それならそれで「やっぱりやめます」と律儀にも知らせてくれる巫山戯た怪盗だ。
それならばキャンセルの連絡を入れればいいだけの話だが、快斗はクラスメートの探偵に正体を疑われているのだ。
快斗が事故を起こしたその日に犯行をキャンセルすれば、決定的な証拠とまではいかないまでも、そのことが彼を不利にすることは間違いない。
分かっている。
怪盗の身を心配してやる必要など、本当なら新一にはないのだ。
むしろここでなにか策を講じれば、犯罪を扶助する行為に等しい。
ただ見て見ぬふりを、知っていながら知らぬふりをしていた今までとは明らかに違う。
だけど。
「――大丈夫だ。なにも心配するな。おまえは、俺が絶対に助けてやる」
強く手を握り、新一は気丈にも笑ってみせた。
お人好しの怪盗。
目の前の誰かに危険が迫っていれば、我が身も省みず駆け出してしまう、こんな男を、どうして放り出すことができるだろう。
記憶があるかどうかなど、今はどうでもいい。
見知らぬ他人のために我が身を投げ出せる、その男を守れるのは、今は自分しかいないのだから。
しっかりと握られた手に安堵したのか、快斗は再び瞼を閉じた。
気を失ったのではなく、傷ついた身体を癒すために。
そうして救急車が到着し、病院の手術室に運び込まれるまで快斗を見届けた新一は、これまで決して侵すことのなかった領域へと足を踏み入れた。
キッドの協力者である寺井へと、接触を図ったのだ。
「僕にはマジックができない。でも、僕には彼にも負けない頭脳と体力がある。僕たちが足りないところを補い合えば、たとえ偽物でも、彼を演じることは決して不可能ではない……そうでしょう?」
それは、昨日寺井のもとを訪ねて言った言葉だ。
突然押しかけてきた、世間では名探偵と名高い男にそんなことを言われ、彼はさぞ驚いたことだろう。
けれど、それしか思いつかなかったのだ。
快斗が演じていたような、大胆不敵で神出鬼没な怪盗を演じるには、寺井では少し荷が重いだろう。
かと言って、機動性を重視して新一が演じれば、マジックを全く披露しない怪盗になってしまう。
それならば、快斗との密約を破ってでも、事情を打ち明けて二人で協力するのが一番だ。
だから寺井に言ったのだ――僕たち二人で『怪盗キッド』になりましょう、と。
けれど寺井は、すぐには納得してくれなかった。
『貴方と坊ちゃまがご友人であることは、信じます。そうでもなければ、探偵である貴方がそこまでして坊ちゃまを助けようとする理由がありませんから。
ですが、だったらなおのこと、貴方にお任せすることはできません。ご友人を巻き込むようなこと、坊ちゃまは絶対にお許しにならないでしょう』
その台詞もまた、昨日聞いたものと同じだった。
既に一度は怪盗を演じた身、それが二度だろうと三度だろうと大差はないというのに。
主人の人が好いと、その付き人の人も好くなるのだろう。
新一はクスリと笑みを零した。
「寺井さん、貴方も分かっているはずだ。昨日はうまく凌ぎました。でも、彼が入院している間、ずっとなにもなければ、また怪しまれる。その繰り返しだ。それに、奴らだって彼の復活を待ってはくれない。それを全部、貴方ひとりでどうにかするつもりですか?」
『それは……確かに容易ではないでしょう。しかし、坊ちゃまにお任せする前は、私ひとりでなんとかしておりましたから』
だから大丈夫だと、無茶を自覚した固い声で告げる寺井に、新一は緩く首を振った。
「たとえ貴方ひとりでなんとかなったとしても、彼はそれを、よくやったと手放しで褒めるような男じゃない」
言葉に詰まった寺井は、ただ沈黙を返した。
新一に言われるまでもなく、彼にも分かっていたことだった。
黒羽快斗は、たとえそれがただの窃盗行為だとしても、矜持を持って怪盗キッドを演じている。
それは、彼の父親こそが真の怪盗キッドであり、息子である自分だけが唯一その名を受け継ぐことができると考えているからだ。
だからこそ、その唯一の権利を他人に譲ることは決してない。
新一であろうと、寺井であろうと、絶対に。
そしてそれと同じくらいに、誰かを巻き込むことを嫌う男だ。
それが彼を守るためともなれば、なおのこと。
「たとえ僕らのどちらがその役を引き受けようと、彼はきっと怒りますよ」
だが、と、新一は口角を吊り上げた。
新一に言わせれば、心配をかける方が悪いのだ。
快斗のおかげで幼い少女は助かったけれど、もしもそのために彼の命が失われでもしたら、この誠実な老紳士を、友人たちを、そしてなにより、夫を亡くす痛みを乗り越えたはずの彼の母親を、苦しめることになったのだ。
だから、心配をかけた分、快斗は我慢しなければならない。
守るばかりではなく、守られることも、享受しなければならない。
「だから、僕たちで、彼を守りましょう」
その言葉に拒絶が返されることはなかった。
寺井はただ、受話器の向こうで、見えない相手に頭を下げた。
通話を切り、自室に上がった新一は、今度こそ倒れ込むようにベッドに身を投げた。
着替えるのも面倒くさい。
食事も、昨日の夜と今朝を抜いてしまった。
昼だけは学食で適当に済ませたが、今夜も食べられそうにない。
もうこのまま泥のように眠ってしまいたかった。
快斗が事故に遭い、病院に搬送し、轢き逃げ犯を捕まえて。寺井を訪ね、怪盗の衣装を纏い、宝石を盗み出して。その盗み出した宝石を返却し、犯罪行為の後始末をして。
その全てを、このたった二十四時間でこなしたのだ。
新一の身体は、もう本当に限界だった。
軽くこなしているように見えるが、実際、怪盗業は半端じゃなく大変だった。
華麗なショーはほんの一瞬で、舞台裏では、その何倍もの時間をかけて下準備を行わなければならない。
それだけでも大変なのに、新一は本業――探偵もこなさなければならないのだ。
その多くを寺井に手伝ってもらったとしても、負担が軽くなることはなかった。
それでも、放り出す気はさらさらなかった。
ごろりと転がり、仰向けになった新一は、天井へと右手を掲げた。
それは見慣れた自分の手だ。
この手が、数時間前には真っ赤に染まり上がったことを思えば、なにもできないことなどないとさえ思う。
(……記憶がないくらい、なんだ)
生きている。
そして、彼の宝も奪われずに済んだのだ。
それだけで十分だった。
それさえあれば、黒羽快斗は生きていける。
失ったものを埋め尽くすほどの愛を、誰もが彼に注いでくれるだろうから。
それにもともと、自分たちは友人などではない。
寺井はそう呼んでくれたけれど、そんな穏やかで無害な関係ではない。
むしろ新一との記憶は、常に人の死や人の犯した罪とともにあるもので、わざわざ思い出す必要があるものではない。
――幸運。
そう呼べば語弊があるけれど、これはある意味では幸運だと、新一は思ったのだ。
かつて、一度ならず考えたことがある。
黒羽快斗が怪盗キッドにならず、犯罪組織などにも関わらず、普通の学生として、稀代のマジシャンになっていたなら、と。
……有り得ないことだ。時間を巻き戻しでもしない限りは。
しかし今、それが現実になろうとしている。
実際に犯した罪が消えるわけではないけれど、彼の記憶が戻らない限り――自分が怪盗キッドである事実を思い出さない限り――彼の心は罪を知らず、真っ白なままなのだ。
全てを成し遂げたとき、潔く自首をする、なんてことを考えるほど殊勝な男だとは思わないが、自分が犯した罪を死ぬまで忘れられないくらいには、殊勝な男だ。
そして贖いというほどではないにしても、なにかを償うように生きていくだろうことは、想像に難くない。
それならばいっそ、このまま思い出さない方がいいのではないか――なんて。
(あいつが聞けば、死ぬほど怒りそうだけどな……)
だが、そう思っているのは新一だけではない。
寺井もまたそう思っているからこそ、新一の言葉を受け入れたのだ。
そしてそれを見抜いていたからこそ、新一はああ言った。
「僕らで彼を守りましょう」と。
(そうだ。パンドラなんか、俺がさっさと見つけてぶっ壊してやる)
掲げた右手を、ぎゅっと握り締める。
友人ではなかった。それでも、唯一無二だった。
その絆を忘れられてもいい。
ただ、守る。そのためなら、なんだってできる。
かつて、小さな体で、それでもなにひとつ諦めずに駆け抜けたときのように。
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