隠恋慕
もう青い鳥は飛ばない
雲ひとつないからりとした晴天の彼方、翼をはためかせながら駆けてくる一羽の鳩。江古田高校の屋上に設置された給水塔の僅かなスペースに寝そべっていた快斗は、空へと伸ばした右手の先に鳩を受け止めながら体を起こした。
「さーて…我が麗しの名探偵殿は如何お過ごしかな?」
自然と浮かんでくる笑みを口元へと掃きながら、快斗は鳩の左足首に巻き付けられている紙を解いた。
行きにはただのメモ用紙だったそれが、B掛けの大学ノートに変わっている。つまり、これは〝彼〟からの返事に違いなかった。
ワクワクしながら折り畳まれた紙を広げてみれば、そこには――
『バカやってねーで勉強しろ! とっ捕まりてーのか!』
予想と違わぬその内容に、快斗は腹を抱えて笑い転げた。
携帯電話と言う便利な文明の利器がありながら、わざわざ伝書鳩を用いて彼に送ったメッセージは、「今夜のご飯は何食べたい?」と言うものだった。
現在、もうひとりの国際犯罪者とともに工藤邸に居候中の快斗は、日々大切な探偵のためにせっせと家事に勤しんでいる。中でも料理は、元来の手先の器用さと幼い頃からの経験もあって、自分でも割といい線なのではないかと思っている快斗だ。その料理を彼のために作るのだから、こんなに楽しいことはない。
世間では日本警察の救世主とまで謳われる工藤新一と、シークレットナンバー付きの犯罪者であるはずの快斗がこうしてこんな遣り取りをできるのも、この胸に浮かぶ月が結んだ不思議な縁のおかげだろう。快斗は新一からのメッセージを綺麗に折り畳んで胸ポケットに仕舞うと、そっとそっと抱き締めた。
何の因果か、怪盗である自分とは対極に位置するはずの探偵を、まるで掌中の玉のように、この世の何よりも大切に思うようになったのはいつからだったか。自覚したのはきっとあの時――組織の残党を殺そうとした快斗を、新一が撃ち殺してでも止めようとしてくれた時だ。
犯罪を未然に防ぐため、そして既に起きてしまった犯罪を闇に埋まらせないために奔走しているはずの新一が、その手を罪に染めてでも快斗を止めようとしてくれた。快斗のためなら、望まぬままに人を殺そうとする快斗を止めるためなら、彼にとっての最大の禁忌を犯しても構わないと、そう言ってくれた。
…何よりも、嬉しかった。彼を守るためなら、自分の持てる全てを懸けようと思った。
あの日以来、一日毎、一秒毎に、彼への気持ちが膨れ上がっている。愛しさで心の中が満たされている。白い衣装を纏った時に手放したはずの幸福が、絶対に手にすることは叶わないと思っていた青い鳥が、今、確かにこの腕の中にある。それは、たとえようのない奇跡だった。
その頃、快斗は何か「面白いもの」を探していた。怪盗として夜を駆け抜ける日々、高校生として悪友と遊び回る日々にも物足りなさを感じ始めていた。
と言っても、日常に飽き飽きしていたわけではない。むしろ、いつ失うとも知れない日常にはいつも尊さと愛しさを感じていた。ただ、そう感じる思いとは別に、この物足りなさを埋めてくれる何かを探していたのだ。
そしてあの日、ソレを見つけた。揺れるヘリの上から正確にキッドを、キッドの心臓を打ち抜いた探偵――工藤新一を。
快斗はすぐにあの日のジョーカーを探し出した。名前はすぐに分かった。工藤新一と言えば、一課では有名な探偵だ。
だが、よくよく調べてみれば、彼はあの日たまたま馴染みの警部と約束していたヘリに乗せてもらい、その日たまたま犯行予告を出していたキッドの現場に寄り、序でだからとキッドを窮地に追い込んで、標的が盗まれたと知るやいなや、さっさと帰途へついたと言うではないか。
天下のキッドを相手にこの仕打ち。いくらなんでも酷すぎやしないかと、うっかり運命の出会いにトキメいてしまった快斗は、ここはひとつからかってやろうと彼の事件現場まで足を踏み入れた。
今思えば、それが運命の分かれ道だったのだろう。
「ご主人を殺した犯人は、奥さん、貴方です!」
集められた容疑者たちがずらりと立ち並ぶ室内で、探偵のしなやかな指がひとりの女性の前でぴたりと止まる。言い当てられた女性の顔がさっと青くなった。彼の推理にずっと耳を傾けていた警部は疑う様子もなく、手錠を持って静かに彼女のもとへと歩み寄った。まるで犯行現場を見ていたかのようにずばずばと言い当てた探偵に最早反論する気力もなく、彼女は大人しく警官に連れて行かれた。
その、言い様のない空気。呼吸ひとつ、肺に送り込むのも億劫になるような重苦しさ。罪を犯し、その罪を暴かれた咎人は、為す術もなくただ監獄という名の墓場へ連れて行かれるだけ。
胃が締め付けられるようだ。快斗は、この場に足を踏み入れてしまった己の愚かさを呪った。
なぜこんなところへ来てしまったのだろう。ここはキッドの現場など及びもしない、人の醜い感情が渦巻く殺伐とした殺人現場だった。そこにはキッドのステージのような華々しさなど欠片もない。あるのはただ、人の歪んだ心が生み出した血なまぐさい現実だけ。
ここは遊び半分で踏み入っていい場所ではなかった。増して、己の好奇心を満たすためだけに、土足で踏み荒らしていい場所でもない。
警官に扮した快斗は、犯人を言い当ていい気になっているだろう探偵を睨んだ。彼も所詮白馬と同じだ。この男もさも得意げに「なぜこんなことを」などと言うのだろう、と。
――けれど。
「工藤君、君も事情聴取に付き合うか?」
「いえ、遠慮しておきます」
「…相変わらずだな。犯人の心理を知ることも勉強のうちだぞ」
「警部の仰ることも尤もだと思いますが…」
僕には、到底理解できそうにないので。
そう言ってぺこりと頭を下げた新一に、快斗は面食らった。およそこの世に解き明かせない謎などないと思っているのだろうとばかり思っていた探偵が、謎を解き明かすことを自ら放棄するなんて。
にわかに、快斗の中の興味が膨れ上がる。
目暮の「彼を家まで送ってやれ」との言葉をいいことに、快斗は借り物の免許証を持ってさっさとパトカーの運転席に座った。大人しく後部座席に収まった新一をルームミラー越しに見つめ、彼の自宅までの地図を脳裏に広げる。
窓の外を流れていく景色を無言で眺めている新一に、快斗は思い切って話しかけた。
「あの…工藤君はどうして事情聴取に行かないんだい?」
すると、新一は苦笑を浮かべた。
「ああ…あの噂のことを気に掛けて下さってるんですか?」
噂? と首を傾げる内心を隠し、快斗は曖昧な表情を浮かべる。それを肯定と取ってくれたのか、新一は苦笑を深めながら首を振った。
「僕なら平気です。気にしてません。犯人を挙げるだけ挙げて事情聴取にも行かなければ、関係者の方から不満の声が出てくるだろうことは予想してましたし…」
なるほど、噂とはそういうことかと納得する反面、分かっているならなぜ改善しようとしないのかと疑問に思う。やはり犯罪者の心理など知ったことかとでも思っているのだろうか。けれどすぐに、それはないだろうと思い直した。なぜかは分からないが、彼はそんな人間ではないと思ったのだ。
だとすると、考えられる理由は…
「…人が罪を犯す理由なんて、聞きたくない?」
人が人を殺さなければならなかった理由、それほどまでに誰かを憎む感情など、知りたくないからだろうか。
それは確かに、綺麗なものではなくて。できることなら、そんな醜い感情が己の中に眠っていることなど知らずにいられればどんなにいいか。
けれど運命は残酷で、唐突にその現実を突きつけるのだ。
父親を殺された。その事実を知った時の快斗は、言いようのない怒りと憎しみと悔しさと、ありとあらゆる醜い負の感情でいっぱいだった。
あんなもの、誰だって知りたくないだろう。そう思った快斗に、けれど彼は再び首を振った。
「理解はできても、納得できないんです」
どこか疲れた顔で、彼は淡々と告げる。
「人が人を殺す理由、そこに至った経緯。説明されれば理解はできます。でも、僕にはどうしても納得できない。それは僕がそれほどまでに誰かを憎んだことがないからだと言われれば、確かにその通りでしょう。でも、たとえば僕の身近な人が殺されたとして、同じように肉親を奪われた人の気持ちが分かるのかと言えば、それも違うと思うんです。その人の思いはその人だけのもので、他人が共有できるものじゃない。誰かに話すことによって痛みを癒せることがあるのも確かですが、それは僕の役目じゃありません。誰も自分の罪を暴きたてた探偵に癒して欲しいなんて思いませんしね」
だから、事情聴取には行かないことにしてるんです。そう言った探偵に、快斗は胸を打たれたような思いがした。
彼は快斗などより人の心のずっと深いところを見ているのだ。快斗など思いも寄らない深さで、もうずっと、数え切れない犯罪者と向き合ってきたのだ。己の考えの浅さが恥ずかしかった。
「でも…君はそれでいいの? だってみんな君のこと誤解してるんだろう?」
彼のその思いを、彼が暴いてきた犯罪者たちが理解しているとはとても思えない。現に妙な噂が流れていると言うではないか。ともすれば誤解した連中に襲われかねない状況だ。
けれど彼は快斗の心配などどこ吹く風で、しれっと言うのだ。
「構いませんよ。それに、誤解と言うわけでもありません。僕の行いで嫌な思いをしている人がいるのは事実ですから」
「でも…もしそれで君が襲われでもしたら…」
「もちろん、その時は容赦しませんよ」
だって、探偵である僕が、目の前で起ころうとしている犯罪を見過ごすわけにはいかないでしょう?
にこりと笑いながらそんなことを言う探偵に、快斗は何も言えなくなった。
メディアや警察にもてはやされていい気になっているものとばかり思えば、快斗の予想以上に彼はずっと確かな〝探偵〟だった。探偵として自分がどう犯罪者たちと向き合っていくのか、彼はしっかりと見つけていたのだ。
工藤新一は、例えるなら、まるで揺るぎない天秤だ。善と悪を秤に掛け、どちらがより勝っているかを正確に測る天秤だった。彼が見つけだすのはただ真実であり、その真実を見つけだすために、彼は一切の感情を持ち込まない。そこに感情を持ち込んでいいのは、真実を暴かれた者たちだけ。彼があろうとしているのは、そういう〝探偵〟なのだ。
それはきっと、周りが思う以上に辛いことだろう。それでも彼は彼が〝探偵〟であるためにそれを貫くのだ。それは、罪を犯した者に対する最高の礼儀ではないだろうか。
(ああ、そうだな…いつかパンドラを見つけ断罪されるなら、俺はあんたがいい)
彼になら、怪盗キッドのステージの幕引きを任せてもいいと思える。誰でもない、この〝名探偵〟になら。
だから、それまでは。
「君のその思いが曇らないよう、僕が君を守るよ」
存外真剣な声でそう言った快斗に、新一は驚いた顔を見せた後、すぐに困ったように笑った。
「高木さんにまで心配かけて…僕もまだまだですね」
でも、と言って新一が頭を下げる。
「ありがとうございます。高木さんに聞いてもらえて、少しすっきりしたような気がします」
そう言った新一は、先ほど完璧な推理で犯人を追いつめた探偵の凛とした立ち姿とはほど遠く、小さな子供のように頼りなかった。それを見て気づいた。彼もまた、その飛び続ける羽を休める場所を持たない鳥なのだと。
きっと彼には身を守る檻も優しい飼い主も必要ないのだろう。己の力だけでこの大空を生きてゆく力を持っている。
でもせめて、疲れた時にその羽を休めるための止まり木があれば。その止まり木に、自分がなれたら。ほんの少しでいい、その羽を休めて、そしてまた飛び立ってくれたらいいのに、と。
その日から、快斗は人知れず新一を見守ってきた。そうして少しずつ工藤新一という人間を知っていった。
確かに彼は優れた探偵で、次々と難事件を解き明かしていく姿は見事としか言い様がない。その課程で、たとえ逆上した犯人や逆恨みをした犯人の身内に襲われようと、あの日彼が言ったように、彼は一切の容赦をしなかった。けれどその一方で、割り切れていない心が磨り減っていくようにも見えた。そのことに彼自身気付いているのかいないのか。
いっそこの腕の中でその心の裡を全て打ち明けて欲しい、そうは思えど、止まり木を必要としない彼にこの手を差し伸べることはできなくて。
彼は、決して手にすることは叶わない青い鳥なのだ。断罪者である彼と犯罪者である己の道は、決して交わるはずがなかった。
その運命が交差したのは、彼が小学生に逆戻りしてしまった時だ。
子供の非力さに打ちのめされ、打ち拉がれ、それでも幼い爪を懸命に研ぎ、変わらず獲物に食らいつこうとするその直向きな姿に、快斗は堪らず手を差し伸べていた。そうとは分からぬよう、さりげなく。ただの怪盗の気紛れと思われるように。
それでも、彼が組織に乗り込もうとした時には、流石に居ても立っても居られなかった。持てる力の限りを尽くし、全力で彼と彼が守ろうとした者たちのために、少なからぬ血を流した。たとえその結果己の存在を知られ、「何のつもりだ」と疎まれたとしても、「馬鹿にするな」と詰られたとしても、彼を失うよりは余程増しだ。そもそも彼にお伺いを立てる必要はないのだから、自分はただ自分のやりたいようにするまでだと、そんな身勝手なことを考えていた。
なのに彼はキッドを疎むどころか、ただ勝手に首を突っ込んできただけの怪盗に恩義を感じ、あまつさえともに戦うことを許し、傍にいることまでをも許してくれた。これが奇跡でなければ、何だというのか。
ピピッ、とメールの着信を告げる音に誘われ、快斗は携帯を取り出した。
送り主は新一だ。わざわざ伝書鳩で返事をしておきながらこうしてメールを送ってくると言うことは、おそらく用件はこちらに書かれているのだろう。新一はなんだかんだと悪態を吐きながらも快斗の遊戯に付き合ってくれるのだ。
『そんなに暇なら、帰りちょっと付き合えよ。欲しい本があるんだ。それから晩飯の買い物して帰ろーぜ』
そこに書かれている文字に目を通した快斗は、だらしなく顔を緩ませながら、再び給水塔の上に寝ころんだ。主の嬉しそうな様子に鳩も楽しげな鳴き声を上げる。
そんな風に言われたら、もう授業も何もかも放り出して、今すぐ迎えに行きたくなるじゃないか。
どうしたら自分を喜ばせることができるのか、彼はその全てを熟知しているのではないかと言うくらい、この数日で快斗は新一に数え切れないほどの幸福を貰っている。何気ない彼のひと言が、もう何度も自分を救っている。
そのひと言が、どれほど切ない言葉であるか、きっと彼は知らない。彼とともに同じ場所へ帰ることを許されている、その現実がどれほど得難いものか、きっと彼は知らない。知らないまでも、彼はこの先何度でも言ってくれるのだろう。――帰ろうぜ、と。
今、青い鳥はこの手の中にいる。己のこの手を止まり木とし、羽を休める場所と認め、時には守ることさえ許されている。飛びたい時に飛び、行きたい場所に行き、それでもここへと帰ってきてくれるのだ。もうどこへも消えはしない。
「…大好きだよ、新一」
もう何度も心に唱えた呪文を力に、よしっ、と気合いを入れて飛び起きる。
せっかくの彼からのお誘いだ。ここはひとつ、帝丹高校まで迎えに行こう。校門前で待ち伏せて彼を驚かせるのも楽しいだろう。しかめっ面して呆れながら、それでも「行こう」と手を差し伸べてくれるに違いない。
快斗はひとつ空に向かってうんと伸びをすると、飛び立った白い鳩を穏やかな表情で見送った。
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