忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

月の欠片 7


 遠慮のない陽光を正面に受け、その眩しさに思わず手で光を遮る。見上げた空は青くて、浮かぶ雲はこの世の何より白かった。
 それは、見覚えのある場所だ。懐かしい南国風景に…懐かしい人が隣に佇んでいる。

『いいか、もっと足に力を入れろ。じゃないと衝撃ですっ転ぶぞ、新一』
『分かってるよっ』

 その人の隣に立つ少年も、懐かしい昔の自分だ。十歳頃だろうか。
 ぼんやりとその光景を眺めながら、ああ夢なんだな、と妙に納得する。随分と懐かしい夢を見るものだ。〝彼〟を見なくなってからどれぐらいの時が経ったろうか。
 パン、と銃声が鳴り響いて、思わず転げそうになる足を必死に踏ん張る。覚えのある行動だ。そう、この時自分は射撃の訓練をしていた。父親に連れてこられた南国の私有地で、面白くて夢中で励んだ記憶がある。

『ほー。三発目で的に当てるとは筋がいいな』
『任せとけって! もうちょっと距離離してみてもいいぜ』

 誉められてはしゃぐ自分に、その人は優しく笑いながら頭を振る。

『いや、次は同じ穴に弾を通せ』
『そんなことできるのか?』
『当然だ。俺にできないことはないだろ? 手本を見せてやるよ』

 三発の銃声が連続して響く。ほぼ同時に発砲された銃弾。的には自分が開けた三つの穴しか開いていない。

『すっげー! 全部同じ穴に通したのか?』
『いや、それぞれ別の穴だ』
『まじっ?』

 それまでの自分は、彼の腕の凄さと言うものをまるで知らなかった。彼の腕の良さを知ったのは、確かこの時が初めてだ。銃器の扱いからあらゆる格闘術に護身術、ナイフの扱いから爆弾の仕組みから気配の断ち方察し方まで、全てをこの人に教わった。自分はかなり彼に懐いていたような気がする。
 笑った顔が、普段大人びたその人を妙に若々しくみせて。自分は、彼の笑顔が大好きだった。彼の――白牙の笑顔が。

 じんわりと背中に染み渡る冷たさに、新一はうっすらと目を開いた。どうやら今度こそ目を覚ましたようだ。
 全身を激しい怠さが襲い、指ひとつ、瞼ひとつさえ動かすのが酷く億劫だった。思考だけが妙にクリアで、自分が今置かれている状況を判断しようと、僅かに持ち上がった瞼の向こうの景色を必死に見遣る。
 まず視界に入ったのは、暗く薄汚れた、元は白かっただろう天井だ。つまり自分は転がされているのだろうと判断をつけ、背中に感じる冷たさはコンクリートだろうと見当を付ける。そこそこ広い空間の中、ぼんやりと青白い光が目に入った。壊れかけた机の上に、なぜか不似合いなパソコンが光を放っている。

(そうだ…俺、拉致られたんじゃん…)

 そこでようやく今朝の出来事を思い出し、新一は軽い溜息を吐いた。



 時間ぴったりに鳴り出した携帯の目覚ましを止めて、新一はまだ眠い目を擦りながらベッドから起き出した。
 朝に弱いと言う自覚はあるが、今日ばかりはそんなことも言っていられない。昨夜白馬に「明日は朝一で警視庁まで事情聴取に来ること」と半ば強引に約束させられてしまったのだ。その理由が自分を心配してのことだと分かっているだけに、新一は渋々頷いた。
 本当なら学校もある平日だ。また授業を欠席しなければならないことについつい溜息が出る。けれど、もし早めに事情聴取が済めばその足で学校に向かおうと、新一は制服を着込んで通学鞄を持つと家を出た。
 昨夜降った雨の為に道は少しぬかるんでいるが、今朝は申し分のないいい天気だ。ちょっと遠い警視庁まではバスか電車か、或いはタクシーか。声をかければ高木刑事あたりが喜んで迎えに来てくれるだろうとは思ったけれど、流石に朝からパトカーに揺られるのは勘弁願いたい。
 とりあえずは徒歩で、と歩いていると、突如として携帯電話が鳴り出した。「遅刻したか!?」と慌てて時計に目を遣るが、約束の時間まではまだまだ余裕がある。どうやら白馬や中森からではないようだ。そもそも携帯の番号を教えていないのだから、まず掛かってくるはずはないのだが。
 となれば、「非通知」と表示された画面を見て相手に予想をつける。

「黒羽だろ? どーしたんだ?」
『おや、名乗る前に相手の名前を当てるな、じゃなかったかな?』

 やはり予想通り、しかもわざわざ揚げ足を取るような軽口を吐く相手に思わず電話切ろうとすれば、相手は悪びれもなく謝ってきた。
 下手をすれば簡単にボロが出そうで、正直言って今はあまり喋りたくない相手だ。別に嘘を吐いているわけではないが、あえて話していないことがある身としては、多少後ろ暗い。
 何の用かと相手が切り出すのを待っていれば…

『おまえ、今学校か?』

 確かに、普通なら学校にいる時間だが、生憎と新一がいるのはまだ米花町である。咄嗟に嘘を吐くこともできたけれど素直に「違う」と答えれば、更に「どこ?」と突っ込まれてしまった。ここは嘘でも「そうだ」と答えておけばよかったかと思った新一だが、それも無駄かと頭を振った。彼がこうして追求してくると言うことは、何があったかまでは知らないまでも、昨日何かがあったことには勘付いているのだろう。平成のルパンを相手に嘘を吐き通すことは、如何に平成のホームズと言えども容易ではない。
 これから昨日の件で警視庁へ向かうのだと真実だけを告げるが、快斗はまるで納得していないようだった。

『なぁ…昨日何かあったのか?』

 それまでの口調を改めた快斗の真摯な声が耳元に響く。思わず息を呑んだ後に「しまった」と思うが既に遅い。聡い快斗には新一のたったそれだけの行動で何事かあったことがばれてしまったようだ。否――疑いが確信に変わった、と言うべきか。

『名探偵、隠さずに言えよ。俺の護衛、認めたんだろ?』

 確かに認めた。けれどそれは、どんなに突っぱねても「守る」と言って聞かない快斗が、望んでもいないのに勝手に庇って勝手に傷つくのを防ぐために享受したことだ。でなければ誰が守って貰いたいなどと思うものか。今回のことも素直に話したりすれば、自分の代わりにジュネヴァと対峙しようとするに違いない。それだけは避けなければと、新一はあくまで平静を装った。

「大したことじゃないんだ」
『おまえのその言葉は信用できない。おまえの言う『大丈夫』は俺で言う『ヤバイ』だ』

 小さな主治医と同じことを言ってくれる快斗に、新一は嫌そうに眉を寄せた。まるで示し合わせたようだと思う新一だったが、これが哀や快斗でなくともおそらく彼らと同じことを言っただろう。
 危険に無頓着なわけではないのにと、信用されていないことについつい溜息が出そうになる。

『なあ名探偵。俺はおまえが弱いなんて思ってないぜ。おまえが弱いから護衛しようってわけじゃないんだ』

 それ以外にどんな理由があると言うのか。守られなければならないほど自分は弱くないはずだと、新一はむっとしながら聞き返す。
 けれど、快斗の返事は新一が予想もしないものだった。

『俺が嫌だから。俺の知らないところでおまえが独り戦ってるのが嫌だから。おまえが傷つくのが嫌だから』

 それに、新一は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
 ――嫌だから。
 なんて子供じみた理由だろうと思う反面、そんな単純な理由なのかとも思った。もっとご大層な理由でもあるのかと深く考えていた自分が馬鹿みたいだ。けれど同時に、思わずほころびそうになる口元をどうすることもできずに、手で覆った。
 不覚にも思ってしまったのだ――嬉しいかも、なんて。

『俺は我侭なんだよ。おまえも納得したんだから、契約違反はなしだぜ?』

 電話越しでも相手の不適な笑みが聞こえるような気がして、新一は思わず顔をしかめた。何の契約だと憎まれ口を返してやってもよかったのだが、残念ながら何の言葉も出てこない。変わりに口をついて出たのは「分かった」という短い返事だけだった。
 我ながら可愛くない返事だと思う新一は、仕方ないなと腹を括り、昨夜のことを話そうと口を開いたのだが…
 開いた口は、全てを言い切る前に強引に閉じられた。急激に体中を走った電流のような激痛と、頭が割れるほどの耳鳴りによって。
 新一は握っていた携帯を取り落とし、頭を抱えるようにその場にくずおれた。カツーン…とコンクリートに跳ね返り、携帯が転がる。それを拾う余裕はない。
 全身を蝕むビリビリとした感覚に抗い、新一はなけなしの意識を集中させて周りを見渡した。視界の端に黒い影を捉え、目を瞠る。

(まさか、そんな…昨日の今日だぜ、冗談じゃない!)

 悲鳴を上げる体はやがて痙攣を起こし、次第に薄れていく意識の端で、白い無表情な殺し屋の顔を見た気がした。



 この記憶が正しければ、新一は警視庁へ行く途中に拉致られたと言うことだ。しかも間の悪いことに、快斗との電話中に。
 またしても易々と連れ去られてしまった自分を新一は嫌悪した。今回は追跡装置などと言うものを埋め込まれていたのだから、決して油断していたわけではない。それにも関わらず、この失態。
 一瞬にして体の自由を奪ったあの鈍く激しい痺れるような痛みを前に、新一はどうすることもできなかった。まだその時の痛みが残っているのか、体はあまり、と言うか全く言うことを聞かない。それほどの衝撃を食らって尚抵抗できる者などまずいないが、それでも新一には自分自身が許せなかった。

「目が覚めたかい?」

 不意にこつこつと床を叩く靴音が聞こえてきた。続いて視界に入ってきたのは、見覚えのある男とも女ともとれる色白の顔。相変わらず無表情なその相手からは愉楽も憎悪も感じられない。
 ジュネヴァは答えを返さない新一を気にすることなく一瞥すると、見下ろしながら言った。

「まだ未完成の装置だったんだけど、効き目は凄いみたいだね」
「…俺に、何をした?」

 大体のことは予想できていたが、新一は敢えて尋ねた。まだ体に残るこの痛みが何であるか、食らった本人が一番よく分かっているが、新一はまだ体を動かせるほど回復していない。せめて痺れた体を動かせるようになるまでは時間を稼ぐ必要があった。

「この追跡装置はそう簡単に除去できないようにできててね。しかも送られた信号を捉えることができるのはこのパソコンだけだ。それにもうひとつ、特殊な電波を出してる」

 なるほど、この装置を制御しているのはそこにあるパソコンらしい。なぜこんな寂れた室内にパソコンが、それも一台だけ置いてあるのか不思議に思っていたのだが、これで分かった。携帯型の小さなパソコンは持ち運びやすいように作られたものだろう。
 以前にも思ったことだが、ジュネヴァはなかなかに口が軽いようだ。この状況を見れば新一が脱出の機会を窺っているなど思いも寄らないのだろうが、新一は最後まで諦めるつもりなどなかった。なんとかしてここを抜け出す方法を、この装置を取り除く方法を、ぎりぎりのこの状況で考えている。

「あの時、まるで電流が走ったみたいに体が痺れただろう? この特殊な電波が脳に信号を送るのさ。それで脳が錯覚を起こす。錯覚と言っても痛みは本物だけどね」
「…悪趣味だな」

 何とも厄介なものを作ってくれるものだ。とは言え、体を縮める薬を作るくらいなのだから、この装置の方がずっと現実的で実用的だろう。よくよく未完成の代物を投与されるらしい自分の運の悪さに、新一はうんざりと溜息を吐いた。
 それを諦めと取ったのか、ジュネヴァは短く笑いを漏らし、ここからが本題とばかりに話し出した。

「なあ、仲間になっちまえよ、探偵さん」
「嫌だね」

 端からジュネヴァの誘いを飲む気など毛頭ない新一は、昨夜と同じ問答を繰り返す。新一にあるのは、ただ組織を潰してやりたいと言う気持ちだけだ。殺しを楽しむような、罪を罪とも思わないような連中に「仲間」などと呼ばれるなど、それだけで吐き気がする。
 なぜなら、自分は知っているから。罪を罪と知り、その罪から逃れることなく、それでも胸に刻んだ誓いのために今も戦っている男のことを。だから――こういう勘違いした連中には何よりも腹が立つ。
 けれど、と新一は沸き起こる怒りを頭から振り払った。今は、このパソコンが本物であるかどうかを確かめなければならない。あれがダミーで本物を別に持っている可能性もある。
 或いはジュネヴァに別の仲間がいないとも限らないが、おそらくその可能性は低いだろう。奴の騒々しいまでの仕事ぶりは、組織の好むものではない。決してその存在を察知させずに目的を遂行し、霧のように姿を眩ます。それが奴らの常套手段だ。瓦解したとは言え、組織のそれとおよそ異なったジュネヴァのやり方から予想するに、おそらく奴は組織内でも異分子扱いされていたに違いない。
 断わられることは予想していたのだろう、ジュネヴァは新一の返事に気落ちする様子もなく、机の側の椅子へと座った。

「あんた、素人にしちゃ随分筋がいいんだ。探偵なんかにしとくのは勿体ないぜ?」

 己の優位を確信したジュネヴァの表情は余裕に満ちている。それを敢えて打ち崩すように、新一は嘲笑を浮かべた。

「ひとつ、教えておいてやるよ」
「…なんだ?」
「おまえのそれは独り善がりだ」

 ジュネヴァの気配が冷たさを帯びるが、新一は言葉を続けた。

「組織の復興? そんなもの、望んでるのはおまえだけじゃねーのか? おまえらみたいな連中にとって、組織とは絶対に死守すべきものじゃない。自分がどのコミュニティに属しているかと言う、単なる肩書きに過ぎないからな。裏の世界では何の後ろ盾もない者は生きていけないから、何処かしらの組織の下につく、ただそれだけのことだろう。つまり、守るべきは己の命であって組織じゃない。組織が潰れたならまた別の組織の下につくだけだ。一度潰れたものをまた一から作り直す奴なんかまずいねーよ」

 青白いはずのジュネヴァの顔に朱が差す。それは怒りの、憎しみの色だ。

「おまえがジンの右腕だって? それって単なる自称じゃねーの? 一度でも本人にそう言われたことあんのか? はっきり言って、おまえじゃ力不足だ。ジンとは比べ物にもなんねーよ。あいつは強い。もっとずっとな。それに、あいつは組織に執着するようなタマじゃない。あれほどの腕だ、組織が潰れたと同時に別の組織に吸収されるだろ。あいつの力を欲しがる奴は大勢いるはずだからな。つまり、組織の復興なんて馬鹿げた望みを抱いてるのはおまえだけだ」
「…黙れ…」
「図星か? もう一度言う。おまえのそれは、独り善がりだ」
「黙れ――っ!」

 怒りが頂点に達したらしいジュネヴァは珍しく声を荒立てると、パソコンのキーボードに向かって勢いよく何事かを打ち込みだした。それと連動するように再び新一をあの電撃が襲う。突然激しい頭痛に襲われたかと思うと、続いて痺れるような衝撃がくる。過ぎる痛みに新一の体が大きく跳ねた。
 苦痛に顔が歪み、食いしばった歯に切られた唇から血が流れる。それでもきつく目を瞑って痛みを堪え、最後の抵抗にと意地でも声は上げなかった。噛み締めた唇を一瞬でも緩めようものなら、悲鳴を上げてしまいそうだった。
 やがて激痛が消え、再び体に怠さが戻った。全身から嫌な汗が流れて、冷たいコンクリートが体温を奪う。不規則だった呼吸がようやく治まった頃、落ち着きを取り戻したらしいジュネヴァが無表情で言った。

「まあいいさ。嫌でも『応』と言わせてやる。もし言わなきゃ死ぬことになるが、それはそれで仕方ないね」

 そんなジュネヴァの脅しは余所に、新一は有りっ丈の理性を掻き集めて思考を巡らせた。
 どうやらこの装置を制御しているのはあのパソコンで間違いないらしい。新一はわざと奴を挑発することによって、あのパソコンで装置を起動させているかどうかを確認したのだ。小さな主治医や白い怪盗が聞いたら真っ青になって怒り出しそうな方法だが、何より手っ取り早い。しかし、並外れた神経の待ち主でなければとてもできる芸当ではないだろう。一度その凄まじい苦痛を受けた者であれば、尚更。
 不意に視界が暗くなったかと思うと、ジュネヴァが直ぐ側まで来ていた。新一の体を跨ぎ、見下ろすように白い顔が近づく。その手の中には銀色に光を弾くナイフ。頬に冷たい刃を押し当てられた。

「その優秀な頭なら、これから何をしようってんだか分かるだろう? 強情張らずに早めに諦めた方があんたの為だよ」
「余計なお世話だ…」

 それでも尚怯まない蒼の双眸を鼻で嗤い、ジュネヴァはナイフの刃を突き立てた。

「その余裕がいつまで保つか見物だね」

 なんならこのまま殺すのも楽しいかも知れないね、と言って嗤う顔を、新一は真っ直ぐに見据える。どんなに脅しても少しも怯むことを知らないその双眸にジュネヴァは舌打ちすると、突き立てた刃に力を込め、ゆっくりと白い肌を切り裂き始めた。
 ジュネヴァの病的なまでの白さと違い、新一の肌は健康的な白さをしている。その肌も今は苦痛に上気し、薄紅色に染まった頬はナイフで切られ、そこからは鮮血が流れ出ている。わざと恐怖を煽るように殊更ゆっくりとナイフを動かしてみるものの、何故か今回の獲物は少しも怯えない。
 動揺したのはジュネヴァだった。小さく舌打ちすると、勢いよくナイフを引く。切り裂かれた頬からは痛々しい程の血が溢れ出すが、新一は微かに眉を動かしただけだった。

「…面白いじゃないか」

 瞬間、白い顔を凶悪に歪めてみせると、ジュネヴァはナイフを頭上に高く振り上げた。パソコンの画面から発せられる青白い光を受け、ナイフが妖しく輝く。
 次に来るだろう衝撃に構えて、新一はぐっと歯を食いしばった。高く掲げられたナイフは、真っ直ぐに新一の左足へと振り下ろされた。

「――…っ!」

 左大腿部に激痛が走り、思わず身も世もなく喚き散らしたくなるほどの衝撃が新一を襲った。それでも、その全てをなけなしの理性で押し黙らせる。ともすれば痛みに意識を飛ばしてしまいそうなこの状況にありながら、最後の足掻きとばかりに新一は意地でも声を上げなかった。
 ジュネヴァはその様子を不満そうに眺めていたが、苦痛に歪んだ顔を見て少しは気をよくしたらしい。

「痛かったら素直に声を上げればいい。その方が俺も愉しめる」
「…死んでも…声は、出さねーよ…っ」

 ジュネヴァの手が翻る。
 新たな血を求めんと、再びナイフが振り上げられた。



 謎の男が告げたのは、とある廃ビルだった。そこは数ヶ月前にある会社が倒産したため、現在は空き物件となっていた。その後もそこで起こった爆発事故が原因で買い取る者も現われず、中途半端に半壊したまま放置されたビルはいつ潰れてもおかしくない状態だ。
 そこに、新一がいるのだと言う。確かにこれほど臭いビルもないだろう。これが男の罠にしろ何にしろ、一度調べてみる価値はある。
 快斗は「立ち入り禁止」の看板が掛けてあるフェンスを飛び越えると、軽快な身ごなしでビルの入り口へと近づいた。使われなくなってから随分経つにも拘わらず、そこに施された錠前は意外にしっかりしていて、つい最近も人の出入りがあったらしいことが窺える。それがジュネヴァなのかは分からないが、快斗は素早くキッドの白装束を纏うと、一瞬で鍵を解いて扉の中へと体を滑り込ませた。
 気配を、足音を、自分という存在を消して、ビルの中を駆け出す。ビルと言うだけあって中は広いし部屋数も多い。何階のどの部屋にいるのか、或いは地下か屋上か、それともここにはいないのか…
 だが快斗は――キッドは、彼がここに居るだろうことを確信した。別に何の根拠があるわけでもない。ただ、彼の存在を感じる。この世にただひとつしかない魂の輝きを嗅ぎつける、それはまるで獣の本能のようだ。
 彼がどこにいるのか手に取るように分かる、そんな自分に混乱しながらも、キッドは違うことなく彼へと続く道を進んでいく。その先に求める人が居るという、絶対の確信。体で、心で、彼の存在を感じ取っている。
 近づくほどに熱くなる心臓に知らず手を当てながら、キッドは走った。やがて見えてきた、一見物置部屋にしか見えない部屋のドアを、躊躇うことなく蹴り開ける。途端、瞳に捉えた大事な人の姿に安堵し――絶句した。



BACK * TOP * NEXT

PR