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空色の国 1




「なぁ平次、お前やったら知っとるんちゃう?」

  寝部屋だと割り当てられた部屋のベッドシーツを整えていた服部に、同室の沖田が話しかけた。
  彼は服部と同期で軍に入隊し、この第十四支部にあてがわれた友人だった。
  軍人養成学校時代から、剣の腕では一、二を争うほどの二人だったが、私生活では結構仲良くしている。
  意外に噂好きの沖田は、よくこうして服部に噂話を持ちかけては好き放題話していた。
  たまにうんざりする服部だが、面倒見の良い性格が災いして結局最後まで聞いてしまうのだ。
  と、四人に一部屋とされているため、耳ざとく聞きつけた他の二人が興味深げに近寄ってきた。

 「何をや?」
 「俺らのいるこの十四支部に、あの人がいるらしいで!」

  服部は沖田の言う〝あの人〟がわからなくて首を傾げた。
  が、他の二人は、まじで!と言って目をきらきらさせている。
  どうやら彼らには伝わったようだ。

 「平次知らんの?」
 「マジかよ!あの人を知らないとは、服部おまえってモグリじゃねーの!」

  もぐりって…と苦笑をしながら、それやったら勿体ぶらんと名前を言ってくれ、と思う服部だ。
  人より頭の切れる服部だが、こういう代名詞の会話は実は嫌いなのである。

 「だから誰やねんな?」
 「あの人や! 伝説の少尉、黒衣の騎士や!」

  ――ああ、あいつのことか…。
  大して驚いた様子のない服部に、やっぱりこいつは知っとるんや!と沖田は思う。
  噂好きとしてはなんとかここで情報を聞き出したいところだ。
  軍人なんてしているがまだまだ十八歳、子供っぽさが抜けきらないのも仕方ないだろう。

 「あの伝説の少尉がいるねんで! いつか逢えるかもせーへん! ワクワクすんなぁ」

  目を輝かせながらうっとり話している彼らを余所に。
  それなら毎日会って話しとるからなぁ…と、服部は心の中でだけ告白した。
  なにせ彼は服部にとって唯一無二の大事な友人。
  彼の父親からも世話を頼まれていたりするのだ。

 「ところで、なんで伝説なん?」
 「そりゃオマエ!」
 「まずは謎の黒装束! いつも黒の仮面をつけてて素顔はわかんねーし!」
 「それよりなにより、あの剣術の凄さは伝説モンやろ!」

  俺らですら敵わんで、と言いながらはしゃぐ沖田。
  果たしてそこで喜んでいても良いものだろうかと服部は思った。
  けれど確かに、彼には剣術でどころかあらゆることにおいて勝ったためしがない。
  いつも何かしら勝負を挑んでは、負けるのは決まって服部の方なのだ。

 「それに、一番謎なのは…」
 「少尉の年齢だよなぁ…」

  そう。
  彼が現われたのは、自分たちが軍人学校を卒業して入隊し、三等兵となった時期とかぶるのだ。
  そして確実に流れる噂の中で、彼の少尉は卒業と共に少尉になったといわれている。
  普通ならばあり得ないことだ。
  卒業したら、誰もが三等兵からスタートを切るのが常である。
  そこから徐々に二等兵、一等兵…という具合で昇格していくのだ。
  卒業後というなら、普通に考えて十八歳のはず。
  軍に入隊する者は、十歳から学校へ八年間通い、順調にいけば十八歳で卒業する。
  飛び級制度はなくとも留年制度はあるのだ。
  卒業後すぐに少尉になるぐらいなのだから、かなりの才能であるに違いない。
  それならば普通に考えて彼は十八歳だということになる。
  つまり、噂の少尉は服部や沖田、その他の軍人と同期である、と。
  だから伝説の少尉と言われ、彼らの間では絶大な人気を誇っているのだ。

 (なんや、もうそこまで人気モンなんかいな)

  あいつらしいな、と服部は笑う。
  彼はどこにいても目立つ。
  たとえその姿を漆黒の衣装や仮面に隠したとしても。
  そしてその存在に心惹かれる者は後を絶たない。
  服部自身もそんな者のひとりだった。
  ただ少し頭が切れる、というだけの理由で彼と気があって話すようになり、彼の父親から直々に内密な指令を頂いた。
  ただ一言――

〝危なっかしいあの子を守ってやってくれ〟

  多分、力では敵わない。
  ただ、彼が安らげる居場所になってくれということだ。
  世界政府にも軍からも一目置かれている彼の父親、工藤優作。
  伝説の少尉、黒衣の騎士と呼ばれる工藤新一は、服部の大事な友人だった。





  部屋を訪ねてみて、服部は絶句した。
  その部屋のただならぬ広さに。

 「うわ、ごっつセコッ! こんなん有りかぁー?」

  俺らの部屋はあないに狭い上に、四人共同やぞ!
  部屋に入るなりそう叫んだ服部に、新一は面倒くさそうに言い放つ。

 「ンなこと俺に言われたって知るか。俺が望んだわけじゃねーからな」

  ふん、と鼻で息を吐くとベッドへと顔を埋めてしまった。
  新一は拗ねるとよくこうして顔を隠すように布団へ埋まってしまうのだ。
  あまり素顔や素の自分を晒すことを良しとしない彼の、癖のようなものである。
  服部はひとしきり驚くと、次には呆れながらそんな拗ねた様子の新一の傍らへと腰掛けた。
  自分の失言に少し後悔しながら。
  この待遇は新一の望むところではない。
  もともと少尉として入隊することにすら抵抗していたのだ、彼は。

  軍人養成学校に突如現われた天才児。
  各個人のデータは完璧に保護され、他人の目に晒されることは絶対に有り得ないとされるほど厳重なロックがかかっている。
  が、それでも人の噂とはたつものだ。
  教師といえどもひとりの人間、噂話のひとつぐらいしたくなるのだろう。
  そうして教える側の人間に工藤新一という存在は瞬く間に知れ渡った。
  彼は十四歳にして学校の全ての人間のトップに立ってしまったのだ。
  先輩すらも凌いで。
  その逸材を軍が見逃すはずもなく、新一は十六歳にして異例のスカウトを受けた。
  が、すでにその歳で少尉クラスの任務を行えるほどだったというのに、新一はそれを断わった。
  自分はまだ幼く、学ばなければならないことが多くある、というのがその理由だった。
  そうして新一は、一度スカウトを断わっていたため卒業時に少佐として入隊することを強く拒めず、交渉の末少尉として入隊することとなったのだった。

  それらは全て新一個人の能力の高さゆえだったのだが、それをどう勘違いしたのか、新一は父親の力のせいだと思っている。
  他人の権威を借ることが大嫌いな新一は、それゆえに機嫌が悪いのだ。
  けれどその働きぶりはかなり優秀で、卒業からわずか三ヶ月、すでに伝説と言われるほどである。

 「ま、広いに越したことはないで。そんなに狭い方がええんやったら、たまには俺らの部屋に遊びに来たらええし」
 「…別に広い狭いはどーだって良いんだけど」

  そりゃ俺だって広い方がゆっくり本読めるし?
  漸く顔を上げた新一はそのままベッドの上をごろんと転がって、服部の膝横に頭をつける。
  自然と見上げる体勢になりながら、口を尖らせた。

 「ただ特別扱いされんのがムカツク。どこまで親父の手がまわってんだかわかんねぇ…」
 「お前、ほんまに親父さん嫌いやな。可哀想、報われへんなぁ」
 「どこが。ちっとも可哀想なんかじゃねーよ」

  実際は優作の手など伸びてはいない。
  息子を溺愛する傾向のある父親だが、甘やかすことはしないのが彼のモットーである。
  片親という状況にありながら、本当ならもっと甘やかしたいだろうに…と、服部は優作を気の毒に思った。
  彼の愛情はちっとも息子に通じていないようだ。

 「ま、ひとりってのは有り難いかな」

  ほら、俺って素顔隠した仮面男だし?
  くすくす笑ってそう言った新一がどこか寂しそうで、服部は無言で新一の絹糸のような髪を軽く撫でた。
  指に気持ちいい髪の感触。
  新一はそれを子供扱いだと思ったのか、怒ったように睨み上げてくる。

 「なぁ、別に仮面はいらんと思うねんけどなぁ」
 「…要るんだよ」

  なぜ新一が仮面をかぶるのか。
  入隊直後、黒の軍服を着込んだ彼が服部の前に現われたとき、小脇にはすでに黒のマスクを抱えていた。
  きっと初めから決めていたのだろう。
  理由を聞けば、嘗められたくないから…とぽつりとこぼしていた。
  その時、昔新一が言っていたことを思い出したのだ。

 〝…コンプレックスなんだ〟

  細い体が。
  脆弱ではないが強靱にはなれない体なんだ、と。
  どんなに鍛えてもこればかりは体質だから仕方ないらしい。
  肌の白さは生まれつきで、鍛えたことによって必要な筋肉はついたが、それでも細い体はおよそ軍人らしからぬ風貌だった。
  細いから、子供だから、そんなことで嘗められるのは、対等に見て貰えないのは悔しいからと仮面をかぶった。
  外見の一切を遮断してしまえば、後に残るのはその人の存在感と威圧感だけ。

  けれど新一の真意がそんなことでないと、服部はとうにわかっていた。
  ただ、仮面によってあの深く綺麗な蒼が見えなくなってしまうことを少し寂しく思った。

 「そやなぁ…お前のあれは、戦闘装束やもんな」

  俺も出世したら着ようかな、と言う服部の軽口に、新一は微笑する。

 「お前が黒の軍服着たらただのクロスケじゃん」
 「ひどっ! そらないで、工藤ぉ~っ」
 「ただでさえ黒いんだからさぁ~」

  服部はこんな瞬間が楽だな、と感じる。
  自分に彼の負担を取り除けるほどの力があるとは思わないけれど、せめて彼を楽にする居場所ぐらいにはなってやりたいと、心から思う。
  惹かれたのは稀有の蒼い双眸を持つ、穢れない魂。

 「戦争は…いつになっても終わらないんだな…」

  冗談の中にたまに混じる彼の本気の言葉が深々と胸に突き刺さる気がして、服部は新一の心の傷の深さを痛感した。





 翌日、午後のトレーニングも終えてほとんどの者がばてている中、人より少し線の細い少年と地方訛りのある褐色の少年は、北東の大門周辺の見回りへと繰り出していた。
  軍人学校での八年間の訓練を乗り越えた者ですらきつく感じるトレーニングを、新一と服部は軽くこなしている。

  この、砂漠に四方を囲まれた王国ヴェルトは、北東、北西、南東、南西にそれぞれ大門が設備されていた。
  各大門には見張り塔が設置され、そこには常に二人の見張り番がいる。
  他国の侵略から国を守るため、そして砂漠を隔てた向こうの森に住むモヴェールという者達から国を守るため。
  モヴェールは人に酷似した姿を持ち、人語を解し会話もするが、ある特異な能力を持つ者を〝王〟とし、絶対の存在としている。
  彼らは人間を忌み嫌い、人間は彼らを忌み嫌う。
  その特異な能力ゆえに引き起こされた大戦の名残である。

 「それにしても、工藤の体力もかなりのモンやんなぁ」
 「卒業してんだ。これぐらい当たり前だろ」
 「これでも俺、結構バテてんねんで。せやのに工藤は涼しい顔しとるんやもん…」

  なんや自信なくすわぁ、などと心にもないことを言う服部。
  自信を無くすどころか余計に張り切っちまうような人間がよく言うぜ、と新一は呆れたように肩を竦めた。

 「体動かすのは気持ち良いんだよな」
 「確かになぁ。俺ら、十歳までに必要知識は全部頭に詰め込んでんもん、後はやることないもんな」
 「知識に限りなんてねーよ。けど、昼間っから引っ込んでたら体なまっちまうし」
 「せやな。俺もようやく一等兵になったんや。次は伍長や、頑張るで!」

  両手に拳を作って意気込む服部を横目で見遣って、新一は楽しそうに笑った。
  軍人になったのだから昇格は当たり前の、誰もが望むことである。
  けれどお前はどうかと聞かれると、新一は望むようなそうでないような、曖昧な気持ちだった。
  上がろうが下がろうが、やることに代わりはない。
  つまりは命を奪うということなのだから。



  ふと、なにげなく視線の彷徨った先にあった光景が目にとまる。
  少年――まだ十二歳程度の子供が数人、円陣の形で集まっていた。
  気にするほどの光景でもなかったはずが、なぜか胸がざわついて、新一は小走りに近寄った。
  突然遠ざかっていった新一に服部も遅れながら着いて行く。
  二人の軍人に気付いた少年達は目を見開いて、蜘蛛の子を散らすようにあっという間にそこここへと消えてしまった。
  現われた光景に息を呑む。

 「……ひど…」

  全身から血を流し、ぐったりと地面に伏している小さな子供。
  いや、人間ではなかった。
  これは――モヴェールの子。

 「服部、まだ生きてる。ここでたむろってたガキ共探し出せ。顔は覚えてんだろ?」
 「ああ、七人バッチリや。工藤、その子どないするん?」

  それってモヴェールの子やろ?
  彼らと人間はひどく仲が悪い。
  そんな子供を見てくれるような医者がいるだろうか…と思って、服部は思い出したように、あ、と短く声を上げた。

 「ドクターやな?」
 「ん、志保んとこ連れてく。良いから探し出せ、見つけたら事情を聞かなきゃなんねぇ」

  モヴェールが黙ってないぞ、と。
  そう低く呟いた新一を残して、服部は子供を捜しに走っていった。

  地面に伏したまま動かないその子の胸が呼吸のために上下しているのを確認して、新一は少なからず安堵する。
  けれど出血の量から油断はできないと、素早く行動に移った。
  羽織っていたトレーニング用の服を脱いで、その子をくるんで抱き上げる。
  まだ七歳程度の少女のモヴェール。
  軽々と腕の中に収まった子供の頬や頭を優しく撫でながら、静かな声で覚醒を促した。

 「もう大丈夫だぜ。今から医者に診せてやるから。毒舌だけど腕は天才的だ。心配要らない。もうガキ共は消えちまったから」

  だから目を開けても良いよ、と。
  医者のもとへと急ぎながら、できるだけ振動が伝わらないようにと細心の注意を払って歩く。
  何度目かの問いかけに漸くその子はうっすらと瞳を開いた。

 「大丈夫か? 頭ハッキリしてる?」

  おそらく怪我の所為で発熱しているのだろう、腕に伝わる体温が熱い。
  意識は戻ったもののまだ朦朧としているのか、視点の定まらない目がじっと見つめ返してきた。
  なんでこの子があそこにいたのだとか、なんでこんな怪我をしなければならなかったのかとか。
  聞きたいことはたくさんあったが、今この子にそれを聞くのは危険でしかない。
  新一はただ優しく撫でながら、大丈夫だと囁き続けた。

  不意に何かを喋ろうとしているのか、少女の唇が微かに動く。
  生憎と声にならない声だったために聞き取れなかった。
  が、読唇術を心得ている新一は、その唇の動きをとらえて読みとることができた。
  ただ小さく、微かに、けれど確かに。
  〝ヒカリ〟と。

 (ヒカリ? 光、か? この子の名前かな…)



  軍の施設のひとつ、新一や服部が暮らす建物の中に、志保の医療室はあった。
  扉の前に立てば自動的に開く、というとてもハイテクな技術を駆使した扉をくぐり、新一は中へと入る。
  いつも思うのだがこの医療室は非常に人の出入りが少ない。
  そのため、こういう緊急時には有り難いのだが。

 「志保!」

  机に向かって何事かを書いていた志保が、突然背後からかかった切羽詰まったような声に驚いて振り向いた。
  淵のない眼鏡をかけた、赤茶色の髪の美しい少女。
  グレーの瞳が突然の来訪者に少しばかり見開かれている。

 「どうしたの? 工藤君」
 「この子、見てくんねーか?」

  お前にしか頼めないんだ…。
  そっと大事に抱えてた子供を寝台の上に丁寧に寝転がせ、血の付いた服をどけた。
  顕わになった子供の姿に、志保の秀麗な眉は寄せられる。
  なんて酷いのかしら、と。
  子供にあるまじきその惨状にすぐことを悟り、志保は素早く治療の準備へととりかかった。
  医者ではない新一にできることは何もなく、ただ邪魔にならないようにと隅の方に佇んで子供を見つめていた。

 「この子、モヴェールでしょ?」

  服装が違うものね。
  こんな格好でここに来たらどういうことになるか、この子の親は何も言わなかったのかしら。
  それとも不可抗力だとでも言うのか。
  志保は苛々する気持ちを抑えられずに独り言のように呟く。
  それに新一はただ、

 「助かりそうか?」

  とだけ返す。
  …志保の苛立つ気持ちはわかるから。

 「…わからないわ。私は救うための道標をするだけ。あとはこの子の気力次第ね」
 「そうか。きっと助けてやってくれ」
 「…ええ」

  新一を見れば、蒼の瞳が真摯に見つめてくる。
  志保は儚げに笑うと、絶対に助けてみせるわよ、と言った。
  彼女に〝絶対〟と言わせれば、それは確実である。
  有言実行、やると言ったことは確実にやりこなすのがドクター宮野志保だ。
  同族だもの、と。
  その小さな呟きすらも、新一は聞き逃さなかった。

  志保は今でこそ人間の中で暮らしているが、もともとはモヴェールの出身だった。
  モヴェールと人間のクオータで、誰にも引き取られず身よりの無かったところを新一の父親である優作に拾われ、新一と共に育ってきたのだ。
  たとえ人間の血が混じっているからと親に見放されようと、その体には紛れもないモヴェールの血が流れていて。
  だから、志保にはどちらも見捨てることができないのだ。

 「工藤君、ここは私が任されるから。貴方は貴方のやるべきことをしなさい」
 「ああ…服部に任せっきりじゃマズイな。それに…」

  そろそろ、情報をかぎつけた奴らが来ないとも限らない。
  モヴェールの絆の強さには凄まじいものがある。
  たとえ子供ひとりだろうと、決して見放したりはしないのだ。
  彼らがどこまでも残虐になれるのは、人間に対してのみ。

 「じゃあ志保、後は任せる。またこの子を連れに来るから、それまでは看ていてやってくれ」
 「貴方に言われなくてもそうするわ。服部君にも無事だと伝えてあげなさい」

  わかった、と短い返事だけを残して新一は出ていった。
  おそらくは少尉としての責務を果たすのだろう。
  そう思って、志保はほんの少しだけ胸がちくりと痛くなるのを感じた。
  貴方はまたその心を傷つけてしまうのね、と。

  誰よりも優しいはずの彼が軍に入ると言ったとき、本当に驚いたけれど……本当に、強い人だと感じた。
  打ちひしがれて泣くことしかしない人など幾らでもいるし、どうでも良いと全てを投げ出す人だって幾らでもいるのに。
  彼はそのどれにも属さず、たったひとりでどんどん前へと突き進んで行く。
  新一が軍に入ると言ったとき、それならばと後から必死で追いかけるように志保は軍医になった。
  戦場でまた傷を深くするだろう人を、少しでも癒してあげることができたならばと思ってついてきた。
  実際は救われることの方が多いのだけれど……

「願わくば、貴方の心の平安を」

  そう、人間なんて本当はどうでも良いのよ。
  ただ貴方が望むから、私も一緒に彼らの幸せも願ってあげるだけ。
  志保はそっと、消えない傷が刻み込まれた左手を握りしめた。



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