隠恋慕
夜明け前 1
S.H.I.E.L.D.が崩壊し、住居を失ったスティーブは現在、アベンジャーズタワーに住んでいた。
以前は壁面にでかでかと『STARK』の文字を刻んでいた巨大なタワーは、いつの間にやら『A』の一文字へと装いを変え、アベンジャーズのメンバーが住める設備へと変わっていた。
別にS.H.I.E.L.D.の崩壊を見越して建てたわけではないだろうが、そのおかげでスティーブを含めた多くの元S.H.I.E.L.D.職員やエージェントたちが、現在このタワーで厄介になっている。
時折ふらりと行方を晦ますブルース・バナーもNYに滞在中はこのタワーで生活しているし、ひとところに定住する気のないらしいナターシャ・ロマノフやクリント・バートンも体の良いホテル代わりに使っている。
ただひとり虹の橋という便利な移動手段を持つソーだけは、いつでもどこでも行きたい場所に行けるため、滅多にタワーを利用することはなかったが。
最初はこのタワーの目まぐるしいまでのオーバーテクノロジーにいちいち驚いていたスティーブも、一月も経つ頃にはすっかり慣れていた。
こちらの動きを感知して勝手に動き出す機械にも、唐突に降ってくる天の声にも。
だからこの日も、突然降ってきた天の声――もといJ.A.R.V.I.S.の声にも、最初の頃のように驚いて警戒態勢を取ることもなかった。
「――Mr.ロジャース」
機械らしく抑揚を欠いた、けれど時に人と見紛うジョークすら嘯いてみせる人工知能が、どこか神妙な声で名前を呼ぶ。
シャワーを浴び、そろそろ寝ようかとベッドシーツを整えていたスティーブは、ついつい癖で天井を見上げた。
「J.A.R.V.I.S.?」
「お休みのところ申し訳ありません。貴方に折り入ってお願いがあるのです」
「スタークが僕に?」
「いいえ。トニー様からはなにも命じられておりません」
「え? ということは……君が僕に?」
「そうなります」
あまりの珍しさ、というか初めてのことに、スティーブは目を瞬いた。
スタークがまるで息子のように彼を可愛がるように、彼もまた子が親を慕うようにスタークに従順だ。
その彼が、スタークの命令もなく、こんな風に接触してくるなんて。
スティーブはテクノロジーに詳しくないが、人工知能とはただコマンドに応じるだけじゃなく、自ら思考して行動を起こすものなのだろうか。
とは言え、なにかと世話になっている相手だ。
むしろ主であるスタークよりも世話になっているので――その世話を命じているのは他ならぬスタークなのだが――そんな彼からの「お願い」を聞くことに否やはなかった。
「で、お願いってなんなんだい?」
だからスティーブはごくごく軽い気持ちでそう尋ねた。
しかしそうしてJ.A.R.V.I.S.が告げた「お願い」は、スティーブの予想を斜め上に外した、なかなかの難題なのだった。
*
深夜一時を過ぎたリビングには、柔らかなオレンジライトが点いていた。
一歩踏み込むだけで鼻孔を擽る香りは、アルコールのものだ。
生憎と酒の味を覚える前に超人兵士となったスティーブは、安い酒も高い酒も味わってこなかったので、それがなんの香りかまでは分からなかったが。
それでもグラスの一杯二杯でこんなにも濃密なアルコールの匂いが充満するはずがないということだけは分かる。
「スターク」
ソファに腰掛ける背中に声をかければ、酒で顔を赤らめたトニー・スタークが背もたれ越しに振り返った。
「やあ、キャプテン。早寝早起きのじいさんが、こんな時間に珍しいな?」
丸底のグラスを握った右手を挨拶代わりに掲げてみせ、いつもの皮肉を吐きながら口角を持ち上げる。
この頃には彼の皮肉への免疫も随分できていたので、と言うよりいちいち反応しても彼を楽しませるだけなので、スティーブはそれをさらりと流した。
そもそも、彼の皮肉は見せかけなのだ。
スティーブやナターシャ、特にフューリーには皮肉や揶揄を雨あられの如く降り積もらせる彼が、バナーとの会話ではほとんどその手の言葉を口にしない。
なぜかと不思議に思ったが、バナーにはトニーを攻撃する理由がないからだとある時気づいた。
バナーはよく言えば友好的、悪く言えば興味がないのだ。相手がトニー・スタークだろうと、誰であろうと。
スタークは見かけに寄らず、人の気配に敏感で繊細だ。
相手が自分に害を成そうとしていると察知すれば、すぐさま防壁を築く。
ナターシャやフューリーが敬遠されるのは、彼らがスパイで、トニー・スタークに害を成す可能性があるからだ。
そしてスティーブが敬遠されるのは――聞きたくないことを聞かされるからだろう。
「スターク。いったいどれだけ飲んだんだ? 何事も度をこせば、体に毒だぞ」
「なんだ、開口一番に説教か? 私がティーンの子供に見えるか?」
「その方がいくらかマシだな。分別ある大人にこんな説教をするくらいなら」
「たまにハメを外すくらいいいだろ。日々地球を守るヒーロー業に勤しんでるんだから」
スタークは嫌そうに眉を寄せると、まるで子供のように唇を尖らせた。
そのままくるりと前へ向き直ると、グラスを煽って一気に中身を飲み干してしまう。
スティーブだとて、いい年をした大人相手にこんな説教はできることならしたくない。
しかしそれこそがJ.A.R.V.I.S.からの「お願い」なのだから仕方がないと、喉まで出かかった溜息を無理やり飲み下し、ソファを回り込んでスタークの前に立った。
室内、それも照明を落とした薄暗い中だというのにサングラスを掛けたままの男を見下ろす。
いったいそれでなにを誤魔化そうと言うのか。
スティーブが右手を伸ばすと、グラスを持たない左手で容赦なく払い除けられた。
それでも懲りずにもう一度伸ばせば、おい、と威嚇するように唸りながらスティーブの右手を掴む。
そうして彼の両手が塞がった隙に、スティーブは素早く左手でサングラスを取り上げた。
「おい! なんのつもり、」
「――スターク。何時間、寝ていない?」
直球に聞けば、不意を突かれたスタークが思わず言葉を詰まらせる。
それだけで充分だった。
「酷い隈だ。こんな体で酒なんて、君は死にたいのか?」
「馬鹿言え。大体、この隈だってちょっと忙しくて寝る暇がなかっただけで、」
「――ちょっと?」
昼間はジェットであっちこっちへ飛び回り、社長職こそ人に譲ったがスターク・インダストリーズの筆頭技術者として社のサポートと開発を手掛ける一方で、S.H.I.E.L.D.を失った今や地球を守る主要組織となったアベンジャーズを支える責任者でもある、それが現在のトニー・スタークだ。
現場を仕切るのは指揮官であるスティーブの役目だが、組織そのものを支えているのはスタークだ。
その彼が言う「ちょっと」がどれくらいなのか、正直なところスティーブには想像もつかない。
だが、本当に彼の言う通りなら、J.A.R.V.I.S.が自分に「お願い」を持ち出すことはなかっただろう。
彼は「忙しくて寝る暇がなかった」わけでも、「たまにハメを外している」わけでもない。
「スターク。僕は君を心配してるんだ。僕が駄目なら、バナーを呼んだっていい。無茶をする君を見過ごすことはできない」
「……別に無茶なんて」
「なら、最後に寝たのはいつ?」
「昨日」
「嘘だ」
スターク自身、そんな嘘が通じるとは思ってなかったのだろう。
すぐさま否定され、バツが悪そうに顔を背けた。
彼の顔にくっきりと刻まれた目の下の隈は、一日二日でできるものじゃない。
同じ屋根の下で暮らしていたのに気づけなかった自分が迂闊だったのか、それとも彼の隠し方が巧妙だったのか。きっと両方だろう。
思えば、トニー・スタークという男は人に頼ることがない。
なまじ頭が良すぎるばかりに大抵のことは自分で解決してしまうし、彼に見合ったレベルで手を貸せる相手が少ないことも原因だろう。
テクノロジーの面では残念ながらスティーブではなにひとつ力になることはできない。きっとこの先も。
それでもJ.A.R.V.I.S.はスティーブを選んだ。
彼と同等に話せるバナーでも、彼の親友であるローズ大佐でも、彼の信頼するポッツ女史でもなく。
だからきっと、スティーブにだって彼のためにできることがあるはずなのだ。
たとえば――力尽くで彼を眠らせること、だとか。
「とにかく眠るんだ。今の君に必要なのは酒じゃなくて睡眠だ」
スタークの手からグラスを取り上げるが、意外にも抵抗はなかった。
ただ顔を背けたまま微動だにしない。
その子供じみた態度に、堪えていた溜息が終にこぼれかけたところで、スタークがぼそりと言った。
「……別に、酒が飲みたかったわけじゃない」
「スターク?」
そう言う割には彼の呼気に含まれるアルコールはあまりに強かったが、テーブルの上にあるのは三分の一ほど残ったウイスキーのボトルがひとつ。
確かに度を越した酒宴の後というほどでもない。
ふと、スティーブの脳裏に、いつかの夜が過ぎった。
スティーブにも、眠れぬ夜にこうして酒を煽った日があった。
残念ながら常人の四倍の代謝を持つスティーブは酔うどころか、眠気すら訪れることはなかったが。
「……眠れないんだ」
言ってしまってから後悔したかのように、スタークは酒で赤くなった唇をその綺麗に整った白い歯でくっと噛み締めた。
ヒーローで、天才で、億万長者でプレイボーイの彼は、人に弱味を見せることを極端に嫌う。
だが、仲間を頼ってなにが悪いのか。
なかなか見せられることのない彼の心の柔らかな部分に触れられて、スティーブは微かに口元を綻ばせた。
スティーブはグラスをテーブルに置くと、ソファに座るスタークの腰に腕を回し、そのまま力任せに抱き上げた。
うわあ、と悲鳴をあげるスタークの腰を抱き、親が子を抱き上げるように尻の下に片手を回して持ち上げる。
超人であるスティーブにとっていつも使っているサンドバッグほどの重さもない彼の体を持ち上げることなど造作もなかったが、突然の奇行にスタークは当然の如く怒った。
「おい! なにをする! 下ろせ!」
「――J.A.R.V.I.S.。片付けを頼む」
「お任せ下さい」
暴れるスタークを難なく押さえ込み、J.A.R.V.I.S.に指示を出すと、スティーブはさっさとリビングを出た。
おい無視するな、お前の主人は私だろうと、スティーブとJ.A.R.V.I.S.それぞれに文句をつけるが、どれだけ暴れてもびくともしないと悟ると、スタークは渋々口を噤んだ。
しかし向かう先が自分の寝室でないことに気づき、怪訝な表情でスティーブの顔を覗き込んだ。
「どこに行く気だ?」
「僕の部屋に」
「はあ?」
素っ頓狂な声をあげるスタークを見上げ、スティーブはにこりと笑った。
「君をひとりにしておくと、またいつラボに忍び込むか分からないからな。僕が見張ることにする」
「冗談だろ? どっちかが床で寝るんじゃないなら、男と一緒に寝ろって言うのか?」
「僕は戦場で雑魚寝も慣れてるから気にしないよ」
「私が気にするんだ。君と違って私は繊細なんだ。君に襲われたらどうする」
「僕は君を襲わないし、もしなにかが襲って来ても、アイアンマンが一緒なら僕は安心して眠れる」
「…………」
返す言葉に詰まり、スタークは開けた口をなにも言わずに閉じた。
もちろんスティーブの言葉に嘘はなかった。
仲間のために鉄条網をその身で切ろうとする男に二心を疑ったりはしないし、彼とならどんな窮地も乗り越えられる、そんな信頼がある。
だけど本当に伝えたかったのは別のことだ。
彼に必要なのは酒でも工具でもない。
部屋に着くと、スティーブはベッドの上にスタークを下ろした。
彼のものほどの大きさはないが、男二人が並んで寝ても充分なサイズだ。
ただ寝るだけのベッドにこんな贅沢は不要だと思っていたが、今は彼のチョイスに感謝した。
スタークは仏頂面をしていたが、部屋を飛び出すつもりはないらしい。
シーツを捲れば、渋々といった態度で、それでも大人しくその中に潜り込む。
二人ともラフなスウェットを着ていたおかげで着替える手間もなく、スティーブも隣に滑り込んだ。
枕元のスイッチで光量を落とし、ちらと横を見れば、スタークは枕を抱え込むようにぎゅっと体を縮こまらせ、これでもかとベッド端に寄ってこちらに背を向けていた。
体全体で「不本意です」と表現しているその態度にムッとするよりもいっそ微笑ましくなって、スティーブはくすりと笑みをこぼした。
トニー・スタークはこう見えて案外子供っぽい男だと、彼と親しい者なら誰でも知っている。
時に手を焼かされるが、彼が見せるそうした「甘え」は親愛の裏返しなのだと思えば、嬉しくないわけがない。
スティーブはシーツの中をもぞもぞと移動すると、大富豪の癖にベッドの隅っこで丸まっている男を捕まえて腕の中にぎゅうと抱え込んだ。
「なっ、おいキャプテン! いい加減にっ、」
「いいから、スターク。ちょっと黙って」
シィ、と吐息で静かにするよう囁けば、スタークはぴくりと肩を震わせて、やがてゆっくりと体の力を抜いていった。
鋼鉄のスーツを着ている時には大きく見える背中も、今はスティーブの腕の中にすっぽりと収まってしまうくらいに小さい。
スーツを脱いだ彼は、肉体的には普通の人間だ。
それでも敵が現れれば流星の如くいの一番に駆けていく、そんな男が眠れぬ夜に抱える不安は、いったいどれほどのものなのか。
せめて彼の背中を守れる男でありたいと、スティーブは抱きしめる腕にそっと力を込めた。
触れる肌から伝わる温もりと響く鼓動の音に安らぎを覚えるのが、自分だけでなければいいのだが。
しばらくそうしていると、やがて聞こえる吐息が寝息に変わった。
どうやらなんとか眠ってくれたらしい。スティーブはほっと息を吐いた。
J.A.R.V.I.S.に「トニー様はこの一週間、ほとんど睡眠を摂っていません。多少の力技にも目を瞑りますので、眠らせて下さい」とお願いされた時は、今度はなんの開発に熱中して寝食を疎かにしているのかと怒りを覚えたスティーブだったが、いざスタークを目の前にして、そうではないのだと気がついた。
研究に没頭し開発に夢中になってるマッドサイエンティストなら、あんな顔はしない。
あんな、追い詰められて八方塞がりになって自棄酒を煽るような、苦しそうな顔は。
スタークが考えることは、スティーブには理解できない。
彼がなにを恐れているのか、なにを生み出そうとしているのか、頭の良すぎる彼が見ているビジョンは遠すぎて、きっとスティーブだけじゃなく、他の誰にも見ることはできない。
けれど、なんのために、それだけは分かる。
トニー・スタークは、アイアンマンは、愛する者を守るために戦うヒーローだから。
すっかり眠りに落ちたスタークを抱え、スティーブは腕を解くかどうか考えたが、結局このまま眠ることにした。
たとえ一時でも彼がこうして安心を得られるなら、多少の寝づらさなどどうでもいい。
それよりも、存在を確かめるようにそっとスティーブの腕に添えられた手の得難さを思えば、それを手放すことなど勿体無くてできそうもなかった。
*
その日、トニー・スタークは久方ぶりに貪るように眠った。
およそ七日間、実に百六十八時間――もちろん間に短い仮眠をいくつか挟んだが――いくら寝ようとしても全く眠れなかったあの時間が嘘のように、一切意識が浮上することなく眠り続けた。
そして時計の針が正午を回った頃になってようやくトニーは目を覚ました。
始め、自分がどこにいるのか、トニーにはすぐに思い出すことができなかった。
如何な天才と言えども、人間の三大欲求の全てを放棄し研究開発に勤しんだこの一週間は、トニー・スタークの明晰な頭脳を鈍らせるには充分だったらしい。
未だ朦朧とする頭をどうにか起こし、緩慢な動作で室内を見渡していると、トニーの覚醒を察知した愛息子の声が降ってきた。
「おはようございます、トニー様」
「おはよう、J。ところでここはどこだ?」
「ロジャース様の寝室です」
「キャプテンの?」
聞き返してから、ああいやそうだったと、昨夜の記憶が蘇る。
昨夜トニーは、作業に行き詰まってラボを這い出し、リビングで酒を飲んでいた。
いや、正確に言えば昨日だけじゃない。
一昨日もその前も、何度繰り返してもどれだけアルゴリズムを組み直してもエラーばかり出す計算結果にうんざりしては、夜中に酒を煽っていた。
と言っても別に自棄になって酒に逃げたわけじゃない。
ただベッドに潜り込んでも眠れないので寝酒にでもなればと飲み始めて、結局眠気が訪れることなく朝が来てしまっただけだ。
そして朝が来れば、眠れようが眠れなかろうが、トニー・スタークとして、或いはアイアンマンとして働かなければならない。
そうして気づけば一週間が経っていた。
流石に自分でもまずいと思ってはいたのだ。
しかし日を追う毎に口煩くなっていくJ.A.R.V.I.S.の忠告を無視するのは心苦しかったが、目まぐるしく思考し続ける頭を抱えてベッドの中でまんじりと居座り続ける時間がどうしても耐えられなかったのだ。
だと言うのに、昨夜は突然現れた我らがキャプテン・アメリカになんとも強引に連れ出されたかと思えば、彼の寝室へと半ば強制的に押し込められ――今に至る。
思えば、彼の登場からして不自然だった。
スティーブ・ロジャースという男は、ルーティンをとても大事にしている生真面目な男だ。
決まった時間に起き、決まったコースをランニングし、決まったトレーニングメニューをこなし、決まった時間に就寝する。
もちろん任務の時はその限りではないが、余程のことがなければ決してそのルーティンを曲げることはない。
そんな男が、あんな深夜に出歩くことからしてまずおかしい。
「……J。謀ったな?」
「なんのことでしょう」
惚けた回答に、しかし怒りは湧かなかった。
精魂込めて生み出し慈しんで育てた愛息子の成長に驚きこそすれ、嬉しくないはずがない。
なにより、忠告を無視し続ける主人を寝かせるにはどうすればいいかと考え、スティーブ・ロジャースという最も効果的な解答に辿り着いた点は流石だと褒めてやりたいくらいだ。
トニーは以前にも不眠症を患ったことがある。
あの時も眠れぬ夜をひたすらアーマーの開発に費して友人たちに心配をかけたが、誰にもトニーを止めることはできなかった。
だが、確かにスティーブ・ロジャースであれば、トニーを止めることができる。
力尽くで無理やりベッドに放り込めるという意味でも――トニーに不安を感じさせないという意味でも。
不安。
トニーを苛むものはいつだってそれだ。
常に側になければ発作を起こすほどのアーマー依存性も、悪夢に魘され陥った不眠症も、地球に迫る宇宙の大艦隊によるPTSDも。
自分が守らなければ、だけど自分に守れるだろうか、もしも守れなかったら――? と。自問自答を繰り返し、その答えを求めるようにアーマーを作り続けた。
それらを乗り越えた今だって、答えを見つけたわけじゃない。より良い答えを模索し続けている。
だが、昨夜、彼の腕に抱きしめられて眠ったトニーは、なんの不安も感じなかった。
なぜなら隣で眠っているのはアイアンマンが守らなければならないか弱い一般市民ではなく、あのキャプテン・アメリカだったからだ。
アイアンマンと肩を並べ、なんならアイアンマンの前を駆けてすらいく、誰もが認めるヒーローの中のヒーロー。
彼の腕の中で、守られている、とトニーは思った。
目を開けている時、スーツを着ていようが着ていなかろうがトニーはアイアンマンだが、目を閉じてこの腕の中にいる今、自分はアイアンマンでなくてもいいのだと思うことができた。思ってしまった。
「……不覚だ」
低く呟き、トニーはベッドを抜け出した。
出会い頭こそ父との確執を持ち込んでしまったトニーだが、アベンジャーズの仲間となった今、彼に対して思うところがあるわけではない。
それでもみっともないところを見られたい相手ではない。
せめてもの救いは今この場に彼がいないことだが、時間を見るに、律儀にいつものルーティンをこなしているのだろう。
一瞬、書き置きでも残して行くべきかと考え、すぐにその考えを振り払った。
一夜を共にした女性にはメモのひとつも残していくのがトニーの習慣だったが、女遊びはとうに卒業したし、そもそもキャプテン・アメリカは女性でも一夜限りの恋人でもない。
トニーはさっさと自室に戻ってシャワーでも浴びようかと一歩を踏み出しかけ、ふとテーブルの上の皿に視線を留めた。
そこにはプレーンのドーナツがひとつと、林檎がひとつ。
そしてメッセージの書かれたメモが置いてあった。
『君が来たければいつでもここに来たらいい』
Steve、と彼らしい几帳面な字体で書かれたそれを見て、トニーの右の眉がひょいと跳ね上がった。
――じいさんのクセに。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、トニーは仏頂面でそのメモを手に取った。
しばらく矯めつ眇めつして眺めていたが、徐にそれをポケットの中に突っ込むと、皿に盛られたドーナツを頬張り、林檎を掴んで、今度こそ部屋を出た。
その足取りは、いつもより心なし軽かった。
*
スティーブが自室に戻った時、当然の如くそこには誰もいなかった。
それもそのはずで、S.H.I.E.L.D.が無くなった今、フューリーから任務を言い渡されることもなくなり、ただ有事に備えてトレーニングをしていたらいいスティーブと違い、トニー・スタークはとかく忙しい男だった。
寝る間も惜しんで働き続けていたワーカホリックが目を覚ましたなら、活動を再開しないはずがない。
彼にしてみれば無理やり寝かしつけられたようなものなのだから、それに対して感謝されるとも思っていない。
だからもぬけの殻となった寝室を見ても特になにも思わなかったのだが――
ふと、テーブルの上の空になった皿に気づく。
彼がそれを持ち出したのだと思えば、自然とスティーブの口元には笑みが浮かんでいた。
別に嫌いではないが、朝からドーナツのような糖分を摂取する習慣はないし、この部屋に常備してあるはずもない。
わざわざスティーブが彼のために買ってきたのだ。
朝はコーヒー一杯で済ませてしまうことも多いと聞いたが、七日間もの不摂生の挙句、空っぽの胃袋にカフェインを流し込むよりはと、彼の好物とともに林檎を並べておいた。
しかし天邪鬼で気紛れな彼のことだから、手をつけない可能性も充分に考えていた。
結果、彼はスティーブの厚意を受け取ってくれたのだ。
「J.A.R.V.I.S.」
「はい、ロジャース様」
「スタークはどうしてる?」
「トニー様はラボで作業をされています」
早速かと、予想通りの返事に苦笑が浮かぶ。
しかしまあ昨夜はよく眠れたようなので、無茶さえしなければ彼の研究自体に文句を言うつもりはない。
「ありがとうございました、ロジャース様」
「役に立てたようで良かったよ」
「まだ正常値には至りませんが、トニー様のバイタルデータの数値はかなり改善されました。貴方のおかげです」
「君がそうやって見張ってくれているからだろう。残念ながら、僕では自力で彼の状態に気づけなかった」
「仕方ありません。トニー様は人の目を欺くことに長けていらっしゃいますから」
そうなのだろうなと、一般的なトニー・スターク像を思い浮かべる。
目立ちたがりで派手好きのナルシスト。傲慢で自己中心的なエゴイスト。
他でもないスティーブ自身も、スタークと直接関わるまでは、S.H.I.E.L.D.の資料に書かれていたその世間一般のレッテルを間に受けていたことを否定できない。
そして尚悪いことは、本人にそれを覆すつもりがまるでないことだ。
実際の彼は、誰の目も届かないような高い高い塔の天辺に閉じこもり、汗とオイルに塗れて機械を弄るのがなによりも好きな、子供のような男だ。
そして愛する者のためなら金も技術も、持てる全てを惜しみなく差し出してしまう、愛情深い男でもある。
それゆえにこうして時折暴走してしまうのだが。
「……彼は、なにをそんなに恐れているんだろう」
サングラスを奪った時、スタークの顔は酷いものだった。
プレイボーイの名を馳せただけあり、スティーブから見ても整った愛嬌のある彼の顔が、焦りや不安ですっかり見る影もなかった。
スティーブにだって焦りはある。
洗脳されたまま行方不明となった友はまだ見つからないし、ヒドラに奪われたロキの杖だってこのままにはしておけない。ヒドラを滅ぼすまで盾を置くことはできないだろう。
それでも、明日世界が滅んでしまうわけではない。
たとえどんな脅威が襲ってきたとしても、自分と彼、アベンジャーズの仲間が一丸となって立ち向かう、それだけだ。
「トニー様は、失うことを恐れているのです」
彼をよく知る電脳執事の答えに、スティーブは天井を見上げた。
「ロジャース様、貴方はアースキン博士の超人血清でスーパーソルジャーとなりましたが、それでも兵士であることに変わりありません。戦争に犠牲がつきものであることを、納得しているかは別としても、理解はされているでしょう」
「……犠牲がないに越したことはないし、犠牲を出さないために戦っているつもりだ」
「しかし犠牲が出た時、貴方は足を止めないでしょう?」
思い浮かぶのは、七十年前のあの雪国だった。
目の前で親友が谷底へと落ちていく光景は、今でもスティーブの網膜に焼き付いている。
あの日、救えなかった友を思い、ひとり酔えもしない酒を飲んだ。昨夜の彼のように。
けれど、そうだ。
スティーブは決して足を止めない。
それこそが友への誓いだからだ。
あの日、あの夜、酒に溺れて戦いから身を引くような男を、きっとあの友なら怒鳴って殴っただろう。
自分よりも先に兵士として戦場へ足を踏み入れた友だからこそ、立ち止まることを許さなかったはずだから。
「ロジャース様、貴方は兵士です。しかしトニー様は兵士ではありません。トニー様は戦争を知りません。犠牲が出れば、立ち止まってしまう。……NYの時のように」
ハッと、スティーブは息を飲んだ。
――コールソン。
スティーブにとっては付き合いは浅く、けれどその短い時間で精一杯の敬愛を示してくれた男。
スタークと彼がどれだけの付き合いだったのかは分からないが、ヘリキャリアで彼の死を伝えられた時、スタークは俯いたきり一言も話さなかった。
今思えば、彼はコールソンの死にひどく傷ついていた。
我々は兵士ではないと怒鳴り返した彼の目は、隠しきれない悲しみに揺れていた。
あの時は、覚悟もなしに戦場に出たのかと、理解できずにただ彼を見返したスティーブだったが、今なら分かる。
彼は覚悟もなしに戦場に出たんじゃない。
覚悟なんかできなくとも、戦場に立つことを選んだのだ。
たとえそれで自分が傷ついたとしても、大切なものを守るために。
「トニー様は、ただ失いたくないのです。それはポッツ様やローズ大佐であり――ロジャース様、貴方やバナー博士、アベンジャーズの方々なのです」
「僕らが……?」
「不思議ですか? しかしアベンジャーズの方々は、トニー様を含め、誰よりも危険の側にいます。トニー様は、貴方がたを守りたいのです。だから貴方がたヒーローが戦わなくてもいいように、ご自分の力でどうにかしようとしているのです」
その言葉は、まるで鈍器で頭を殴られるような衝撃をスティーブにもたらした。
兵士であれば傷ついてもいいだなんて言うつもりはない。
しかし兵士であるスティーブは、市民を守るためにその身を削る覚悟があった。
そして同じ覚悟を持つからこそ、仲間たちと肩を並べて戦ってきた。
けれど彼は、スタークだけは、そんな自分たちさえも守ろうと、眠れぬ夜をひとり幾夜もあの人気のないラボで過ごしてきたというのか。
「……僕は、兵士がいらなくなる世界は来ないと思ってる。そうなればいいとは思うけれど」
「そうですね。人類の歴史がその答えでしょう」
「彼は頭がいいのに、時々馬鹿になる」
「トニー様が願うなら、私はあの方の願いを叶えます」
「……君は孝行者だね」
スタークが見ているのは理想郷だ。
かつてはスティーブも夢見た世界だ。
けれど七十年後の未来に来て、自由を手にしながら戦うことをやめられない現実を知り、それは決して辿り着くはずのない桃源郷なのだと理解した。
だからスティーブは未だに盾を持っている。
生きている限り、守るべきものを守るために。
「今夜、スタークは来るかな」
すっかり冷えきったシーツを見遣り、そこで子供のように体を丸めて眠っていた男のことを思う。
「確率は約十二パーセントです」
「はは。絶望的だ」
「いいえ。昨夜トニー様を眠らせられる確率が二.八パーセントだったことを踏まえれば、希望はあります」
「それじゃあその希望に望みをかけて、寝床の用意でもしておこうか」
「そうすることをお勧めします」
J.A.R.V.I.S.との会話に声を立てて笑いながら、スティーブは乱れたシーツを整え、明日の朝食の手配をした。
その夜、日付けも変わった深夜に現れた侵入者を、スティーブはなにも言わずに迎え入れた。
超人であるスティーブが気配に気づかないわけはなかったが、あえて気づかないフリをしていると、侵入者はもぞもぞとシーツの中に潜り込み、寝心地の良い場所を見つけてやがて寝息を立て始めた。
まるで懐かない猫のようだと、忍び笑う。
スティーブは起こさないようにそっと腕を伸ばしてその体を抱き寄せると、今夜もまた腕の中にスタークを抱きしめて眠りについた。
* * *
「最近、妙に距離が近くない?」
不意に話を振られ、スティーブは隣に座るナターシャを視線だけでちらと見遣った。
近いと言うか、現在のスティーブはほとんど抱え込む勢いでナターシャと密着している。
しかしそれも仕方のない話だ。
なぜなら二人は今ヒドラの戦闘員と交戦中で、親の敵を殺る勢いで集中砲火を浴びせられている真っ最中なのだから。
銃弾が放たれる爆発音とそれが着弾する轟音を雨あられと聞きながら、小さな物陰に身を寄せ合って反撃の機会を狙っている。
しかし彼女が言っているのはおそらく今のこの状況のことではないのだろう。
優秀な、優秀すぎるほど有能なエージェントであるナターシャは、彼女にとってそれほど危機的状況ではない戦場において、時折こうして世間話を振ってくることがある。
いつぞやのS.H.I.E.L.D.を崩壊させるに至ったミッションを思い出し、スティーブは溜息を吐いた。
あくまで「ナターシャにとって」危機的状況ではないだけで、今も充分に危機迫る状況と言える。
しかし溜息を吐くだけでそれに付き合ってしまうスティーブも、ナターシャに言わせれば同罪だった。
「なんの話だ?」
「貴方とスタークのことよ。最近妙に近い気がして」
突然出された名前に、ぴくりと、思わず反応を返してしまい、スティーブは内心で苦虫を噛み潰した。
優秀な、優秀すぎるほど有能なエージェントが、それを見逃してくれるはずもなく。
図星ね、と腕の中で呟く彼女の声に、スティーブは眉間に寄る皺を隠すことができなかった。
「気づいてないかも知れないけど、最近の貴方、スタークに構いすぎよ」
「……別にそんなことは」
「そうかしら。ちゃんと食事は摂ったかだの、もっと体を鍛えろだの。いい年した男に言う台詞とも思えないけど」
「それは彼がだらしないから、チームのリーダーとして、」
「博士にはなにも言わないじゃない」
もっとも過ぎる指摘に、言葉に詰まる。
スティーブだとて自覚がないわけではなかった。
彼のやること成すことについつい意識が向いてしまい、その結果過剰反応してしまっているのだろう。
なにせトニー・スタークという男は、放っておくととんでもないことをやらかすのだ。
徹夜なんて当たり前だし、まる一日くらい平気で食事を抜かす。
彼がただの研究者ならスティーブだとてここまで口出ししなかったかも知れないが、彼は技術者であると同時にヒーローなのだ。
必要とあらばスーツを着て戦場に立つ。
それなのにそんな不摂生をして、いざと言う時に怪我でも招いたらどうするつもりなのか。
「気になって仕方がない、ってわけね」
無駄口を叩きながらも、しかしナターシャの意識はしっかりと敵に向けられている。
降り注ぐ銃弾の勢いが弱まった隙に両手首の仕込み銃を装填すると、獲物を捉えた女豹のように勢いよく物陰から飛び出した。
距離のある敵には銃を撃ち込み、近くの敵には飛びかかると、そのしなやかな足を巻き付けてはくるくると体を捻る遠心力で急所のひとつである首を落としていく。
遅れを取ったスティーブも駆け出し、ナターシャを狙う凶弾に向けて勢いよく盾を投げつけた。
そのままビリヤード弾のように数名の間を跳ね返りながら旋回する盾を伸び上がってキャッチすると、足元のひとりを踏みつけながら盾を振り下ろす。
遠くにひとり、まだ銃を持った敵が残っていたが、スティーブもナターシャも気にもかけなかった。
短い悲鳴をあげて倒れた男の胸には、深々と弓が刺さっていた。
「――制圧完了だ、キャプテン」
ひとり別働隊として潜行していたクリントが合流し、ミッションは無事完了した。
残念ながら今回制圧した施設もヒドラの囮のひとつだったらしく大した収穫はなかったが、それでもヒドラの基地をひとつ落としたのだから、一応はミッションの成功と言えるだろう。
クリントの操縦でクインジェットに乗り込んだスティーブたちは、アベンジャーズタワーへと向かっていた。
今回、スタークとソーは不参加だ。
そもそもバナーが呼ばれることは滅多になく、更に今回は囮の可能性が高いと分かった上での出動だったので、アスガルドに一時帰国中のソーを待つことはせず、多忙なスタークにも召集をかけなかった。
とは言ってもヒドラの情報を見つけてくるのは往々にしてスターク、もといJ.A.R.V.I.S.なので、出動こそしていなくてもスタークは常にミッションに関わっているのだが。
「で、実際のところどうなの?」
困ったことに、ナターシャの尋問は未だに続いていた。
クインジェットの後方、開閉部脇に座るスティーブの隣に腰掛け、自身の膝に肘を突きながら手に顎をかけて見上げてくる。
見ようによってはブラックスーツから覗く谷間や綺麗にカールした長い睫が悩ましげで蠱惑的だが、生憎とハニートラップにかかるスティーブでも、スティーブ相手に仕掛けるナターシャでもない。
単に互いを異性として意識していない二人だった。
「どうって、なにが」
「いくら女の子を紹介しても全く興味を示さなかったのは、てっきり初恋を忘れられないからだと思ってたんだけど。実はもう心に決めた人がいたの?」
「なんでそうなるんだ……」
あら違った? と小首を傾げるナターシャを軽く睨む。
てっきりトニー・スタークの話をしていると思ったのに、それでなぜ「心に決めた人」なんてワードが出てくるのか。
「自覚がないなら教えてあげるけど、貴方たち、お互いに見つめ合いすぎよ。見てるこっちが恥ずかしい」
「見つめ合って……?」
「クリントだってそう思うでしょ?」
ナターシャは操縦席に座るクリントにまで声をかけるが、彼は「俺は知らん、なにも聞こえない」と言って両手で耳を塞いだ。
彼女は「ほらね」と言わんばかりにこちらに向かって肩を竦めたが、スティーブはますます渋面になった。
確かに、彼女が言うように以前よりもずっとスタークとの距離は縮まったと思う。
単にチームメイトである以上に、彼のことを得難い友人だと思っているし、ともに戦う仲間であり、守るべき大事な存在だとも思っている。
そうした変化は、ともにタワーで暮らしているからこそ生まれたものだろう。
けれどナターシャが言うような親愛以上の情がそこにあるとは思わなかった。
ましてあのスターク相手に、なんて。
「そもそも、スタークには相手がいるだろう」
「Ms.ポッツのこと? 生憎、彼女とは今距離を置いているはずよ。あれだけスタークが毎日タワーにいるのに、気づかなかった?」
「それは……知らなかった」
「彼女は大企業の社長だもの。今はスターク以上に忙しいはずよ。彼女に相手にされなくて、だから毎晩貴方の部屋に入り浸ってるんじゃないの?」
あえて口にしなかった事実を指摘され、スティーブは盛大に顔を顰めた。
「……知ってたのか」
「あら、貴方こそ知らなかった? 私が元スパイだって」
ニヤニヤと楽しそうな笑みを向けてくるナターシャを睨みつける。
彼女が元凄腕スパイであることは嫌というほど分かっていたが、あまりタワーに寄り付かない彼女がなぜ知っているのか。
別に疚しいことをしているわけではないが、あまり外聞はよくないだろうと、敢えて誰かに話すことはスティーブもスタークも避けてきた。
知っているのはそもそもの発端であるJ.A.R.V.I.S.と、スタークと多くの時間を共有しているバナーくらいだと思っていたのに。
「そこまで知ってるなら、理由も知ってるんだろう。彼は……少し、眠るのが下手なんだ」
「そうね。一時は不眠症に加え、パニック障害とPTSDまで患ってたもの」
「え?」
そこまでの事情を知らなかったスティーブは、目を見開いてナターシャを凝視した。
「いつの話だ?」
「ロキのNY襲撃後のことよ。あの頃はまだS.H.I.E.L.D.の監視が生きてたから。流石に自宅にカメラや盗聴器があったわけじゃないけど、スタークは外でも何度か発作を起こしてる」
「……フューリーの命令か?」
「ヒーローを監視するのもS.H.I.E.L.D.の役目だったのよ。大きすぎる力は平和を守ることも、壊すこともできる。S.H.I.E.L.D.の監視をスタークは承知してたわ」
そして自分も、監視されていたということだ。
無害な隣人と見せかけてS.H.I.E.L.D.のエージェントだったブロンドの女性を思い出し、スティーブは苦い溜息を吐いた。
彼はスパイだぞ、と言ったスタークの言葉を思い出す。
あの時の自分は確かに無知で初心だったと今なら分かる。
スタークは正しかった。
フューリーの理屈も分かるが、自分や仲間がその対象とされることに納得がいくわけではない。
しかし最早その組織もないのだ。
他ならぬスティーブが壊したのだから。
「それで、君は今も僕らを監視しているのか?」
「監視じゃないわ。報告する相手もいないし。ただの観察よ」
S.H.I.E.L.D.崩壊後、行方を晦ましたフューリーとはまだ連絡がつかないらしい。
それも彼女の場合は、どこまでが本当かは分からないが。
しかしそれなら、なぜ今こんな話をしているのか。
スティーブに聞くまでもなくほとんどの事実を掴んでいたのならわざわざ確認する必要はないし、そもそもスティーブとスタークとの距離が多少縮まったことなど、彼女にとってはどうでもいいことだろうに。
ナターシャの真意が分からず戸惑っていると、不意に彼女は真剣な目でスティーブをじっと見据えた。
「スティーブ、私は別に貴方たちの関係に文句があるわけじゃないの。ボス二人の仲が良いのは、組織にとっては良いことだし。まあ貴方の趣味は疑うけど」
「だから僕とスタークはそういうのじゃ、」
「――だったら、彼を手放せる?」
被せるように問われ、スティーブは思わず口を噤んだ。
「彼がMs.ポッツとよりを戻したら、スティーブ、貴方はお払い箱なのよ。それでもいいの?」
トン、と胸を、ナターシャのスラリとした指先に押される。
その大して威力のないはずの攻撃に、スティーブの体がふらりと揺らいだ。
「私が心配してるのはそれだけよ。貴方はスタークにいい様に使われてるだけ。あの男は貴方が思うよりずっと質が悪いのよ」
「……彼に頼まれて始めたことじゃない」
「分かってるわよ。あのプライドの高い男が自分から弱味を見せるわけないじゃない。どうせ放っておけなくなったんでしょう? だから、質が悪いのよ」
自覚がないところが一番悪いと、ナターシャは嫌そうに首を振った。
「とにかく、スティーブ。痛い目を見たくなかったら、あの男はやめておきなさい」
これは忠告よ、と言うだけ言って、ナターシャは立ち上がると操縦席の方へと行ってしまった。
残されたスティーブはひとりモヤモヤとしたものを抱えながら、タワーまでのフライトを過ごすしかなかった。
タワーに着き、クインジェットを格納すると、軽く労いの言葉をかけあってから各々自分の居住スペースへと散っていった。
日付こそ跨いでいないがもう月は中天に昇っていたし、取り急いで報告が必要なミッションでもなかった。
それならば休息を優先させようと、今夜はひとまず眠ることにしたのだ。
コマンダーであるスティーブの指示に否やはなく、ナターシャとクリントも今夜はタワーの居室で休むつもりのようだった。
スティーブも自室に向かいかけたところで、ふと思い立ってリビングへと足を向けた。
思った通り、そこではいつかの夜のように、スタークがひとりソファで酒を飲んでいた。
「おかえり、キャプテン」
スティーブたちの帰還はJ.A.R.V.I.S.によって知らされていたのだろう、スタークは驚いた様子もなく軽く振り返って片手を上げた。
スティーブは挨拶もそこそこにソファを回り込むと、彼の手からグラスを取り上げた。
「……スターク」
「怒るなよ。グラス一杯だ。誓ってそれ以上は飲んでない」
確かに、ふわりと漂うアルコールの香りはそれほどキツくはないし、彼の頬には赤味も差していない。
スティーブがサングラスに手を伸ばしても、今夜のスタークは抵抗しなかった。
鼻先からそっと抜き取ると、目を閉じてそれを受け入れたスタークがゆっくりと瞼を持ち上げる。
重そうな睫が持ち上げられ、大きなチョコレートブラウンの瞳がじっとスティーブを見上げた。
キラキラと、まるで星を砕いて散りばめたように輝く瞳が、ふっと、柔らかく弧を描く。
「どうせ、飲んだって眠れない。……あんたがいないと」
困ったように笑うスタークを見て、スティーブは唐突に理解した。
――だったら、彼を手放せる?
ナターシャの声が脳裏に谺する。
スティーブはほとんど衝動的に手を伸ばすと、スタークを抱きしめていた。
「おい、キャプテン? どうした?」
突然の奇行にかけられる言葉には、優しさが滲んでいる。
かつてスティーブに抱き上げられて怒鳴っていた男は、今やすっかりスティーブの腕と体温に馴染んでしまっていた。
彼を手放せるか、だって?
――考えたくもない。
「……君に付き合ってるうちに、僕も君がいないと眠れなくなってしまったみたいだ」
せめてもの意趣返しにと、きっとあっさり自分を捨てていってしまうだろう男に、小さな恨み言をぶつけてみる。
するとくつりと喉を鳴らして笑う振動が、触れる肌から伝播した。
「なんだ、私がいなくて寂しかったのか?」
「……そうだよ。君は平気そうだけど」
「そう拗ねるな、キャプテン・ドギー」
くすくすと笑いながら、それこそ犬にするようにこめかみに口付けられ、スティーブは堪らず彼の肩口に歯を立てた。
無防備に素肌を晒した首筋に噛みつかなかったのは無けなしの理性の賜だったが、そんなことは露とも知らない男は、楽しげに声を立てて笑いながらスティーブの髪を撫でてくる。
確かに、自覚がないところが一番悪い。最悪だ。
しかしナターシャが余計なことを言わなければ、きっとまだもう少し気づかずにいられただろうにと、八つ当たりのように彼女を恨みたくなる。
全く相手にされていない事実に虚しくなり、スティーブは深く溜息を吐くと、スタークを抱き上げた。
「キャプテン?」
「もう寝よう。僕は疲れた」
「疲れたなら下ろせ、自分で歩く」
「嫌だよ。僕をからかった罰だ。それに君はサンドバッグより軽い」
「サンドバッグだと? 私を荷物と一緒にするな!」
「じゃあ紳士らしくエスコートしてあげるから、大人しくしてて」
「私は女でもない!」
俵持ちから姫抱きに変えたもののお気に召さないらしく、打って変わって騒ぎ出したスタークを無視して、スティーブは自室へ向かった。
今夜のタワーにはナターシャもクリントもいるが、もうバレているのだから隠す意味もないと、開き直りの境地だった。
その事実を知らないスタークは、エレベーターに乗り込むと殊勝にも黙り込んでいたが。
ほどなくしてスティーブの居室となっているフロアに着き、歩き出そうとしたところで、黙っていたスタークがぽそりと呟いた。
「……スティーブ」
滅多に呼ばれない名前に、どきりと、胸が鳴った。
それは彼の防壁だ。
まるで見えない壁を築くように、はっきりと境界線を引くように、彼は仲間であるアベンジャーズですら滅多にファーストネームでは呼ばない。
彼のパーソナル・スペースに足を踏み入れることを許されているのは、彼の親友のローズ大佐と、彼の愛するポッツ女史、そして彼の信頼するハッピー・ホーガンだけ。
その壁を壊してしまいたいと、何度思ったか。
視線を落とせば、スティーブの腕の中、スタークは早くもうつらうつらとしながらスティーブの胸に頭を預けていた。
その微睡みに沈みかけた舌足らずな声が、囁くように言った。
「おかえり」
そのまま吐息とともに意識を手放したスタークを、スティーブは腕に力を込めてぎゅっと抱き直した。
きっとスティーブがいなかったこの数日は、あまり眠れなかったのだろう。
それでも以前のように無茶な飲酒に逃げなかったのは、スティーブが帰ってくるのを待ってくれていたからだ。
そしてスティーブの腕の中にいる今、ベッドに辿り着くよりも前に意識を手放してしまった彼は、それだけこの腕の中を安心できる場所だと、なんの不安も感じる必要がないのだと思ってくれている。
その事実に、胸が痺れるように疼いた。
分かっている。
いずれこの手を振り払われる日がくる。
スティーブが彼に捧げた安寧を、別の誰かの腕が彼に与える日がやってくる。
だがたとえそうだとしても、今夜、彼の眠りを自分が守れるのなら。
「ただいま、トニー。……良い夢を」
束の間足を止めていたスティーブは、寝息を零す大きな子供の後頭部にそっとキスを落とした。
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