隠恋慕
First contact 1
ジリリリリリ……
夜の静寂を打ち壊すように、東都のとある邸宅にけたたましい警報が木霊する。けれどその音を鳴らした当人はと言えば、至極余裕の態度で大勢の警官を前にゆったりと微笑むのだった。
濃紺の星月夜をまるで真昼のように照らし出すサーチライトの中にありながら、決して見失うことのない純白の衣装を夜風に靡かせる。白いタキシードにシルクハット、少しレトロな雰囲気を醸し出すのはその背にはためくマントだ。月光を背負い、更に人相を曖昧にする右目につけられた片眼鏡。唯一見留めることのできる口許には、うっすらとシニカルな笑みが浮かべられている。
「今夜もお騒がせしますよ、中森警部」
人を食ったようなその慇懃な物言いに、長年彼を追い続けてきた警部はこめかみの血管を切らしそうになるのを必死に留めた。家では大事な一人娘が自分の帰りを待っているのだから、こんなところで倒れて心配をかけるわけにはいかない。
中森銀三は自身を落ち着けるためにひとつ息を吐いた。こちらが慌てることはない。邸内をぐるりと取り囲んだこの完璧な警備の中を逃げ切れるはずがないのだ。目の前にいるのがたとえ、稀代の大怪盗だとしても。
「怪盗キッド! 今日こそお縄に付けてやる!」
「おや。いつもそう仰ってるじゃないですか、中森警部?」
「煩いっ。この警備が見えんのか? 今度ばかりはさすがのおまえでも絶対に逃げきれん!」
出入り口をしっかりと封鎖しているのは、人垣という言葉を体現するかのように折り重なった警官たち。邸外には無数のパトカー、上空には爆音をまき散らしながら空を舞う鉄の鳥。どんな犯罪者でも、蟻の子一匹逃さないこの警備を前にしては、逃げることすら無意味に感じられるだろう。
けれど、生憎ここにいるのはただの泥棒ではなかった。何年もの間警察の威信を覆し続け、逃げおおせてきた確保不能の怪盗なのだ。彼にしてみればこの完璧な警備も、まるで子供の遊戯のように容易く逃げ出すことができる。
「ではそろそろ、ご期待に応えて失礼するとしましょうか」
怪盗の右手がシルクハットをぐっと掴んだかと思うと、徐にそれが放り投げられた。思わず奪われた視線の先で、ハットは煙を振りまきながら大量の花弁と紙吹雪に変わる。そして頭上から降り注ぐそれらから一瞬後に視線を戻した時には、既に怪盗の姿はなく。
「あ、有り得ん…」
人間がそんなに簡単に消えてたまるか。思わず呆けかけた自分を叱咤すると、中森は怒声を張り上げながら怪盗の行方を捜し出した。やがて見つけた手がかりに誘導されていることにも気付かず、警察が去っていく。それを後目にほくそ笑む顔があることを、中森が知ることはなかった。
「新一ぃ――!」
空港に着いた途端、まだ相手を豆粒ほどにしか確認できないような距離で自分の名を叫ばれ、新一はぎょっとして駆け出した。
実に八年ぶりに見る幼馴染みの姿を懐かしく思う反面、集まった視線に少しだけ恨めしくも思う。彼女にとってはそんなことよりも音信不通だった幼馴染みとの再会の方が大事なのだろうけれど。
「蘭! おまえ、あんまでかい声で叫ぶなって…」
「なによ、久しぶりに会った幼馴染みに最初に言うことがそれなの?」
両手を腰に当てながら睨むように言われ、新一は苦笑を浮かべた。
「いや。ただいま、蘭」
「おかえり!」
彼女は少しはにかんだような笑顔でその言葉を受けた。
彼女、毛利蘭は、新一がまだ日本で暮らしていた頃の幼馴染みだった。アメリカと日本を行き来していた新一が八歳の時にアメリカに定住してからは、面倒くさがりな性格が禍して音信不通になっていた。
久しぶりに会った蘭は小学生の頃と比べると大人の領域に踏み込みつつあるようだが、それでもまだ幼さは抜けきっていない。けれど女性の方が先に大人になると言われるように、新一より蘭の方が些か大人っぽく見えた。
「ところで博士は?」
同じく八年ぶりに再会する予定だった博士の姿が見えず、新一はきょろきょろと辺りを見渡す。
博士とは父優作の古くからの知人で、隣に住んでいたということもあり新一にしては珍しく懐いている自称天才科学者・阿笠博士のことだ。多少変わった性格をしているが人好きのする恰幅のいい老人で、新一が帰国する際には必ず連絡を入れろとしつこく念を押していた者のひとりである。ちなみに蘭もそのひとりだ。
ところが蘭は、それが…と言いながら首を振った。
「博士ったら急な用事が入ったとかで来られなくなっちゃったのよ」
「へぇ? なら別にいいけどよ」
「それでね、しょうがないから園子を連れて来ようと思ったんだけど、園子もデートだって断わられちゃった」
「…別に連れて来なくていいだろ。俺とは知り合いじゃねーんだから」
蘭から貰う手紙に散々書かれていた蘭の親友という人物を思い浮かべ、新一は溜息を吐いた。話を聞いているだけでも「絶対に付き合ってらんねー部類だ」と判断したのだ。本物を前に平静を装える自信はない。
「でも園子、新一にすごく会いたいって言ってたからさ」
「なんで?」
「…相変わらずだね、新一」
呆れたように嘆息する蘭を新一は不思議そうに見遣る。昔から痛いほど分かってはいたが、新一には自覚というものがなさすぎる、と蘭は改めて思った。
工藤新一は父親譲りの知的さと母親譲りの端正な顔立ちを見事なまでに受け継いだ、アイドル顔負けのずば抜けた容姿の持ち主なのだ。更に世渡りもうまいため外面もいい。普段のずぼらさなど微塵も感じさせない猫の被り方にはいっそ感動してしまう。つまり、蘭の友人たちの間で工藤新一はかなりの『イイオトコ』として知れ渡っているのだった。
だが、新一が人目を引くのは何も容姿のせいばかりではない。蘭でさえその事実に気付いているというのに、当の本人は全く自覚していないのだ。
とは言え、たとえそれを真剣に新一に説いてみたところで無駄だということも蘭はよく分かっていた。なぜなら工藤新一という男は、自分というものにとことん興味を持たない男なのだから。
「それよりさ、どうして急に帰ってくる気になったの?」
八年もの間、蘭がどんなに「戻って来たら」と話を持ち掛けても断わられていたのだ。久々に会えたことは単純に嬉しいけれど、やはり理由も気になってしまう。
そう思って尋ねた蘭に、けれど新一は不適な笑みを浮かべるだけで。
「ただの気紛れさ」
「ふーん、気紛れねぇ…」
蘭が疑わしげな視線を向ける。
新一はそれに頷いて見せながら、心中にひとりごちた。
(ただ、やらなきゃなんねーことがあるだけさ)
でなければ、二度と戻るまいと誓ったこの地に再び足を踏み入れるはずがなかった。
片づけに付き合うという蘭の申し出を、新一は丁重に断わった。確かにこのでかい家をひとりで片づけるのは一苦労だが、見られては困るものというものは誰にでもある。新一にとってのそれが自宅だった。
新一は取り敢えずとばかりに荷物を玄関に放り込んだ。海外からの帰国にしては随分と軽装だが、必要なものは全て現地で調達しろとの両親の薦めに素直に従うつもりだった。わざわざ重い荷物を持って短い帰国のために苦労する必要はない。帰国予定日は蘭には伝えていないが、言えば確実に蘭お得意の空手の餌食になることは間違いないだろう。
手ぶらになった新一は隣の家へと向かった。
工藤邸の隣に建つ阿笠邸は些か幾何学的な設計をされている。壁がやたら真新しく見えるのは、おそらくいつもの実験で頻繁に破壊されているからだろう。
新一はさっさとインターホンを押した。当然、久方ぶりのあの白髪に白髭、白衣を纏った丸い体が出てくるのだろうと思っていたのだが。
「何か用かしら?」
玄関から顔を覗かせたのは新一の知らない女性だった。確かに白衣は着ているが博士ではない。素直に考えて博士の同業者と見るのが妥当だろう。年の頃は新一と同じかそれよりやや年上で、赤みがかった線の細い茶色の髪にはゆるりとしたウェーブがかかっている。女性にしてはやや長身の部類に入るすらりとした無駄のないボディラインと、どことなく異国の匂いがするその端正な容貌は、充分に美人と称される女性だった。
些か冷たい印象を与える瞳をしたその女性は、けれど新一のずば抜けた容量を誇る記憶の中に見当たらない。思わず小首を傾げた新一に、彼女は怪訝そうな顔を見せた。不審者と思われては拙いと、新一は慌てて声をかける。
「あの、俺、隣の工藤ですけど。博士はいますか?」
「…ああ、隣の幽霊屋敷の」
彼女は心得たように呟いたが、幽霊屋敷という単語に新一は僅かに顔を引きつらせた。
確かにあの形を見ればそう思ってしまうのも仕方ないのかも知れない。何せ外から見た感じは随分古くてぼろい印象を受ける。
だが中には最新の防犯機器が備えられ、それこそ一般家庭では有り得ないセキュリティが常備されているのだ。外観からは想像もできないほどのハイテクを駆使した家。それが工藤邸の実態だと知るのは限られた人間だけである。だからこそ、幼馴染みの蘭ですら家に招くことができないのだけど。
「ちょっと待って。博士は今、窃盗犯や強盗犯を最も効率よく監獄にぶち込むための新兵器とやらの製作に夢中なの」
「――は?」
新一が目を瞬く。
「要は言うだけ無駄だから上がって待ってなさい、ということよ」
「…はあ。お邪魔します…」
何だか今、彼女の容姿からは想像もできないやや過激な発言を聞いた気がしたが。しかも目の前の女性は、どうにも常人ならぬ尋常でない威圧感を持っているが。
そのどれも聞くのが厄介そうだったので、新一はにっこりとポーカーフェイスで微笑んだ。
「よかったらブラックコーヒーを貰えるかな」
彼女は暫く新一を凝視した後、仕方ないわねとでも言いたげな仕草で肩を竦め、キッチンの奧へと消えていった。
「新一君!」
「うぇ…っ」
あれから半刻ほどして漸く姿を現わした博士に、新一は孫息子同様のきつい抱擁を食らっていた。
まんまるの恰幅のいい体に抱き締められ、新一は息苦しいと博士の背中をぼすぼす叩く。それに気付いた博士が漸く解放してくれた頃には、新一の息はすっかり上がっていた。
「すまんすまん、久しぶりだったもんで、ついな」
「ついで俺を殺さないでくれよ、博士…」
殺すだなんて人聞きの悪い!、と目を見開く博士に、冗談だよと新一は笑う。相変わらずの様子に思わず微笑が漏れた。
「それにしても大きくなったもんじゃ。最後に会ったのは…もう八年前かの?」
「だな。俺が九つの時だから」
「元気にしとったかね? 優作君や有希子さんは?」
「父さんも母さんも無駄なぐらい元気だし、俺については見た通りだよ」
それに博士は嬉しそうに笑い、「迎えに行けなくてすまなかった」と謝りながら空になっていた新一のカップにコーヒーを注いでくれた。
礼を言ってそれを受け取り、新一はずっと気になっていたことを口にした。
「そう言えばあの人は?」
あの人とはもちろん、新一を招き入れコーヒーを出し、博士を呼びに行ったっきり自分も地下に閉じこもってしまった女性のことだ。八年もの空白の時間があったのだから何があってもおかしくはないが、博士は結婚していないしもちろん孫がいるわけもない。
助手か何かかと思って尋ねた新一だったが、なぜか博士は少し焦りながら「親戚の子だ」と言った。
「あの子は宮野志保と言って、事故で両親を亡くした志保君をわしが引き取ることになったんじゃ」
「ふぅん…」
親戚ねぇ、と新一が目を眇める。
新一は自分の周りにいる人物の個人データは全て調べ上げ、それをまるまる暗記していた。それは特殊な環境で生きる新一の防衛手段のひとつでもある。だが新一の優秀な頭脳の中に、博士の親戚でこの年頃の女性は存在しなかった。新一が彼女を見た時に驚いたのはそのせいでもある。
けれどこちらの事情を知らない博士に深く追求することはできないし、何より新一自身博士を疑うつもりはなかったので、それ以上追求することもなかった。
「それより、窃盗犯だか強盗犯だかを捕まえる新兵器を作ってるって聞いたけど?」
好奇心旺盛な新一は悪戯気に瞳を煌めかせながら博士に言い寄る。
自分の研究に興味を持ってくれたらしいことに気をよくしながら、博士は得意げに話し出した。
「そうなんじゃ、これは画期的な兵器じゃよ!」
犯罪者とそれを取り締まる警察というのはいつの時代にもいるものだが、その中で『手錠』とは、便利なようで実は全く進歩していない時代遅れの物なのだと博士は熱く語った。確かに縄で縛っていたような時代と比べれば進歩しているが、手錠はあくまで標的の手首を封じるというだけのものだ。しかもそれすら完全ではない。
「最近、この東都を騒がせている泥棒のことは知っとるかね?」
「うん? 犯罪者って、殺人犯かなんかか?」
新一の返事に、けれど博士は不満そうに違う、違うと首を振る。
「実に八年ぶりに復活したという、確保不能の大怪盗のことじゃよ!」
博士はごそごそと新聞紙を取り出すと、それを新一の前に突き出した。第一面を飾る人物は全て同じで、それが意図して集められていたことが分かる。そこにはでかでかと『怪盗キッド』と書かれていた。
「…怪盗キッド? 変な名前だな」
「いやいや、伊達にキッドと名乗っとらんよ」
「キッドって、つまりは子供だろ?」
またしても不満げに博士は首を振る。
「その大胆不敵な犯行、人を食ったような笑み、天真爛漫なパフォーマンス。自らキッドと名乗るだけあって、奴はまるで犯行を遊戯のように楽しんどるんじゃよ」
「遊戯…子供のゲームってことか」
「そうじゃ。そこでじゃな!」
えへん、と咳払いをひとつ。ここからが本題だとばかりに博士は胸を張った。
「その確保不能の大怪盗を、わしのこの新兵器で逮捕できたとしたらどうじゃ?」
わしは一躍有名、天才科学者として世界に名を馳せ、わしの懐にはお金がガッポガッポ……
既に耳タコ状態になりつつある台詞を言い出した博士に、新一は苦笑を返すしかなかった。新一が子供の頃から言い続けているのに未だに成功していないのがいい例だ。つまりは今回も……ということだろう。
「ま、精々頑張ってくれよな?」
「ん? なんじゃ、ちっとも信用しとらんじゃろう!」
「いーや、俺はいつも博士の新発明ってやつを信用してるぜ? まあそれがいつ成功するかは別としてな♪」
すっかりへそを曲げてしまった博士に笑い声を残して、新一は自宅へと戻っていった。その口許には微かな笑みが浮かんでいた。
新一は博士の発明を馬鹿になどしていない。天才を自称するだけあって、博士はたまに驚くような発明を披露してくれる。だからこそ玄関先で『新兵器』と聞いて探りを入れたのだが……まあ今後は別にして、現段階のあの完成度では大して警戒する必要もないだろう。
「悪ぃけど、博士でも仕事の邪魔はさせねえからな」
ぽつり、ひとりごちて。
取り敢えずの問題は、この広い家をどう掃除するかということだった。
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