隠恋慕
First contact 3
「紅子。話がある」
教室に入るなり厳しい表情でそう言った快斗に、紅子は小さく吐息をもらした。こういう展開になることは昨日の時点で分かっていたとは言え……
(全く、余計なことを言ってくれたわね)
今頃は何食わぬ顔で自分の生活を送っているだろう人を少しばかり恨めしく思う。
そんな紅子に対し、快斗の内情は少しも穏やかではなかった。昨夜、あのRと名乗る男に言われた台詞が脳裏を目まぐるしく廻っている。
――灰姫に関わるな。身を滅ぼすぞ。
灰姫が何を示すのか、ギリシア神話を知る者ならすぐに分かるだろう。パンドラとは別名『全てを与えられし者』と呼ばれる。ギリシア神話の中で彼女は神々からあらゆるものを与えられた。その彼女が何から形成されているのか。答えは『灰』だ。つまり灰姫とは、他でもないパンドラを示す言葉なのだ。ことパンドラについて微細な知識まで詰め込んでいる快斗に分からないはずがなかった。
Rはパンドラの存在どころか、怪盗キッドがパンドラを探していることさえ知っている。一体どこまで知っているのか。まさかパンドラの在処までをも知っているのか。
けれど何より気になるのは――Rが何者であるか、ということだった。それについて快斗は紅子を問い詰めなければならない。Rが言っていた『ルシファーのお告げ』とは、紅子を示す言葉に他ならないのだから。
「貴方から私に話だなんて、珍しいこともあるわね」
「いいから屋上に来いよ」
快斗は普段のようにからかいには乗らず、視線でついてくるように示す。この間とまるで立場が反対だ。
紅子は軽く肩を竦めると立ち上がった。もとより避けて通れるとも思っていなかったので、話をするつもりはあった。
けれど教室を出て屋上へ向かおうとした二人は、意外な人物によって足止めされた。
「あ――黒羽君!」
声をかけてきたのは二人のクラスメート、白馬探だった。
快斗が微かに目を瞠る。現在倫敦へ帰国しているはずの白馬がいるのだから驚くのも当たり前だ。一体いつの間に日本へ戻って来たのか、白馬が息を弾ませながら駆け寄ってくる。
「黒羽君、ちょっと待ちなさい!」
「…あんだよ白馬。俺、今忙しいんだけど」
今はとにかく紅子との話が先決だ。白馬のお決まりの文句に付き合っている暇はない。
しかし面倒くさそうに眉を寄せる快斗の肩を、こちらも引くつもりがないのか、白馬はいきなりがしっと掴んだ。吃驚して目を見開く快斗にすごい形相で迫る。
「黒羽君、昨夜、会いましたよね?」
「…はあ?」
「しらばっくれないで下さい、既に裏は取れてるんですよ!」
前後にがくがく揺さぶられ、この忙しい時にわけの分からないことをほざく勘違い男を、快斗は心底地に沈めてやりたくなった。当然、その横で少し表情を硬くした紅子の様子になど気付くはずもない。
そしていい加減、快斗の我慢が切れかけた頃。
「あのロシアンブルーが日本に現れたんでしょう!」
「――なんだと?」
快斗は肩を掴んでいた白馬の両手を叩き落とした。
白馬は快斗の突然の行為に少々驚いているものの、すぐに気を取り直す。
「だから、君は昨夜あの怪盗ロシアンブルーと会ったんでしょうと聞いているんです」
快斗の目がすっと細められる。
怪盗ロシアンブルー。耳にしたことのない名前だったが、それが誰を示すものなのか、聞くまでもなく分かった。おそらく昨夜キッドと接触したRのことだ。
「…白馬。詳しく聞かせろ」
「え?」
「悪ぃな、紅子。おまえとの話はまた後だ」
「ちょっ、黒羽君! もうチャイムが鳴るだろう!」
「んなもんサボリだ、サボリ!」
ええ?、と顔を引きつらせる探偵を引きずるように快斗は屋上へ連れて行く。その後ろ姿を見送りながら、紅子は再び溜息を吐いた。魔王ルシファーの予言を聞くまでもなく、波乱が訪れるのは目に見えていた。
「全く、君って人は! 君ひとりならまだしも、僕にまで授業を抜けさせるなんて!」
真面目で実直、曲がったことの許せないお坊ちゃまは怒り心頭で文句を吐いた。
対する快斗は、少しも悪びれることなく「悪い悪い」と謝った。
「わぁーったから、その、ロシアンブルーって奴のこと詳しく話せよ」
いつになく真剣な快斗の様子に、白馬は少し気後れする。けれど気持ちを改めると急に心配げな表情となり、逆に快斗へ問いかけた。
「…何かあったんですか?」
「確かにそいつとは会ったよ、昨日。それに――」
思い浮かぶ、風に靡くアッシュブルーのコート。月光を弾く姿が夜の闇に浮かび上がり、刻んだ笑みはひどく神秘的だった。顔などほとんど見えなかったけれど、容貌ではなく内面から漏れ出る何かが快斗を惹きつけて止まなかった。けれど何より快斗の意識を惹きつけたのは……
「あいつはパンドラを知ってる」
「!」
白馬の表情が一気に険しくなった。
「それは…彼が持っているということですか?」
「分からない。でも、パンドラに関わるなと釘を差してきた」
その可能性もないとは言えないだろう。静かにそう言った快斗に、白馬は微かに不安げな瞳を向けた。
白馬は快斗の秘密を知っている。快斗の裏の顔を知った上で、それを手助けしてさえいる。……否、表立って手は貸さないが、命の危険が伴うような仕事に限っては快斗のサポートをしているのだ。
いつだったか、血に濡れた怪盗を拾った。その怪盗は瀕死の重症を負いながら、獣のようにぎらぎらとした燃える瞳で睨み付けてきた。傷を手当てしようとした白馬ですら近づけさせまいとして……
その姿は烈しく、そして儚かった。いつ死んでもおかしくない、そんな危険を彼は常に背負っていた。そんな男を、白馬は放ってはおけなかったのだ。
気を失った快斗を迎えに来た、後に怪盗業を手伝っていると聞いた老人から半ば脅迫するように事情を聞き出し、余計に放っておくことができなくなって。どんなに拒まれても、避けられても、嘲られても、白馬は快斗が折れるまで決して諦めなかった。そして今、快斗に何とか受け入れられた白馬は怪盗業に自ら手を貸している。
白馬にとって快斗は、唯一心を開ける友人だった。日本と英国を行き来し、探偵という特殊な肩書きを持ち、警視総監の息子という身分がつきまとう。そんな中、友人と呼べる人を作ることはひどく難しかった。
だがそれは常に危険の中に身を置く快斗も同じだった。表面の態度こそ違っても、快斗にも心許せる――もうひとつの顔まで明かせる友人などいるはずもなかった。
そんな二人が友人となったのは、或いは必然かも知れない。好敵手として知り合ったからこそ、何の蟠りもなく本来の自分を曝すことができる。だから、たとえ決して認められることのない犯罪者であっても、白馬にとって快斗は唯一無二の大事な友人なのだ。
だから。
「その怪盗のことを詳しく教えてくれ」
滅多にない快斗からの頼みに、白馬はしっかりと頷いた。
「まず、怪盗ロシアンブルーが最初に現われたのは今より何世紀も前のことです」
「――なに?」
「これは僕の考えですが、おそらくロシアンブルーとは何代にも渡って受け継がれてきた名前ではないかと思います」
でなければ、いくら神出鬼没の怪盗とは言え何世紀にも渡って存在することなど不可能だ。
「正確に現在が何代目かを断定することはできませんが、長きに渡って、ロシアンブルーは常に自らを『R』と名乗ってきました」
「確かに…現場に残されてたカードにもそう書かれてたな」
「Rの正式名称はあくまでRです。ロシアンブルーとは後に警察関係者が付けた通称で、その神出鬼没さから怪盗と呼ばれ出しました。暗闇を素早く移動し、気配を察知させずに巧みに獲物を狩る姿がまるで猫のようだ、と」
そうして、残されたRのアルファベットとロシアンブルーの頭文字をもじり、いつの間にか怪盗ロシアンブルーと呼ばれるようになったのだ。
「ロシアンブルーはつい最近まで、アメリカのロサンゼルスを中心に活動していました」
通りで知らないはずだ、と快斗は思った。怪盗キッドとして海外遠征をすることも多々ある快斗だが、こちらはヨーロッパが中心である。と言うのも、アメリカよりヨーロッパの方がビッグジュエルの存在する確率が高いからだ。今まで仕事でバッティングすることがなく活動地域も違っていたのなら、快斗がRを知らないのも仕方ないだろう。
「昨夜を除けばロスのダウンタウンでの犯行が最も近いですね。つい二ヶ月ほど前のことです」
「ふぅん…二ヶ月も音信不通とは、随分仕事にムラがあるんだな」
「ええ。ロシアンブルーは君ほど頻繁に犯行を行いません」
ただ、長年に渡り行われてきたことをふまえれば、怪盗キッドよりずっと多くの犯行を重ねているのだが。
「次に犯行の特徴についてですが、ざっと挙げるだけで次の五点です」
標的は常に、種類や大きさや場所に関わらず宝石であること。
盗まれるものは必ず盗品であったり、闇で売買されているものばかりであること。
盗んだものは確認できる限りは全て返却されていること。
犯人を特定させるような痕跡は全く残さないが、ただひとつ、必ずメッセージが残されていること。
犯行後、現場に必ず警察を呼ぶこと。
「これだけを見れば君の犯行とよく似ています」
「だな。何か目的があるようにも見えるし、ただの義賊にも見える」
「ええ。最大の酷似点は、返却されるものが全て正当な持ち主に返されていることですから」
快斗は難しい表情になった。白馬も同じように押し黙る。これだけではまるで判断がつけられないのだ。
犯行の特徴が似ているということは、犯行の目的も似ていると取っていいのだろうか。それならば、Rも快斗と似たような動機でパンドラを探しているのかも知れない。でなければどうしてこんな面倒を好む者がいるだろう。
ただの義賊と片づけることもできる。だが、それではパンドラについての説明ができないのだ。なぜキッドに釘を差すのか。それはパンドラにまとわりつく危険性を――快斗の父親を殺した組織の存在を知っているからなのか。
けれど、こうして二人で頭を捻っていても答えなど出るはずもなかった。
「…もう一度あいつと話がしたい」
それが快斗の素直な気持ちだった。
「…確かに、直接聞いてみなければ分かりませんが…」
「だろ。少なくともあいつは危険じゃないと思うんだ。わざわざこんな面倒なことをするからには、それなりの深い事情があるはずだし」
快斗のような私怨か、或いは何代にも渡る名前を受け継ぐからには私怨などよりずっと深い理由によるものなのか。それを一筋縄で教えてくれる相手とは思えないが、話をしてみなければ何も進まない。
快斗は両手に拳を握ると、ぐっと力を入れて言った。
「決めた。俺、なんとかしてあいつとコンタクト取る」
快斗の目が力強く光る。決意と覚悟の滲んだそれに、賛成しかねながらも頷くしかない白馬だった。
「へぇ…俺に喧嘩を売るとは、いい度胸じゃねーか」
新聞の一面にでかでかと掲げられた見出しに、新一は不適な笑みを浮かべた。
珍しく朝に起きて郵便受けまで新聞を取りに行き、コーヒーを飲みながら読もうと広げた瞬間、その文字は目に入った。
――怪盗キッド、新聞社に犯行予告!
そこには丁寧にも予告状がそのまま掲載されていた。最後にはしっかりと小馬鹿にしたようなキッドマークも印刷されている。あまり意味のないような言葉の羅列を見る限り、やたら難解な暗号らしかった。
その暗号は昨晩遅くに新聞社へと直接送り届けられたもので、こんなおいしい話題を記者たちが放っておくはずもなく、予定していた翌朝の第一面記事と直ぐさますり替えられた。局は今や大騒ぎとなっている。既に警察にも通報されているが、いつも以上に難解な暗号は、解読にあたった警官も記者も誰ひとりとしてまだ解読できていなかった。
それにふと興味を覚えた新一がついつい解読してしまったのがいけなかったのか……
かなり高い知能指数を示す新一の頭脳を持ってしてもその暗号はなかなか解読できず、気付けば朝食も食い逃していた。とは言え、昔から一度夢中になると他が見えなくなってしまうため空腹など少しも感じなかったのだが、新聞を見たのは七時三十分頃だというのに解けたのは実に十時過ぎだったという事実に、新一は素直に驚いた。だが、驚いたのはそれだけではない。暗号の難解さは、頭脳ゲームが大好きな新一にとっても文句なしの逸品ではあったが、問題はその内容だ。その暗号はまさに「喧嘩を売っていると」言うに相応しい内容だった。
――怪盗キッドより、怪盗ロシアンブルーへ
こうして始まる短い手紙は、要約すれば、話があるから今夜零時に時計台へ来い、というものだった。つまり工藤新一こと怪盗Rは、怪盗キッドから呼び出しをくらったのだった。
そしてそのほぼ同時刻。
新一のいる米花町より十キロほど離れた江古田町の公立江古田高校に通う怪盗キッドこと黒羽快斗は、自称赤魔女という美女、小泉紅子に詰め寄られていた。
「――どういうつもりなの!」
てっきりいつものようにいらぬお節介だとばかり思っていた快斗は、屋上の手すりに追いやられながらたじろいだ。
「どういうって…何がでしょう…?」
「しらばっくれないで!」
ばっ、と何か紙のようなものを目の前に広げられ、快斗は危うく手すりから身を乗り出しかけた。が、そこはなんとか怪盗の反射神経で持ち堪える。ところが快斗をそうした本人には、快斗のそんな姿などまるで見えていないようだった。
何が彼女をそんなにも刺激してしまったのだろうかと、快斗は恐る恐る目の前に翳された紙を見遣る。
「…新聞?」
「そうよ! 今朝の朝刊! 第一面! 見覚えがないなんて言わせないわ!」
確かに、見覚えがないはずがない。そこには怪盗キッドの予告状、もとい、呼び出し状がしっかりと掲載されている。それは昨夜快斗が新聞社に送ったもので、今朝こうして騒ぎになるだろうことも予測していたのだが、まさか紅子にこんな激しい剣幕で迫られるとは思いもしなかった。
紅子とロシアンブルーが何かしらの糸で繋がっているのは分かっていた。思えば、初めてロシアンブルーと接触した日に忠告してきたのも紅子だった。魔王ルシファーのお告げだと、今夜の仕事はやめておけと忠告された。それをいつものように軽く流してしまったのがいけなかったのか、今まで知りもしなかった怪盗と関わることになってしまったのだが、とにかく事の真相は怪盗本人に問い質そうと決めた快斗は紅子への追求を一時保留としていた。
けれど。
「こんな記事を載せて、どういうつもりと聞いてるのよ!」
燃えるような紅子の瞳。実際、怒りが形となって映るならば、紅子の瞳は煉獄の炎の如く燃え上がっていたことだろう。それ程に彼女の怒りが伝わってきた。
けれど快斗は自分をキッドと認めるわけにはいかず、従ってそれについて答えることは当然できなかった。
「…俺に言うなよ。それはキッドの予告状だろう?」
躊躇いながらも反論した言葉に紅子が噛みつく。
「予告状ですって? 馬鹿にしないでもらいたいわ! これのどこが予告状よ、彼に対する挑戦状じゃないの!」
「…解読、したのか?」
「解読なんてするまでもないわ。私は魔女よ、分からないはずないでしょう!」
そんなこと、今は関係ないのよ!
「問題はこの内容よ。貴方が…貴方たちが彼を呼び出すために書いたこれが…っ」
紅子が唇を噛みしめる。
貴方たち、と言った紅子から、自分と白馬が画策したと気付かれていることを快斗は悟った。しかしそれよりも気になるのは、紅子が『彼』と呼ぶ存在だ。紅子は暗号の内容を知っている。この暗号が誰に宛てられたものかも知っている。そしておそらく、その相手のことも彼女はよく知っているのだ。
「…覚えておきなさい。これが、彼をどれほど危険に陥れるか。彼を、どれほど苦しめるのか。彼に何かあったら、たとえ貴方でも私は許さないわ」
紅子は吐き捨てるようにそう言い残すと、その言葉を最後にくるりと背を向けた。そのまま教室へ戻るのかと思えば、だんだんと薄れていく背中は扉に辿り着く前に跡形もなく消えてしまった。紅子お得意の魔術だろう。その力を目の当たりにしても未だに信じ難い現象だ。
快斗はひとり、呆然と屋上に取り残された。
赤魔術は万能ではない。未来を予知する力はあるが全てを見ることはできず、見えた未来が絶対というわけでもない。幾通りにも存在する未来の中のひとつ、それも場面のみを垣間見ることができるのだ。その未来も奇跡によっていくらでも変化する。人々が奇跡と呼ぶ現象は常にどこかで起こっているのだ。それは生死を分かつような大きなものであったり、気付きもしない微かなものであったりと様々だが、そうした奇跡によって未来は変えられていく。だが、正当な赤魔女である紅子の予言はかなりの確率で的中するものだった。
けれど唯一、魂の輝きが強すぎる黒羽快斗と、同等かそれ以上の輝きを放つ魂の持ち主、工藤新一の未来だけが紅子には見えなかった。それが余計に彼女を不安にさせる。
けれど紅子は、今夜新一がキッドの呼び出しに応じることを知っていた。未来を見るまでもない。彼がそれに応じないはずがないのだ。
「蒼さま…行っては駄目よ…!」
自宅に戻って携帯電話を握り締める紅子には、直に来るだろう新一からの連絡を祈るような気持ちで待つことしかできなかった。
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