隠恋慕
Second contact 9
下から吹き上げるビル風にコートの裾を遊ばせたまま、月明かりの下で固く目を瞑る。アッシュブルーのコートは月光を弾き、その光景はまるで蒼い光に守られているかのようだった。
「俺を呼び出すとは大した度胸だな」
いつかのようにビルの手すりに危うく立っていた新一は、僅かに震えた睫毛の先に全ての激情を隠した。
カツカツと靴音高く歩み寄ってくる気配に吐き気すら覚える。あの時――盗一を奪われた瞬間から一秒として忘れたことはなかった。新一から、彼を愛する全ての者から彼を奪った、この男の気配だけは。
「――ジン」
手すりを飛び降り、一片の躊躇いもなくジンの眼前に踏み込む。その目が僅かに細められた。顔を覆っていたサングラスは、今はもうこの手にない。既に隠す意味のなくなったそれをわざわざ覆う必要もないだろうと、新一は何も纏うことなくこの男の前に立っている。
その顕わになった深い双眸で新一はジンを睨め付けた。
「…驚いたな。代替わりしたとは聞いていたが、本当にこんなガキだとは」
「こんなガキでも、俺の顔を見た奴はあんたが初めてだ」
「ふん…顔に似合わず結構言うな」
くい、と愉しげに唇を歪めたジンは新一の挑発をさらりと流し、手にしていた拳銃を懐に仕舞った。
「奇襲を予想していたんだが、そうじゃないらしいな」
「…あんた相手にそんなものが通用すると思うほど、馬鹿じゃない」
ぴりぴりと突き刺さるジンの気配。唇の動き、瞬きひとつでさえ殺気を放っているかのよう。少しでも気を抜けば瞬く間に飲み込まれてしまいそうで、自然とこちらの気配もきつくなる。それが分かっているからだろう、ジンは鼻で嗤うと新一の胸に拳の先を当てながら言った。
「で、俺を呼び出してどうしたい? おまえを付け狙う依頼主を殺してくれとでも?」
この男は組織に雇われた殺し屋にすぎない。互いの利益さえ合致するなら、平気で依頼主を乗り換える男だ。憎いのは盗一暗殺に直接手を下したこの男だけれど、それを依頼した人物をどうにかしなければまた同じような殺し屋が新一を狙ってキッドに手を出すだろう。
新一は工藤財閥の跡取りだ。金ならいくらでもある。報酬に金を寄越せと言うならジンの望む額を容易に揃えられるだろう。
けれど、新一は強気な笑みを浮かべると。
「俺をそいつのところに連れて行け」
逃げるから追われ、関係のない者までもが巻き込まれるのだ。それなら逃げなければいい。捕まってしまえばいい。どうせ依頼主という人物が何をどうしたところで灰姫の封印が解けるわけもないのだから。もし、それでもキッドに手を出そうと言うなら、その時は――
(この手が血で染まることも、俺は厭わない)
キッドを、快斗を脅かす存在は決して許さない。大事なものを奪われてなお奪った相手を許すなんて、絶対に認めない。奪われたものが己にとって大事であればあるほど、慈悲なんて心とはかけ離れていく。だから人はそれが永遠に連鎖していく行為と知りながらもその手を汚すのだ。復讐という罪に。
もし、盗一のように快斗の命までをも奪おうというのなら、この手は躊躇いなくその全てを排除するだろう。
「俺が欲しかったんだろう? なら、望み通りそいつのものになってやろうじゃないか」
その強気な笑みに何か感じるところがあったのか、ジンは楽しげに喉の奥で笑い声を上げた。
「いいだろう。ただし、分かってるだろうな。一度入れば二度と出られない場所だ」
「構わない。その代わり、ひとつだけ依頼がある」
「…俺は高いぜ?」
「別に、気が向かなければそれでもいい」
受けても受けなくてもいい依頼。興味を持ったのか、ジンは冷えた双眸に笑みを称えたまま先を続けるよう促した。
「これから先、他の誰に頼まれようと、怪盗キッドにだけは手を出すな」
ジンの目が眇められる。その目には、怯えも脅しも一切の感情のない蒼い瞳が映っていた。
善人ぶった正義面は見ているだけで虫酸が走る。自棄になった卑屈な面も、命乞いをする無様な面も、見ているだけで吐き気がする。
けれどここにあるのはただ決意を秘めた眼差しだけだ。少なくとも、それはジンの勘に障るものではなかった。
「随分先の長い話だな」
「ああ。あんたが死ぬまで、或いは…キッドが死ぬまでだ」
「それを、俺が受けると思うのか?」
「そんなことは俺の知ったことじゃない。ただ、あんただろうが誰だろうが、キッドに手を出す奴は俺が全部始末するだけだ」
そのあまりに滅茶苦茶な依頼内容に、ジンは堪えきれずに声を上げて笑った。
ジンは殺しのプロフェッショナルだ。もしこの仕事に命を懸け、誇りを持つような者だったなら、馬鹿にするなと怒鳴っていたかも知れない。子供の戯言に付き合うほど暇ではないのだ、と。誰がどう考えたって、損こそしないが何ひとつ利益もないこんな依頼を受けるはずがない。
けれど、ジンはこういう馬鹿が嫌いではなかった。それを貫き通すためなら己の手が汚れることも厭わない。それこそがジンにとっての本物の覚悟だ。綺麗事を並び立てて守るもクソもあるはずがないのだ。そんなもので全てが解決するなら――ジンも新一も、こうして今この場にいるはずがないのだから。
「受けてやってもいいぜ」
笑いを噛み殺しながらジンは踵を返し、その後に新一が続く。
「ただし、おまえが生きている間だけだ。くたばった後は俺の好きにさせて貰う」
「…充分だ」
「もしこれから向かう先でおまえが簡単にくたばるようなら、つまらなすぎてキッドを殺すかも知れない」
「安心しろ、そんなことはさせない」
「死んだ男に何ができるって?」
立ち止まり振り返った殺し屋に、新一は毅然と、そして確信に満ちた口調で言った。
