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Third contact 3


「俺のこと、好き?」

 ドクリと、心臓が嫌な鼓動を鳴らす。困惑の色を浮かべていた新一の瞳が一気に冷えていく。ただ、理解した。快斗は――『知って』いる。

「…馬鹿にするな」

 絞り出された声は少し震えていたかも知れない。新一は唇を噛みしめた。目の前にある、何もかも悟ったように静かな笑みを浮かべるこの男の顔が、いっそ憎らしい。

「俺は…同情を望んだことは一度もない」
「同情なんかでこんなとこまで来るか」
「…っ、じゃあ何だってんだ! おまえのその言葉がどれほど残酷か、知りもしないで簡単に言うんじゃねえ!」

 自分の何を知ったのか知らないが、たかが知り合って一月やそこらの相手に、わけ知り顔でそんな台詞を言われたくなかった。お人好しもここまでくると甚だしい。快斗にとっては人助け程度でしかないだろうその台詞が、どれほど新一を傷つけるか。どれほど残酷か。
 なのに快斗は素知らぬ顔で言うのだ。

「そんなもん、俺の知ったことじゃない」

 神経を逆撫でするようなその台詞に、新一の頭にカッと血が昇った。
 けれど新一が何を言う前に快斗が続けた。

「おまえのことなんかどうだっていいんだよ。おまえのことはおまえが分かってればいい。俺も俺のことだけは分かってる。それだけで充分だろ?」

 快斗の顔から笑みが退いていく。変わりに浮かぶのはまるで怒っているような表情だ。けれど、確かに快斗は怒ってもいたけれど、それは怒りからくる表情ではなかった。ただ心からの言葉を告げるために、怖いほど真剣な目をしていた。

「これは俺の心が決めたことだ。だから、それに文句を言っていいのはそれを決めた俺だけだ。おまえのことなんかどうだっていいんだ。おまえの気持ちなんか俺には関係ない。おまえが俺を嫌いだって、そんなの俺の知ったことじゃない。それでも俺は、自分の心を誤魔化せないから」

 新一の中の何かが零れる。新一の中の何かが崩れる。頬を伝って落ちてゆくものと一緒に、新一の中でずっと燻っていた何かが流れ落ちていく。それは泣き方を知らないがゆえの、何の飾り気もない真っ白な涙だった。
 新一は『痛み』に鈍い。どれだけ傷付こうと、どれだけ血を流そうと、『死』という概念が根本的に違う彼にとって、『痛み』は死への警告ではなくただの錯覚でしかなかった。いつからか『痛み』は新一にとって意味のないものになった。
 しかし、それはあくまで自分自身の痛みに対してだけだ。新一は人一倍、他人の『痛み』に敏感だった。誰より『死』と遠い場所にいながら、誰より『死』を悼む心を持っている。誰より痛みに鈍感で、誰より敏感に察知してくれる。
 ――この世で唯一死のない存在でありながら、この世で最も死の哀しみと尊さを理解した人。
 こんな矛盾だらけのイキモノ、他にはない。こんなに心を掻き乱す愛しくてたまらないイキモノを、快斗は知らない。

「ほんとは一発くらい殴ってやるつもりだったのに。…こんなぼろぼろにされやがって」
「…こんなの、なんでもねえ…」

 綺麗な顔で毒を吐くその憎らしい口を、快斗は抱き寄せることで塞いだ。
 どうして彼はこんなにも自分を痛めつけることができるのだろう。どうして彼は気付かないのだろう――彼も『生きている』ということに。
 その身に刻まれたのは確かに傷。その傷から流れるのは確かに血。その血が止まり、傷が癒え、細胞が再生してゆくのは何のためか。確かに大地に息づく生命として、彼をこの世に生かすため以外の何だと言うのか。

「…俺、おまえが血ぃ流してんの見て、安心した」
「え…?」
「おまえの体にはちゃんと血が通ってる。痛みを感じないとか、そんなの、人よりちょっと我慢強いだけじゃんか。おまえの何が特別なんだ。おまえのどこが人と違う? 当たり前に血ぃ流して、当たり前に生きてるだけだろ。おまえのこんな姿見てると、どうしようもなく苦しいんだ。どうしようもなく痛いんだよ――ココが」

 快斗の手がそっと押さえた下にあるのは、心臓。

「『痛み』が生きてる証なら、おまえは親父が死んでからずっとココを痛めてきたじゃないか。それとも、何も感じなかった?」
「そんなわけあるかっ! あの人と、…おまえのためだけに、俺は…!」

 自分を呪わない日はなかった。そして、祈らない日もなかった。どうかどうか、彼の愛した、彼を愛する人たちが傷付きませんように、と。
 この身を滴る血に意味があるとすれば、それは彼らを守るためのものだ。この身に刻まれる傷は、自分のせいで死んでしまった彼が受けるはずだった傷なのだと思えば、この意味のない体から流れる血にも価値が生まれるような気がした。自己満足だと嗤われてもいい。それでもせめて、いつか来たるべきその日が来るまでは彼の愛した人たちを守り通そうと、ただそれだけを思って……

「思いに刃があるなら…思うだけで傷がつくなら…この心臓はとっくに止まってる。それでも俺はこんなだから、どんなに体が傷つこうとコイツはちっとも止まりやしない。……こんなにも、痛くて痛くてたまらないのに…!」

 悲鳴のようにか細く声を上げながら、新一は胸を握りしめて蹲る。もう新一はボロボロだった。衣服は破れ、全身傷だらけで、血と涙で身も心もぐちゃぐちゃだった。心が壊れる寸前まで追いつめられ、今まで必死で押し潰してきた感情が暴走している。
 弱音なんか吐くつもりはなかった。箱に詰め、鍵を掛け、埋め立てた上から更に重石を乗せ、絶対に誰の目にも触れない場所に葬り去ってしまいたかった。そして、憎まれたかった。どうして彼を奪ったのだと、罵られたかった。そうすれば自分はその憎しみを受け止めたのに。そうすれば自分は、ずっとその罪を背負っていけたのに。
 思いもしなかった。――許されることの方が、もっとずっと、辛いだなんて。

「なんでこんなに…苦しいんだ…」

 この苦しみは、痛みは、何のためだ。永遠に灰姫に縛られ、ただ彼女のためだけに存在する魂なら、なぜ彼女はこんな不要なものを与えたのだ。こんな苦しいだけの感情を、心を、与えられたのは一体何の……

「――俺のためだ」

 混乱しきった新一の頭にもその声ははっきりと届いた。のろのろと顔を上げれば、真剣な顔で、それでも口元に笑みを刻んだ快斗が真っ直ぐ新一を見つめている。

「それは、俺と逢うためだ」

 新一が目を見開く。

「おまえは確かに俺に惹かれたはずだ。きっかけは親父への償いかも知れないけど、今おまえが苦しんでるのは誰のためだ?」
「…な…に、言って…?」
「分からないなんて言わせない。もう答えはおまえの中でも出てるはずだ。それでもおまえがその答えから逃げるなら、俺は何度だって言ってやる。
 ――俺はおまえが好きだよ」

 ドクリと、心臓が鼓動を鳴らす。けれどそれはあの嫌な鼓動ではなく、それでもこの心臓に今までと違う痛みを与えた。言葉にならない何かが腹の底から込み上げ、喉元を迫り上がり、やがて脳まで達して新一の思考までをも絡め取っていく。ただ本能のままに流れる涙だけが、それが何かを知っていた。
 頭の奥で警鐘が響く。答えを見つけてはならない、見つければ今までの世界が崩れる、と。けれどもう間に合わない。警告の声は、自分がもうその答えを見つけてしまった証だから。

「…そんな……、そんなの、絶対ダメだ…」

 新一は絶望にも似た感情を覚え、声を震わせた。

「どうして?」
「っ、分かってるくせに…!」
「ああ、分かってるよ」

 快斗が目を閉じる。

「――それがなに?」

 次に目を開けた時、そこに映っていたのは確かな怒りの色だった。新一は自分に向けられるその感情に微かな畏れを感じて身を竦めた。
 けれど快斗はどこまでも新一の予想を裏切るのだ。

「分かってるよ。分かってて言ってるんだ。だってしょうがないだろ? そんなの、どうでもいいんだ。おまえが俺のためを思ってくれてるのは分かってる。俺のためにこんなにぼろぼろになってくれてるのも分かってる。でも、俺が欲しいのはおまえの本音だ。目の前の現実を無視しなくていい。おまえがおまえである限り、どうしたってそれは無視できないんだから。それでも俺はおまえが好きだ。おまえのことが、大好きだ。俺のために苦しんでる、こんなぼろぼろのおまえを見ても、この感情は変えられない。だから、おまえにも現実を直視した上で応えて欲しい」

 脈打つ心臓が煩い。躯の芯がざわざわと疼く。頭が熱に浮かされる。
 思考が、働かない。

「新一は、俺のこと、好き?」

 ――拒めるわけが、ない。

「そんな言い方、卑怯だ…!」
「うん」
「断われば、その程度の感情だって言ってるようなもんじゃねーか! そうすれば俺はこの痛みですら錯覚になっちまう!」
「うん、分かってる。分かっててそういう言い方したんだ」
「俺に答えを求めておきながら、初めから答えはひとつだなんて!」
「うん。…狡くて、ごめんね」
「この、卑怯者…!」

 新一の手が伸び、快斗の襟首を掴み引き寄せる。吐息がかかるほど近くに互いの双眸を捉えながら、新一が言った。

「誓え」

 快斗が僅かに目を瞠り、次いで隠しきれない感情を噛み締めるように目を細めて新一を見つめた。

「どうせ方法も知ってるんだろ。なら、今、この場で誓え」

 快斗はしっかりと頷くと、新一のぼろぼろになったシャツを肌蹴させた。血を流しところどころ赤く腫れたり青く変色したりしている胸の中心――心臓の真上に、それはあった。
 両の羽を広げ、今にも飛んでいってしまいそうな蝶の刻印。
 その赤ん坊の拳大ほどの、蒼色の見事なアゲハ蝶に快斗はそっと唇を寄せた。けれど触れる寸前、新一は快斗の髪に指を絡ませると、消え入りそうな声で呟いた。

「…もう後戻りはできないんだぞ…?」

 その声に視線をあげた快斗は目を細めて微笑むと、躊躇いなくその刻印に口付けた。
 新一が目を見開く。触れられた先から灼けるような熱が広がっていく感覚。それはまるで意志を持つ生き物のように痛みとともに体中を這っていく。あまりの痛みに四肢が千切れてしまうのではないかとさえ思った。足の先から髪の毛一筋まで広がる熱に、新一は声にならない絶叫を喉の奥で堪えた。
 それでも漏れてしまった悲鳴が部屋に響き渡った瞬間――老人の手の中にあったパンドラが砕け散った。

「な――っ!」

 呆然と立ち尽くしていた老人は、突然砕けてしまったパンドラに声もなく瞠目した。欠片がぼろぼろと手指の間から滑り落ちていく。
 老人は慌ててしゃがみ込むとその欠片を集め出した。

「…悪いな。それはパンドラの分身でしかないんだ」

 新一は気を失い、ぐったりと快斗に体を預けている。
 快斗は新一を両手に抱え上げると、凍えるような双眸を老人へと向けた。散らばる欠片を必死に掻き集める姿はあまりに浅ましく愚かしい。
 快斗の声が聞こえているのかいないのか、老人はこちらを見ようともしなかった。彼の取り巻きたちは快斗の剣幕に圧され、身動きひとつできずにいる。

「彼女は漸くあるべき場所に還った。いくらその石屑を集めたところで、あんたの望むものは手に入らない」

 老人の手がぴたりと止まり、その体が微かに震えだした。

「これがパンドラの分身だと? なら、本体はどれだと言うんだ?」
「本体なんか疾うに滅んださ。ただ、死にきれなかった彼女の意志に縛られた子孫がいるってだけの話だよ」
「…それが、本体なんだな?」

 老人の目つきが変わる。まるで宝物のように快斗がそっと抱き締めているのは、新一。今の老人の目つきは、先ほどまで恐怖を感じていた相手に向けるそれではなかった。その視線はただまっすぐに新一へと注がれている。欲しいものを手に入れる道具がすぐそこにある、彼の頭の中にはそれしかなかった。

「それが、永遠を与えてくれるんだな? それが――!」

 老人の指示によって、固まっていた男たちが一斉に駆け寄ってくる。快斗よりずっと背も体格も大きな男たちだ。けれど快斗は少しも怯むことなく、冷え切った表情を崩すこともなく片手をポケットへと差し込んだ。
 それは、来る前に仕込んでおいたものだ。危険な場所に乗り込むのだからと、志保に渡された。彼女に用意されるまでもなく快斗も持っていくつもりだったけれど。協力者ではあるが探偵という立場の白馬には目を瞑ってもらった。
 この国では所持を認められていない。本当なら、国など関係なくそんなものは持たない方がいいのだろうけれど。

(俺と、そして新一が生きていくために必要なら――)

 どんな罪も笑って背負おうじゃないか。
 構える拳銃の冷たさがずしりと重い。これから成すことへの罪深さが痛い。それでもこの腕に迷いは、ない。

 鼓膜を打ち振るわす銃声が響き渡った。



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