隠恋慕
Speak low, if you speak love.
逆さ吊りの神 5
それは、唐突に起きた。
『黒羽君、大至急心身治療室に来なさい!』
機動班の特別機動隊執務室で萩原とともに書類整理を行っていた快斗は、突然の志保からの呼び出しに何か嫌なものを感じながら、手にしていた書類を放り出すと心身治療室へと駆け込んだ。
一体何が起きたと言うのか。
けれど、説明など受けずともその光景を見れば状況などすぐに分かった。
「――コナンっ!」
まるで引き付けか癲癇のように痙攣を起こしたコナンが、新出と志保に押さえられている。
コナンの顔は紙よりも真っ白で、激しい苦しみを堪えるように噛み締めた唇も既に切れている。
声にならない悲鳴が上がる度、快斗の鼓動はばくばくと早鐘を打った。
コナンの両腕からは血が出ていて、まるで掻きむしったような傷はおそらく彼が自分で付けたものだろう。コナンの爪は血で染まっている。
快斗は呆然と立ち尽くした。
なんだ、これは。
今朝は普通だった。
いつものように、朝に弱いコナンを叩き起こしてご飯を食べ、溜めに溜めた書類整理をしなければならないからと光彦にコナンを預け、執務室へ向かった。
コナンもいつものように光彦と勉強だの護身術だのを習いに行ったはずだ。
それなのに。
――なんだ、これは。
「ぼーっとするな! E-22にある薄茶色の小瓶と注射器を取って!」
滅多にない新出の怒声で我に返ると、快斗は慌てて言われたものを志保に手渡した。
痛みのせいか、自傷行為を止めないコナンを新出と二人で抑え付け、その隙に志保が素早く薬を注射する。
それでも鎮まらないコナンに快斗は泣きたくなった。
まだほんの子供なのに。
わけの分からない組織に狙われ、殺されかけた。
それだけでも彼の心を傷付けるには充分だろうに、ついでのように言葉や感情を奪われてしまった。
今や彼の心は粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
それでも、コナンは徐々に感情を取り戻し始めていた。
まだ言葉は喋れないけれど、ふとした瞬間に笑みを見せるようになっていた。
それなのに。
――なぜおまえばかりがこんなにも苦しまなければならないのか。
ふと頭を過ぎった言葉に、けれど快斗ははっと目を瞠った。
(……なんだ、今の?)
奇妙な感覚。
そう、これはデジャビュ――既視感というものだ。
まるで以前にも同じことが、いや、今思ったことと全く同じ言葉を口にしたことがあったような……
「……っ! 黒羽君!」
志保の呼び掛けに再び快斗は意識を引き戻された。
志保が強張った表情で快斗を凝視している。
よく分からないまま何気なくコナンに視線を移した快斗は、目を見開いた。
コナンの全身に何か黒い痣が浮かび上がっている。
――否。
痣ではなく、それは文字のようだった。
よう、と言うのは、それは快斗の知らない文字だったからだ。
類似性を持ち尚かつ規則性を持っていることから文字だろうと推測はできるのだが、生憎とこんな文字は文献でさえ見たことがない。
一度記憶したものを決して忘れない快斗が言うのだから、ほぼ間違いない。
けれど、ふと、文献ではなくもっと別の場所で同じものを見たことがあることに気付いた。
快斗は今も胸元で揺れる指輪に服の上からそっと触れた。
そう。
それは、この指輪に刻まれた文字と同じであった。
なぜ指輪に刻まれた文字がコナンの身体に浮かび上がるのか。
そもそも、――この子供は何者なのか。
言いようのない寒気のようなものがぞくりと背筋を駆け上がり、快斗は思わず肩を震わせたのだが。
す、と持ち上げられた細く小さな手が、力なく快斗の手を掴む。
縋るように、求めるように。
震える手で、それでも懸命に掴んでいる。
気付けば、コナンはいつの間にか目を開けていた。
群青色の不思議な瞳がそっと見上げてくる。
その唇が動いた。
痛みに震えているのか、息苦しさに喘いでいるのだろうと快斗は思った。
けれど、何度も何度も同じ動きを繰り返す唇が何を伝えようとしているのかに気付き、快斗は声を失くした。
(……か、い、と……?)
ああ。
なんてことだ。
彼はずっと自分の名前を呼んでいてくれたのだ。
こんなにも声なき声で、自分の名を呼んでいてくれたのだ。
そう、きっと、自分が気付かなかっただけでずっと――ずっと。
この名を呼び続けていてくれたのだ。
快斗は泣きたくなった。
ほんの一瞬でも怯んでしまった自分が許せなかった。
こんな文字がなんだと言うのだ。喋れないからどうだと言うのだ。
彼はこんなにも懸命に人を求め、求められたがっているじゃないか。
そんな子供を突き放すなんて、どうしてできると言うのだ。
もう彼が何者だって構わなかった。
(たとえお前が何者であろうと……)
――俺はお前を愛そう。
「……大丈夫。ここにいるよ」
抑え付けていた手をどけ、コナンの手を両手でぎゅっと包み込む。
それだけで安心したらしく、コナンの緊張が解れるのが分かった。
薬が効いてきたのか、それとも快斗の温もりに安堵したのか。
再び目を瞑ったコナンはやがて眠りに落ち、侵食するように浮かび上がっていた文字はだんだん薄れていった。
それでも尚、コナンの手を握る快斗の胸は熱かった。
まるであの時強烈な熱を持って胸を灼いた指輪が、再び熱を発しているかのようだった。
「あの子がどこの誰か、早急に調べ直す必要があるわね」
快斗と新出を残し自分の執務室に戻った志保は、呼び出した二人、萩原と松田にそう切り出した。
相変わらず機械以外に何もない部屋で、思い思いの場所に寄りかかっていた二人は、無言のままこくりと頷いた。
「少なくとも、もう〝一般人〟と呼ぶには無理があるな」
「……ええ」
志保はあの寒気のする光景を思い出し、振り払うように緩く首を振った。
体中に浮かび上がる文字は、彼が明らかに自分たちとは一線を画した存在であることを証明していた。
あれで一般人なら、自分たちは今頃地上で生活している。
せめてコナンが喋れるようになるまで、と思っていた志保だが、日本支部を支える支部長としてあまり悠長なことも言っていられなかった。
「詳しく話してくれるかしら、松田君」
名を呼ばれ、松田は厳しい顔で頷いた。
初めに疑問を抱いたのは松田だった。
もとより身元不明の子供ではあったのだが、コナンという存在自体に疑問を抱いたのは、ここ数日光彦とともにコナンの指導に当たっていた松田が初めてだった。
忙しい快斗の代わりに自分が彼の面倒を見ることになったのだと光彦に言われ、松田は護身術の訓練をともに受けることを許可した。
本来なら一般人に施す言われはないのだが、コナンが特別な事情を抱えていることは既に志保から全ての班の班長・補佐に連絡されていたため、仕方なく許可したのだ。
そして実際に訓練を施すうちに、松田はコナンの違和感に気付いた。
初めはコナンも素人同然だった。
当たり前だ、まだ七歳の子供がどこで護身術など習うと言うのか。
そしてそれは光彦も同じで、いくら教えてもなかなか上達しなかった。
だがそれは当然だと、上達が遅いからと言って松田は怒ったりしなかった。
ある程度の経験を積んできた者ならまだしも、素人がそう簡単に上達できるほど甘い指導はしていないのだから、松田としても初めから長い時間を掛けて教えていくつもりで指導をしていた。
だが、コナンは違った。
コナンの上達は目覚ましかった。
いや、上達という言葉を用いるのは正しくない。
それはまるで閉じられていた扉の鍵を開けるように、松田の指導という鍵を切っ掛けに、コナンの中に隠されていた何かが溢れ出てくるようだった。
一を聞いて十を知るのが天才なら、その上を行く者を何と称せばいいのか。
「正直、あんなガキを怖いと思うことさえあった」
何を考えているのか分からないあの硝子玉の瞳でじっと見つめられれば、なぜかざらざらと心臓を撫で付けられるような心地になった。
そのせいで加減を忘れ、思い切り打ち据えてしまったことも度々。
だが、コナンは決して泣かなかった。
身体がふらつくことはあっても、痛がる素振りすら見せなかった。
おかげで側にいた光彦でさえ松田が本気で打ち込んだことに気付かず、何事もなかったように再び構えたコナンを松田は心底恐ろしく思った。
「あれは感情が出せないとかそんなことじゃなくて、もっと根本的な何かが俺たちと違う気がする」
確かに、と答えたのは萩原だった。
「あいつと組んでみりゃ分かるだろうが、あれは絶対素人にはできない動きだ。あれを天才と呼ぶなら、他の天才と呼ばれる連中は全員凡才以下だ」
天才が一握りの人間ならあの子供はひとつまみ、いや、たったの一粒だ。
コナンの存在は過大評価を嫌う萩原にそこまで言わせた。
「貴方たち二人がそう言うなら、間違いはないんでしょうけど……」
「俺たちだけじゃない。鑑識の阿笠班長が言ってたんだが、あいつ、古代ヘブライ文字や古代ギリシャ文字まで読めるらしい」
「古代文字を?」
「ああ。たまたま書庫で本を読んでいるところを見ただけだから、本当に読めるかどうかは分からないそうだが」
あの子供なら不可能とも思えないから恐ろしい。
そう言った松田に、いよいよ志保は深刻になった。
もとから不思議な子供だとは思っていたが、もう「不思議」なんて言葉では片づけられない。
あれが成人した大人なら分かる。
だが、七歳の子供があれだけの能力を備えるには、物理的にはっきりと時間が足りないのだ。
たとえどれほどの才能を持って生まれようと、時間だけは人間にはどうしようもない神の領域なのだから。
「とにかく、もう一度あの子の身元を調べてみるわ」
コナンが目覚めたことで中断されていた戸籍のハッキングを再びやってみようと言う志保に、けれど萩原が反対した。
「いや、おそらくそれじゃああいつの身元は割れねーよ」
「……じゃあ何か代案があると言うの?」
「代案なんて大したもんじゃないが、やってみる価値はあるはずだ」
ただ、ちょっとばかり危険な作戦に、支部長さまの許可が降りるのなら。
* * *
翌朝、コナンは何事もなかったように起き出した。
あれ以来ずっと付きっきりだった快斗はコナンのベッドに凭れながら眠っている。
朝に弱いコナンは快斗の寝顔を一度も見たことがなかった。
いつもコナンが眠るまで起きていて、コナンが目覚める頃には起きていた快斗。
それがこんなにも無防備に寝顔を晒されていることにほんの少し嬉しくなる。
見れば、快斗の手は未だにコナンの手を握っていた。
一晩中そうしていてくれたのかと思えば、それだけで胸がいっぱいになった。
コナンはおよそ子供らしくないひどく大人びた表情で快斗を見つめると、どこか寂しげな笑みを浮かべながらその手にそっと口付けた。
その目は雲のない空のように、水面に揺れる湖面のように、穢れなき深淵の輝きをしていた。
BACK * TOP * NEXT
PR
