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江戸川コナンの戦いの結末

 FBI本部のあるワシントンD.C.の一角に、その日、秘密裏に集められた者たちがいた。
 FBIにおける対組織プロジェクトの責任者であるジェイムズ・ブラックを始め、同じくFBIの陣頭指揮を執っていた赤井秀一と、そのパートナーであるジョディ・スターリング。そしてプロジェクトのために送り込まれたCIAとMI6の諜報部員と、ICPOの職員、それから――日本警察から派遣されてきた、小田切敏郎。
 その錚々たる顔ぶれを前に、新一は悠然と口を開いた。

『――実質的に組織を取り纏めていた男は、FBIによって、無事確保されました。組織のメインコンピュータは、コンピュータウイルス『闇の男爵』によってデータを破壊されてしまったため、最も有力な物的証拠を我々は失ってしまったわけですが、多くの関係者の確保および関連施設等の証拠を押さえることはできたので、彼らを実刑に追い込むことは十分に可能と思われます。合衆国憲法によって、組織のリーダーの身柄はアメリカに預けられることになりますが、組織の被害を被った国は、あまりにも多岐に渡ります。今後も今暫くは、各国との連携が必要になるでしょう』

 しかしながら、と、新一は力強い眼差しで彼らを見渡した。

『これにて、組織は一旦の壊滅を迎えたと考えていいでしょう』

 その言葉に、その場にいた者たちからそれぞれに頷きが返った。
 多くの機関が関わった対組織プロジェクト、そのトップを担っていたのが、実は日本人のまだ高校生の子供だと知らされたときの彼らの驚きようは、言葉では言い表せないほどのものだった。ジェイムズ・ブラックから伝えられる正確な情報、緻密な作戦、その全てに「流石はFBIだ」と感心しきりだった彼らだが、実はそれが件の子供によるものだったと言われても、にわかに信じられるものではなかった。
 しかし、彼らの中には、その子供を知る者がいた。
 ジェイムズや赤井、ジョディは言うまでもない。そもそも、あの有名な赤井秀一と対等に話している様子を見て、子供のことを知らない者たちはまず驚いた。
 その上、子供は、あの組織に潜入捜査を行っていたCIAの諜報員、本堂瑛海とも認識があるらしく、顔を合わせるなり「無事でよかったわ」「瑛海さんこそ、元気そうでなによりです」と、なにやら親しげに挨拶を交わしていた。
 更には、ICPOにも知り合いがいるらしく、『シンイチ君じゃないか!』『どうも、父がいつもお世話になってます』などという遣り取りを見る限り、どうやら知る人ぞ知る人物らしい。
 だが、なによりも驚かされたのは、日本の警視庁からやって来た小田切敏郎との遣り取りだった。

「やはり、君だったんだね」
「……貴方には、気づかれているんじゃないかと思っていましたよ。昔から、それとなく僕を手助けしてくれましたよね」
「あの時の言葉が――Need Not To Knowと君に言われたことが、ひどく悔しくてね。君の信頼を得たくて、仕方なかった」

 優秀なる日本警察、その中でも敏腕を誇るあの小田切敏郎にそこまで言わせるだけでも驚きだというのに。

「私は君に、数え切れないほどの借りがある。君のためなら、いくらでも力を貸そう」

 そう言って、子供に向かって最敬礼する小田切を見て、最早子供がただの子供でないことを、誰もが理解した。
 あれから数時間。
 プロジェクトに関する報告を的確にまとめ、着々と進行役を務める子供に、異論を持つ者など、最早誰もいなかった。
 そして会議も終盤に差しかかったころ、新一はふと声をひそめて言った。

『最後にひとつ、皆さんにお願いがあります。
 皆さんの多大なる犠牲と労力を以てようやく壊滅に追い遣ることができた今回の組織ですが、おそらく、数年のうちにまた新たな組織が台頭してくるでしょう。それを潰したとしても、また別の組織が。そして、それを繰り返していくことになる。
 我々もまた、彼らに対抗する組織として、捜査を続けていかなければならない。そのことを、どうか忘れないで欲しいんです』

 一時の平和に惑わされて油断すれば、必ずその隙を突かれる。そして一度味わったはずの苦しみをまた繰り返す。しかも傷つけられるのは、決まって抗う術を持たない無力な者たちなのだ。
 決して簡単なことではないけれど、努力を怠って後悔するよりはずっといい。

『――協力してくれますか?』

 無理強いすることはできない、けれど、彼らが力を貸してくれたなら、どんなにか力強いか。
 そう願って問いかけられた言葉に返されたのは、予想していたものよりもずっと頼もしい声だった。

『当然よ! なんのためにFBIになったと思ってるの?』
『言っておくが、こちらが本職だ。ボウヤに頼まれるまでもない』

 ジョディと赤井のそんな言葉に始まり、

『もちろんです!』
『犠牲になった者たちの命を無駄にはできないからな』
『犯罪組織が怖くて、警官が務まるかってんだ!』

 と、新一を知らなかった者たちからも次々と頼もしい声があがった。
 にわかに騒々しくなった彼らを宥めたのは、ジェイムズだ。

『それに関して、私からもお願いがある。今回のプロジェクトに多大な貢献をしてくれたこの工藤君についてだが、彼の存在はあまり知られたくない』

 本当は、ジェイムズは新一がここに来ることにも反対したくらいなのだが。
 ――僕がまだ学生だからと言って、いざというときの責任までを貴方に押しつけるつもりはありません。
 そう言った、新一の強い意志に負けたのだ。
 少なくない犠牲を伴ったプロジェクト。残党も多く、まだ予断を許さない状況だ。
 周囲の信用を得るために、プロジェクトの責任者をジェイムズが代行したが、それはつまり、なにかことが起きたとき、その責任を負うのも当然、ジェイムズである。新一は始めから、このプロジェクトが成功しようと失敗しようと、自分がプロジェクトの責任者であることを明かす用意をしていた。

『まだ野放しになっている残党もいるし、彼には今後も我々のジョーカーでいてもらいたいからな。彼に関する情報はトップシークレットにしてもらいたい』

 ジェイムズの頼みに返る言葉は、当然「イエス」だけだった。



 決意も新たに、それぞれが意気揚々と去っていく中、小田切だけがその場に留まった。
 なにを聞きたいのかにもそれとなく当たりを付けていた新一は、自分たちとFBIの三人を除き、その場が無人になるのを静かに待った。

「聞きたいのは――『もう一人』について、ですか?」

 切り出したのは新一だ。心得ている小田切も、ただ頷いただけだった。

「ご心配なく。彼らは知っています」
「……ということは、やはり?」
「危険な任務でした。あいつの力がなければ、僕は死んでいたでしょう」

 ちらりと、小田切は新一の左の太腿を見遣った。不自然に膨れ上がったそこは、その下に包帯が巻かれているからに違いない。
 組織の本拠地に突入したのは昨日のことだ。新一は、無茶をしたせいで、杖なしでは歩くことも困難な状態だった。

「彼がなぜ、そんな危険なことに手を貸してくれたのか、君は知っているのかい?」

 義賊とも、愉快犯とも言われる怪盗。そのどちらだとしても、或いは気紛れで手を貸すこともあっただろう。
 しかし、小田切には確信があった。おそらくあの怪盗は、義賊でも愉快犯でもない。八年という謎の沈黙のその理由は――…

「あれは、俺です」

 端的な答えは、不思議と説得力があった。

「それしか方法がなければ、僕は法を犯します。犯人をあげるためなら、不法侵入だろうと器物損害だろうと、遠慮無くやりますよ。今回のプロジェクトだってそうです。
 別に、罪の意識がないわけじゃないんですよ。ただ天秤にかけているだけなんです。取り返しのつかない過ちを犯すくらいなら、取り返せる過ちを犯した方がいい、と」

 そして彼は、そんな自分を怪盗と称した。己の罪を自覚して。
 そして自分は、探偵と名乗った。罪を自覚しながら、まるでその罪を隠すように。
 ただそれだけの違い。

「同じことなら、自分を偽らないだけ、彼の方がまだ救いがあるでしょう?」

 そうして自嘲するように笑えば、小田切は、ぽんと、撫でるように新一の頭に手を添えた。
 新一は戸惑い、きょとんと彼を見返した。

「それしか方法がないと、君や――もう一人に思わせた大人である自分が、恥ずかしい。私たちが被るべき汚れを、君たちに押しつけてしまったようだ」

 新一は吃驚して、慌てて首を振った。

「大人であれば被っていい汚れなんてありません」
「では、君たちが被っていい汚れもないね?」
「……え?」

 話が見えずに戸惑う新一に、小田切は安心させるように笑った。

「ここに来る前、警視総監と相談して決めたんだ。もし、彼が今回の件に関与しているとして、そもそも彼の存在理由がそのためにあるのだとしたら、我々に彼を捕まえる権利はない、とね」
「総監が……」
「彼に汚れ役をさせた上に、我々の面子のために捕まえたとなれば、自分たちがあまりに不甲斐ないだろう」

 まるでなんでもないことのように言うが、そんな簡単な話ではなかったはずだ。
 新一は、警察というものが、決して道理に適った組織ではないことを知っている。時には自分たちを守るため、行き過ぎた保身を行うこともある。それは『組織』である以上、仕方のないことでもある。だからこそ、組織に縛られる刑事ではなく、探偵になろうと思った。
 そのトップである警視総監自ら、数え切れない窃盗を犯した怪盗を見逃そうだなんて。

「気にすることはない。恩着せがましく言ってみたところで、結局は、あれほどの犯罪組織の存在に気づけず、後手に回らなければならなかった自分たちの失態を隠すために過ぎないのだから。大人のくだらない見栄だ」

 それは慰めの言葉でもあり、本心からの言葉でもあった。
 ここで妙にごねたところで、小田切を困らせるだけだろう。『彼』がその提案を素直に受け入れてくれるかどうかは別として、新一は有り難く受けておくことにした。

「……ありがとうございます」
「君に礼を言われるのも妙な話だが……言っただろう? 君のためなら、私は力を惜しまない」

 そんな風に甘やかしてくれる大人に、新一は幼い子供のように微笑んだ。



 小田切を送るためにジェイムズとジョディが出ていき、新一は送迎を任された赤井と二人で、彼の車に乗り込んだ。日本で使っていた愛車と同じシボレーだが、あちらは黒で、こちらは赤だ。同じ車種の色違いとは、彼は随分とシボレーが好きらしい。
 そんなどうでもいいことを考えていると、いつもよりゆっくりと車を発進させた赤井が、唐突に聞いてきた。

「小田切警視長には、話さなくてよかったのか? 例の薬のことは」

 それはつまり、APTX4869の影響で老いることができなくなった、自分の体のことを言っているのだろうか。
 新一はゆるく首を振った。

「誰にも言う気はありません。赤井さんに知られてしまったのも計算外です。あのとき、キッドが貴方を寄越すとは思っていませんでしたから」
「誰にも、ということは、ボスにも話さないつもりか?」
「そのつもりです」

 ミラー越しに見える赤井の眉が、微かに寄せられた。

「……我々が信用できないか」
「そういう問題じゃありません。余計な火の粉を振りまきたくないだけです」

 人間というものの心の脆さを信用していない、というのもある。だがそれよりも、秘密を知ったばかりに、いつかその人に火の粉が降りかかるかもしれない。新一には、それが恐ろしい。
 本当は、まだ全然、納得なんてできていない。実感だってない――自分の肉体が不老になっただなんて。
 それでも、現実は待ってくれない。
 どうせ、そう遠くないいずれ、姿を消さなければならない身だ。それなら、余計な火種を残していく必要もあるまい。

「できることなら、赤井さんにも忘れて欲しいくらいです。……とは言え、メアリーさんの息子である赤井さんも無関係とは言えないので、遅かれ早かれ貴方は真実を知ったでしょうけど。だからこの秘密を知るのは貴方と、ベルモットと、あの薬を飲んでしまった者と生み出してしまった者だけでいいんです」

 すると、赤井はハザードもつけずに、唐突に車を止めた。後続車が迷惑そうにクラクションを鳴らす。

「赤井さん?」
「……まさかとは思うが、キッドにも言っていないのか?」
「……? そうですけど、」

 それがなにか、と続けようとした新一は、こちらを振り向いた赤井の、あまりに真剣な表情に、思わず声を詰まらせた。

「なぜ、奴に話してやらない」

 赤井の口調は、責めているそれではなかった。
 けれど、なぜか、ひどい裏切りを詰られているようで、新一は堪らず、目を伏せた。
 ――なぜ。
 理由など、決まっている。

「……あいつは、優しすぎるんです。どうしようもないことなのに、どうにかできないか悩んで、苦しんで、それでもどうにもならないと分かったら、なにもできないことにまた苦しむ。人のことなのに。そういうやつなんです」

 どうにもならないなんてことは、もうとっくに新一自身が思い知ったことだ。専門家である二人の科学者からは「不可能だ」と断言され、それでもどうにかならないかと調べ、試行錯誤し、結局はどうにもならないのだと思い知らされた。同じように現実を突き付けられたとき、あのお人好しの怪盗が、まるで自分のことのように悲しむだろうことは目に見えている。

「それに、悲しむだけならまだいい。底なしのお人好しが、俺に付き合うなんて言い出しそうで、だからあいつには、絶対に話すわけにはいかないんです」

 これから新一の生活は、普通とはかけ離れていく一方だろう。それに付き合って、普通に生きていけるはずの彼までもが、そこから逸脱してしまうなんて。とても許されることではない。

「あいつには、幸せになってもらいたいんです。あいつは怪盗になるために生まれてきた男じゃない。世界中に愛されるマジシャンになるためにこそ、生まれてきた男だ。その未来を、俺が壊すわけにはいかない」

 だから新一は、何食わぬ顔で日常に戻るふりをする。そしてできることなら、彼が幸福なマジシャンになるところを可能な限り見届けて、それから――消えよう、と。
 それが、新一の考え得る、最も理想的な未来だった。あの寂しがり屋の相棒が寂しがらないように、たくさんの人が彼を愛してくれればいいと、心底から思った。
 それを、赤井は真っ向から否定した。

「ボウヤは、なにも分かってないな」

 新一は僅かにムッとした。
 キッドとの付き合いは新一の方がずっと長いのに、どうして赤井に否定されなければならないのか。

「別の誰かで替えが利くとは、安い関係だな。ボウヤにとって、奴はその程度の存在か?」
「……誰かの替わりになんて、誰もなれませんよ」
「それが分かっていて、教えてやらないのか。奴が追いかけてきたらどうするつもりだ?」
「それは、……すぐに諦めてくれるとは思ってませんよ。でも、いつかは気づくでしょう。俺を追うよりも、幸福になる道はいくらでもあるんだって」

 人は慣れる生き物だ。己の半身とまで思った相手でも、それを失った喪失感にもいつかは慣れる。なにも言わずに消えた薄情な探偵を、いつまでも覚えていてくれるはずがない。そう思う自分の方こそ苦しいことには、今は気づかないふりをする。

「他人の幸福は、他人には計れない。俺には到底、ボウヤの言うような未来を奴が望むとは思えないがな」

 赤井の言葉は、優しかった。望んだ未来を否定されているのに、望まない未来も否定してくれている。
 責められていると感じたのは、他でもない新一自身が、不実な自分を責めているからだった。
 新一がなにも言えずにいると、赤井はひとつ溜息を吐いて、止めていた車を走らせた。

「まあいい。困ったら、俺のところに来い。狭い日本にいるより、リスクも少ないだろう。俺が生きてる限りなら、面倒を見てやろう」

 ――やっぱり、敵わない。
 新一はやはり、なにも言えずにただ頷いた。



 ワシントンでの拠点に使っていた、仮暮らしの住処に戻った新一を、キッドは――もとい、黒羽快斗は、大慌てで迎えに出た。

「――新一!」
「ただいま、快斗」
「大丈夫だったか? 足の傷、開いてねえだろうな?」
「ああ、ちゃんと赤井さんに送ってもらったから大丈夫だよ」
「ならいいけど」

 そう言いながらも、快斗は杖をひょいと取り上げると、当然のように片手で新一を抱き上げた。まるで父親が小さな子供にするような、腕に座らせるような抱き方だ。仮にも同じ年の男を軽々と持ち上げるなんて、本当にでたらめな男だ。

「おい、自分で歩けるって」
「歩けても、歩かない方がいいだろ」

 新一は押し黙った。確かにモニカにもそう言われていた。

「さっさと治したいだろ? 諦めろ」

 けけ、とからかうように笑われて、新一は唇をひん曲げた。
 赤井との会話を聞かれているわけがないと分かっていながらも、快斗の様子に変わりがないことに、新一はこっそりと安堵する。
 報告会議での話し合いは全て、盗聴器を用いて快斗に伝わっていた。しかし、車内に移ってからは盗聴器を切っていた。それでも心配になるのは、単に自分が後ろめたいだけだろう。

「それよりお前、小田切警視長の話、聞いてただろ。どうするんだ?」

 具体的にどういう対応を取るのかは分からないが、怪盗を見逃す、と言っていた。
 大胆な性格のくせに、妙に繊細で、プライドが高いこの怪盗が、その提案を素直に呑むとは思えなかったのだけれど。

「んー、最初は冗談じゃねえ、と思ったんだけどさ。よく考えてみたら、見逃してくれるっつーもんを、わざわざ引き留めるのもアホらしいよな」

 追いかけて欲しい、捕まりたい、なんて願望などないのだし、わざわざ抗議のために出向くのも馬鹿らしい。

「利用されるのはムカつくし、俺に直接話を持ってこないところが姑息で嫌だけど。それで母さんや寺井ちゃんの安全が守られるなら、俺のくだらねえ意地で突っぱねるわけにはいかないもんな」

 本音ではあまり納得していないのだろうが、とりあえずは彼らの提案を受け入れることにしたらしい。
 言葉通りにしかめっ面をしている快斗だったが、新一は笑みを零した。
 この男は、いつだって人のことを優先してばかりだ。けれど、彼のそういう強かなところを、とても気に入っている。

「あの人ならうまくやってくれるだろ。警察の威信もなくさず、キッドの名誉も損なわずに、さ」
「はは。確かに、頑固で不器用な中森警部にゃできねえ芸当だな」

 快斗は笑いながら、リビングのソファに新一を下ろした。
 すぐ前のローテーブルには、起動したままのモバイルパソコンがあり、脇には広げられたトランクが中身を晒している。パソコンは、おそらく優作と連絡を取り合っていたのだろう。そしてトランクは……。

「……準備、ちゃんと進んでるな」
「……うん」

 なんとなく気まずくなって、どちらからともなく口を噤む。
 快斗はもうすぐ、ここを出ていく。広げられたトランクはその準備だった。
 プロジェクトの裏のジョーカーとして、誰にもその存在を気取られることなく新一とともに戦ってきた快斗だが、ただの一般人でなければならない『黒羽快斗』には、その期間にもどこかに存在した証が必要だった。その期間が丸々空白であれば、自分を疑ってくれと言っているようなものだからだ。
 その仕事を、二人は工藤優作に一任した。組織戦で手一杯の自分たちにそこまで気を回している余裕はなかったし、なにより優作なら情報戦はお手の物だし、怪盗キッド張り、とは言えないまでも、初代キッド直伝の変装術を持つ有希子がいれば、実際に快斗の姿を衆目に晒すこともできるからだ。
 だが、その仕上げは当然、快斗自身がしなければならない。ここから先は本物の黒羽快斗が自分で足跡を残さなければならない。そしてそこに、新一はいらない――いてはならないのだ。
 新一の足が治るまでは傍にいる、と言い張った快斗だが、新一はそれを拒んだ。一秒でも早く、快斗は『黒羽快斗』に戻らなければならない。そしてひとつでも多く、『黒羽快斗』の痕跡を残さなければならない。それが、彼が日常へ戻るための方法だからだ。手を抜くことは、絶対に許せない。それを理解してくれたから、快斗も出立を決めた。
 しかし、いざとなると離れがたいものだ。そもそも望んで離れるわけではないのだから、当たり前だった。

「……パンドラなんか、さっさと見つけてぶっ壊してさ。すぐに新一の傍に戻ってくるから」

 幼い子供がするように、縋りつくように快斗は新一を抱き締めた。

「バーロ、お前が戻るのは、おばさんや中森さんがいるところだろう?」

 新一は、くす、と笑って快斗の頭を撫でた。
 パンドラを破壊して、いの一番に自分のもとに駆けつける快斗――なんて、あまりにも簡単に想像できて、笑ってしまう。悲願達成の第一報なんて、普通は身内にするものなのに。
 すると快斗は、真っ直ぐに新一を見つめながら言った。

「違うよ。確かに俺が守りたかったのは、母さんや青子たちだけど、俺が傍にいたいと思うのは、今もこれからも、新一だけだよ」

 思いがけない言葉に、新一は目を瞠った。

「コナンの戦いは終わった。キッドの戦いも、直に終わらせる。そのとき、コナンでもキッドでもなくなった俺たちに、繋がりはなくなるのか? ただの黒羽快斗を、工藤新一は受け入れてくれないの?」

 あまりの真剣さに気圧されながらも、新一は「そんなことはない」と首を振った。
 可能な限り彼の傍に。そう願っているのは、むしろ新一の方だ。先ほどの言葉は、ほんの少しからかっただけのつもりだったのだ。

「コナンもキッドも関係ない。俺は、お前だから手を取ったんだ」
「じゃあ、新一の傍に帰ってきてもいい?」
「当たり前だろ」

 むしろ、聞かなければそんなことも分からないのかと、理不尽な怒りまで沸いてきて。

「必ず、俺のもとに戻ってこい。勝手にくたばったりしたら承知しねえからな」

 まるで喧嘩を売るように言われたそれに、快斗は途端に破顔した。

「了解!」

 弾んだ声でそう返し、嬉しそうに笑いながら抱きついてくる。まるで巨大な猫だ。
 新一はその背中をぽんぽんとあやしながら、こっそりと笑み零した。

 いつか――いつかこの手を離すときが来るとしても。それは、今じゃない。
 いつかは永遠に別れるときが来るとしても、それは今じゃないのだ。
 コナンの戦いは終わった、けれど、新一の戦いは死ぬまでずっと終わらない。
 それでも。


(俺は、お前と、生きたいんだ)


 それが、新一の真実だった。
 
 
 
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