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ジョーカー

 人気のない摩天楼の一角。
 白い翼で夜空を駆けていた怪盗は、そこに佇む人影を見つけて僅かに瞠目した。
 その人は隠れるわけでもなく、かと言って存在を誇示してみせるわけでもなく、ただひっそりと佇んでいる。地上の雑踏から遠く離れたこんな場所では、その存在に気づく者などいないだろう。ただ一人――夜に生きるこの白い鳥を除いて。
 怪盗の口角がくいとつり上がった。
 興味本位で近づけば己の身を滅ぼしかねない相手だ。けれど、彼がなんの意味もなくこんな場所にいるはずもなかった。彼に限って、まさか今夜この場所を怪盗が通ることを知らないはずもあるまい。
 つまりはあちらも初めからこちらに用があっての御出陣と言うわけだ。こんな真夜中に保護者の目をかいくぐって抜け出してきただろう彼の努力を無碍にするのも気の毒だろう。
 怪盗はくるりと一度旋回すると、風に乗ってゆっくりと下降していった。



「――よぉ、ボウズ。今夜は花火は打ち上げねえのか?」

 相も変わらず夜目にも鮮やかな白い衣装を着込んだ怪盗は、夜の空気を微かに震わせながらひっそりとビルに降り立った。
 ついでのように紡がれた皮肉はさらりと無視して、コナンは殊更ゆっくりと振り返る。
 その光景は、まるでデジャヴのように二人の脳裏に蘇った。
 そう、ここは、かつてコナンとキッドが初めて顔を突き合わせて対峙した、あの杯戸シティホテルの屋上だった。
 コナンもキッドもあの頃と何一つ変わらない姿で、互いに無言で睨み合っている。
 ただひとつ変わったものと言えば――…

「……もう必要ねえだろ?」

 コナンの口元がニィとつり上がる。怪盗なんかよりもずっと凶悪な小学生に、キッドの笑みも深まる。
 コナンは、この男のことを誰よりも信頼していた。
 初めは、ただいけ好かない相手でしかなかった。目立つ衣装に派手なパフォーマンス、小馬鹿にしたような態度。宝石を盗んでは返し、なんの得にもならない厄介事に首を突っ込んでは、なにも言わずに姿を消す。今時わざわざ予告状なんてものを送ってくれるとは、なんて懐古趣味な泥棒だろう。その程度にしか思っていなかった。
 それが変わり始めたのはいつだったか。
 一番最初に疑問を感じたのは、おそらくインペリアル・イースターエッグの時だ。
 キッドは江戸川コナンが工藤新一だと気付いている素振りを見せながら、そのことには一切触れず、ただ暴かれそうだった謎を浚って姿を消した。
 或いは、その時にはすでに気付いていたのかも知れない。コナンの抱える秘密が、決して開けてはならないパンドラの箱であるということに。
 ……気付けばただの泥棒は、秘密の共有者になっていた。
 それから二人は何度も邂逅を重ねてきた。時には好敵手として、時には共犯者として。決して馴れ合いこそしなかったものの、いつしかコナンは誰よりも彼を認めるようになっていた。一見ただの愉快犯に見えて、けれどそれだけではないなにかを、怪盗の心の裡に何度も垣間見た。
 犯罪者でありながら決して輝きを失わない怪盗。それはまるで、夜の闇の中にありながら輝きつづける、あの月のようで。
 けれど、コナンもキッドもなにも言わなかった。二人とも、ただ待った。――『時』が来るのを。

「……ようやくその『時』が来たってことか」
「ああ。覚悟はいいか?」
「そんなもん、とっくの昔にできてるさ」

 キッドはこつこつと靴音高く歩み寄ると、躊躇いなくコナンの前に跪いた。そしておもむろにその小さな手を取った。素顔を隠すため、どんな時でも常に月の光を背負っていたはずの怪盗が、月光を正面から浴び、少しも惜しむことなく素顔を曝している。
 意外に若い――どこか自分と似た顔に目を眇めながらも、コナンはその手を振り払おうとはしなかった。

「お前が来るのをずっと待ってた」

 怪盗の真摯な言葉とともに、心地よい緊張がぴりぴりと肌を伝う。
 コナンはそっと目を伏せた。

「……俺も、お前を待ってたよ」

 できることなら。自分ひとりで、全てを終わらせたかった。誰も巻き込まず、誰にも気付かれず。全てを終わらせ、何食わぬ顔で日常に戻りたかった。
 けれど、それは無謀と呼ぶにもおこがましいほど愚かな思い上がりだ。
 警察関係者へのツテはどうにかなるとしても、自分の手足のように、自分が思うままに動いてくれる戦力が、どうしてもコナンには必要だった。灰原は確かに強力な戦力だが、如何せんメンタル面が弱い。モニター越しに対峙している間はまだいいが、直接対面するほど組織との戦いが過酷になれば、どうしても心に隙ができるだろう。
 だが、あの組織にはたとえ一瞬の隙だろうと与えたくないのだ。それほどに凶悪で狡猾な相手なのだから。
 そうなると、自分の理想とする協力者がいなかった。博士も両親も頼もしい協力者だが、年齢や社会的な立場を考えれば、コナンの思い通りに動けるとは思えない。
 そうなった時、最後に思い浮かんだのはこの男――怪盗キッドだけだった。
 変幻自在の姿と星の数ほどの声を持ち、神出鬼没で正体不明、おまけに確保不能の大怪盗。いつかの日に操縦士のいない飛行機を陸に導いてくれたように、殺し屋に追われ川に転落した探偵を救い上げてくれたように。
 彼なら自分の思うように、いや、それ以上に動いてくれるだろうから。
 そしてなにより。
 彼になら、この背中を預けられると思ったから。

「お前はジョーカーなんだ」

 ジョーカー? と首を傾げる怪盗に、コナンはそうだと頷く。

「掟破りの最高の切り札さ」

 それはあらゆるルールの外から攻撃を仕掛けることのできる、最強のカード。法に縛られず、時に罪に手を染めながらもなにかを追い求めるこの男を言い表すのに、これ以上相応しい言葉もないだろう。
 自分たちが戦おうとしているのは、裏社会に深く深く根を張っている巨大な犯罪組織なのだ。時には正攻法ではどうにもならないこともあるだろう。そうなった時、コナンひとりでは行動をかなり制限されてしまう。
 けれど、彼なら迷わず自分とともに戦ってくれるだろうという確信があった。
 そしてその信頼を、彼は決して裏切らないのだ。

「名探偵のお望みとあらば、その役目、喜んでお引き受けしましょう」

 月光がスポットライトのように怪盗を照らしている。その中ですっと立ち上がった怪盗は、口元に微笑を湛えながら優雅に腰を折った。
 それはまるでなにかのショーのようだった。怪盗キッドという稀代のマジシャンが魅せる、魔法のステージ。
 その魔法から醒めやらぬ内に、けれど、と怪盗は言い添えた。

「だが、真の切り札は俺じゃない」

 ぱちんっ、と鳴った指の間に現れたのは、スペードのエースが描かれた一枚のカード。
 怪訝そうに眉をひそめるコナンへ、怪盗はそのカードを投げて寄越した。
 ひらひらと足下に落ちたそれをコナンが拾い上げる。

「怪盗キッド、そして江戸川コナンと言う二枚の切り札に隠された真のジョーカー。
 それが――工藤新一だ」

 コナンは、はっと目を瞠った。
 拾い上げたカードはスペードのエースなどではなく、ジョーカーだったのだ。

「江戸川コナンはただの小学生だ。それが警察組織や怪盗キッドを動かすブレインだなんて、誰が考えつく?」

 面白いだろ、と笑う怪盗に、コナンの鼓動が乱れていく。
 対黒の組織プロジェクトの謎のジョーカー。キッドはそのレッドへリング――影武者になると言っているのだ。これほどの隠れ蓑など、他にはない。

「……危険な役だぞ」
「それこそ今更だな。お前なら泣き寝入りするのか?」
「するわけねーだろ」
「だろ? 俺だって同じことだよ」

 だからお前は、思う存分暴れればいい。

「俺が、お前の影武者になってやる」

 ドクリと、心臓が脈打った。
 その音を振り払うように、コナンはきつく怪盗を睨み付けた。
 彼の言葉は毒だ。コナンの心を揺さぶる呪文だ。
 危険なはずなのに。命懸けなのに。
 ――わくわくする、なんて。
 睨み付ける目はそのままに、コナンは口元に笑みを浮かべる。
 その笑みに応えるように、怪盗もまた似たような笑みを浮かべる。

「よろしくな、名探偵」

 そうして差し出された手を、コナンは迷うことなく握り返した。
 
 
 
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