隠恋慕
優先順位
「貴方、私に隠れてなにをしてるの?」
机に突っ伏しながら、ふああぁ、と大きな欠伸を漏らしたコナンに、哀は眦を吊り上げながら問いつめるように言った。
突然話を振られたコナンはその体勢のまま「あ?」と首を傾げる。まるで普段通りの仕草だ。
だが、そんな仕草も今の哀には惚けているようにしか見えなかった。
「ここ数日、貴方、うちに泊まってるんですって? 昨日、蘭さんからお礼の電話が掛かってきたわよ」
「ん? ああ、そのことか」
そのことかじゃないわよ、と哀はコナンを睨み付けた。
口実に使うなら使うと一言断りを入れるべきだろう。おかげで昨日は話が噛み合わずに、もう少しで彼女に余計な心配をかけてしまうところだったのだ。哀が咄嗟に機転を利かせたからよかったものの、もし嘘がばれたらどうするつもりだったのか。
分かっているのかいないのか、コナンは尚もこみ上げてくる欠伸を堪えるのに必死だ。
哀は怒りを通り越して、呆れたため息を吐いた。
「なにをこそこそやっているのか知らないけど、どうせまた危ない遊びでもしてるんでしょう。怪我したって知らないわよ」
「……いつもみたいに止めないのか?」
「止めないわよ。止めたって聞かない人に言うだけ無駄だわ」
素っ気なく言うだけ言ってさっさと自分の席に戻ろうとする哀を、けれどコナンが呼び止めた。
「――灰原」
その、さっきまでの緩みきった顔からは想像もできないほど真摯な声に、逆らうこともできずに哀は振り返った。
頬杖をついた尊大な格好で、口元にはあの凶悪な笑み。彼がなにかよからぬことを企んでいる時によく見せる顔だ。
無意識に身構えた哀に、コナンはこの上なく楽しそうに言った。
「お前もゲームに参加するか?」
確かに組織は哀にとって、強大で残虐で恐ろしい存在だった。それは今でも変わらず、彼らのことを考えると、未だに恐怖で足が竦んでしまうほどだった。
けれど、もう逃げないと決めたのだ。逃げてばかりでは絶対に勝てないと、自分よりずっとずっと幼い少女が気付かせてくれた。
それは幼さゆえのただの無鉄砲かも知れない。それでもその言葉は、逃げてばかりの日々に慣れてしまった哀を奮い立たせてくれたから。
だから、もう逃げないと決めたのだ。
決めた――のだけど。
「おかえり名探偵、ようこそ哀ちゃん♪」
コナンに連れられて上がったマンションの一室には、見知らぬ男がいた。
いや、男と言うにはあまりに若い。
おそらく工藤新一と同じくらいの年齢だと思われる彼は、どこかその工藤新一と似通った顔立ちで、彼とは似ても似つかない愛嬌のある笑みを浮かべながら、哀に一輪の薔薇を差し出した。
……気障なところも似ている。
差し出されたそれを胡散臭いと思いながらも、花に罪はないからと、哀は一応受け取った。
「あなた、誰……?」
てっきり、無謀にもまたあの組織になにか仕掛けようと企んでいるものとばかり思っていたのだが、連れてこられたのは一見すると普通のマンションだった。しかもそこには、どこからどう見ても普通の高校生にしか見えない、見知らぬ少年がいて。
戸惑う哀に、少年はきょと、と目を瞬いた。
「名探偵、なにも話してないの?」
「ん。お前から説明してやって」
「俺からぁ?」
いいのか? と顔をしかめる少年に、コナンは意地悪く笑った。
「実際に自分の目で見なきゃ、到底信じられないだろ?」
それに少年は肩を竦めることで答えた。
コナンはランドセルを放り出すと、たぐり寄せたクッションの上に寝転がって、床の上に無造作に置かれていたパソコンを立ち上げた。なにをしているのか知らないが、その表情は昼間と同一人物とは思えないくらい真剣だ。やはりなにか危険なことをしているという予想は外れていないのだろう。
となると、気になるのはこの少年だ。哀は自分もランドセルを降ろすと、少年を真っ直ぐ睨み付けた。
時として大人すら怯ませることのあるその視線を受け、けれど少年は怯むどころか口角を吊り上げた。腹立たしいことに、そんな仕草までコナンにそっくりだ。
「貴方は誰なの? 貴方たち、ここでいったいなにをしているの?」
哀の詰問を受け、目の前の少年は懐から一枚の白いハンカチを取り出した。タネも仕掛けもございません、と囁きながら、ハンカチをひらひらと翻す。それを左手で作った拳の中にぎゅっ、ぎゅっ、と押し込めると、右手の人差し指を魔法の杖変わりに、左手の拳に翳して「ワン、トゥー、スリー」と数える。そして左手が開かれた時、そこにはハンカチもなにも握られていなかった。
「君のポケットを見てごらん」
哀は、にこにこと笑っているこの少年がなにをしたいのか、分からなかった。こんな初歩的な手品でなにをしようというのか。
言われるままに探ったポケットからは、確かに白いハンカチが出てきた。けれど、だからと言って「凄い、凄い」とはしゃいであげられるほど、哀は子供ではなかった。
「それで、次はなにを見せてくれるのかしら、手品師さん?」
「そのハンカチを広げてみて」
哀の皮肉もさらっとかわし、尚も笑顔の少年はぱちりと片目を瞑って見せる。
哀は少しうんざりしながらも仕方なくハンカチを広げてみて――瞠目した。
「改めて、お会いできて光栄ですよ――お嬢さん」
一瞬にして冷涼な気配を纏った少年。
それは少年の皮を被った獣だった。
人懐こい笑顔と優しい口調の裏に、鋭い牙と爪を隠し持った白い豹。
少年の目に真っ直ぐ射抜かれた哀は、まるで肉食獣に見つめられた捕食動物のように、身動きがとれなくなった。
哀の手の中にあるハンカチには、怪盗キッドのマークが描かれていた。
「びびることないぜ、灰原。そいつは味方だ」
「……江戸川、くん……」
ディスプレイを凝視したままコナンが言う。
「……味方って、なにを根拠に?」
コナンのおかげで少し緊張の解けた哀は、それでも胡散臭そうに少年――怪盗キッドを睨んだ。
すっかり元の愛想笑いに戻っているけれど、今更信用できるはずもない。
大体にして、怪盗キッドは江戸川コナンの敵だったではないか。ダイヤモンド・カット・ダイヤモンド。かつて哀がそう称したように、彼らは互いに拮抗するその能力の高さゆえに、何度も対峙してきた。コナンはこの怪盗相手に追跡の手を緩めることはしなかったし、キッドもまたこの探偵だからといって攻撃の手を緩めたことなどなかった。
それが、味方だなんて。どうして信じられると言うのだろう。
けれどコナンは当然のように言うのだ。
「そいつは絶対に俺を裏切らない」
クッションの上に座り直し、あの不敵な笑みを浮かべる。
その自信に満ちあふれた、けれど全く答えになっていないそれに危うく頷きかけ、哀は慌てて首を振った。
「だから、その根拠を聞いてるのよ」
「根拠なんかねーよ」
「……はあ?」
そんなはずないでしょう、と哀は呆れた声を上げるが、コナンは「だってなぁ」と顔をしかめながらキッドを仰いだ。
「お前はあるか?」
「いや、特にねーけど。強いて言うなら、名探偵だから、かな?」
だよなぁ、とコナンは頷いた。
「あのね、哀ちゃん。俺は犯罪者だけど、名探偵のことを敵だと思ったことは一度もないよ」
「……じゃあ、なんだって言うの」
「名探偵は、もうひとりの俺だよ」
そう言ったキッドを、コナンはただ静かに見つめるだけで、肯定も否定もしなかった。
「手加減なんてできない相手だから、俺はいつも全力でこいつと対峙してきた。だから、分かった。名探偵の考え、名探偵の信念、名探偵の守りたいもの、そして――抱えているもの」
でもだからって、素直に手を取り合うこともできないのが自分たちなのだ。それではまるで自分から負けを認めるようで悔しいから。だから、敵わないから手を借りるのではなく、それすらお互いの計画の一部になるように。ゆっくりと時間をかけ、準備していたのだ。
――組織を完璧に葬り去るための計画を。
「あの日、俺がキッドを待っていたあの日に、キッドは当然のように現れた。こいつは誰より俺のことを分かってる。誰より、俺に近い存在だ。
つまり俺が俺を裏切らない限り、キッドが俺を裏切ることもないんだよ」
そう言って笑い合う、顔すらそっくりな彼ら。
(――ああ、確かに、彼らはツウィンね)
白い豹と、黒い虎。子猫のようにじゃれ合いながら、敵には容赦なく牙を立てる。
哀にはなんとなく分かるような気がした。
彼らは生き延びるために獲物を狩るのではなく、我が子を、己の命よりも大切なものを敵から守るために牙を剥くのだ。そこに法律は存在しない。あるのはただ、生きるか死ぬかと言う掟だけ。彼らは自らの牙を血で染め上げる罪よりも、我が子を守ることを優先する。ただそれだけのことなのだ。
それなら、敵だなんだと拘っているなんて馬鹿馬鹿しいではないか。哀にだってなにより守りたいものがある。優しい博士。純粋な子供たち。眩しいくらい綺麗な、探偵の幼馴染み。そして、守ることはできなかったけれど、大好きだった家族。
彼らのためなら、哀もまた非情になれる。
なにより優先すべきは、彼らの平穏だから。
「……ゲームのルールを教えてもらおうかしら?」
着々と駒が揃っていく。
二匹の獣は満足そうに微笑んだ。
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