隠恋慕
自己満足
夜。
小さな写真立てを握り締めながら、声を押し殺して泣く少女の背中。
震える肩。
零れる囁き。
「……しんいち……」
今はただ、沈黙を守り続ける。
関わっていた事件が立て込んでいて、暫く連絡できそうにない。
そう、蘭に工藤新一の声で電話を掛けたのは、もう一月も前になる。
今まではどんなに間が空いても、一ヶ月も連絡を入れなかったことなどなかった。だから、ただでさえ心配性の彼女が、連絡のない探偵のことをひどく心配してくれているのは痛いほど分かる。
それでも、コナンはたった一度の連絡さえ入れなかった。工藤新一に関わる全ての者から繋がりを断つ。それは、組織との戦いに必要不可欠な備えだった。
「俺、死んだら絶対地獄行きだな」
頬に散ったそばかすも愛らしい金髪碧眼の少女から、なんとも不釣り合いな低い声が漏れる。
その少女と手を繋いでいた、口髭を生やした英国紳士は、けれどその声に驚くことなく、ただ少女の言葉に意外そうに目をくりくりとさせた。
彼らの口から漏れるのは流暢な日本語だ。変装したコナンとキッドは、現在アメリカに来ていた。
「名探偵が死後の世界を信じてるなんて意外だなぁ」
「いや、別に信じてねーけど」
「ふーん?」
ふむ、とキッドが考え込むように右手を顎に添える。見た目が英国紳士なだけにそれは妙に様になっていた。
そして。
「ま、その時は俺も一緒に地獄行きだな」
ニヤリと口角を持ち上げた相棒に、コナンも似たような笑みを浮かべた。
組織壊滅プロジェクト。
その壮大な計画の駒のひとつとして、二人が選んだのはFBIだった。
組織の存在を知り、長年奴らを追い続け、奴らと何度も接触してきたFBI捜査官の中にはとても有能な者もいるが――その計画はあまりに杜撰で稚拙。二人の天才はそう判断した。
そしてその有能な捜査官を手駒として使わない手はないだろうと、こうして遥々アメリカまでやって来たのだ。
だがこちらは、見た目は小学生の子供と、国際的にも指名手配された怪盗などという怪しげな面子だ。面と向かって彼らに協力を要請することはできない。もとい、そうするつもりは端からないのだが。
彼らの作戦はこうだ。
FBIに結成された、ジェイムズ・ブラック率いる対組織チーム。彼らは現在、組織の関係者と思われる科学者を追い、アメリカに帰国していた。一時はベルモットを追って日本へ訪れていた彼らだが、日本での彼女の捕獲に失敗し、彼女の行方を見失ったため、その件を数人のエージェントに任せ、最近動き出した件の科学者を追って帰国したのだ。そこで、チームのリーダーであるジェイムズ・ブラックとの接触を図る。
彼らの信用を勝ち取り、尚かつこちらの秘密は漏らさない、そんな魔法じみた方法があるのかと、協力者の少女は最後までこの作戦を渋っていた。なにせFBIにはあの男がいる――組織の連中に『銀の弾丸』の異名で畏れられる男、赤井秀一が。
けれど、こちらには本物の魔術師がいるんだからと笑えば、最後には哀も呆れながらも納得してくれた。
今回、彼女はこちらに来ていない。彼女にはコナンの格好で毛利探偵事務所から学校に通ってもらっている。少しでも蘭を悲しませないために。そして灰原哀は、学会へ出席する阿笠博士とともに地方に旅行中、ということになっている。
つまり、コナンはキッドとたった二人で、FBIの曲者を討ち取らなければならないのだ。チャンスは一度きり、失敗は決して許されない。
しかし、当然、勝算はあった。
『きゃあっ』
『お……っと、失礼』
集中するあまりについ前方不注意になってしまっていた男は、甲高い声を上げて転けた少女へ、慌てて手を差し出した。
見事なブロンドに、こぼれ落ちそうな大きな青い瞳。頬のそばかすは少しも容貌を損ねることなく、むしろ少女をより愛らしく見せている。年頃になればさぞ異性の視線を集めるだろう、そう思わせる少女に、男――ジェイムズ・ブラックは、張りつめていた気配を幾分和らげ、痛みを堪えるように唇を引き結んでいた少女を助け起こした。
『怪我はないかね、お嬢さん?』
『ええ、ちょっと転んだだけだもの!』
平気よ、と言って微笑む少女に、思わずジェイムズの頬も緩む。
『こら、アイリーン。だから走ったら危ないと言っただろう?』
『パパ!』
と、突然背後にぬっと影が差した。少女の顔にぱっと笑みが浮かぶ。
どうやら彼女の父親らしい男性を振り返り、ジェイムズは軽く頭を下げた。
『申し訳ない。こちらの不注意でお嬢さんに危うく怪我をさせるところでした』
『いえいえ、こちらこそ。どうにもお転婆な娘で』
そう言って男は口髭の生えた口元に品のいい微笑を浮かべると、すっと右手を差し出した。
『娘がご迷惑をおかけしました。私はルイス・バーナード。そして娘のアイリーンです』
『どうも。ジェイムズ・ブラックです』
『お詫びと申してはなんですが、宜しければコーヒーでもご一緒に如何ですか?』
ルイスの有り難い申し出に、けれどジェイムズは申し訳なさそうに首を振った。
『生憎、急ぎの用がありまして。ご厚意だけ有り難く頂戴しておきます』
『そうですか、それは残念ですね』
父親のスーツの裾を掴んだ少女がつまらなさそうに口を曲げるのへ、ジェイムズは申し訳なさそうに苦笑を向け、その場を後にした。
今は大事な作戦の最中だ。あの科学者を確保できれば、かなりの情報を掴むことができるだろう。そうすれば、長年追い続けてきた奴らの尻尾をきっと掴むことができる。
足早に目的地へと向かうジェイムズは、だから気付かなかった。
親子の口元が、ニィ、と歪んだことに。
『奴の動きはどうだ?』
約束の時間ギリギリになって現れた上司に、気を張りつめていた捜査官たちは一様に安堵した。今回の作戦が組織の連中に気付かれていないか、単独で探りに出ていた上司の安否がずっと気になっていたのだ。しかも、下手に警戒されては元も子もないからと、発信器や無線機の類は一切携帯しなかった彼との連絡手段は皆無だった。
『ご無事でなによりです、ボス』
『ああ。あえて深入りは避けた』
『それで、奴らの反応は……?』
ジェイムズは難しい表情で押し黙った。それだけで捜査官たちも、あまり状況が思わしくないのだと悟る。
『筒抜け、ということはない。だが、我々が動いていることは感づいているだろうな』
『そう、ですか……』
やはり一筋縄ではいかない相手だ。どこかから情報が洩れているらしい、その事実は分かっているのに、現時点ではまだその『どこか』が特定できていない。セキュリティに穴があるのか、……人材に穴があるのか。
だからこそ今回の作戦は少数精鋭で行い、しかもその作戦内容はFBI本部にすら極秘で行っていた。
『それで、彼女の足取りは掴めたのか?』
『それが、思ったよりも手強いようで……』
仮にも組織に属していた人間だ。身の隠し方も心得ていて当然。だが、それが同じ組織の人間相手に通用するとは限らない。そうなれば折角の『情報』が葬られることになるだろう。……組織の手によって。
『とにかく、奴らより先に彼女を確保するんだ』
組織に恐れをなしたのか、それとも目先の利益に目が眩んだのか。組織から何らかの『情報』を持ち出した彼女は、今もその『情報』を手に彼らとFBIから逃げ続けている。
ジェイムズは組織の連中よりも先に彼女に接触し、身柄を保護する代わりに情報を渡してくれるよう、取引するつもりだった。しかし、現状はあまりうまくいっていない。
彼女が警察機関に保護を頼まないのは、おそらくその能力を信用していないからか、或いは組織の力が警察機関の力を上回ると思っているから。そして、たとえそのどちらが理由だったとしても、彼女にFBIを信用させることは難しいだろう。現時点で、組織に対して如何なる対処もできていないことが、組織の力がFBIを上回っていることの証明に他ならないからだ。そうなれば、たとえ彼女と接触できたところで、彼女が大人しくこちらの保護を受けてくれるとは限らない。
(……力が。彼女の信用を得るだけの確かな力が、足りない……!)
優秀な、このプロジェクトのために集められた捜査官たち。それでも、まだ足りない。社会の闇に巣食う悪を滅ぼすためには、その闇を知り、悪を知る者が必要なのだ。
だが、そうした人材は尽く組織に奪われ、或いは葬られてしまった。現状、組織と対等に戦えるFBIの捜査官は、ひとりだけ。しかし彼がどれだけ優秀でも、たったひとりではどうにもできないこともある。
(いったい、どうすれば……!)
内心で唇を噛み締める上司の焦りを察し、部下のひとりが労うように声をかけた。
『ボス、お疲れでしょう? 五分や十分で進展するわけでもありませんから、コーヒーでも飲んで少し休まれては?』
『いや、しかし……』
『なにかあればすぐに知らせますから』
下手をすれば組織と接触するかも知れない危険な任務に出ていた上司に、せめてコーヒーブレイクぐらいは、という部下たちの申し出を断り切れず、一杯ぐらいならばと、ジェイムズは仮眠室へと足を向けた。
確かに体は疲れていた。だが、それを言うなら彼らだとて同じことだ。
(……ついでだから、彼らにもコーヒーを入れていってやろう)
そうして仮眠室の扉を開けたジェイムズは、室内に充満する芳しいコーヒーの香りに目を瞠った。見れば、テーブルの上には既に入れられたコーヒーがある。
部下の誰かが用意しておいてくれたのか。そう思いかけて。
『――お疲れさまです』
優雅に、堂々と。
仮眠室に設けられたソファに腰掛ける――口髭を生やした紳士。
『き、みは……っ!』
ここへ来る途中、不注意でぶつかってしまった少女の父親。確か名前は、ルイス・バーナードと言ったか。その彼が、なぜここにいるのか。
驚きで声も出せないジェイムズに、ルイスはにこりと人当たりの良い笑みを浮かべた。
『ですから、ご一緒にコーヒーでも、と思いまして』
まさか、と嫌な予感とともに背筋を冷や汗が伝う。
ここはFBIの対組織チームの拠点だ。そう易々と一般人が入れる場所ではない。つまり、そんな場所へ易々と侵入できる者が、一般人であるはずがなかった。
まさか、既にFBIの拠点までもが組織に知られていたと言うのか。
こちらの動揺を見て取ったルイスは、相変わらずの笑みのまま肩を竦めた。
『ご安心を、ミスター・ブラック。私は、今貴方が思い浮かべている者たちの仲間ではありません』
『!』
『とは言え――』
全くの無関係とも、申し上げませんが。
そう言った得体の知れない男の差し出したコーヒーを、ジェイムズはとても受け取る気にはなれなかった。
彼女にとって、『そこ』は地獄だった。両親やたくさんの友人に囲まれた当たり前で幸せな日々は、唐突に終わりを告げた。あの、獣のように獰猛で、氷のように冷たい目をした男が現れた瞬間に。
人より優れた頭脳を持って生まれた彼女は、彼らの指定した大学へ通い、彼らの監視の元に創り上げられた紛い物の『平和な生活』を送る一方で、ある研究チームに携わっていた。そこで日夜行われている、とある研究に。
初めは、それでも科学者のひとりだった彼女は、その研究に没頭した。けれど、ひとりまたひとりと研究員が消え、そして研究が進むにつれ、自分がどれ程恐ろしいことをしているのかに気が付いた。
悪魔の業。
それは、決して人の手にしていいものではなかった。
そして、二十年以上もの長きに渡ってともに研究を続けてきた同僚の死をきっかけに、彼女は組織を抜けることを決意した。
以来、ずっと機会を窺っていた。そしてようやく組織の監視の目が緩んだ一瞬の隙をついて、これまでの研究データを一切合切持ち出してやったのだ。
まだどこかにデータのコピーがあるかも知れない。そう時を置かずに、他の科学者が研究を進めるかも知れない。
けれど、ほんの少しでも時間が稼げたなら、組織の企みを引き延ばすことができる。
そうすれば。
親友の命を、そしてその娘の命さえも奪ったあの忌々しい毒薬の犠牲者を、少しでも減らすことができるのだ……!
『……エレーナ……』
ぽつりと、呟かれたのは失われた友人の名。
その、思わず洩れた呟きに。
『――ミス・モニカ』
声が返り、彼女は心臓が止まるほど驚いた。
『え……し、ほちゃん……?』
目の前に佇む少女を、彼女――モニカは信じられないものでも見るように凝視した。それもそのはずだ。なぜなら少女は、死んだと思っていた親友の娘にそっくりだったのだ。その、十年ほど前の姿に。
『あなた、まさか……!』
あの薬を、飲んだのっ?
驚愕するモニカにはなにも答えず、少女はそっと右手で自分の顎の下を掴んだ。
そして、次の瞬間。
ビリビリと破けたマスクの下から現れたのは茶髪の少女ではなく、漆黒の髪に蒼い瞳を持った小柄な少年だった。
声も出せずに困惑するモニカへ、少年は静かに頭を下げた。
『驚かせてすみませんでした。ですが、どうしても『確認』しておきたかったんです』
『確認……? 確認って、なにを……』
『貴方という、人を』
その、見た目と釣り合わない大人びた口調と眼差しに、モニカは理由もなく息を呑んだ。
『僕にとってもこれは賭けだったんです。でも、貴方が願った通りの方でよかった』
『そんなこと言われても……君は、いったい?』
おそらく東洋人だろうと思わせる顔。けれど、その蒼い瞳はどこか欧州を思い起こさせる。そしてその口から紡がれるのは流暢なクイーンズイングリッシュだ。幼い頃からイギリスで育ってきた彼女が聞き間違えるはずがない。
状況が掴めず戸惑うモニカに、少年はニッ、と笑った。悪戯を企む子供のそれとはとても思えない、狡猾な大人のような表情で。
『僕が誰かは、貴方が決めて下さい』
その目に、声に。釘付けになる。
『僕は貴方を助け導く者でもあり、貴方を危険に陥れる者でもある。
それでもいいと、貴方が望まれるなら。
――組織から貴方を護るナイトにだってなりますよ』
その言葉を無条件で信じたいと思わせるだけの力が、その子供にはあった。
『君は、彼らを知っているのか……?』
懐に持つ拳銃にこそ手を付けないものの、ジェイムズは警戒するように、ルイスとの距離を置いていた。ルイスもそれに気を悪くすることなく、受け取られなかったコーヒーに自ら口をつけた。
まさか薬の類でも仕込まれているのでは、と疑っていたジェイムズだが、どうやらそうではないらしい。とは言え、それだけのことで相手を信用するような浅慮は、FBIにはひとりもいないが。
ジェイムズの問いかけに、ルイスはまるで世間話でもしているかのような軽さで頷いた。
『知っていますよ。それも、あなた方よりずっと詳しく、ね』
『!』
FBIよりも詳しく、だと……!
ジェイムズの表情が厳しくしかめられた。
長年組織を追い続けてきたFBIには、彼らに関する資料がごまんとある。逆に言えば、そのごまんとある資料を以てしても、彼らの逮捕に踏み出せずにいるのだ。
しかし、仮にその何十年という間に積み上げられてきた資料を上回る情報を、この男が持っているとするなら。その情報は、いったいどこから手にしたものだと言うのか。
『……つまり、君は我々と取引に来たのかな?』
目の前で繰り広げられる『情報』を素早く整理し分析した結果、ジェイムズが出した答えに、ルイスは満足そうに笑った。
『いえ。正確には、貴方と取引に来たのです』
『私と?』
『私たちは自分たちの存在を多くの方に知られることを好みません。たとえそれが、敵を同じくする同志だとしても』
『私たち、だと? 君以外に誰が……いや、まさか……』
ルイスを見た時から気に掛かっていたことだ。もし彼が組織と何らかの関わりを持った男だとして、では、昼間彼とともにいたあの幼い少女は誰なのか。彼の娘と呼ばれていたあの少女は……
『――そう。僕もまた、奴らを潰すために日常を捨てた、愚かな戦士ですよ』
はっ、と振り返れば、いつからそこにいたのか、金髪碧眼の少女アイリーンが立っていた。
……あの時とはまるで違う、幼さも愛らしさの欠片もない、苛烈な双眸で。
『き、君は……女の子じゃないのか?』
その見目に反して、少女とは思えない、いやむしろ子供とすら思えない、力強い口調。
すると少女は、口角を持ち上げて不敵に微笑んだ。
その表情に、ジェイムズはふと既視感を覚えた。なにかを企んでいるような、そしてその企みが成功して喜んでいるような。子供には似つかわしくない、そんな不遜な表情を、確かにどこかで見たことがある。
『これは失礼しました。奴らの目を欺くためとは言え、貴方の前でいつまでもこの姿でいるわけにはいきませんね』
そうして少女が顎に手をかけ、偽りの仮面を剥いだ時、ジェイムズの目は驚愕に見開かれていた。
『君は――コナン君!』
「お久しぶりです、ミスター・ブラック」
それは、かつて日本で行われていた極秘プロジェクトの際に、FBIに多大な貢献をした少年――江戸川コナンだった。
その子供は、確かに組織と関わりを持っていた。組織が狙っているらしい少女の友人で、組織の女幹部であるベルモットには『クールガイ』と呼ばれ、なぜか彼女に守られていた存在。毛利小五郎という有名な探偵の家に居候し、自らも探偵と名乗る彼は、子供とは思えない推理力でベルモットの企みを暴いてみせ、目を瞠る行動力で彼女を追いつめ、見事少女を保護してみせた。
確かに不思議な子供だった。ただ者ではないとも思った。それでも、彼を『子供』という範疇から外して考えたことはなかった。
しかし……
クイーンズイングリッシュから日本語への鮮やかな切り替え。コナンに合わせて日本語に切り替えたジェイムズでも、これほど見事に他国語を操ることはできない。そしておそらく、これほど鮮烈な気配を持ちながら、周囲を欺き隠し続けることもできないだろう。今の今まで、彼がその事実を自分に気づかせなかったようには。
今になって初めて、これまで見てきた彼が紛い物であったことに気付いた。ジェイムズは初めて、彼を子供としてではなく『江戸川コナン』という人間として見ていた。
「なぜ君がアメリカに?」
「貴方と同じ理由ですよ。組織を抜け出そうとしている科学者ジュリア・オーウェン、コードネーム『モニカ』の保護と、彼女の持つ情報を手に入れるためです」
「……その情報は、どこで?」
するとコナンは、ふっ、と笑った。
「ジェイムズさん。ニュースソースを明かせないのはお互い様でしょう? 僕らはまだ、お互いに信用を勝ち得ていない」
こつこつと靴音を響かせながら、コナンはルイスの元へ歩み寄る。そんな仕草ひとつとってももう子供のものには見えなくて、ジェイムズは目の前の奇妙な生き物を見定めるようにじっと見つめた。
「僕らの望みはただひとつ。組織壊滅。そのために、あなた方の力をお借りしたい」
そう言った子供のあまりに真剣な瞳に呑まれ、危うく従いたくなる本能を理性で必死に押さえつけたジェイムズは、からからに乾いた喉に唾を嚥下した。
「なぜ君は彼らをそこまで……? そもそも、まだ幼い君がなぜ組織と関わることに……」
「……仕方ありませんね。まあ、なんの情報もなしに手を組めるはずもありませんし、いいでしょう」
ですが、とコナンは一度目を閉じて。
「僕らに関することは一切明かせません」
「しかしっ」
「いずれ時期がくればお話しできるでしょう。ですが今はまだその時ではありません。僕らが抱える秘密は、僕らや貴方どころか、世界を滅ぼしかねない危険なものなんです」
「せ、世界をっ?」
確かに組織は世界に蔓延る社会の膿だが、しかしそこまで言い切れるほどの秘密とはいったいなんなのか、ジェイムズには想像もつかなかった。
「僕らは、ひとつは『情報』という力を持っています。この点では、あなた方が持つ力をかなり上回ると言っていいでしょう」
「……その情報がどういうものか、それさえ明かせないと?」
「そうですね。では、ひとつだけ……」
――それは彼らが長年求め続けているもので、彼らの存在理由とも言うべきものである、ということだけ。
「な……っ」
それほどの情報を、いったいどこで……!
「そして今ひとつの力は――僕ら自身」
その目が、ギラリ、と煌めいた。
「ご存知の通り、僕は探偵です。捜し物は僕の得意分野なんですよ。そして彼は、人の目を欺くことにかけては天才的です」
それまで無言だったルイスが、如何にも楽しそうに口元を歪めながら優雅に腰を折る。どこか気障な仕草が、しかしこれ以上なく嵌っている。
「僕らは既にあなた方の捜し物を見つけて、隠しました」
ジェイムズは絶句した。
捜し物――それは組織を抜け出した科学者、ジュリア・オーウェンに違いなかった。
まさか、彼女が既に保護されていたなど。FBIはもちろん、今日まで探りに出ていた組織の連中でさえ気付いた素振りはなかったというのに。
「僕らと手を組むメリットは、ご理解頂けましたか?」
彼らに気付かれずに事を起こし、そしてそれを為し遂げる力。それはまさしく、ジェイムズが求めていた力だった。この社会の闇を知り、悪を知り、そして滅ぼそうとする確かな意志が。
しかし、だ。
「……君たちが有能なことは、よく分かった、が……」
肝心なことが抜けている。
彼らが組織の者ではないという絶対的確証と、信用に値する人物かどうかという確証。それがなければ、話にならなかった。
ジェイムズは、FBIが組織に潜入捜査官を潜り込ませているように、彼らの仲間がこちらに潜り込まないよう、常に警戒してきた。
まさか彼らがこれほどあからさまに怪しい子供を送り込むとは思えない。しかし、絶対に敵ではないと言い切れる確証もない。なにより、そのコナンに当然のように従っているこのルイスという男は何者なのか。
すると、ジェイムズの心中を読み取ったかのように、ルイスがコナンの前へ一歩進み出た。
「ひとつ、教えて差し上げましょう」
こちらの口からも流暢な日本語が紡がれる。コナンにしてもそうだが、もしもコナンが変装していたようにこの青年も変装しているのだとしたら、正体どころか国籍さえ割り出すのは困難なのではないかと、ジェイムズは本気で背筋の凍る思いがした。長年凶悪犯を追い続け、数多の犯罪者を暴いてきたこの自分が、だ。
緊張するジェイムズに、ルイスはとっておきの秘密を打ち明けるように、唇の前に人差し指を立てながら囁いた。
「私はphantom――この世に存在しないはずの幻影なのです」
「!」
この世に存在しないはずの、幻影。死んでいるはずの人間。
それはつまり――かつて彼らに命を狙われ、殺されかけた、と言うことか。
「そ、うか……ようやく、納得できたよ」
組織に狙われ、平穏な生活を奪われた。なんとか死を逃れたとは言え、生きていると知られればまた命を狙われるのは必至。
普通の人なら、よくてFBIなどの警察機関に保護されるか、組織の影に怯えながら一生逃亡生活を送ることだろう。
だが、彼らには組織に噛み付くだけの鋭利な牙があった。それならば、組織に私怨を抱くことにも頷ける。
「だが、コナン君。君には学校の友だちや毛利さんたちがいるだろう? その平穏な生活をなげうってまで、こんな危険なことに関わることはないんじゃないかね?」
「貴方が今言った人たちの平穏を守るためでもあるんです」
「しかし……なにも君のような子供が……」
コナンは、くす、と苦笑を漏らした。
「いいんですよ。僕も彼も、誰かに感謝されたくてやってるわけじゃない。ただ失いたくないから、全力で守る」
所詮は自己満足です。
そう言ったコナンの顔はひどく大人びていて、ジェイムズは胸がつきりと痛む思いがした。
まだこんなにも幼い子供なのに。たとえどれ程大人びていようと、頭脳が優れていようと、まだ十にも満たない子供だと言うのに。誰かを守ることの優しさと切なさを、彼は知っているのだ。なんて……哀しい子供だろう。
「……それはなんとも、逞しいな」
不安がないと言えば嘘になる。語気の弱さは、その不安の表れだ。
組織を潰したい、その思いに偽りはなくとも、たとえその力に不足はなくとも、本当にこんな子供を危険に巻き込んでいいのか。それに、彼らの言葉に全く嘘がないとも言い切れない。偽りこそなくとも、明かしていないことが多すぎる。もしかしたら彼らに利用されるだけかも知れない。
しかし、それ以上の期待と充足をジェイムズは感じていた。
今までにない新たな『戦う力』を手に入れた昂揚感。組織に対抗し得る、確かな戦力。そしてなにより、彼らという強い味方を得られたことが、自分でも可笑しいくらいに頼もしく思えた。それならば、利用されてみるのもまた一興。
いいだろう、とジェイムズは迷いの吹っ切れた眼差しでコナンを見た。
「君たち二人を信じよう。そして改めて、こちらから協力をお願いしたい」
「ありがとうございます」
差し出した手を、コナンは迷うことなく握り返した。
「phantom、ね……お前、ほんと口がうまいよな」
「別に嘘は言ってねーもん」
けけ、と笑う男を、コナンは呆れたような目で、それでも頼もしそうに見遣った。
あの場でああ言えば、十中八九相手が勘違いすると分かっての発言だろうということには、コナンも気付いていた。けれど、あえてなにも言わなかった。彼がキッドを『組織に殺された人物』と勘違いしていてくれれば、下手にキッドの正体を暴かれることもないだろう、と。
おかげで当初の予定通り、こちらの秘密はほぼ明かさずに『駒』を手に入れることができた。
「世界を滅ぼす秘密、か……」
キッドの呟きに、コナンはふと息を吐いた。
コナンの体を縮めた毒薬も、初代怪盗キッドの命を奪った宝石も。人の見果てぬ夢が創り出した、決して手にしてはならない幻想だ。それを手にした時、人はこの世に生きる生命であることを放棄することになるだろう。それを世界の終わりと呼ばずして、なんと呼ぶのか。
「絶対、ぶっ壊してやろうぜ?」
「……ああ」
そうだな、と言って笑ってくれる、自分の半身のような男。
彼がいるなら、たとえ世界中の誰が分かってくれなくてもいい。
それが、俺たちが自分で選んだ道なのだから。
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