隠恋慕
あなたの温もり
――しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
闇に溶け込むような全身黒尽くめの男たちが放った銃弾が、命綱とも言うべき翼の骨を打ち砕いた。
たった一撃、それだけで、風は呆気なく彼を見放し、翼を失った鳥は為す術もなく夜の闇へと飲み込まれていく。
インカム越しに異常を聞きつけた相棒が何事かを叫んでいるが、それを聞き取るほどの余裕はなかった。
ただ、唐突に体を襲うGによって次第に薄れていく意識の中で、我知らず零れた言葉に、彼の舌打ちが返されたのだけは分かった。
だから、もう一度言った。
――ごめん、と。
とくん、とくん、と。
己の心臓が脈打つ音に引き上げられるようにして、キッドは覚醒した。
まず目に映ったのは、見慣れない天井。でもここがどこかを、キッドは知っていた。共犯者のひとりである小さな科学者と、発明家のご老人が暮らす家の地下だ。もしもの時のためにと、最新医療機器を取り寄せて設置したのは、まだ記憶に新しい。まさかそれを初めに使うのが自分になるとは、思いもしなかったけれど。
「哀ちゃん……」
次いで目に映ったのは、ベッドの横に置かれた椅子に座りながら本を読んでいる哀の姿だった。
キッドの呼びかけによって彼が目覚めたことに気付いた哀は、本を閉じるとキッドの額にそっと触れた。
「……熱も大分下がったみたいね。もう心配ないわ」
「俺、どうなったんだ?」
「墜落して、脳震盪を起こしただけよ」
そう言って、ぱちん、と叩かれた腹に激痛が走る。
「左側腹部に風穴を空けられてね」
そうして見下ろす哀の目の冷たさに、キッドは自分がとんだ失態を曝したことを悟った。
「ごめん……心配かけたね。ありがとう」
「別に、私は夜中に叩き起こされてちょっと迷惑しただけよ。それより問題は工藤君ね。なにを言ったのか知らないけど、彼、かなり怒ってたわよ」
「あちゃ……やっぱり?」
まずった、とは思った。あの場面で「ごめん」なんて言われたら、自分だってキレる。特に、相手が彼であったなら。
「それで、名探偵は? 顔も合わせたくないほど怒ってるの?」
きょろ、と見渡した室内にコナンの影はない。よもや重傷の相棒を放っておくほど薄情だとは思わないので、考えられる可能性は、怒っているから顔を見せないのだろうとキッドは思ったのだが。
「彼なら上の寝室で寝てるわ」
予想外の答えに、キッドは目を瞬いた。
確かに今回の仕事は組織が関わってくる可能性が高いからと、下準備をかなり念入りに行った。最後の最後でハングライダーを撃ち抜かれるという失態を曝したキッドだが、そのおかげで殺されるという最悪の事態は免れたのだ。
それでもかなりの心配をかけただろう自覚はある。仕事が終わった今、どっと疲れが押し寄せてきたのかも知れない。
「俺、これしながらだったら起きてもいい?」
キッドは腕に打たれた点滴を見上げ、ぷらぷらと腕を動かした。
当然腹は痛むが、深い医療知識を持った哀がついているのだから、多少の無茶をしたところで死ぬことはない。
それより、早く彼に顔を見せて安心させてやりたかった。それから、ありがとう、と言いたかった。
けれど。
「起きるのは勝手だけど、工藤君ならまだ暫く目を覚まさないわよ」
「え?」
す、と指さされた腹部。
「言ったでしょう? 貴方は左側腹部を撃たれたの。当然、手術を行ったわ。でもそれには、輸血用の血液が必要だった」
だが、設備を整えたばかりのここには輸血用の保存血などあるはずもなく。
「工藤君は貴方に400ccもの血液を輸血したの。下手をすれば自分の命が危ういと言うのに」
おかげでキッドの手術は無事終了し、順調に回復したのだが、逆にコナンの方が、一時的ではあるが昏睡状態に陥ってしまった程だった。今も寝室に眠る彼の腕には、キッドと同じく点滴の管が繋がれている。
「貴方が今こうして生きていられるのは、工藤君のおかげよ。精々感謝することね」
言うだけ言って、哀はさっさと部屋から出ていってしまった。
残されたキッドは、哀が消えた扉を呆然と見つめていた。
名探偵が輸血してくれた? それも、命が危うくなるほどの量を?
とくん、とくん、と。
鼓動の脈打つ音が耳に木霊する。
これは、先ほど自分の意識を掬い上げてくれた命の音だ。そして、自分の命を救い上げてくれた彼の命の鼓動なのだ。
彼の血が、命が、この体の中を巡っている。
――なんて、温かい。
キッドは点滴を抜き放つと、腹の痛みも忘れて、コナンのもとへと駆けた。途中、怒った顔の哀を見た気がしたが、それどころではない。そしてベッドに横たわるコナンを見つけたキッドは、それまでの勢いを静めて、眠るコナンの頬へそっと優しく触れた。
温かい、生きている感触。
……なによりも、尊い温もり。
そのままその滑らかな肌をするりと撫でてやれば、瞼がぴくりと揺れ、蒼い双眸がゆっくりと開かれた。
他人の気配にひどく聡い探偵は、たとえ人事不省に陥っていても、キッドが乱した空気の揺れを敏感に感じ取ったのだろう。
「……キッド……」
どこかまだ焦点の定まらない瞳がこちらを向き、乾いた唇が吐息に乗せて己の名を呼ぶ。
キッドはたまらなく嬉しくなって微笑んだ。
――その顔に、拳が入った。
「て、んめぇ、どの面さげて……!」
勢い余って起き上がったコナンが、貧血を起こしてベッドに沈み込む。
同じく床に沈み込んでいたキッドは慌てて起き上がり、苦しそうに息を吐くコナンの背中を何度も摩った。
「無茶すんなよ、名探偵」
「うるせえ、そりゃこっちのセリフだってんだ!」
すっかり覚醒した双眸がきつくこちらを睨み付けている。
「勝手に撃たれて、勝手に死にかけて、挙げ句、『ごめん』なんて……!」
その時の悔しさを思い出しているのか、コナンはきつく唇を噛み締めていた。
小さな肩が怒りで震えている。握った拳がそれを必至に堪えている。
それは心配の裏返しからくる怒りだ。
そう思えば、たったそれだけのことで、心の中がこんなにも温かくなる。
「悪かったよ。もう二度とあんな失敗しない」
「当たり前だ!」
またこんなことが起こっても、今度はもう一滴の血もやらないからなと言い放つコナン。
だが、キッドは知っている。
いつか再びこのような事態に陥ることがあれば、きっと彼は迷うことなく、その命の源を差し出してくれるだろうことを。
「大丈夫。お前を残してなんて死ねねーよ」
疑わしそうに睨んでくる子供に苦笑が漏れる。
「ほんとだよ」
だって、自分が傷つけば彼も傷つくことになるのだ。これでは迂闊に怪我を負うこともできない。
そしてなにより、今この体の中を巡っているのが彼の血なのだと思えば、傷ついて血を流すなんて、そんな勿体ないこと、できないではないか。
「ありがとう、名探偵」
「……灰原にもちゃんと礼言っとけよ」
「もう言ったよ」
「なら、……もういい」
ようやく落ち着いたのか、コナンは溜息を吐くと静かに目を閉じた。
暫くして聞こえてきた寝息に、キッドは小さく微笑む。
その手を取り、指を絡め、持ち上げた指先にそっと口づけて。
「――ごめんな」
そう言えば、彼はまた怒るかも知れないけれど。
この身を流れる彼の命の温もりが、どうにも愛しくて嬉しくて。
怪我をするのも悪くない、なんて。
そう思ってしまった俺を、どうか許して。
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