隠恋慕
Peter Pan Crime 6
それから、快斗は近くでつかまえたタクシーに、工藤新一をつれて乗り込んだ。
佐藤からはタクシー代をしっかり渡されてしまった。
だが、ここで快斗がごねれば、話が振り出しに戻りかねないと判断し、大人しく受け取ることにした。
相変わらず顔色の悪い探偵は、タクシーに乗ってから一度も口を開いていない。
話したくないのか、話せないほどに具合が悪いのか。
判断に困った快斗も黙り込んでしまったため、車内には微妙な沈黙が漂っている。
「――……悪かったな」
車窓の景色を見るともなく眺めていた耳に囁きが届き、快斗は隣を振り返った。
工藤新一もまた、同じように窓の外を眺めていた顔を振り向かせ、快斗の目を見返してくる。
ひどく澄んだ目をしていた。
「付き合わせて悪かった。でも、助かった。おまえがいなかったら、佐藤さんは絶対家まで送るって言って譲らなかっただろうから」
そうだろうなと、先ほどの女性刑事を思いだして納得する。
あの場はああ言った快斗だが、工藤新一と言い合う刑事もまた、自分からは決して折れなさそうだと思ったからこそ、快斗が名乗り出たのだ。
でなければ、先に折れるのはおそらく工藤新一の方だったに違いない。
だが、礼を言われるのは筋違いだった。それは本来、快斗の役目なのだ。
「言っただろ? 助けてもらったのは、俺の方。なんかタイミング逃しちまって、いつ言おうか悩んでたんだけど……」
今がそのタイミングだろう。
快斗は常に仕込んであるタネのひとつを使って、造花をひとつ、軽快な手首のスナップとともに出現させながら。
「俺の命を助けてくれて、ありがとう」
そう言って、相手の眼前に差し出した。
男相手にくさすぎる、と思わないでもない。
それに、探偵相手には白々しいほどの初歩的なマジックだ。
しかし、だからといって無様を晒すほど未熟な技術とは思わない。
憎まれ口を叩かれるか、からかわれるか――予想していたのは、そんな反応だったのだけれど。
「――気障なやつ」
からかうような口調とは裏腹に、綻ぶように破顔され、快斗は思わず硬直してしまった。
差し出された造花を受け取って、しげしげと見つめながら「おまえ、これ、いっつも仕込んでんの?」などとひとりごちる。
瑞々しさのない、それなのに鮮やかすぎる造花などではなく、ちゃんと命の宿った生花をあげればよかったと、快斗はちょっと後悔した。
きっと彼には、その方が似合ったに違いない。
「……よかったよな」
ぽつんと、彼が呟いた。
「体、無事でよかった。後遺症はないって聞いてたけど、実際見れて安心した」
そう言って、手の中の造花を嬉しげに見つめる彼に、快斗はなんと言葉を返せばいいのか分からなかった。
後遺症がなく、以前と変わらない生活に戻れる。
それは誰にとっても喜ばしいことに違いなかったが、快斗にとっては殊更、とても重要なことだった。
アスリートが怪我で夢を断念するように、ほんの少しの狂いでも生じれば、快斗はマジシャンとしての夢を断たれてしまうところだった。
たった今見せた初歩的なマジックでさえ、できなくなっていたかも知れない。
だが、幸運にも快斗は助かった。
いや、幸運などと言っては失礼だろう。
あの場に彼がいて、彼が助けてくれたからこそ、今の快斗がいるのだ。
だから素直に、「あんたのおかげだ」と言ったのだけれど。
「俺は、大したことはしてねえよ。本当に凄いのはおまえの方だ。子供庇って、撥ね飛ばされて。それでも、ちゃんと生きてる。ちゃんと――大事な人たちのところに戻ってきた」
彼の言葉は、染みるように胸に響いた。
助けられた子供の親は、「ありがとう」と礼を言った。
幼い子供もまた、「ありがとう」と言ってくれた。
千影は、「危ないことをして」と怒った後に、それでも「偉かったわね」と褒めてくれた。
青子や学校の友人たちも一様に心配してくれたし、まるで英雄かなにかのように、凄い凄いと囃し立てた。
だけど――生きて戻ってきて偉かったなと褒めてくれたのは、彼だけだった。
子供を助けたことや、なにを褒められるよりも、その言葉が胸に染みるのはなぜだろう。
(そう言えば……母さんを支えてくれたのも、こいつの言葉だったんだっけ……?)
――大丈夫。心配ない。快斗が快斗らしくあれば、全てうまくいく。
息子が記憶障害かも知れないと聞いて、取り乱しかけた千影を支えてくれたのが、彼のその言葉だった。
そしてそれは千影だけでなく、快斗を支えた言葉でもあった。
ふとした時に思い出し、それを指針としてきた。
「工藤の言葉は、不思議だな。すごく……ほっとする」
思ったままを口にすれば、工藤は不思議そうに瞬いた。
けれどすぐににやりと笑うと、悪戯にこう言った。
「口下手じゃ、探偵はやってけねーからな」
工藤の家は、大きいが、古びた洋館だった。
街並みからはぽつりと浮いたような家だが、そこに住むのが彼であることを思えば、しっくり感じるのだから不思議だ。
一人で大丈夫だと言っていたように、工藤は顔色こそ悪くとも、家に着くまでしっかり意識を保っていた。
そして目的地に着いたとき、佐藤から預かった金で支払いをしていた快斗に、「よかったら上がっていけよ」と声をかけた。
快斗は躊躇ったものの、結局その誘いに乗ることにした。
具合のよくない彼に負担をかけるだけだと分かっていたけれど、なんとなく離れがたかった。
ポケットから取り出した鍵で扉を開けようとしている工藤の背中を眺めながら、全然違うなと、快斗は思った。
工藤は、白馬とはまた全然別のタイプの人間だった。
少なくとも白馬なら、刑事に送迎されることを拒まないだろうし、快斗相手にあんな柔らかい言葉をかけることもないだろう――白馬にそうされたいなどとはこれっぽっちも思わないが。
勝手な想像で一方的に忌避していた過去の自分を叱ってやりたい。
工藤に招かれて上がったリビングは、なんというか、閑としていた。
テーブルの上に散らばった何種類もの新聞や雑誌は、流石は探偵といったところか。
しかし、雑然としたその様子からさえも、なぜか生活臭がまったく感じられなかった。
おそらく家を空けることが多いのだろう。
しんと冷えた室内がひどく寒々しい。
「コーヒーでいいか?」
ソファに帽子とコートとブレザーを放り出した工藤が、ネクタイを緩めながらキッチンへ消えていこうとするのを、快斗は慌てて止めた。
「ちょっ、待って! 頼むから、それぐらい俺にさせて。具合が悪そうだからって送ってきたのに、そいつにもてなしてもらうとか、ほんと無いから」
そうか? と聞き返してくる工藤に何度も頷き、無理矢理納得させる。
カップと豆の保管場所だけ教えてもらい、快斗は工藤をソファに座らせた。
生活感のない中で、そこだけはよく使われているらしいコーヒーのマグカップと豆を見つけ、二人分のコーヒーを用意する。
本当は、快斗はあまりコーヒーを飲まない。苦いものは苦手だ。ミルクをたっぷり入れれば飲めないこともないが、千影が紅茶派なので、家には紅茶しかない。
けれど、なぜか慣れないはずのコーヒーをすんなり入れることができ、不思議に思った。覚えていないだけで、飲めるようになったのかも知れない。
それでもブラックで飲むのは気が引けるので、ミルクはないかと周りを探すが、それらしいものは見当たらなかった。
「工藤、どっかにミルクとか――」
ないか、と言いかけて、快斗は口を噤んだ。
ソファの背凭れに頭を預けるようにして、工藤が眠っていた。
ただ目を瞑っているだけかとも思ったが、その呼吸はとても深く静かだ。
まだ五分も経っていない。そんな短時間で、こんなにも深い眠りに落ちてしまうなんて。
しかも互いに相手の名前を知っているとは言え、快斗はまだ自己紹介もしていない。そんな赤の他人も同然の人間の前で、無防備に眠り込んでしまうなんて。
(そんなに疲れてたのかな……)
それは愚問だった。
工藤新一は探偵だ。それも、恐ろしく優秀な。
その優秀さのあまり、一年も行方が分からなくなるほどの大事件に巻き込まれたり、あまり目立たないよう警察に隠されてしまうほどの。
そして、目の前で起きた轢き逃げ事件の犯人を、たった一日で見つけ出してしまうほどの。
それほどに優秀で多忙な探偵なのだ。
疲れないはずがなかった。
「なんか……心配だよ。会ったばっかで、変な話だけどさ。そんなにみんなに頼られて、あんたはいったい、誰に頼るっていうの」
くしゃりと、前髪を撫でる。
露わになった目元には、決して薄くない隈ができている。
せっかく綺麗な顔をしているのに。
けれどそんなこと、彼は気にも留めないのだろう。
それがひどく寂しいと思った。
「どうすっかな……」
眠ってしまった家主と、ただの客の自分と。
彼は家に上がる時に鍵を開けて入っていたし、今この家にいるのは確実に自分たちだけだろう。
そうなると、このまま放って帰るわけにもいかない。
なんたって、自分が出たあと、閉める鍵がない。
彼を起こせば済む話なのだが、それこそが一番回避したい選択肢だった。
快斗は時計を探し、現在時刻を確認する。
まだ六時を過ぎたところだ。もう少しくらいなら、寝かせておいてあげても大丈夫だろう。
快斗の家は、電車でたった一駅の隣町だ。コーヒーは冷めてしまうだろうが、彼の休息には代えられない。
快斗はソファの前に腰を下ろし、眠る工藤の寝顔を眺めた。
目を開けているときには精悍にさえ見える顔立ちが、今はひどく幼くあどけなく見える。
ふと、眼鏡をかけたままでは寝辛いだろうと思い、眼鏡に手を伸ばした。
彼には少し大きすぎる黒縁眼鏡は、てっきり変装用だと思ったのだけれど、かけたまま寝てしまうということは、使い慣れたものなのかも知れない。
だが、眼鏡のフレームに手をかけたとき――快斗の脳裏に、なにかの映像が過ぎった。
しかしそれはあまりに一瞬のことで、気づいたときには霧散していた。
(……なんだ?)
今、なにかを思い出しかけた。記憶の引き出しが整然と並んでいる快斗の脳内で、それはどこの引き出しにも仕舞われていない写真だった。
快斗は必死にその画を手繰ろうとしたが、散り散りに破かれた紙片は、最早なんの像も成さなかった。
けれどそれは、快斗が初めて感じた『失くした記憶』だった。
(……あった……)
『ない』と思っていたものが、あった。
それだけでも衝撃的だったが、それが今この時に見つかったことにも驚きを隠せなかった。
眠る探偵の顔は、快斗の記憶の中にはない。
少なくとも、快斗が記憶している時点での知り合いではないのだ。
工藤の態度からしても、以前からの知り合いとは思えない。
だが、あの日の事件現場では自分たちは確実に接触している。
だから、工藤と会うことで脳のどこかが刺激されたのかも知れない。
(だとしたら、工藤といることで失くした記憶を取り戻せる……?)
保証はない。が、最初にして、今のところ唯一の手掛かりであることも事実。
――それに、だ。
離れがたかった。
このままただ礼を言って別れ、また偶然の邂逅が訪れるのをただ待つのが嫌だったから、快斗はここまでついてきたのだ。
理由なんて知らない。
ただ、彼と目が合ったあの時から、目を逸らせなくなっていた。
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