隠恋慕
Peter Pan Crime 7
「――工藤」
泥に飲まれたような暗闇に沈み込んでいた意識が、掬われるように引き寄せられる。
繰り返される同じ音。
名を呼ばれていることは分かったけれど、まだ意識は深い水の底にあった。
目を覚ますには水面まで浮かばなければならない。
けれど自力で浮かび上がるには、力が足りない。
「工藤。……工藤ってば」
音に加え、体を揺すぶられ、新一の意識はいよいよ浮き上がった。
揺らめく水面の向こうに人影が見える。
困ったように眉の下がったその顔には見覚えがあった。
ビルの屋上で。豪華客船の中で。飛行機のコクピットで。飛行船で。
そして遂には、昼日中の街中でさえも、何度となくその顔を見てきた。
――快斗。
新一はようやく覚醒した。
ひどい昏睡から目覚めたときのように意識は酩酊していたが、すぐに状況を思い出した。
「嘘だろ……俺、寝てた?」
眠気を振り払うように軽く頭を振り、改めて状況を確認する。
眠る前となにも変わらない景色。ただ時計の針だけが七時を回ろうとしている。
迷子のような顔でこちらを見つめている男を見遣り、新一は自分がとんでもない失態を晒したことを理解した。
「起こしてくれて構わなかったのに」
「……。だって工藤、すごく疲れてたみたいだし」
迷った末にそんな答えを返され、新一は溜息を吐いた。
確かに、新一はひどく疲れていた。
ここ連日は今夜の犯行の下準備に追われ、しかもそんな日に限って事件が起きる。
それでも彼を家に上げたのは、彼の記憶がどんな具合か、この目で確かめたかったからだった。
それに、まさか他人がいる空間で自分が居眠るなどとは思ってもみなかったのだ。
「悪かったな。家の方は大丈夫なのか?」
「平気だよ。連絡は入れたし」
そう言って携帯電話を取り出して見せる彼に、新一はとりあえず安堵した。
「工藤の方こそ、家の人は……?」
彼がどこか遠慮がちに尋ねてくる。
この家の静けさに気づいているのだろう。
自らが母子家庭である彼は、不用意に他人の家庭の事情に首を突っ込むのを恐れているのかも知れない。
それでも聞かずにいられないのは、彼の優しさだ。
「うちの親、今アメリカにいるんだ。だから俺ひとりだけど、隣に住んでるじいさんが身内みたいなもんでさ。いろいろ世話になってる」
「そっか……」
両親が健在であることにひとまず安堵したらしく、彼が笑みを見せる。
どこまでもお人好しな男だ。
しかし、この様子から見るに、彼の記憶はまったく戻っていないと見て間違いないだろう。
新一に関する情報なら、下手をすれば新一以上に知っている男だ。
記憶が戻っていないことを喜ぶべきかどうなのか、新一には判断がつかない。
ただ、まだしばらくは現状を維持する必要がある、ということだけは確かだ。
その時、新一の携帯電話が鳴った。
バイブ設定にしてあるが、静かな室内では振動音でさえもやけに大きく響く。
「そうだ、あれ、さっきからずっと鳴ってるんだ。緊急の用事かも知れないと思って、工藤を起こしたんだけど」
あれ、と言って彼が見遣った先は、ソファに投げ出されたブレザーだ。
その内ポケットに仕舞われているのは――『仕事』専用の携帯電話。
相手は共犯者である老人に違いない。
ならば、彼の前で出るわけにはいかない。
「……そういえば、相談があるから電話かけるって言われてたんだった」
案に、他人には聞かせられない話なのだと匂わせれば、聡い彼は腰を浮かせた。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るな」
「ああ、今日はありがとな。なんの礼もできなかったけど」
「そんなの、礼が言いたかったのは俺の方だから、全然気にしなくていいけど……」
鞄を持って立ち上がった彼は、なにかを逡巡するように視線を彷徨わせて。
「……あのさ」
「ん?」
「工藤がすげー忙しいのは分かってるから、邪魔はしないって約束するからさ」
「うん?」
話が見えずに首を傾げれば、彼が思いきったように顔を上げた。
「たまにでいいから、会いに来てもいいか?」
そんなことを、そんな真顔で言われるなんて思ってもみなかった新一は――しばし呆けた。
そしてすぐに、噴き出した。
「ははっ、おまえ、俺をなんだと思ってんだよ?」
「なにって……探偵だろ?」
「それも、日本警察の救世主と言われるほどの、か?」
困ったように口を噤む彼が可笑しくて堪らない。
いや――本当は少し、腹立たしいのかも知れない。
「俺はさ、ちょっと頭が回って、警察にもコネがあったりするから、探偵なんてやってるけどさ。世間で言うような、救世主様なんかじゃないんだぜ? 俺がいなくたって、警察には有能で優秀な人がたくさんいる。その人たちを差し置いて、警察が俺に頼りきってるなんて戯れ言、真に受けんなよ」
そもそも、難事件が起きれば名探偵工藤新一が呼び出される、などという話自体が出任せだ。
警察が民間に意見を求めることはあるだろう。
だが、捜査の指揮そのものを預けるなど有り得ない。
それでも新一が多くの事件に関わるのは、新一が事件の『関係者』だからだ。
その多くは、事件の『第一発見者』や『目撃者』として。
「そりゃ、好きでやってることだから、邪魔されたら怒るかもしんねーけどさ。……会いに来てもいいか、なんておまえに言わせる俺は、何様なんだ?」
少し、ではなかった。新一は、かなり腹が立っていた。
昔の馬鹿な自分なら、その言葉に優越を感じたのかも知れない。
まるでスターかなにかのように特別視され、優遇され。
だが、そんなものが何になるのか。
殺されかけ、無力な子供に変えられたとき、それまでに培った名声はなんの助けにもならなかった。
あの時に、馬鹿な自分は死んだのだ。
それを、他でもない彼に、そんな馬鹿な男だと思われるなんて我慢ならなかった。
「その、……ごめん」
怒らせるつもりはなかったのだと、彼はまるで耳の垂れた犬のように項垂れる。
けれどすぐに、力強く顔を上げた。
「でも、誤解するなよ。工藤がそんなやつだなんて思ってない。ただ俺が、工藤の負担になりたくなかったんだ。だっておまえ、そんなに死にそうな顔してるくせに、誰にも頼ろうとしないんだもん」
そして終いには彼の方こそが怒ったように、ギッと新一を睨みつけながらこう言った。
「だけどおまえがそう言うなら、俺ももう変な遠慮はしねえよ。勝手に、好きなだけ世話焼かせてもらうからな!」
そう言い捨てて、ダカダカと足音も荒く家を出て行ってしまう。
新一は呆然とその背中を見送った。
ソファから一歩も動かないうちに、玄関の閉まるバタンという音だけが聞こえてくる。
――怒っていたはずなのに、なぜか怒られてしまった。
それだけでも意味不明だが、見当外れな彼の台詞には、もう呆れる外ない。
「バーロー……頼りないやつの前で、この俺が寝転けるわけねえだろうが」
うっかり口にしてから、その事実に居たたまれなくなり、新一は赤い顔を手で覆った。
たとえ記憶がなくとも、黒羽快斗という存在に自身が絶大な信頼を寄せていることを、図らずも自覚させられてしまった新一だった。
一方、語気荒く怒鳴って家を飛びだしてきた快斗もまた、門の外で頭を抱えていた。
おかしい。
喧嘩を売るつもりじゃなかったのに、最後のあれはどう聞いても喧嘩を売っているとしか思えない。
記憶を取り戻すためにも、もっと穏便に友好関係を築く予定だったのに。
(だってなあ……)
有り得ない誤解をされて、思わずカッとなってしまったのだ。
事件現場に集る野次馬や自称ファンたちは、確かに工藤が言うような目で彼のことを見ているのだろう。
『迷宮なしの名探偵』。
『日本警察の救世主』。
白馬に附随する『倫敦帰りの名探偵』などという肩書きとは比べようもないほどに仰々しい肩書きだ。
工藤はああ言ったが、火のないところに煙は立たないというし、彼が有能な探偵であることは間違いない。
世間が彼を特別視してしまうのも仕方ないだろう。
けれど、彼がその評価の上に胡座を掻いているなどとは微塵も思わなかった。
わざわざ変装して事件現場を離れたり、家まで送っていくという刑事の申し出を断ったり。
それを謙虚だと言う気はないが――謙虚な人間は、向けられた厚意を邪険になどしないだろう――傲岸でないと言い切るには十分だ。
それに、彼の言葉はとても温かい。
あんな風に人の心を震わせられる人が、悪い人であるはずがない。
その人に、喧嘩を売ってしまった。
(俺の馬鹿……)
深い溜息を吐き、重い腰を上げる。
家を振り返り、灯りの点いたリビングを眩しそうに見遣った。
工藤は怒ったかも知れない。
それでも、また来よう。
もしかしたら追い返されるかも知れないけれど、彼なら怒りながらも迎え入れてくれる気がする。
それに――……
快斗、と。
呼ばれた気がしたのだ。
寝ぼけた彼が、自分を見ながらそう呼んだ気がした。
当然、彼は快斗の名前を知っていただろう。
けれど、寝ぼけながら呼んだのが名字でなく名前だったことに、快斗はひどく動揺した。
「……あんたは、何者なんだ……?」
彼のことを、快斗はまだなにも知らなかった。
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