隠恋慕
Peter Pan Crime 8
月が天高く昇っている。
遮るものもなく、夜の太陽のごとく唯一にして絶対の光を地上へと降り注いでいる。
今夜もとてもいい天気だ。
新一は白い衣装に身をつつみ、風はらむマントをビル風に遊ばせながら、地上の喧騒を見下ろしていた。
遠く、パトカーの赤色灯が連なる赤い光の列が見える。
新一を、もとい、新一扮する怪盗キッドを捕まえるために奔走しているのだろう。
普段は専ら彼らと一緒になって犯人を追いかける側の新一も、不思議とこの衣装を着ている今は、彼らに対する後ろめたさも罪の意識もない。
まるで工藤新一とは全く別の人格が、この衣装を着ることで意識を表すかのように。
ふと、本物の怪盗キッドもそうだったのだろうかと思いつく。
新一の知る怪盗と、高校生の黒羽快斗は似ても似つかない。
特に記憶を無くしてからの彼を見ていると頓にそう思う。
(ああ、でも、お人好しなところだけは変わらないか――…)
口元を綻ばせ、新一は笑った。
気障な口調や慇懃無礼な態度はポーズでも、あれだけは本人の性分に違いない。
だが今は、怪盗キッドはこの自分なのだ。
新一は盗み出した宝石を月へと翳した。
綺麗に研磨されカットされた宝石は、その光を見事に拡散する。
その光景は見る者を唸らせる美しさだ。
時価数億を超えるだけの価値が、確かにあるのだろう。
けれど怪盗に身を扮した今の新一にとって、それはただの綺麗な石だった。
怪盗キッドが求めるこの世でただひとつの宝石――パンドラでなければ、それは道端に転がっている石ころほどの価値しかない。
その石ころを無造作に指先で弄びながら、新一は待っていた。
顔に似合わず息せき切って、この屋上へと通じる階段を駆け上ってくる相手を。
こうして怪盗になるまで知らなかったのだが、猪突猛進で頭に血の上りやすい大阪の探偵を揶揄していた割りには、怪盗の現場に於いてのみ、彼もまた服部に負けず劣らずの熱血ぶりを見せることを新一は知った。
隠す気もないのだろう、革靴がコンクリートをうち鳴らす音を響かせながら、その相手はとうとう屋上の扉を勢いよく開け放った。
「――キッド!」
息を整える間もなくこちらの名を叫んだ白馬探に、新一は精々怪盗らしく、優雅に振り返った。
「こんばんは、白馬探偵。あまりに遅いので、今夜はもういらっしゃらないのかと思いましたよ」
「どこまででも追いかけるとも。君の正体を暴くまではね」
額の汗を拭いながら、白馬が不敵に微笑む。
それはキッドの正体を暴くという意味か、それとも偽物の尻尾を掴んでやるという意味なのか。
おそらくは後者だろう。
新一は白馬を決して甘く見ない。
黒羽快斗こそが怪盗キッドだと確信していることとは別に、仕草や口調の微妙な違いを、白馬ならきっと嗅ぎ分けてしまう。
だが、偽物だと疑われていることは百も承知だ。
しかし絶対に、確証だけは掴ませない。
「残念ながら、舞台裏をお見せすることはできません。どうしても見たいなら、私を捕まえるしかありませんね」
新一は笑みの形に歪ませた口元に人差し指を宛て、軽やかに笑ってみせた。
そしてウインクのサービス付きで戯けるように小首を傾げる。
からかわれ、白馬の眉が跳ね上がった。
「言われなくとも!」
言うと同時に距離を詰めようとする白馬に、新一は盗んだ宝石を放り投げた。
そのまま地に落ちたとしても割れはしないだろうが、時価数億の価値に傷くらいはつくだろう。
白馬も探偵である以上、それを見過ごすことはできないはずだ。
案の定、白馬が慌てて宝石をキャッチしようとする隙にハンググライダーを組み立て、新一は下界へと身を乗り出しながら言い放った。
「ここまで辿り着いた白馬探偵に免じて、その宝石はお返ししますよ!」
そうして夜の摩天楼に身を躍らせる。
風を捕らえづらい都会のビル群の合間、それも視界の利かない夜の飛行など、本当に正気の沙汰ではない。
それでも不思議と、今はなんの恐怖も感じなかった。
この瞬間、新一は探偵ではなく、間違いなく怪盗だった。
数分間の遊泳の後、新一は予め寺井と決めていた合流地点へと降り立った。
そこには既に寺井が待機しており、新一は素早くハンググライダーを畳むと、寺井が用意していた車に飛び乗った。
「お疲れさまです、工藤様」
手早く怪盗の衣装を脱ぎ捨てる新一に、寺井はバックミラー越しに視線を合わせると、軽く目礼した。
「寺井さんも、警察の誘導役、ありがとうございました」
新一が白馬と差しで対峙できたのは、寺井の絶妙な誘導のお陰だった。
警察はそれにまんまと騙され、見当違いの方向に進んでしまった。
衣装を脱いだ今、探偵に戻った工藤新一としては、そんな捜査二課が少し心配になる。
だが裏を返せば、それほどに新一と寺井が創り上げた〝怪盗キッド〟はうまくやっていた。
熟練した技術が必要とされるクロースアップマジックならまだしも、人の錯覚を利用する大掛かりなイリュージョンマジックなら、タネさえ分かれば技術のない新一でもできる。
そしてキッドのステージには大掛かりなマジックが多い。
そうなれば、必然的に寺井は裏方に回ることが多くなり、本物の怪盗キッドと体格から年齢から、果ては頭脳に身体能力まで近い新一が演じることで、警察に疑われることもなかった。
唯一の障害は白馬探だ。
あの男だけは欺ききることができない。
しかしだからこそ下手に接触を避けるのではなく、あえて新一は今までと変わらないスタンスを貫き通すつもりだった。
とは言え、白馬との対峙はどうしても過剰に神経を使うもので。
「……ふぅ」
音にもならない幽かな溜息を、しかし聡い付き人にはしっかりと拾われてしまった。
「大丈夫ですか? かなりお疲れのようですが……」
心配されてしまい、新一は心持ち居住まいを正した。
「平気ですよ。疲れてないとは言いませんが、気にしてもらうほどじゃありません」
「ですが、昨日も警視庁に呼び出されていたのでしょう?」
「ちょっと事件の調書を確認しに行っただけです」
まったくどこから情報を仕入れるのかと、やはりこのご時世に怪盗の助手をしていただけあって一筋縄ではいかない相手に、新一は内心で舌を巻く。
動向を疑われているとかそういうことではなく、単純にこちらの体調を心配してのことだとは分かっているが、しかし心配されたところで、新一は今の生活をなにひとつ改めるつもりはなかった。
尚も言葉を重ねようとする優しい老人の口を、新一は力強い笑みで封じた。
「寺井さん。僕が足手纏いだと、仕事に支障を来すほどに使い物にならないと思ったら、その時は遠慮無く言ってください。ヘマをして貴方や黒羽に迷惑をかける気は毛頭ありません。でも、そうじゃないなら、あまり心配しないでください。なにを言われても、途中で投げ出すことはできませんから」
多少の無茶がなんだと言うのだ。
それで得られるものの尊さを思えば、自分でも驚くほどの気力が湧いてくる。
新一は確かに疲れていたけれど、今までになく気力に満ちてもいた。
おそらくそれは一時のものだろう。
マラソンランナーが長時間走り続けることで感じるランナーズハイのように、体を酷使することで脳内麻薬と称されるエンドルフィンが過剰分泌されているに過ぎない。
いずれ酷使された肉体が悲鳴を上げるだろうことも分かっている。
それでも、と新一は微笑んだ。
胸ポケットに仕舞われた携帯電話の振動が伝えるのは、彼からのメッセージ受信の知らせだ。
たったそれだけのことに笑みがこぼれる自分がいた。
「……坊ちゃまからですか?」
こちらも心配顔から一転、綻ばせた目元をバックミラーに映した寺井が穏やかに問うのへ、新一も微笑いながら、ええ、と返した。
あの日、体調が優れなかった新一を彼が自宅まで送り届けてくれたその日。
ポストに入れられていたのは、彼の名前と携帯の電話番号、そしてメールアドレスが書かれた紙の切れ端だった。
おそらく学生手帳のメモ欄を破ったのだろう。
切り口も不恰好なその紙の隅っこに小さく書かれた「ごめん」の文字を見た瞬間、彼に感じた怒りなどどこかへ吹き飛んでしまっていた。
代わりに込み上げてきたのは可笑しさで、ポストの前で肩を震わせて笑う姿を隣人の科学者にうっかり見られてしまった新一は、怪訝な顔をされてしまったものだ。
だって、嬉しかったのだ。
記憶がなくともまるで変わらない彼が。
笑ったその直後、思わず涙が滲みそうになるほどに。
そして思った。
この男をもう二度と犯罪者になどしてはならない、と。
その夜、新一は一通のメールを送った。
名前と電話番号しか書かれていない、ひどく無愛想なものだった。
それなのに五秒と待たずに返ってきたメールを見て、また、笑った。
――よろしくな!
そのたった一言で人を幸せにしてしまう彼は、やはり魔法使いなのだろう。
「坊ちゃまはお元気でいらっしゃいますか?」
「ええ。相変わらず思い出す素振りは見せませんが、もう体の方はすっかりいいみたいですよ」
それは良かった、と言って笑う寺井は、実は未だに記憶を失った彼と顔を合わせたことがない。
詳しくは知らないが、八年ぶりに復活した怪盗キッドを演じていた寺井の正体を彼が暴くまで、彼とはずっと音信不通だったらしい。
つまり新一同様、寺井も彼には忘れられているのだ。
もちろん、名乗り出ることはできる。
寺井はもともと彼の父親である黒羽盗一の付き人だったそうだし、赤の他人である新一などよりずっと自然に交流を再開することができるだろう。
けれど寺井は影で見守ることを選んだ。
それは新一にしても同様で、あの日の邂逅がなければ彼の前に名乗り出ることはなかっただろう。
だから新一は何も言わず、寺井のしたいようにさせている。
ただ、偶然のように知り合った彼の現状を、こうして寺井に報告していた。
「――それよりも、少し気になることがあるんですが」
緩みかけていた気持ちを引き締め、新一は鋭い眼光を寺井へと投げた。
寺井の表情もまた引き締まる。
「気になること、とは?」
「近頃、奴らの動きが妙に静かだと思いませんか?」
奴らというのはもちろん、キッドと対立しパンドラを狙っている犯罪組織のことだ。
まだ彼が記憶を失う前は、ポーカーフェイスに長けた怪盗は少しもそんな素振りを見せなかったのでまるで気づかなかったが、寺井とともに怪盗キッドを演じるようになった新一が改めて調べたところ、かなり大きな組織であることが分かった。
それこそ、かつて新一が潰した黒の組織と匹敵するほどの。
その彼らが、近頃鳴りを潜めている。
まるで嵐の前の静けさのようで落ち着かない。
「近々、なにかでかいことを仕掛けてきそうな気がするんですが……」
「……そうですね。用心しておいた方がいいかも知れません」
神妙な顔つきで同意を示す寺井に、新一は頷きを返した。
残念なことに、新一のこの手の予感はよく当たるのだ。
いったいなにを企んでいるのか知らないが、しかし、今彼らが相手にしているのは、鮮やかに獲物を盗み出し姿を眩ますだけの怪盗ではない。
獲物を炙り出し、追いつめ、狩る。
探偵でもあるのだ。
(――必ず、俺のこの手で根絶やしにしてやる)
かつて彼から大切な宝を奪い。
そして幼気な夢までをも奪った奴らを。
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