隠恋慕
Speak low, if you speak love.
Peter Pan Crime 12
――その三日後。
そのうち、気が向いたら、などと言いながら、快斗はキッドの現場へと来ていた。ただし自分と分からないよう変装して、キッドを見に来ただろう大勢のギャラリーから距離を取って、だが。
思い立ったが吉日、ではないが、白馬に言われたことが自分でも気になってしまったのだ。なぜ記憶を失う前の自分は泥棒なんかに興味を持ったのか。なぜ、怪盗キッドのファンだなどと言っていたのか。
そして気になることはもうひとつ。
快斗の部屋に、キッドに関するものがなにも置いていないこと、だ。
普通、誰かしらのファンであったなら、その人に関するものを持っていてもおかしくない。雑誌の記事であったり、その人が出しているグッズであったり。事実、快斗の部屋はマジック関連の雑誌やらグッズやらで溢れかえっている。それなのに、キッドに関するものは新聞の記事ひとつ置いていないのだ。それを不思議だと――不自然だと――自分でも感じていた。
だから快斗は確かめに来たのだ。白馬の言うように、実際に見てみればなにかが変わるかも知れない。それが思いも寄らない結果を知らしめることになったとしても、そこから目を逸らすわけにはいかないのだ。
もしかしたらそこに、快斗の失われた記憶があるかも知れないのだから。
そう。快斗がここに来た最大の理由はそれだ。記憶がなくても生きていくことはできる。けれど、永遠に埋まることのない喪失感を抱えて生きていくのは、きっと楽なことではない。工藤のお陰で今の自分を認めることはできたけれど、思い出すことを諦める必要はない。
だから快斗はここに来た。怪盗キッドという存在が、自分にとって何者なのかを確かめるために。そして一度やると決めたならば、徹底的にやり遂げるのが黒羽快斗である。
この三日というもの、快斗は可能な限りのキッドの情報を集めた。ネット、新聞、テレビ、雑誌。あらゆるメディアを漁り、これまでのキッドの活動内容、犯罪傾向を自分なりに分析してみた。もともと規格外の頭脳を持っているのだ。あまり大きな声では言えないが、ハッキングやクラッキングの手腕はそれなりのものだと自負している。まあそれが犯罪だという認識もちゃんと持っているので、滅多なことでは使わないし、これまで他人に迷惑をかけたこともない。迷惑をかけなければいいという問題でもないが、若気の至りというやつである。
そうして情報を集めるうちに気づいたことがあるのだが――キッドの思考回路は、驚くほど自分と似ていた。自分ならきっとそうするだろう、という方法で犯行がなされていた。もちろんキッドの行動の全てが分かっているわけではないが、その見えないところでさえ、自分ならこうやって警察の警備をかいくぐり、侵入し、追跡を逃れるだろう、というアイディアが浮かんできてしまうのだ。
それは快斗がキッドと同じマジシャンだから思考が似ているのか。それとも、よもや、まさか、白馬の言葉が正しいからなのか。そこまでは分からない。
けれど、こうして快斗が現場へと足を運ぶには充分な理由となっていた。それもただの野次馬としてではなく、こうして目立たないよう変装し、キッドが今夜の逃走経路に使うだろう場所へと人知れず向かうために、こっそりと。
快斗は、キッドの名前を叫びながらまるでお祭騒ぎのように盛り上がっている群集を複雑な眼差しで見遣り、小さく溜息を吐いてからその場をそっと後にした。
耳に嵌めたインカムから聞こえてくる警察無線の声を聞きながら、快斗はゆっくりと階段を上っていた。
もちろん、これは盗聴と言われるもので、違法行為である。ついでに言えば、今上っている階段も私有地であり、勝手に入ることは許されないが、許可など当然もらっているはずもない。ポケットの中に突っ込んだ小道具を使って無断でお邪魔させてもらったのだ。警報装置があると流石に面倒だが、幸いここはビルの外壁に併設された非常階段である。警備システムをクラッキングして装置を切る必要はなかった。
こうした一連の犯罪行為を流れるようにできてしまう、そのこと自体に対する疑問は、実はない。人より抜きん出た知能を有するということは、まあいろいろあるのだ。すべては若気の至りなのである。
それでも、快斗の中には明確なラインがあった。ネットワークやシステムに侵入するだけと、それを破壊したり改竄したりすることは明確に違う。ピッキングの技術を持っていることと、それを利用して盗みを働くことは、立っているステージが違うのだ。少なくとも快斗は、そのラインを超えてそのステージに立ったことはない。ただの一度も。だがキッドが行っていることは、そのステージに立つことである。
今夜、キッドが盗むと犯行予告を出した標的。それを盗み出すなら快斗ならこうするだろうと、自分なりに架空の計画を立てた。そして警察無線から得た警備状況、標的が保管されている建物の設計図、立地条件、今夜の気象状態、果ては野次馬のおおよその人数に至るまでを鑑みた結果、このルートが最も――奇想天外なのだ。
キッドは怪盗である。誰も考えつかないような、まさしく魔法のような手段を好む。神出鬼没にして、大胆不敵。
その手腕、その演出。マジックを犯罪の手段に使うという点は気に入らないが、怪盗キッドという犯罪者は確かに格好よかった。これだけ大勢のファンがいるのも納得してしまうほどに。
その怪盗の姿を一目拝むために、快斗はこうして人気のないビルの非常階段を上っていた。
インカム越しに聞こえくる無線の声には怒号が混じっている。青子の父、中森警部は今夜もまた怪盗に逃げられたのだろう。それでも、姿を見失ってなお諦めない気概は尊敬に値する。
明日の朝はまた青子のやつが煩いだろうな、などと考えながら、快斗はようやく辿り着いたビルの屋上で足を止めた。ちょうど月明かりの影になっている場所に身を潜めれば、黒のジャンパーに黒いジーンズという格好も相俟って、遠目には人がいるなどとは気づかれないだろう。まして空を飛んでくる白い鳥になど。……いや、今夜は黒い鳥というべきか。
目を凝らせばようやく見つけられる、そんな夜空に浮かぶ影をじっと見つめる。それは闇夜に紛れる黒いタキシードに身を扮し、このビルへと向かってくる怪盗キッドだった。
快斗の予想通り、マジックやダミーで警察の目を眩ませ、ここで地上に降りてハンググライダーから逃走手段を変えるつもりなのだろう。車かバイクでも隠しているのか、それとも白馬の言うように協力者が迎えに来るのか、そこまでは知らないが。
いずれにしても、人知れずキッドと邂逅するにはこのタイミングしかないだろうと思い、ここに身を潜めることにした快斗だ。そしてその読みは見事に当たっていたというわけだった。
真夜中、それもビルが建ち並ぶオフィス街をなんの危うげもなく帆を操りながら、ふわりと、風のように屋上へと降り立つキッド。その、キッドが羽を畳む瞬間――すぐに飛び立つことが不可能な瞬間を狙って、快斗は潜んでいた陰から一歩踏み出した。
「―――…」
すぐにこちらに気づいたキッドが、ほんの一瞬、空気を乱す。それでも、たったの一瞬だ。予想していなかった第三者の登場だろうに、キッドが見せた隙はコンマ一秒にも見たない刹那。それだけこの怪盗が用心深く、そして周囲を警戒しているということだろう。
「……まさか先客がいらっしゃるとは」
「意外か? だとしたら、今後はもう少し計画を捻った方がいい。ちょっと考えたら、あんたがここに来ることは予想できたからな」
まあその『ちょっと』と言うのが、『ちょっとIQが400ほどある人間なら考えつくだろう』という話なので、そうそうあるはずはないのだが。
すぐに逃げ出す気はないのか、キッドは再びハンググライダーで飛び立つ気配も見せず、けれど警戒を解くことなく、快斗と向き合った。
「こんな場所でなにを?」
「ちょっとな。クラスメートの自称探偵ってやつが煩いんで、キッドの正体でも拝んでこようかと思って」
挑発するようにニィと口角を吊り上げれば、向こうもこちらの空気に中てられたのか、纏う気配が一層濃密なものへと変化する。
「私の正体、ね……この怪盗キッドの正体を『ちょっと』拝みに来た方は、貴方が初めてですよ」
月明かりを背負い、表情など見えないはずの相手と視線を切り結ぶ。不思議と湧き起こってくる心地好い高揚感に、快斗は頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。
正体不明の怪盗。記憶のない間を除けば、会うのも今日が初めてだ。だというのに、こうして相対しているだけで腹の底から悦びが溢れてくる。
憧れる、とは少し違う。けれど確かに、この存在は一度目にしたなら忘れられないだろう。青子や白馬が言うようにこの男のファンだったのかは分からないが、これは確かに追いかけたくなる存在だ――なりふり構わず、全力で。
そう感じているのは快斗だけではないのだろう。目の前の男もまた、口元に笑みを浮かべているのが見えなくても分かる。
頭が、心が湧き立っていた。ともすれば今にも弾けて切れてしまいそうな弦の上に立つような緊迫した空気に身を浸し、互いに互いだけを見つめながら相対する。どちらかが動いた時が弦の切れる時だと、一歩も退かずに睨み合う。呼吸すら止まるほどの、緊張感。
けれどそんな心地好い空気をぶち壊したのは、
――一発の銃声だった。
パシュッ、と空気を割く音がした。その奇妙な音が聞こえた瞬間、風が頬の横を過ぎり、コンクリートの壁を穿つ硬質な音が響いた。
直後、風を感じた頬がカッと熱を持った。痛みに顔をしかめながら頬に手をやれば、指先にぬめる感触。見れば指先に、夜目にも鮮やかな赤色が付着していた。
血だ――そう思った時には、もう事態は動いていた。
「……くそっ」
すぐ間近から声が聞こえたかと思えば、眼前にキッドが迫っていた。あ、と思った時にはキッドに飛びつかれ、その勢いのまま地面を転がっていた。
なんだ、どうしたと、そんな言葉を口にする暇もない。立て続けに響く空を割く音、そして石を穿つ音に、快斗は頭で理解できずとも、感覚で理解していた。だから体を動かすことができた。
なぜか、誰がなど分からない、けれど今、自分たちは狙撃されている。そしていち早く状況を理解したキッドが快斗に飛びかかり、その銃弾から守るために突き飛ばしたのだ。
快斗は咄嗟に受身を取って素早く立ち上がると、同じく反転して体を起こしたキッドの手を掴み、建物の影へと引っ張り込んだ。追撃がないかと周囲を警戒しているキッドに背中を任せ、ポケットに仕舞っていた工具を使って素早く屋内へと続く扉の鍵を開ける。
「おい、そこは警報が――」
「――いいから!」
彼も予め下調べしていたのだろう、こんな時だというのに警報が鳴ることを心配する怪盗の手を再び掴んで、快斗は無理やり扉の中へと引っ張り込んだ。
果たして、警報は鳴らなかった。
――当然だ。警報装置を切る必要はなかった、なかったが、念には念を入れておくのが快斗のやり方である。ここが怪盗との邂逅の舞台になるからにはと、万全を期しておいたのだ。その甲斐あって、謎の襲撃者に加えて警察の追っ手がかかるという、最悪の事態だけは免れそうだ。まあこの場合、警察が来ないのがいいのか悪いのかは分からないが。
灯りも点いていない暗い屋内でキッドと二人、息を潜めて襲撃者の様子を伺う。おそらくは遠方からの狙撃だろうから、ここまで追ってくる心配はないと思うが、あの場に他に敵が潜んでいないとも限らない。
そうしてしばらくは追撃を警戒していたのだが、どうやらこれ以上の深追いはないらしい。ほっと息を吐き、快斗はべったりと扉に張りつけていた背中をずるずると引きずりながらその場にしゃがみ込んだ。
まさかこの平和な島国日本に住んでいて、銃撃戦を経験するとは思わなかった。一般の枠から多少はみ出ていると言っても、快斗は平凡な高校生である。それが、怪盗キッドの現場に足を踏み入れただけで、まるでハリウッド映画の世界だ。驚いたなんてものではなく、未だに心臓はバクバク煩いし、どっと滲み出た汗で張りついたインナーが冷たい。
それでもパニックにならずに済んだのは、隣に怪盗キッドという非現実がいてくれたからだろう。どう考えてもキッドの事情に快斗が巻き込まれたわけだが、それを責める気も起こらないのは、華々しい怪盗のステージ裏で、まさかこんな血生臭いことが行われているとは思いもしなかったからだ。狙撃に気づいた瞬間のキッドの反応は、あまりに早過ぎた。予めこうした事態を想定していなければ、あそこまで素早く対処できないだろう。つまりこの怪盗にとっては、この非現実が日常なのだ。
「ああくそ、びびった……なんなんだよ、あの連中は?」
聞いてはみたものの、答えがもらえるとは思っていなかった。ただ言葉にしなければとてもこの現実を受け止められそうにないから、声に出しただけだ。そしてやはりそれに対する返事はなく、快斗はちらりと隣に立っているキッドを見上げた。
屋内はとても暗かった。ずっと暗い場所にいて目が慣れていると言っても、非常灯の微かな灯りひとつでは相手の顔色など分かるはずもない。まして相手は、正体を隠すことに長けた怪盗である。
だから、その異常に気づけたのは快斗の目がよかったからではない。じっと見ている内に、キッドが倒れたからだった。
「……ッ、おいっ?」
前のめりに倒れこんでいく体を咄嗟に受け止める。その手が触れた瞬間、快斗は息を呑んだ。覚えのある湿った感触。暗いし、その上着ている服まで黒いとあっては色など到底判別つかないが、指先についたなにかが血だとすぐに分かった。その上、快斗の肩に頭を預けた怪盗の呼吸は浅く、速い。
――キッドは撃たれていた。
いつ撃たれたのか、そんなことは分からないけれど、分かっていることはひとつだけ。快斗は庇われ、守られたのだ。この怪盗に。
「おい、キッド! しっかりしろ!」
呼びかけるが、返事はない。腕に抱いた体は燃えるように熱かった。
快斗はキッドの体を床の上に慎重に横たえると、撃たれた箇所を確認した。この暗がりではまともに見ることもできないと、ポケットから取り出した携帯電話のライトをつけ、確認していく。
血が滲んでいるのは一箇所だけだった。右の脇腹。それも直撃ではなく、掠めていったのだろう。不幸中の幸いか、体内に弾は残っていないようだった。それでも出血の量はひどく、決して油断はできない。
すると、横たえたキッドが小さく身動ぎした。たったそれだけでも激痛だったのだろう、う、と微かに呻く声が聞こえてくる。
その声につられて顔をあげて――快斗は、硬直した。
シルクハットは、いつのまにか転げ落ちていた。モノクルはついたままだが、それだけでは顔を隠すには不十分だ。正体不明の怪盗の素顔が、快斗の目の前に晒されていた。
――そこにいたのは、工藤新一だった。
見間違うはずがない。何度となく見てきた。見つめてきた。それでも飽き足りず、どんな瞬間も見逃すまいと目に焼きつけてきた。その顔を。
わけが分からず、快斗は混乱した。
――怪盗キッドの正体が、工藤新一? そんな馬鹿なことがあるだろうか。なぜなら彼は探偵で、探偵は怪盗を追いかけ捕まえる存在であるはずだ。自ら罪を犯しながら罪人を断罪する、そんな矛盾があるだろうか。いや、ないとは言わない。人の命を救いながら、人の命を奪うことに悦びを見出す、そんな暝い闇を心に抱えた人だって世の中には確かに存在する。
だが、違うのだ。彼は他でもない工藤新一だ。この世に完璧な人間なんて存在しないように、彼にだってもちろん欠点はある。けれど、彼が、あの工藤新一が、『犯罪者』だなんて――考えられない。
けれどこうして彼が目の前にいることもまた、覆しようがない事実だった。
「……、…っ」
と、キッドが――工藤が苦しそうに何事かを呟いた。それにハッとして、快斗はいつも持ち歩いているマジック用のハンカチを傷口に当てると、更に着ていた上着を一枚脱いで、出血を押さえるために圧迫した。
キッドの正体もなにもかも、考えるのは全て後だ。それよりも、目の前で血を流している工藤を今すぐにどうにかしなければならない。
もちろん病院に連れて行くのが一番だが、足がない。となれば、救急車を呼ぶしかない。しかしいずれにしても、このまま担ぎ込まれたのでは、キッドの正体が工藤だとばれてしまう。命には代えられないが、もしそうなれば、工藤は社会的に死ぬも同然だろう。
だからと言って快斗には医者の知り合いなどいなかった。そういえば工藤の隣人が医師免許を持っていたはずだが、それも設備が整っていなければ意味がない。
一番いいのは、工藤とキッドを結びつけるものを排除して病院に運び込むことだが、それだって替えになる服をどこかで調達しなければならない。けれど血を流している工藤を放ったらかしになどできるはずもない。
あれも駄目、これもできない。
焦るほどに思考が空転し、そんな自分に苛立っていると、ふと、微かな振動音が聞こえてきた。よく聞き慣れたそれは、携帯電話のバイブ音だ。だが、尻ポケットに突っ込んでいる自分の携帯電話から伝わる振動ではない。となれば、発信源は工藤ということになる。
快斗は心中で断りを入れ、工藤の懐を漁った。するとやはり彼の胸ポケットに仕舞われていた携帯電話が震えていた。画面を確認すれば、非通知の番号から着信がきている。
出るべきか、無視するべきか。電話をかけてきたのは工藤の味方か、それとも敵なのか。
迷ったのは一瞬で、快斗は通話ボタンをタッチした。もしも敵なら、キッドのふりをして相手になればいい。味方であれば、この窮地を脱する助けになるはずだ。
そして電話に出たのは――味方だった。
『もしもし――御無事ですか!』
焦った声は、開口一番にキッドの無事を確認してきた。そのことに安堵しつつ、快斗は口早に告げた。
「無事じゃない、キッドが撃たれた。すぐに病院に連れて行く必要があるから、あんたがキッドの仲間なら、車を回してくれないか」
『は、え……貴方、は』
「説明してる暇はない。俺がキッドを地上まで運ぶから、あんたは今すぐ車を回せ!」
戸惑う声に被せるように声を荒げる。自分でも無茶を言っている自覚はあったが、とにかく今は時間がないのだ。電話先にいる見ず知らずの男に命じるように怒鳴れば、反発するかと思った相手は、ひどく真面目な声でこう答えた。
『――分かりました。その方を、よろしくお願いいたします』
それきりぶつりと切られた通話。
こちらが驚くほどあっさりとこちらの言い分を受け入れた相手に戸惑いつつも、快斗もまた行動を開始した。傷口に押し当てた布の上から紐を結び、目立つマントとシルクハットとモノクルを取り外す。それから横抱きにして抱え上げると、振動が響かないよう慎重に、しかしできるだけ速く階段を降りていく。
工藤の意識は、今や完全に途絶えていた。ショックを引き起こすほどひどい出血ではないが、意識を保つには血が足りず、発熱もしている。それに工藤の体は、隙あらば休眠を求めるほどに常に疲弊していた。銃傷を負ってなお意識を保っていられるほどの力が残っていなかったのだろう。
そうだ、工藤はいつも疲れていた。工藤ほどの探偵ともなればそれも仕方ないのだろうと、今までは思っていた。けれど、もしも探偵として活動する傍らで、こうして怪盗業までこなしていたとなれば――休む暇などなかったはずだ。
なぜ工藤が怪盗なんてことをしているのかは分からないし、未だにその現実を飲み込むこともできないけれど。工藤だからこそ、思う。彼が意味もなくこんなことをするはずがないと。キッドを襲ってきた連中の存在がなによりの証拠だ。なぜなら彼は、その目的を果たすためなら手段を厭わない、探偵だから。そして彼が唯一絶対許さないファウルとは――殺人だ。弾丸という手段を以て人を殺すことを厭わない連中を捕まえるためなら、怪盗に扮するくらい、彼にとってはなんでもなかったのかも知れない。
だが、それはあまりにも危険なことだった。ただ道を歩いているだけだって、人間なんて簡単に死ぬのだ。まさに快斗はそうして事故に遭った。それが、弾丸飛び交う危険なステージに自ら上がるなんて。
けれどきっと彼はそんなことなど露とも悟らせない顔で、これからも快斗の隣で笑っているつもりだったのだろう。今日まで快斗にまったく気づかせなかったように。だとしても、それを知ってしまった今、快斗にはもう見て見ぬふりなどできそうになかった。
腕の中の温もりをぎゅっと抱きしめる。その熱が目の前で奪われかけたことを思うと、心臓がぎゅうと締めつけられるように痛んだ。その痛みを振りきるように、快斗は前を見据える眼差しに力を込めた。
快斗がようやく地上に着いた時、そこには誰もいなかった。まだ着いていないだけならいいが、最悪の場合には先ほどの襲撃者の追っ手がいるかも知れないと警戒しつつ快斗が様子を伺っていると、こちらの気配を察知したのか、物陰からひとりの男が姿を現した。
「お待ちしておりました。車は裏手に止めてありますので、すぐにこちらへ」
こちらを見つけるなり、事情のひとつも聞かずに車へと誘導する男。すぐに踵を返した背中を慌てて追いかけながら、快斗は内心の驚きを隠せずにいた。
その男のことを、快斗は知っていた。口元の髭に眼鏡、そして禿げあがった頭頂部。記憶にあるよりもやや年を取ったが、その初老の男のことを、快斗は確かに知っていた。
――寺井黄之助。かつて父の付き人をしていたその人である。
キッドの協力者が自分の知り合いだったことは驚きだが、これ以上信頼できる人もいない。もしかしたら寺井の方も、電話に出たのが快斗だと気づいていたから、なにも言わずにこちらの指示に従ってくれたのかも知れない。
しかしそれらの疑問をひとまずすべて追いやって、快斗は工藤を運ぶことに専念した。そうして無言のまま車に辿り着き、寺井は運転席へ、快斗は工藤とともに後部座席へと乗り込むと、すぐに車は動き出した。
「――それで、工藤様の御容態は?」
発進してすぐ、寺井はバックミラー越しにこちらの様子を伺いながらそう口を開いた。
工藤は今、快斗の膝に頭を預ける形で後部座席で横になっている。その表情は相変わらず苦しげだが、幸い出血の勢いは弱まりつつあった。
快斗は汗で張りつく前髪を払い、その額に手を当てて体温を見ながら、分かる範囲での状態を説明した。
「被弾したのは右側腹部だ。他にも掠ってる箇所はあるが、出血がひどいのはここだけだ。血の出方から見て、おそらく動脈は傷つけてないだろう。今は直接圧迫して止血してる。弾も残ってない。ただ、輸血は必要になると思う」
そうなると血液があるかどうかが心配だ。特に珍しい血液型ともなると、病院によっては対応が難しくなる。工藤が何型かなんて聞いたことがないが、工藤の協力者だった寺井ならば知っているかも知れない。
そんなことをつらつら考えていた快斗は、ふと窓から見える景色が、自分の思い描いていた経路と違うことに気づいた。先ほどいたビルから輸血が行えそうな病院への最短経路を、微妙に外れている。
「……おい。病院に行くんじゃないのか」
自分で思った以上に低い声だった。快斗はハンドルを握っている寺井の後頭部を睨みつけた。
けれど寺井は慌てることなく、きっぱりと答えた。
「病院には行きません。その方に、万に一つでも疑いをかけられるようなことがあってはならないのです」
「……そりゃあ俺だって、気持ちは同じだけど」
「もちろん、命に関わるとあらば危険を押してでも病院に行きます。しかし、他ならぬ貴方の判断ですから、私はそれを信じます」
「俺の判断……?」
快斗は病院に行くべきだと言っているのだが。
寺井の言いたいことが分からずに眉を寄せれば、彼は信じられないことを言い出した。
「手術の必要がなく輸血で済むなら、病院には行きません」
「……おい、まさか素人が見よう見真似で医療行為に手を出すつもりじゃないだろうな?」
先ほどよりも厳しい口調で問うが、今度もやはり、寺井はきっぱりと言いきった。
「素人ではありません。私と貴方――快斗坊ちゃまが、工藤様の治療をするんですよ」
バックミラー越しに視線が交差する。そう言った寺井の目は真剣そのものだった。
その目を受けて、快斗はずっと疑問に思っていたことをようやく口にした。
「……あんた、親父の付き人だった寺井さんだよな」
もう何年前か――快斗の父親、黒羽盗一が脱出マジックに失敗してステージ中に事故死して以来なので、八年ぶりになるのか。当時快斗はまだ十にも満たない子供だったが、昔から知能指数が高く、記憶力もずば抜けて良かった。
「……覚えていらっしゃいましたか」
寺井は硬かった表情を微かに和らげた。
「親父の付き人だったあんたが、なんで工藤の、……キッドの片棒を担いでるんだ?」
「それは違います。こちらの事情に工藤様を巻き込んでしまっただけなのです。この方は、自ら罪を犯すような方ではありません」
「こちらの事情って……つまり工藤はキッドじゃないのか?」
「もともと、キッドと名乗って活動していたのはこの寺井でございます。キッドはただの泥棒ではありません。もちろん愉快犯でも、義賊などでもありません。そして工藤様は、私の事情を知り、お力を貸して下さっているだけなのです」
最も危惧していたことを否定され、快斗は安堵の息を吐いた。なにか事情があるはずだと信じてはいたが、やはり工藤は私欲のために犯罪行為をする男ではなかったのだ。
しかしそうなると気になるのは、寺井の言うところの「事情」というやつだった。快斗の記憶通りなら、寺井もまた私欲のために犯罪に手を出す男ではないし、そもそもそんな「事情」に工藤が手を貸すはずもない。となれば、根っからの探偵である工藤が手を貸さざるを得ないような「事情」があるのだ。
「さっきキッドを襲った連中……あれとなにか関係があるんだろ?」
「………」
寺井はなにも答えなかったが、沈黙は肯定だった。けれど同時に、拒絶でもあった。寺井は無関係の快斗がこれ以上踏み込むことを拒んでいるのだ。
だがそこでふと、この三日間ずっと気になっていたことが脳裏を過ぎった。怪盗キッドについて調べていて、どうしても分からななかったこと。キッドの正体や目的と同じくらい大きな謎、それが――八年間の沈黙だ。
キッドの正体が寺井だと言うなら、なぜ八年もの活動休止期間があったのか。そして八年の月日が経った今、どうして活動を再開したのか。その期間に、どんな意味があるのか。
快斗の脳裏を、いくつもの言葉が目まぐるしく乱舞し出す。
――怪盗キッド。
――八年間の沈黙。
――キッドの命を付け狙う者の存在。
――かつて父の付き人だった男。
ばらばらだったピースがひとつずつ、かちりと、頭の中で嵌っていく。
――父の死。
――ステージ中の事故。
―――……八年前。
「……キッドは、俺の、親父か」
からからに渇いた喉に無理やり唾を飲み込んで、掠れた声で快斗はなんとかそれだけを口にした。
キッドの正体は黒羽盗一。そう考えれば、すべての謎が霧を晴らすように解けていく。
八年の沈黙は、キッドである盗一が死んだから。死因はステージ中の事故だったが、もしかしたら今日のように誰かに命を狙われていたのかも知れない。あの日の事故は、当時子供だった快斗から見ても不自然だった。盗一は火薬を使う舞台での事前の確認は徹底していたし、あの日の火薬の量は不自然なほど多かった。
そして盗一の付き人だった寺井が、キッドの名を継いだ。八年という時間を置いたのは、熱りを冷ますためか、それとも寺井自身が怪盗の正体に辿り着くまでの期間か。もし復活したキッドの目的が、八年前に闇に葬り去られた盗一の死の原因を明らかにするための弔い合戦だとすれば、工藤が手を貸したことにも頷ける。
「………」
先ほどと同じく、寺井はなにも答えなかった。けれど答えを聞くまでもなく、快斗は最早確信していた。
月下の奇術師。確保不能の大怪盗。平成のアルセーヌ・ルパン。そう称され、世界に愛されてきた怪盗の正体が、あの東洋の魔術師、黒羽盗一。
あまりにも嵌りすぎた。我が父ながら格好良すぎる。
だけど、犯罪者だ。快斗はもう、泣けばいいのか笑えばいいのかも分からなかった。
果たして記憶のあったときの自分はこの真実を知っていたのだろうか。キッドのファンを名乗っていたということは、それを知った上で受け入れていたのだろうか。父親が泥棒だったことを。
……いや、待て。それはおかしい。
もし怪盗キッドの正体が自分の父親だと知っていたなら、今のキッドが偽物であることも知っていたはずだ。であれば、自分の性格的に、偽物を放っておくはずがない。その正体を暴きに行ったはずだ。今夜快斗が、キッドの現場へ乗り込んだように。
――それなら、寺井のことも知っていた?
だとすれば、尚のことおかしい。寺井の目的が盗一の弔い合戦だとすれば、それを他人に任せて傍観しているだろうか? この自分が?
――有り得ない。寺井のことを知っていたなら、快斗なら、その役目を奪ってでも自分で為し遂げただろう。他ならぬ、父親の仇なのだから。
目まぐるしく思考する最中、ふと、ミラー越しに寺井と視線が交わった。それだけ、たったそれだけで充分だった。
自分を見つめる寺井の不安と緊張が入り混じる、それでいて情に満ちた眼差しが、すべてを物語っていた。
「……寺井ちゃん」
かつて呼んでいた愛称が口をつく。先ほどよりも掠れた声が出た。なのに不思議と、恐怖も絶望もなかった。ただその事実だけが、すとんと、胸の中に落ちた。
「――キッドは、俺だ」
核心を突いたその言葉に、寺井は咄嗟になにも言うことができなかった。
そもそも、快斗は肯定も否定も必要としていなかった。ただ思考し、自ら至ったその答えを口にしただけだ。それに寺井がどんな言葉を尽くして否定したところで、それを覆すことはできないだろう。
ただ、この数ヶ月間――決して知られまいと真実をひた隠し、創り上げてきた幻が露と消えたことに、寺井は言葉もなくただ唇を硬く引き結んでいた。
快斗は、自分の膝の上に頭を乗せて横たわっている工藤を見下ろした。
記憶が戻ったわけではなく、ただ真実に辿り着いただけだ。快斗が失った二年の間に、彼とどんな遣り取りがあったのかまでは分からない。けれど、探偵である彼がこうして怪盗となって夜を駆ける理由は、きっと快斗のためだったのだろう。
思い当たることならあった。ずっと不思議に思っていたのだ。どうして彼は、たまたま事故に遭ったところを救っただけの相手を、あんなにも懐深く招き入れてくれたのか。なぜ、普段は決して誰もあげない自宅に、自分だけ招いてくれるのか。
それに、あの日――初めて彼の家に行ったときに、寝ぼけた彼が呼んだのだ。快斗、と。親しげに、快斗の名を。
以前から彼と知り合いだったというのなら納得できる。寝ぼけていたからこそ、咄嗟に言い慣れた呼称が口をついて出たのだろう。
だとすれば……なんということだろうか。事故に遭ってから今日までのこの数ヶ月間、彼はずっと快斗の傍で、快斗のために怪盗を演じながら、なにも言わず隣にいてくれたのだ。
見下ろした工藤は、青白い顔をしていた。ただでさえ無茶をしていただろうに、快斗を庇って、怪我まで負って。
こんな、こんなことがあるだろうか。こんな人が、いるだろうか。
こんなにも途方もない優しさをもらって――いったい自分に、なにが返せるのだろう。
「……寺井ちゃん。俺なら治療ができる、って言ったよな。ある程度の設備が整ってる場所があるんだな?」
意識のない工藤の手をぎゅっと握りしめながら、快斗はひとつ、心に決めた。
強い意思のこもったその言葉に、寺井は束の間躊躇うが、諦めたように口を開いた。
「……ございます。そこに向かっているところです」
「そこなら輸血もできる?」
「ICUとまではいきませんが、ある程度のことなら、恙無く」
「……そんな設備が必要だった、ってことか」
それほどキッドの舞台裏には血生臭い事情が隠されているということだろう。
だが、今はそのことを根掘り葉掘り聞くつもりはない。すべては工藤の治療が済んでからじっくり聞けばいい。
快斗は工藤の手を握りしめながら、その耳に何度となく囁き続けた。
「――大丈夫。おまえは絶対に、俺が助ける」
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