隠恋慕
Speak low, if you speak love.
Peter Pan Crime 15
鳴り響くサイレンの音。耳に嵌めたインカムに引っ切り無しに響き渡る怒号。テレビの生中継が伝える、野次馬たちの熱狂と興奮。
ついこの間までその中心にいたはずの新一は、どこか遠い世界の出来事のように、その現実を見つめていた。
今夜もまた、見事な月夜だった。まるで月の女神に愛された怪盗が再びその舞台に戻ってきたことを祝福するかのようだ。
無線を聞く限り、今夜のキッドは実に見事に獲物を盗み出していったらしい。そのあまりに奇抜な手腕に、流石の中森警部も舌を巻かずにはいられなかったようだ。無線に響く声は怒鳴っているのに、どこか嬉しそうにも聞こえる。
やはりどんなに取り繕ったところで自分は偽物に過ぎなかったのだと、新一は静かに目を閉じた。
別に本物になりたかったわけではない。新一は怪盗になりたかったのではなく、ただ彼を守りたかっただけだ。そのために偽物と暴かれないよう努めてきた。ただそれだけ。
だが、自分は本当に彼を守りたかったのだろうかと、自問自答してもいた。ただ「守りたい」という言葉で隠して、「怪盗ではない黒羽快斗」に夢を見ていただけではないのか。飛び方を忘れた鳥を籠の中に閉じ込めて、手の届かぬ空の果てへと飛んでいってしまわぬようにしたかっただけではないのか。
だって――彼は今こんなにも、生き生きと空を駆けている。
新一は閉じていた目を開けると、はるか遠くで犇き合うように蠢いている赤い光を見つめた。パトカーの赤色灯が、ここからならよく見える。吹きすさぶ風は冷たいけれど、不思議と寒さは感じない。
それから携帯電話を取り出すと、メールの画面を起動させた。
夜の東都を風に乗って舞いながら、快斗は――キッドは――言葉にならない高揚感に満たされていた。
天には望月、そして満天の星。地上には人工の星々が輝いている。その中を風とひとつになって飛んでいる自分は、まるでこの夜を独り占めしているかのような心地だった。
今夜、キッドは復活を遂げた。それは誰も知らない舞台裏での話だけれど、キッドにとって今夜は特別な夜だった。
記憶はまだ戻らない。それでも不思議と、自分がなにをするべきか、どう動くべきかが、キッドには分かっていた。
事前に仕込んだいくつもの仕掛けで警察を翻弄し、観客を楽しませる。中森警部の動き次第では活躍できない仕掛けもあったが、そんなことは気にしない。キッドは魔術師なのだ。警察すらも含めたすべての観客を騙し、アッと驚かせる。それが、キッドのマジックだ。
まるで失くしていたなにかが埋まっていく感覚。ぽっかりと穴の空いていたそこに、ぴたりと、まるでパズルのピースのように嵌まり込む。それこそが自分が探していたものなのだと分かった。父が残した意志、それをようやく取り戻し、自分という存在が完成されていく。
惜しむらくは、この華々しい復活劇に、工藤を襲った連中への報復という名の華を添えることができなかったことだ。流石は積年の宿敵とあって、そう簡単に尻尾は掴ませてくれないらしい。けれどキッドとして活動していく限り、やつらに報いるチャンスは必ずある。
遠く、中森警部率いるパトカーの軍勢が走っていくのを見送りながら悠々と風に乗って遊泳していると、不意に胸ポケットが振動した。そこには非常時の連絡用にと、寺井から預かった携帯電話がある。もちろんキッドの仕事中に操作している余裕がいつもあるとは限らないので、仕事の間は自動で音声を読み上げさせ、イヤホンで聞くことにしているのだが……
「杯戸シティホテルの屋上で待ってる」
そうして読み上げられたメールの差出人の名に、キッドは微かに目を瞠った。
それは、工藤からのメールだった。工藤がこの携帯の存在を知っていたことにも驚いたが、寺井が教えた可能性もある。それはいい。キッドが、快斗が驚いたのは、彼から連絡がきたこと、それ自体だった。
あの日から、既に三日が経っている。その間、快斗の携帯は一度も彼からの着信を告げなかった。快斗も、連絡はしなかった。彼の容態は寺井から聞いていたし、快斗から彼に話すこともなかったからだ。少なくとも、いろんなものにケリをつけるまでは。
工藤を無理やり抱いた。そのことを悔いたことはない。たとえば過去に戻れたとしても、快斗は同じことをしただろう。なぜなら、快斗は本気だからだ。工藤新一という男に対して、快斗は本気だった。本気で、彼という存在に惚れていた。
だからこそ言い訳はしない。言うべきことはすべて言った。あとは――彼の答えを待つことしかできない。
あの日から、三日。もちろん心穏やかでなどいられなかったが、快斗にやらなければならないことがあったように、彼もまた自身の負った傷を癒さなければならなかった。
その彼が、ようやく動いた。
杯戸シティホテル。なぜ彼がその場所を示したのかは分からない。けれどそれに快斗が応えないなど、有り得ない。
答えを出すことは、本当は、とても怖い。どう考えたって、分の悪い勝負だ。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
快斗はグリップをきつく握りしめると、意を決してハンドルを切った。
快斗がそこに降り立ったとき、工藤は屋上のパラペットの傍に立っていた。柵と言うにはあまりに頼りないそれでは、足を滑らせれば容易に転がり落ちてしまいそうだ。
快斗はすぐに近寄ることはせず、彼が立つ場所よりも一段高い塔屋に立っていた。この距離を埋められるかどうかは、彼の答えひとつにかかっている。
「……もう大丈夫なのか?」
快斗はまずなによりも気になっていたことを尋ねた。いくら寺井から聞いていると言っても、キッドの仕事の準備をしている間もそればかりがずっと気掛かりだった。
工藤はいつも通り、見慣れた帝丹高校のブレザーを着ていた。既に季節は寒さも厳しくなる十二月、病み上がりにそんな格好では今度は風邪を引いてしまうのではないかと心配になるが、工藤は構わず、白く溶けていく息を吐きながら言った。
「ああ。寺井さんのおかげで大分よくなったよ」
言葉通り、しっかりした口調にひとまず安堵する。ただしこの探偵は、無茶をすることに関しては快斗といい勝負なので、油断はできないが。
「今夜は、うまくいったみたいだな」
目の前に立つ白尽くめの男を見て、工藤が呟く。他意はないのだろうが、どこか責めているように聞こえてしまうのは、彼がキッドとしての快斗の復活を望んでいなかったと知っているからか。
それでも怯むことなく、快斗は答えた。
「記憶がないのが自分でも不思議なくらい、なにも戸惑うことはなかったよ」
それほどに、体が覚えてしまうほどに、キッドの存在はもう快斗の一部となっているのだろう。そんな存在を失えば、心に大きな穴が空いてしまうのも仕方ない。
自分を思ってくれる人たちや中森警部たちには申し訳なく思うけれど、最早快斗にとってキッドは倫理や道徳を凌駕したところに存在するのだ。
「……思い出したいか?」
不意に工藤が静かに問いかけた。
工藤は、いつか見たあの吸い込まれるような青色の瞳で快斗を見ていた。その目で見られると、快斗の心はなぜかざわついた。
感情が振り切れるような高揚感。或いは、今にも逃げ出したくなるような恐怖感。
それは、今夜まさに快斗が感じていたものだった。
いつだったか、父が言っていた。
――客に接する時、そこは決闘の場。決しておごらず侮らず、相手の心を見透かし、その肢体の先に全神経を集中して、持てる技を尽くし、なおかつ笑顔と気品を損なわず、いつ何時たりとも、ポーカーフェイスを忘れるな――。
マジシャンである父を見て育ち、自らもマジシャンとなる夢を抱いていた快斗は、父が言ったその言葉を忠実に覚えていた。そして今夜、警察を相手に決闘を挑んだ快斗は、その言葉を体現することを自らに強いた。
キッドとして、怪盗として、観客を騙して警察を翻弄する。それはかつてないほどの緊張を快斗に強いた。
工藤の眼差しには、その緊張を遥かに凌駕するなにかがあった。
「もし、おまえにとっての現実である『今』が壊れてしまうとしても。思い出したいか?」
「……どういう意味だ?」
「感情ってやつは曖昧だ。環境ひとつで変化する。俺とおまえは友人だ。だが、俺とキッドはそうじゃなかった」
青い瞳が見つめている。これまでただの一度も向けられたことのない、探偵としての顔を見せられているのだと、気づいた。
そして思う。工藤は探偵だ。クラスメートの探偵がキッドを追うように、彼もまたキッドを追っていたことがあったのかも知れない。そのときと同じ目を向けられるから、心がざわつくのかも知れない、と。
だとしたら、あの日、路地裏で彼と出会ったあのときから、快斗は工藤新一という存在に気づいていたのだ。頭ではなく心が、魂が、彼という存在を覚えていた。
だとしたら、彼に惹かれたのは偶然ではなく、必然だったのだ。
「おまえが全てを思い出せば、俺を好きだって気持ちも消えちまうかも知れない。それでも、思い出したいか?」
工藤は快斗の本気を問うていた。未来を望むならば、過去を受け入れる覚悟はあるのか、と。
そしてそれは、愚問だった。
「――消えないよ」
彼の瞳を真っ向から見据えながら、快斗は決然と答えた。
「消して、堪るか」
海の青と、空の青とがぶつかり合う。
それはある日突然生まれたものではない。もともとそこにあったのだ。ただ、手の中にそっと隠していたそれを、隠すことを忘れてしまった自分が曝け出してしまっただけ。
だから消えることはない。消したりなんかするわけがない。
「過去も、今も、これからも――すべてを手にして、おまえとともに生きていく」
瞳を、心を揺らがせることなくそう言い切った快斗を見て、ようやく快斗の本気を認めてくれたのだろう。
「……俺なんかに惚れちまうなんて、馬鹿なやつだな」
工藤は一度だけゆっくりと瞑目すると、次に目を開けたときには、微かに口元を綻ばせて苦笑を浮かべた。
「おまえの記憶が戻っても、もしも俺への気持ちが消えなかったら……その時は、快斗との未来を歩いてみても、いい」
その笑みに目を奪われ、快斗は軽く息を飲んだ。
快斗との未来。それはつまり、快斗の気持ちを認めるだけじゃなく、受け入れてもいい、と。
それに、初めて、面と向かって名前を呼ばれた。以前の彼がそう呼んでいただろうことは推測していたけれど、実際に呼ばれて初めて、以前の自分と同じ場所に立てた気がした。
「と言っても、俺がおまえにあげられるものはひとつだけだ。前のおまえが知っていて、今のおまえが知らないこと。その秘密を、おまえにやるよ」
そう言うと工藤はブレザーの胸ポケットからなにかを取り出した。それはいつかの日に見た、変装用の黒縁眼鏡だった。
なにを思ったのか、工藤は徐にそれをかけると、パラペットの傍にしゃがみ込んだ。
「工藤……?」
「『よぉボウズ、何やってんだ、こんなところで』」
「――え?」
唐突な台詞に、わけが分からず問い返せば、工藤は真剣な顔でこちらを振り返った。
「いいから、続けて言ってみろよ」
それだけ言うと、再びこちらに背中を向けてしまう。
快斗は理解できないまま、けれど言われた通りに同じ言葉を繰り返した。
「よぉ、ボウズ…何やってんだ、こんなところで」
すると、突然工藤の手元で火花が散り、そうかと思えば風を切り裂く音とともになにかが空へと打ち上がり、そして――夜空に大輪の花が咲いた。
呆気に取られる快斗を勢いよく振り返った工藤が、満面の笑みを浮かべて叫ぶ。
「――花火!」
幼い声だった。まだ男とも女とも区別のつかない、未熟で稚い声。
変幻自在に声を操れる快斗じゃあるまいし、声変わりを経た高校生の工藤からどうしてそんな声が出るのかと目を瞠りながら見遣れば、工藤の口元には赤いリボンが――蝶ネクタイがあてがわれていた。
「あ、ホラ、ヘリコプター! こっちに気づいたみたいだよ!」
子供の声のまま、工藤が虚空を指差す。そこにはヘリコプターなど飛んでいない。しかしなぜか、快斗にはそれが見える気がした。
ドクドクと、鼓動が急速に駆け出す。
――夜。
――ビルの屋上。
――眼鏡をかけた子供。
――花火。
ちかちかと色とりどりの光を巻き散らす火花に混じって、脳内にスパークする光。
いや、光ではない。これは映像だ。いくつもの光景がまるで火花のように光っては消え、瞬いては移り変わっていく。
快斗は最早、目の前を見ていなかった。ただ怒涛のごとく脳裏に流れ込んでくる映像に、足元が揺らいだ。
それは――記憶だった。
最早なにを言われるまでもなく、次になにを言えばいいかが分かっていた。
「ボウズ…ただのガキじゃねーな…」
快斗は新一を見る。ブレザーを着た高校生に重なるように、小さな男の子が見えた。
黒縁眼鏡に、蝶ネクタイ。半ズボンにブレザーを着た子供。
ああ、そうだ。
彼は。彼の名は。
「――江戸川コナン。探偵さ」
レンズの奥、目を細めて不敵に笑う少年に、快斗は、キッドは、あの日目を奪われたのだ。
気づけば、快斗は泣いていた。
月明かりの下、頬を伝う涙を拭うこともせずに呆然と立ち尽くしている。
溢れているのは、記憶だった。失くしたと思っていたそれが、次から次へと滾々と湧き出てくる。そのどれもが、彼との記憶だった。
雪山のロッジで。古びた屋敷で。飛行機の中で。そして――この、杯戸シティホテルの屋上で。
何度、彼と対峙したか。何度、彼に背を預けたか。
彼はいつも快斗の記憶の中にいた。或いは追う者と追われる者として、或いは同一の目的を掲げた共闘者として。そして彼が元の姿を取り戻してからは、互いの秘密を共有する唯一となった。
それは秘密の関係だった。誰にも知られてはならなかった。それがただ保身のためだったなら、二人の道が重なることはなかっただろう。けれど閉ざした口の奥に秘したものが、誰かの命を脅かすものだと分かっていたから、自分たちは背中を預け合った。
ライバルだった。彼に負けたくなかった。けれど彼と肩を並べ、彼に認められる自分でいたかった。彼の隣を走るのは自分をおいて他にはいないとさえ思っていた。それほどの独占欲を、持っていた。
そうして最後に思い出したのは、車に轢かれて死にかけた快斗の手をぎゅっと握りながら、青褪めた顔で、それでも凛と微笑む彼の顔だった。
「大丈夫だ。なにも心配するな。おまえは俺が、絶対に助けてやる」
朦朧とする意識の中、その力強い声と温かい手の温度だけが、確かだった。
――恋を認めたのは、たぶん、その時だ。
「……名探偵」
手の甲で涙をぐいと拭い、快斗はその名を口にした。それは快斗が彼への敬意と愛しさを込めて呼ぶ、特別な名前だった。
それだけですべてを悟った彼は、眼鏡を取って快斗を見つめた。
「全部、思い出したよ」
快斗は彼との間に空いていた距離を一足飛びに飛び越えると、新一のすぐ目の前に着地した。それから手を伸ばして、冷えた頬をするりと撫でた。新一はただ、猫のように目を細めた。
「名探偵には、世話かけちまったな。……俺を守ってくれて、ありがとう」
「……バーロ。ほんとは、勝手なことしやがって、とか思ってるくせに」
「どうかな。確かに怒ってるかも知れない。おまえを巻き込むしかなかった自分に、だけど」
もし事故になど遭っていなければ、彼に快斗の荷物を背負わせることもなかったのに、とは思う。けれど快斗でなければ、あの少女の命は救えなかったのだ。それを今更天秤にかけて、どうのこうのと言うことに意味はない。
「……快斗……」
怒られるつもりでいたのが肩透かしを食らい、新一は困ったように眉を寄せた。責められたなら、勝手なことをした詫びを言う心積もりはあったのだ。記憶が戻るまで見守るだけならまだしも、彼からキッドを取り上げようとしたことは、流石にやり過ぎたという自覚はあった。
けれど快斗はそれ以上そのことに言及することはせず、ただそっと新一の手を取った。
「おまえに、言っておかなきゃならないことがある」
そう言うと、快斗はその場に跪いた。突然のことに新一は瞠目した。
「おまえが、好きだ」
「――え?」
「おまえに傷ついて欲しくない。誰かを救うための手で、罪を犯して欲しくない。できることなら、俺がおまえを守ってやりたい。
――名探偵のことが、好きだから」
それは、記憶のない快斗が新一へと告げた愛の言葉だ。快斗はもちろん、今日までのことを覚えていた。
本当はもうずっと、特別だった。その感情の名前にも気づいていた。けれど新一が恐れたように、快斗もまたその心地好さを失うことを恐れていたから、口にしたことも、態度に見せたこともなかった。
だけどあの日、今にも呼吸が止まってしまいそうな状況に追い込まれて、思ったのだ。思いも遺さず死ぬくらいなら、苦しくても生きて思いを伝えておけばよかった、と。新一の手を握りながら、強くそう思った。
だから目覚めた快斗は、彼に惹かれる自分に戸惑いながらも、その思いを口にしたのだろう。二度と後悔することのないように。
「名探偵にも気づかれてなかったなんて、俺もなかなかやるよな。でももう、隠す気はないんだ。おまえが好きだ。この世界の、誰よりも」
快斗は跪いたまま、手に取った新一の左手の甲に口付けた。それからその手を返して、掌にもキスを落とした。
手の甲へのキスは、尊敬のキス。キッドが認める、最高の探偵へ。
そして掌へのキスは、求愛のキス。快斗が求める、最愛の新一へ。
快斗の一連の行動に驚きのあまり固まっていた新一は、そこでようやく、肩の力を抜いた。新一だとて、今夜ここに足を運ぶことは、とても勇気のいることだったのだ。
けれど、快斗は記憶を取り戻した。すべてを思い出したのに、それでもまだ、新一のことが好きだと言う。
だったらもう、新一の答えは伝えたはずだ。
「もう俺を忘れないなら、……それでいい」
あんな思いは二度と御免だと、泣きそうな顔で笑う彼の手を引き、キッドは力の限り抱きしめた。
そうして
――恋を見つけた。
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