隠恋慕
輝石乱舞 2
「やぁ、黒星。傷の具合はどうかな?」
後ろ手に手を組んで窓の前に佇む長身の男を、黒星は胡乱な目で見遣った。
「皮肉は結構。とっくに治ってると知ってるだろう」
「そんなに怒らなくとも、ただの社交辞令じゃないか」
ふふ、と楽しげな笑みをこぼす男は穏やかな表情で振り返るが、細められた瞳には剣呑な光がちらついている。
油断ならない男を相手に黒星は諦めたように溜息を吐いた。
彼の部下たちのように彼に心酔こそしていないが、黒星もまたこの男の実力は認めている。
あれだけの悪事を行っていながら堂々と表舞台に立っていられるのが何よりの証拠だ。
「で、今度はどういった用件だ?」
仕方なく話を進めようと促した黒星に、男は意地悪げに唇の端を持ち上げた。
「君ともあろう者なら察しがついているのではないかな?」
「……ほんとに嫌な男だな、あんたは」
「最高の褒め言葉だね」
にこやかに笑う男の言葉に嘘はなさそうだが、黒星はだからこそ質が悪いのだと心中で舌打ちした。
この男は不要と判じた手駒は容赦なく斬り捨てる。
手痛い失敗をした黒星がこうして生きていられるのは、つまりまだ利用価値があると思われているからに過ぎない。
本当に、全く嫌な男だ。
「……三日以内に行動に移る。あんたは高みの見物でもしてればいいさ」
* * *
〝――銃器密売グループ、逮捕〟
そんな見出しが掲げられた新聞の第一面を見て、伍は複雑な表情を浮かべた。
この密売グループは中国警察が何年もマークしていたにも関わらずなかなか逮捕に踏み出せなかった連中だ。
それだけに悲願の逮捕をマスコミは大いに騒ぎ立てている。
だが、実際は警察などほとんど介入していない。
実際に手を下したのは中国警察お抱えの超極秘特殊機動員の元殺し屋白牙、そして国際犯罪者番号1412号――怪盗キッドだ。
「今の警察機構のレベルの低さを痛感するな……」
その反面、犯罪者のレベルは上がる一方だ。
目の前で憎たらしい笑みを浮かべている犯罪者二人がいい例だろう。
「そりゃ、毎日自分の命を力尽くで守ってきた俺たちと比べられちゃたまんねーよな」
「少々平和ボケされてるんでしょう。悪い傾向だとは言いませんけどね」
つまり、それだけ凶悪犯罪の頻度が減少しているのだ。
……あくまで表面上は。
「それで、黒星の動きはどうです?」
少年の変装をしたキッドに促され、伍は違和感に苛まれながらも口を開いた。
「大方予定通りだ。まぁ、今回の件に白牙が関わっているのは一目瞭然だからな。あちらも漸く重い腰を上げる気になったようだ」
「へっ。そうでなくちゃわざわざ挑発した意味がねーよ」
「だが釣れたのは黒星だけじゃない。組織も動くと見てまず間違いないだろう」
「……」
「それは、尚のこと好都合ですね」
黙り込んだ白牙に反してキッドは強気な台詞を吐く。
「……甘く見てると死ぬぞ」
伍は新参者の軽口を窘めるように言うが、キッドはそれを鼻で嗤った。
「私が彼らを甘く見てると? それこそ、貴方が私を甘く見ている証拠ですよ。組織というものの凶悪さを私は身を以て知っています。
ただ黒星を捕えたところでそれは蜘蛛の手足を千切ったに過ぎない。良からぬことを考えるその頭を潰さなければ、同じことを繰り返すだけです」
いずれ、時期が来たら、準備が整ったなら。
そんな悠長なことを言っていられる相手なら、キッドがこうして警察の狗に成り下がるような真似をすることはなかった。
時間は一秒でも惜しい。
いくら新一を世界の警察機構の中枢、ICPOの本部に預けたからと言って、相手は掟破りの犯罪集団なのだ。
どこにも絶対の安全地帯など存在しない。
「初めから私の標的は黒星なんて小物ではありません。組織のトップ――万海です」
万海。
その名を知らない者はいない、世界に名だたる大富豪。
救済活動や慈善活動を財政面で積極的に支援する慈善家として広く知られている男だ。
だがその裏で悪事を働いているのではというスキャンダルや噂が絶えない男でもある。
その万海こそが中国マフィアを統括する組織の頭だった。
「その考えが甘いって言うんだ」
白牙は腑が凍えるほど重い囁きをもらす。
それだけでその場の空気がぐんと下がり、二人の視線は自然と白牙へと集まった。
白牙が関わっていたのは端の端の組織ではあったが、その腕を買われて頭である万海には何度となく会ったことがある。
慈善家で温厚という仮面の裏に隠れた狡猾で冷酷な本性。
まさに彼は組織の頭としては理想的な人物だった。
だが、それだけならどうということはない。
本当に恐ろしいのは……
「あの男は新一と同じ目を持ってる。なんでも見抜く恐ろしい目だ。どんなにうまく隠しても、たとえ自覚のないものであっても、どこを崩せば陥落するのか見抜かれちまう」
昔、白牙がその手で愛する者を奪ってしまったように。
今度は新一の命を、奪われるのではなく奪わされるかも知れない。
「今のお前じゃ力不足だ」
血の滲む過去を体験してきた白牙だからこそ言えることなのだが、けれど相手はキッドなのだ。
理性では判っていても子供は簡単に感情に流される。
「……っ、じゃあどうしろってんだよ! 悠長に訓練なんてしてる場合じゃねーだろ!? んなことしてる間に新一になんかあったら……っ」
「だからゴタゴタ抜かしてねぇで捨てろって言ってんだ」
――人の心ってやつを。
勢いに任せて掴みかかってきたキッドを白牙は難なくねじ伏せる。
頭を抑え付けられ再びソファへと押し返されたキッドは、悔しげに唇を噛みしめた。
言われなくても判っているのだが、無意識の感情ほどコントロールの難しいものはない。
父親の死によって体に染みついた恐怖は簡単に払拭できるものではなく、そんなことは誰よりも自身が一番よく判っていた。
「怒れ、キッド。怒りで一度死ぬんだ。死ねば躊躇いは消える。
お前は一度大事なものを奪われた。その怒りを思い出せ。繰り返したくはないだろう?」
再び大事なものを奪われたくはないだろう。
しかもそれが――新一だと言うなら。
「……嫌、だ」
「ああ」
「新一がいなきゃ、俺は死んじまう……」
「判ってる」
胸が、熱い。
想うだけでこんなにも。
もし奪われたなら、きっとこの熱に灼き尽くされてしまうに違いない。
「その怒りを決して忘れるな」
力強く頷くキッドを、伍は困惑に満ちた目で見つめていた。
「なんとなく、なんだが」
頭を冷やしてくるからとキッドのいなくなった部屋で、伍が遠慮がちに口を開いた。
敏腕警部にしては珍しいその口調に白牙はわざとらしく眉を吊り上げてみせる。
「彼は、あれが素顔じゃないのか?」
「……どうしてそう思う?」
「なんとなくだが……」
怒りに任せて白牙へと掴みかかったキッドを思い出す。
あのときの声、表情。
あれはつくりものなどではなかったはずだ。
まるで少年のように感情が高ぶるまま、キッドは白牙へと掴みかかった。
それを見た瞬間、これは変装などではないのではと思ったのだ。
「彼はお前に似ている気がする」
たった十四歳の子供が世界の裏を知り尽くした顔で、それでも受け入れ生き抜こうとしていたあの幼かった頃の白牙と、キッド。
根拠はないが、ただ同じ目をしていると思った。
あの時も伍はなぜこんな小さな子供がと驚かされた。
そして、決して見た目だけで実力を判断してはならないのだと思い知らされた。
白牙は何が面白いのかクツクツと喉の奥で笑いを堪えている。
そして曖昧に「さあね」と答えただけだったが、明確な答えを求めていない伍もまたそれ以上聞こうとはしなかった。
* * *
高層ビルの屋上から見る夜景はとても綺麗だ。
快斗はこの景色が好きで、何か考え事がある時にはよくこうして眺めていた。
光に溢れた地上から見上げる夜空に星は見えないが、空から見下ろす地上にはたくさんの光が見える。
それは紛い物の星ではあるけれど、その中で何百何千という人が生きているのかと思うと悪くなかった。
頭の上がらない母も、いつも迷惑かけている寺井も、おっちょこちょいな青子も、からかい甲斐のある中森警部も、いつも突っかかってくる白馬も。
みんな、この光の中で生きている。
それなのに今、彼らからこんなにも遠い場所に来てしまった。
場所だけではなく住む世界すらも変わってしまった。
日本を出てしまった時点で、おそらくもう元の生活に戻れないことに快斗は気付いていた。
住み慣れた世界も家族も友人も捨てて、快斗は今、踏み入れた先から染まっていってしまいそうな闇の中にいる。
闇の中から、まるで羨望のような眼差しで光を眺めている。
これは後悔だろうか、と考えた。
捨ててきたものたちは暖かく、これから手にしていくものは冷たいものばかり。
そんな状況に立たされて後悔しない者がどれだけいるだろうか。
けれど、と快斗は首を振った。
自分は決して後悔しているわけではなかった。
捨ててきたものたちは確かに暖かかった。
手にしていくものは確かに冷たいだろう。
けれど――
隣を歩く存在がまるで草木を暖める太陽のように、快斗を暖めてくれる。
その熱さえあれば快斗は生きていけるのだ。
後悔しているわけではなかった。
とてつもなく寂しくはあるけれど、自分は躊躇わず彼を選び、そしてこれからも彼に繋がる道だけを選び続けていくのだ。
「この月が、どんなに離れてても俺とお前を繋いでくれてる。そうだろ? ……新一」
不安だった。
焦っていた。
新一と離れるということがこんなにも己を弱くするなんて思わなかった。
強くなるために離れたはずなのに、これではまるで逆効果だ。
これでここから這い上がれなければ、この先新一を守り抜くことなど快斗にできはしない。
けれど漸く快斗は己の弱さを知った。
今、知った。
躊躇いは――消えた。
「――あなたも月を持ってるの?」
不意に聞こえた声に驚き、快斗は慌てて背後を振り向いた。
ここは立ち入り禁止の屋上で一般の客は普通なら出入りできないはずなのに。
「あたしも持ってるのよ、お月さま」
そこにいた小さな少女に快斗は更に驚いた。
見た目だけなら小学生の哀と大差ない。
目の覚めるような明るいブロンドにこぼれ落ちそうな蒼い瞳。
どこから見ても東洋とは縁のなさそうな少女だ。
だからこそ、こんな時間のこんな場所にいるのが不自然だった。
「……君は?」
「あたし、メイ」
「メイちゃんはどうしてこんなところに?」
不思議な少女だった。
舌足らずな話し方は年相応の少女らしいのに、落ち着きすぎた気配が違和感を与える。
「ここにいれば逢えると思って」
「逢えるって……誰に?」
ふふ、と少女は愛らしく笑う。
けれどどこか悲しそうに見える笑みだった。
「もちろん、あなたにも会いたかったのよ。ほかの人にもね。使命はわかってるもの。
でも誰より、彼に逢いたかったの」
逢って、言いたかったの。
あの時言えなかったから――
あたしはずっとあなたが大好きよ、って。
数分後、少女を抱えた快斗は白牙のいる部屋へと駆け込んだ。
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