隠恋慕
輝石乱舞 6
『――Aブロック、解除。Bブロック、解除。Cブロック、あと十五秒、……解除』
インカムから聞こえる声を頼りに、快斗は音もなくするりと身を滑らせた。
暗闇を駆け抜ける白い影はまるで夜を彷徨う亡霊のようだ。
『いい? システムが修復するまで僅か六十秒。その間に脱出できなきゃアウトよ』
「……了解」
ニッ、と歪む口元は、大胆不敵な怪盗に相応しいシニカルな笑み。
たった六十秒、されど六十秒。
それだけあれば、この自分には充分すぎる時間だった。
『Eブロック、解除。次を左に、その角にある扉で――チェックメイト』
カシャン、という微かな音とともに全ての明りが消える。
快斗お手製の特殊装置によって建物内のブレーカーを落としたのだ。
暗闇に非常灯の心許ない明りだけがぼうと灯る。
俄にそこかしこから焦りに満ちた気配が漂う中、快斗は迷わず目の前の扉を潜った。
中にいるのは――
「今晩は、総監殿」
流暢な台詞とともに優雅に一礼してみせた怪盗に、中国警察の中枢人物、英嶺総監は渋面を驚愕に変えた。
「初めまして、怪盗キッドと申します。予告もなくこのような深夜に来訪致しました非礼、どうぞお許し下さい」
シルクハットを取ることなく腰を折れば、相手も総監を務める男なだけあって、その場はすぐに緊張に満ちた空気で支配された。
眉間の皺も深くこちらを伺う英嶺にキッドは微妙な間隔を保ったまま一枚の紙を放り投げた。
そんな動作すら計算尽くなのか、紙は弧を描いて英嶺の足下へと静かに着地する。
彼は警戒しながらもゆっくりとした動作でその紙を拾い上げた。
「それは、私が手に入れた万海についての資料です。この怪盗めを信頼頂けるのであれば、どうぞそれは貴方の懐へと仕舞って下さい」
秘密ですよ、とでも言うようにキッドは指を口元へと宛う。
英嶺は眉間の皺を更に深めた。
「……何のつもりだ」
「おや、お気に召しませんか? それならば私はすぐにでも退散致しますよ」
からかうように笑みを浮かべれば、苛立った英嶺が声を荒げながらその紙を引きちぎった。
散り散りになった紙はぱらぱらと床に散らばる。
「馬鹿にするな。怪盗如きの戯言を真に受けるほど私は愚かではないぞ」
「おやおや、勿体ない。それにはおそらくあなた方が五年かかっても手に入れられないだろう情報が書かれていたと言うのに」
そんな英嶺の行動すら計算尽くだとでも言わんばかりにキッドは飄々と肩を竦めた。
引きちぎられた紙をひとつ拾い上げ、右手の人差し指をそれに向かって翳す。
そしてスリーカウントを唱えたかと思うと、欠片だった紙切れはキッドの手の中でたちまち一枚の紙に戻った。
その鮮やかなマジックに、そんな場合でもないのに英嶺は思わず目を奪われてしまう。
キッドは今度は放ることなく、コツコツとかかとを踏み鳴らしながら英嶺へと歩み寄り、身構える相手に何のてらいもなくその紙を手渡した。
「私は――」
非常灯の明りを反射したモノクルがきらりと光る。
「――万海を憎んでいます。私の宝を傷付けようと、私の宝玉を奪おうとするあの男が憎い。私の信念と穢れなき私の女神さえ許してくれるなら、たとえ法や国が許さずとも、私はあの男を葬り去ることでしょう。
しかし、私の女神は心寛く心貴い、絶対なる真理の光なのです。
私は闇に囚われた愚かな罪人。本来ならあなた方とは相容れぬ穢れし存在。けれど、我が女神のためならば、私は信念をねじ曲げてでもあなた方に助力致しましょう」
間近に仰ぐ表情が意外と若い。
重低な渋い声に似合わずその声には猛々しさがあり、英嶺は目の前の怪盗が己の認識より遙かに若いのではないかと思った。
そしてそれは決して間違いではなく、また怪盗自身もそれを隠す気がないのか、シルクハットを取って軽くお辞儀をしてみせた。
闇を抱える者特有の翳りを宿した悪戯っぽい瞳がキラリと光る。
けれどそれを見てとれたのも一瞬で、次にキッドが顔を上げた時にはまるで幻のように消え失せていた。
「それでは、魔法が切れる前に私は退散致します。けれど総監殿、どうかこれだけはお忘れなきよう。貴方が望みさえすれば、この魔術師はきっとその期待に応えることでしょう。ただし、チャンスは一度きり。どうぞ貴方が思うまま、御心が命ずるままになさいますよう……」
ぱっと部屋に明りがつく。
落ちていたブレーカーが戻され全てのシステムが修復されたのだ。
けれど当然の如くこの部屋には英嶺総監ただひとりしかいない。
今の今まで目の前にいたはずの怪盗はまるで魔法のように跡形もなく消えていた。
英嶺は唯一の証拠である手の中の紙を見た。
白い上等の紙――先ほど破ったそれと同じ――に、丁寧な中国語で書かれている文字。
それに素早く目を通して、ぐしゃりと握り潰した。
まるで暗号のような言葉遊びでそこに書かれているのは「日時」と「場所」だった。
その他の具体的内容は読み取れないが、要はその時間のその場所に来いという呼び出し状だ。
万海逮捕に手を結ぶ気があるならここへ来い、と。
確保不能とまで言われる二十世紀最大の国際的犯罪者が、動機は分からずとも万海逮捕に協力すると言っている。
中国警察にとってこれ以上ないおいしい話だ。
けれど同時に、これ以上ない屈辱的な話でもあった。
犯罪者を捕まえるために犯罪者を使う。
確かに有効な手段かも知れない。
けれど、英嶺はどうしてもその方法が好きになれなかった。
ただでさえ彼は白牙というかつて世界最凶の殺し屋と呼ばれた犯罪者を抱えているのだ。
白牙にしたって本当ならば更生させて社会に適合させなければならないのに、自分ひとりの意見を押し通すわけにもいかず、ずるずると膠着状態が続いている。
その上更に怪盗キッドまでなど、彼にしてみればとんでもない話だ。
けれど。
「――宝玉、か……」
それは、あのもと殺し屋が時折口にする言葉と同じだった。
己の罪を自覚しその闇に彷徨うことを己に強いるようなあの男が、その言葉を口にする時ばかりはいつも曇りのない瞳をするのだ。
そして、あの怪盗も然り。
切っ掛けは、ほんの少しの興味だった。
けれど、その興味が後の彼の人生にどれほどの影響を及ぼすかも知らず、せめてこの暗号を解読するくらいならばいいかと、英嶺はくしゃくしゃになった紙を胸ポケットに仕舞い込んだのだった。
扉を抜け、塀を飛び越え、白い影が駆け抜ける。
快斗は外していたインカムを再び付けると、連絡を待っていたメイへと呼び掛けた。
「任務完了!」
『ギリギリね。首尾は?』
「上々!」
弾む呼吸の合間に応答する快斗に、メイは静かに問いかけた。
『……食いついてくると思う?』
「多分ね。予想通り初めは拒否されたけど、二度目はきっと食いついてくるよ」
『随分自信があるのね』
「当たり前だよ。だって――」
とびきりのエサを用意したからね。
そう言って快斗は危うい笑みを浮かべた。
もとより、初めから食いついてくるような魚など釣る気はないのだ。
国の、警察の、引いては己の利益ばかり見ているような男なら使い物にならない。
けれど英嶺は警察の人間としては非常に理想的な男だった。
正義感を持ち、己と他者に厳しく、時には意固地に見えるくらい善悪に拘る男。
自分たちが必要としていたのはまさしくそんな男なのだ。
万海を相手に快斗とメイの二人だけではどうにもならない。
だからと言って警察は頼りにならないし、頼りの白牙は警察の統制下でしか動けないし、警察の人間である伍などは論外だ。
双方ともに分が悪い。
それならば一部だろうと手を組む方が実際的だ。
敵の敵は友とまでは言わないが、同盟くらいは組める。
『そう言えばずっと気になってたんだけど、どうやって総監を釣ったの?』
白牙や伍と分かれ、警察――英嶺総監と手を組もうと言い出したのは快斗だ。
中国警察の中枢人物の彼がどんな男か知らないはずもないだろうに、そんなことを言い出した快斗にメイも初めは反対した。
けれどその反対を押し切られてしまったのは、こちらにはとびきりのジョーカーがあるからと快斗が言い張ったからだった。
そのとびきりのジョーカー、とびきりのエサとは何なのか。
けれど快斗はただ笑みを浮かべるばかりで、悪戯っぽくこう言うのだ。
「内緒だよ♪」
* * *
白牙は初め、それが信じられなかった。
何度も何度も読み返し、それでも納得いかずにまた読み返す。
それと言うのも、信じられないと言うよりそこに書かれていた内容を信じたくないからだった。
「そんな……」
まさか、と思う。
けれどその可能性を絶対に否定することが白牙にはできなかった。
白牙はこの数日、総監の命で万海のここ一週間の行動を洗いざらい調べ上げた。
たった三日という猶予しか与えられなかったけれど、それでも白牙には充分で、二日と半日で在宅時に彼がどの部屋にいたのかまでほぼ完璧に調べた。
その中で目に留まったのは、四日前の万海のスケジュールだ。
八月六日の夜、万海は大富豪の張家の自宅に訪れていた。
あの男がそこで何をしていたのかまでは知らない。
けれど、その日その夜その時刻は、まさに怪盗キッドが張家に予告を出し月下白を盗み出した時刻だった。
あの男が何の目的もなく張家にいたとは考えられない。
わざわざキッドの予告時間を狙ったとなれば、目的は間違いなく怪盗キッド――快斗だ。
つまり、あの夜、快斗は万海と接触していたことになる。
「……まずいな」
白牙には、あの男が生きた厄のような存在であること以上に、快斗と万海を引き合わせたくない理由があった。
いつかは真正面から立ち向かわなければならないと思う。
けれど、そのいつかを今とするにはまだ早い。
白牙はパソコンの脇に置かれていた携帯電話を手に取ると記憶していたナンバーを素早く押した。
十数回のコール音の後に漸く相手が出る。
『……悪いが今取り込み中なんだ、後でかけ直してくれ』
伍は幾分やつれたような声をしていた。
けれど、
「――緊急事態だ。すぐに来てくれ」
返事も待たずに切れたその呼び出しに、伍は一時間後にはもう白牙の部屋に来ていた。
「……それで、何が起きたんだ?」
几帳面できれい好きな男が、無精髭を生やしカッターにネクタイも締めずに、開口一番にそう言った。
それだけで伍が今どれほど大変な任務に就いているかが白牙にも分かったが、そんなものは二の次だとばかりにプリントアウトしておいた資料を突き付けた。
「万海の行動記録だ」
「! ……もう仕上げたのか。しかもこんなに細かく……」
「良いから、八月六日のところを見てみろ」
言われ、伍は素直にそこに目を通した。
初めは何が何やらわからなかった伍の表情が次第に険しくなっていく。
自分と同じように何度も同じところを読み返す伍に、白牙は資料を取り返しながら言った。
「快斗が危ない」
それに、伍は頷きを返すことしかできなかった。
「だが、彼は月下白を無事手に入れたと言っただけで、万海と会ったなんて言わなかったぞ。おまえの思い過ごしじゃないのか?」
「あいつを甘く見るな。あんなガキでもどでかいもん抱えて踏ん張ってる男だぜ。ポーカーフェイスは快斗の十八番だ」
それを見抜けなかった自分も鈍ったものだが、今はそんなことをどうこう言っている場合じゃないと白牙は首を振った。
確かに快斗はポーカーフェイスがうまい。
けれど、仮にも同じ敵を相手に同じものを守ろうとしている自分たちに、その敵と遭遇したことを告げなかった真意は何か。
あの男と何かがあったのかも知れない。
では、その何かとは一体何か?
そう考えれば、行き着く答えなどひとつしかなかった。
「……伍、今すぐあいつらに連絡を取ってくれ」
「良いのか? 警察や奴らに知られるとまずいから連絡を入れないと言ったのはおまえだぞ?」
「手遅れになってからじゃ遅い。快斗は万海と接触してる。それなら、あいつをあの男から隠すだけじゃ駄目だ」
――護らなければ。
そうして顔を歪めた白牙が何を思っているのか、伍にはとても分からなかった。
けれどひとつだけ分かることがある。
快斗は御子を護る同じ守護者ではあるが、白牙にとっては快斗も新一と同じように大切な存在なのだ。
普段は厳しく時に残酷な師でありながら、常に快斗の父や兄のように彼を守ろうとしている。
どうしてかなど知らないし、知ろうとも思わないけれど。
「分かった」
伍はだらしなく開けていたカッターの胸元を閉じると、ポケットから取り出したネクタイを締めた。
「どうにか警察の連中にばれないように連絡を取ってみよう。その間、黒星の監視が厳しくなるがどうする?」
「俺がやる。総監に言われた資料も揃えたし、今回は前線に出られないそうだからな」
「……あまり無茶はするなよ」
三日前に快斗にも同じことを言われた白牙はやはり嫌な顔をしたが、素直に頷いた。
けれど、必要とあらば何でもするぞと、その瞳が裏切っていることに勿論伍は気付いていた。
「万海が動けばすぐに連絡を入れる。おまえも黒星が動いたら少なくとも連絡は入れろ。あの子たちと連絡が取れ次第俺も黒星の監視に戻るからな」
「了解、警部」
敬礼の真似をして見せる白牙を軽く笑い、伍は部屋を後にする。
そのたった数時間後に事態はとんでもない方向へと進んでいくのだが、この時点でそれを知る者は大胆不敵な怪盗ただひとりだけだった。
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