隠恋慕
輝石乱舞 7
「彼とのデートは四日後に決まったよ」
何十万とする高価なグラスに注がれたシャンパンをゆらゆらと揺らしながら、万海は眼下に瞬く夜景をひどく楽しそうに見遣った。
もう何十年も前にここから見える景色全てを手に入れた。
自分に手に入れられないものなどないと、万海は信じて疑わない。
それをよく知る黒星はそんな彼を心底蔑んでいる態度を隠そうともせず、言った。
「八月十五日か……当然警察も動いてくる。どうするんだ?」
「ふふ、警察など初めから眼中にもないよ」
英嶺は確かに優秀な男だ。
だが、慎重すぎてここぞと言う時にまで引いてしまうクセがある。
そんな男では万海ほどにも増大した悪を摘むことはできない。
おそらく実際に無茶を仕掛けてくるのは、白牙とよく連んでいるあの伍警部だろう。
彼はまだ三十代半ばという若さだが、あの眼鏡の奧にどこか万海と似た、獰猛で飢えた獣のような目を持っている。
あれは心の奥底に何か満たされない欲求を抱えている者のそれだ。
自分に何か仕掛けてくるとすればきっとあの男だろう。
だが、所詮は綺麗な場所に生きる男だ。
汚れを知らない人間が汚れた場所に生きる男と同等に闘えるはずがない。
つまり、万海が気を付けなければならない相手はふたり――白牙と怪盗キッドだけ。
けれど、万海はそれすら気にも留めないとでも言うように笑うのだ。
「私は既に彼らの宝を手にしているからね」
万海の口元には酷薄な笑みが浮かんでいる。
黒星は背筋を冷たい汗が走り抜けるのを感じた。
この男はかつて最凶と言われた殺し屋白牙よりも、人間の腹の中身を売り買いする黒星よりも、もっとずっと恐ろしい男だった。
「精々、楽しませてもらうとするよ」
可愛い可愛い、息子たち。
* * *
白牙が伍を呼び出した日の翌日、二人は英嶺総監に呼び出され、署の会議室を訪れていた。
時間に煩いはずの呼び出した本人はよほど多忙らしく、やや遅れ気味だ。
伍は二人きりなのを良いことに真剣な表情で昨夜の件について切り出した。
「連絡は取れなかったぞ」
「……なに?」
顔をしかめた白牙が深く凭せ掛けていた体を起こしながら答えた。
「様子を見ながら何度か電話して見たんだが、一度も出なかった」
「……外出してるってことか?」
「いや。ホテルの方に確認したが、チェックアウトしているそうだ」
「な……っ、あいつらだけでどこへ行くってんだ!」
「分からない。彼女には行く宛などないだろうが、快斗にはコネがあるかも知れない」
けれど、何より今問題なのは――
「今この時に連絡が取れないと言うことは、間違いなく今度の件で動いていると見て間違いないだろう」
今回の件には関わるなと別れ際に釘を刺しておいたと言うのに、つくづく人の言うことを聞かない連中だと、白牙はきつく唇を噛みしめた。
或いは初めから快斗はそのつもりだったのかも知れない。
あの時の快斗は素直すぎたと、確かにあの時自分は感じたと言うのに。
「……つまり、快斗は万海と接触していたと言うことか」
「おそらくな」
「――くそっ!」
やり場のない感情が拳となってテーブルに打ち込まれる。
万海が何を思って快斗に接触したのかは分からないが、どうせろくなことではないに決まっている。
白牙がキッドとともにいたことは日本で接触した黒星に知れているのだから、それを万海が知っていてもおかしくない。
もしその事実を万海が知っているのなら、彼がキッドに接触を図るのも当然と言えば当然だ。
もしかしたらキッドも美煌のように白牙を捕らえるための捨て駒にされるかも知れない。
そう思えば思うほど白牙の焦りは募ってゆく。
けれど、動揺した白牙が何かを口にする前に、会議室の扉が開かれたためにその話はそこまでとなった。
数分の遅刻の後漸く現れた英嶺の顔は心なしやつれて見えた。
けれど体調が優れず顔色が悪いと言うよりは、心中に抱える何か複雑な感情がそのまま彼の表情を曇らせているように感じた。
英嶺は遅刻を詫びるわけでもなく、伍と白牙の顔を見るなりひとこと――
「……四日後、万海が動く」
二人の顔つきががらりと変わった。
伍の表情は敏腕警部らしくぐっと引き締まり、白牙の表情は怒りと恐れが入り交じった複雑なものになった。
「現場の指揮は伍、おまえに執ってもらう。必要とあれば警官三百人ほど充ててもいい」
「はい」
「それから……白牙。不本意だが、おまえも現場に出すぞ」
「……望むところだ」
白牙の目がまるで猛獣のそれのように危うく光る。
その様子を目を細めて見遣りながら、だが、と英嶺は付け足した。
「だが、単独行動は絶対に許さん。常に私とともに行動しろ」
これには白牙も伍も驚いた。
つまり、今回は英嶺までもが現場に出陣すると言うことだ。
相手が万海であれば仕方のないことだが、それにしてもあんなに毛嫌いしていた白牙とともに行動しようとは、どういう心境の変化なのか。
「勘違いするなよ。私はおまえを信用しないし、認めもしない。ただ――」
言いかけた口を閉ざし、英嶺は渋面をさらにしかめた。
「とにかく、当日のおまえの行動は、呼吸ひとつだろうと私の許可なしにはできないものと思え。全ての命令は私が出す。何があろうと、……たとえ万海が目の前に現れようと、私の側を離れることは許さない」
いいな、と念押しされ、白牙は素直に頷きながらもどこか納得していない表情で言った。
「……ひとつ聞きたい。なぜ四日後に万海が動くと分かったんだ?」
今までどんなに執拗に追い回しても決して尻尾を掴ませなかった男だ。
その男がここにきて急にへまばかりすると言うのは不自然すぎる。
英嶺ほどの者がそのことに気付かないはずもないと言うのに、なぜそのあからさまな罠に自ら飛び込むような真似をするのか。
すると英嶺は相変わらずの渋面のまま言うのだ。
「四日後、怪盗キッドが犯行予告を出した。奴が言うには、万海は必ずそこに現れるそうだ」
後の話は他の連中と合同で行う、とだけ言い置いて、英嶺はさっさと会議室を出ていってしまった。
残された白牙と伍は、あまりの衝撃に暫く声を出すこともできなかった。
四日後、怪盗キッドの予告現場に万海は現れる。
つまりそれは、五日前の夜、キッドと万海は接触していたと言う証に他ならない。
それどころか、ふたりの間に何らかの遣り取りがあったことすら裏付けている。
万海は自ら危険な橋を渡るような真似をしない。
その男が自らその橋に足を踏み入れようと言うのだから、何か余程の理由があるに違いない。
それは分かった。
分かったけれど、白牙は信じられなくて――信じたくなくて、何度も何度も考え直した。
考え直し、理解し、否定し、考え直す。
けれどその度に出てくる答えは変わらず、何度もその一連の思考を繰り返した後、白牙が漸く口に出せた台詞と言えば、
「……ちくしょう!」
そんなものだった。
「なんでだ? なんで大人しくしていない! 快斗も美煌も、あの男の怖さはよく分かってるはずだろう!」
「……白牙」
「伍、すぐになんとしてでもあいつらを止めないと、とんでもないことになる」
「分かってるから落ち着け、白牙」
「落ち着け? ……俺は落ち着いてるさ!」
「いいや、今のおまえは冷静さを欠いてる」
「馬鹿言うな! ……いや、そんなことはどうでもいい。そんなことより、伍、一刻も早くあいつらを……!」
ここが警察署内だと言うことも忘れ語気荒く言い放つ白牙。
けれど、尚も口早に言い募る白牙を抑え、伍が言った。
「今のおまえと快斗なら、快斗の方がまだ冷静に行動しているぞ」
「……なんだと?」
その聞き捨てならないならない台詞に白牙は伍をきつく睨み据えた。
「あいつは万海と接触しておきながら俺たちにそのことを話さなかった。それのどこが冷静な行動だってんだ!」
「確かに彼は万海と接触した。彼はそのことを俺たちに話すべきだったが、もしそれが俺だったとしても、おまえには話さなかっただろうな」
「……なんで!」
「冷静に考えれば分かる。おまえは万海のこととなるとすぐ冷静さを欠くからだ。それはもちろんおまえの過去に万海との関わりがあったからだろう。
だが、おまえがあの男に〝彼〟を渡したくないように、俺たちもおまえをあの男に渡す気はない。それは快斗も同じことだ。そうだろう?」
違うか、と聞き返され、白牙は言葉に詰まった。
伍はやれやれと溜息を吐く。
この元殺し屋という大層な肩書きを持つ青年は、伍など思いも寄らない死線を何度も切り抜けてきたと言うのに、なぜかこんな単純なことがわからないのだ。
おそらくそれこそが白牙にとって唯一最大の弱点とも言うべき欠点だろう。
それは肉親と呼ぶべき存在を持たず、尊敬していた師を奪われ、愛する者を失い、大事な友に先立たれた白牙の哀しいトラウマだ。
血に飢えた白い牙。
それは彼を知らない連中が勝手に創り上げたイメージに過ぎない。
なぜなら、その牙が血に濡れるのは大事な何かを守る時だけなのだ。
彼は殺し屋ではなく、生きていくために敵に牙を剥く虎――野生動物なのだから。
* * *
カツカツとコンクリートを蹴りながら、英嶺は昨夜のことを思い返していた。
昨日彼はあるホテルの一室へと招待された。
招待主はあの小憎たらしい怪盗キッド。
わざわざ行かなくてもよかったのだが、あの暗号を解読してしまった以上、彼はそこに行かないわけにはいかなかった。
そこへ来て、まず初めに英嶺がしたことは、後悔だった。
なぜあの暗号を解いてしまったのか。
どうしてこんなところまで来てしまったのか。
なぜ、どうして――
けれどどんなに後悔したところで、国際犯罪者相手にひとりの連れもなく、包囲網も引かずに、英嶺はこの場所へと来てしまったのだ。
受け取った暗号を解読し、日時と場所以外に記されていたものに驚愕した。
解読には時間がかかったが、あの停電の日にキッドが現れたことを言いそびれてしまった彼は自分の力で解読しなければならず、けれどそのおかげでこの事実を知るのは現在のところ怪盗と彼のたった二人だけだった。
英嶺は、何としてもそれが真実かどうか確かめたかった。
確かに万海を逮捕するための強力な切り札にもなる。
けれど、もしそれが真実ならば、極力その情報が外部に露出しないようにしなければならない。
なぜならその切り札はあまりに強力すぎて、それ自身の命をとても危うくするものだからだ。
英嶺は約束の時間ぴったりにその扉を開けた。
目の前には、数日前と変わらぬ仕草変わらぬ微笑で佇む怪盗の姿がある。
その怪盗が佇む横に置かれた豪奢な椅子にはひとりの小さな少女が座っていた。
「ようこそ、英嶺総監。今宵の晩餐にお越し頂き、恐悦至極に御座います」
常より畏まった口調で詠うように囁きながら、怪盗は優雅に腰を折って一礼した。
少し癖のあるブロンドが腰のあたりまで伸びた、ぱっちりと大きな青い目をした少女は、瞬きをする外は微動だにせず、静かに腰を下ろしている。
彼女はいったい誰なのか、彼は自分を呼び出して何をさせたいのか。
疑問符だらけの英嶺が何も言わずに突っ立っていると、
「どうぞ、お掛けになって下さい。話はそれから致しましょう」
キッドは英嶺に真向かいの椅子を勧め、自分は少女を抱き上げてその椅子に座った。
英嶺は相変わらず警戒を解かないものの、勧められたままに椅子に腰掛けた。
「――さて、」
切り出したのは、怪盗。
「まず、何より貴方が聞きたいのは、おそらく私があの手紙に書いた内容についてでしょうね」
「……そうだ」
「暗号は解けました?」
「解けてなかったら、わざわざおまえに会いに来たりなどしない」
ごもっとも、と言ってキッドは唇を歪めた。
「では、率直に申し上げましょう。あれに書かれていたことは全て真実です。残念ながらお見せできる証拠はありませんが……」
そこで、キッドに抱かれていた少女がぴょんと膝の上から飛び降りた。
細いブロンドがきらきらと光を弾く。
それまでは堅く口を閉ざし、まるで人形のようだった少女は、英嶺へと歩み寄りながら、とても七歳の子供とは思えない口調で言った。
「あたしはメイ・スコット。貴方たちが最凶と呼ぶ、元殺し屋のかつてのフィアンセよ」
英嶺は胡散臭そうに目を細めた。
「では、おまえが残したあの手紙に書かれていたあれは、その少女だと言うのか?」
「〝万海は己の欲を満たすために白牙の大事なものを奪おうとするだろう。そしてそれは私の手にある――〟
貴方がそれをどう取ったのかは存じませんが、それは彼女でもあり私自身でもあります。しかし、真にそれの指すものが何かは、貴方は知らなくていい」
むしろ知らない方が――関わらない方がいい。
そう言った怪盗の口元には笑みの欠片すらなく、英嶺はなぜか踏み込み難いものを感じた。
「……たとえそれが真実だとして、私が信じると思うのか?」
「もちろん思いません」
「ならそれを私に話してどうするつもりだ」
「貴方はただ知っていればいい。別に、彼女が白牙のフィアンセであることも、私と白牙に繋がりがあることも、貴方は信じなくていいのです。
ただ、私は貴方をこの闘いに招待したけれど、決して踏み込んではならない領域があることを貴方が知ってさえいればいい。
これからお話することこそが、貴方にとって重要なのです」
キッドは組んだ両手に深く顎を預けながら話している。
その背中には大きな窓があり、そこから差し込む月明かりが逆光となって彼の顔を暗く覆っている。
彼がこれから何を話そうとしているのか分からないが、英嶺は軽く唾を飲み込んだ。
「先日、私はとある富豪に予告を出しました。そこには張家の主人とあの男、万海がいました。そして彼は私にこう言ったのです。
――〝私のものになれ〟、と」
英嶺は驚愕した。
今夜はいろんなことが起きたけれど、今のこの瞬間が最も驚かされただろう。
私のものになれ――
その言葉の意味を英嶺は正確に理解していた。
かつて白牙があの男にそう言われ、執拗に追い回され、あらゆるものを奪われて、それでもこうして強かに生きている。
その男が次に目を付けた相手が、目の前のこの怪盗キッドだと言うのか。
けれど、その言葉にいち早く反応したのは、意外にもキッドとともにいた少女メイだった。
「なにそれ――聞いてないわよ!」
綺麗なブロンドを振り乱し、勢いよくキッドの眼前へと飛び込む。
「そんなことがあったなんて、聞いてない! これじゃあ白牙を助ける前に貴方が危ないじゃない!
なんで……? なんで言わないの? あたしたち、同じ宿命を背負った運命共同体じゃないのっ?
なんであんたたちはいつもそうやって何も言わずに無茶ばっかりするのよ……!」
メイの目元には涙が溜まっていた。
彼女の魂は一度死を経験しているのだ。
それもただ死ぬのではなく、愛する者の手によって殺された。
その苦しみがどれほどのものか、それは彼女にしか分からない。
けれどキッドはそれすら予想していたかのように、焦る風もなく落ち着いた声で窘めるように言った。
「俺はね、メイちゃん。自分の命が少しも惜しく思えないんだ。それどころか、世界中の誰がいつどう死のうが、知ったことじゃないんだ。それはたとえ俺の身内だろうと、友人だろうと、……仲間だろうと、同じことなんだ。ただ――あいつさえ守れればそれでいい。多分、そこが俺と白牙の違うところだ。
白牙にはメイちゃんがいるし、救ってくれた大事な人も、もちろんあいつもいる。けど俺は、多分最終的には、あいつさえ生きているなら、後の全ては切り捨てられる。
あの男は俺と白牙のその差に気付いたんだと思う。だから――俺に跡目になれと言ってきたんだと、思う」
俺って冷たい男だろ。
そう言って笑ったキッドに、メイは堪えていた涙をこぼした。
彼らはいったい何を抱えているのだろう。
年端もいかない少女と、国際的犯罪者である怪盗キッド、そしてかつて最凶と呼ばれた腕を持つもと殺し屋。
英嶺にしてみればまるで繋がりなど見えないのに、けれど彼らはどこかで強く深く繋がっている。
宝玉とはなんなのか。
〝あいつ〟とは誰なのか。
彼らを繋ぐのは、その中心にいるのはどこの誰なのか。
けれど。
「……おまえたちがどこの誰でも構わん」
英嶺はいつもの渋面に少しだけ哀しげな色を滲ませていた。
「おまえたちを信用はしないが、信頼はしてやってもいい。私は私の部下をあの男に渡す気はない」
……それでいいなら、協力しよう。
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