隠恋慕
輝石乱舞 9
純白のタキシードにマントとシルクハット。
まるで夜の闇を払うかのように派手なその衣装。
この国での犯行はまだ二度目だが、あまりに有名なその派手な出立は手配書にしっかりと記されている。
夜に生きる白い鳥――
それは、怪盗キッドだった。
キッド、と口々に自分を呼ぶ全ての声を無視して、キッドはただ陽だけを見つめた。
綺麗な顔を涙でくしゃくしゃに歪めた彼女はまだ事態を飲み込めていない様子だ。
ただ呆然としている。
キッドは怯えさせないよう彼女の前までゆっくりと歩み寄ると、固く握りしめられていた震える手を取り、その手の中にそっと何かを置いた。
彼女の視線がその後を追う。
やがてそれが何かに気付いた彼女が瞠目した。
「預かりものです。それから、伝言も。〝ごめん〟、それから〝ありがとう〟と」
彼女の瞳が潤み、途端にわっと泣き出した。
それまで支えていた総監の手を振りほどき、怪盗のスーツに縋り付く。
キッドは慰めるための手を差しのばそうとはしなかったけれど、決してその手を振り払うこともなかった。
「……どういうことだ?」
それまで傍観していた白牙が眉間に皺を寄せて尋ねてきた。
けれどキッドはその問いを笑顔で黙殺した。
「残念ながら、今は悠長にそんな話をしている時ではありません。
――……黒幕が、いらっしゃいましたから」
漆黒の髪を後ろで緩く編み、白い袍に身を包んだ長身の男。
緊迫した空気を気にも留めず、悠々と歩み寄る。
まるで彼の性質をそのまま現したかのように服には汚れひとつ、皺ひとつない。
神経質と言うよりはどこか人間らしさを欠いた、緻密な機械人形とでも言うべきか。
その、独特の雰囲気は彼――万海にしか持ち得ないものだった。
その後ろに付き従うように、ひとりの小柄な男が同じく歩み寄ってくる。
黒髪を全て後ろへと撫で付けたために顕わになった大きな吊り目が、油断なくこちらの動向を窺っている。
――黒星だ。
中国警察がこの何年もの間、何度となく取り逃してきた大犯罪者二人が、揃って総監や警部の前に堂々と顔を晒している。
舐められたものだと、伍はきつく唇を噛みしめた。
「解体、ご苦労さまです。近隣の住民に被害が出なくて何よりですね、総監殿」
「……わざとらしい戯言を吐くな。慈善家の大富豪が指名手配犯と連んでいることへの言い訳を、ぜひ聞かせて貰いたいものだな」
万海の口元に薄く刻まれた皺が深みを増す。
彼は微笑っていた。
見た目にはひどく穏やかに、そしてひどく優しげに。
けれど、見る者が見れば分かる。
白牙やキッドのように、一度でもこの男の昏く凍った部分を垣間見たことのある者であれば、この笑みが優しさや穏やかさとは無縁のものであるということが。
「そう人を刺激するものではありませんよ。私はただ、私の息子に会いに来ただけなのだから。
ねえ――白牙」
びくりと、白牙の肩が大仰に揺れるのをキッドは見逃さなかった。
思わず舌打ちしそうになる衝動をぎりぎりで堪える。
この男は未だ白牙の意識の大半を蝕む細菌だった。
声ひとつ、微笑みひとつで、過去に白牙が味わわされた恐怖をいとも容易く蘇らせる。
ただそれだけで、最凶とまで言われた殺し屋の動きを封じてしまえる。
キッドは白牙の前に立ち塞がるように一歩進み出た。
「可笑しなことを仰る。貴方は彼に会うためだけに、か弱き女性にこのような無体を働くのですか」
万海の視線がちらとこちらに向けられる。
無機質な光が背筋を強張らせる。
それでも。
「そのために――」
それでも、この怒りを消すことはできない。
「彼女の夫を人質にとってまで、彼女にこのような真似をさせるのですか」
伍が言葉を失ったように息を呑んだ。
総監の深く刻まれた眉間の皺がより深さを増す。
二人は今になって漸く、彼女が何を抱えていたのかを悟った。
これは自分の罪なのだと、彼女は言った。
爆弾を処理しようとした時、激しく抵抗された。
そして漸く解体が終わった時、安堵と歓喜の声を掻き消すように、彼女は狂ったように声を張り上げて泣いた。
彼女は夫を人質に取られていたのだ。
そのために、震えながら涙を流しながら、爆弾を体中に巻き付けてこんな場所までやって来た。
全てはこの男の卑劣な思惑通りに。
「そんなに威嚇しなくとも、初めからソレを爆破させる気などなかったのだよ、怪盗キッド。
君を殺してしまっては元も子もないだろう?」
聞き分けのない子供を諭すように、万海は穏やかに言い募る。
「彼女には気の毒なことをしたと思うけれど、もともとここに入ることだけが目的だった。まあ時間内にソレが解体されなければ爆発していただろうけれど、白牙、おまえがいるのだから心配ないと思っていたよ。結果的に誰も死ななかったのだから何も問題ないでしょう?」
――まあ、貴方のご主人には死んで頂く予定だったのですが。
微笑いすら浮かべながら事もなげにそう宣った万海に、伍は頭に血が昇るのを感じた。
陽はまだ年若い、けれど将来有望な刑事だった。
伍は捜査をする時に彼を連れてまわることが多かったし、目を掛けてもいた。
大小問わず流血の絶えない毎日だったけれど、それが伍の日常だった。
大した変化のない、それでも大切な日常だったのに。
その日常を、その尊さを何一つ知らない他人に土足で踏み荒らされて、どうして黙っていられるだろう。
けれど伍の怒りを静めるように、そして自身も幾分怒気を孕んだ声で総監が静かに言った。
「……もう逃場はないぞ、万海」
怒りは理性を壊す。
それがどれほど危険なことか、伍もよく分かっている。
その男の理性をあっさりと壊そうとする万海は、さすがに幾百もの人々の人生を狂わせてきただけの男だ。
けれど、いつまでも思い通りになると思われては困る。
確かになかなか逮捕に漕ぎ着けることはできなかったが、それでも中国警察が何もしてこなかったわけではない。
この男を裁くため、地道すぎるほどに下地を固めてきたのだ。
その下地を、今使わずにいつ使うのか。
「今まではうまく逃げられてきたが、これほど明確な証拠を掴まれればさすがの貴様も逃げられまい」
途端、万海が声を上げて笑った。
目も口も笑っているのに、腹の底から何ひとつ笑っていない声。
壊れた機械のように、同じ音を等間隔で繰り返す正確さで嗤っている。
その異様な光景に寒気を覚えずにいられる者がいるだろうか。
やがて万海は笑みを刻んだ顔のまま言った。
「もう逃げる必要などありませんよ。なぜなら、私は見つけた――白牙、おまえの代わりを、私はすでに見つけているんだよ」
白牙に向けていた視線をキッドへと向ける。
キッドは無言で佇んだまま微動だにしない。
万海はキッドに向けて右手をすっと伸ばした。
「さあ、怪盗キッド。大人しく私のもとに来てくれるね?」
白牙が短く驚愕の声を発した。
声こそ出さなかったものの、伍も目を見開いてキッドを振り返っている。
唯一その事実を知っていた総監だけが窺うような視線をキッドへと向けていた。
けれどキッドはふいに集まったその視線を気にも留めず不敵に言うのだ。
「申し上げたはずですが――下衆の戯れに付き合う気はない、と」
その、まるで挑むような口調。
万海という男の怖ろしさを知る者には決して口にできないような台詞で、キッドは笑みすら浮かべながら挑発する。
確かにキッドは万海がどれほど怖ろしい男なのか、実際のところまだ知らない。
白牙をこれほど追いつめる男がどんな男なのか、把握できていない。
だが、そんなことは関係ないのだ。
死んでも譲れないものがある。
それを奪われないよう、壊されないよう、ただ守るだけだ。
そのためにどれだけの傷をこの身が負おうと、どれだけの血をこの身が被ろうと、ただ足掻き続けるだけ。
「子供だからと甘く見ていると、火傷程度では済みませんよ?」
けれど、それでも万海の笑みは崩れなかった。
その笑顔の裏にどんな策を隠しているのか……
「これが何か分かるかい?」
万海の視線を受けた黒星が懐から何かを取り出した。
丁寧に衣に包まれていたそれが顕わになる。
途端、キッドのポーカーフェイスが微かに崩れた。
僅かに見開かれたその微々たる変化を捉え、万海は満足そうに笑みを深める。
「私たちはこれを月桂と読んでいる。月の光という意味だよ」
月桂。
それは、中国における月下白の名称だった。
「君は過去に二度、この宝石を狙っている。これがただのジュエルなら気にもならなかっただろうけど、月桂となれば話は別だ。
知っているかい? この宝石には多くの謂われがあるということを」
月桂――月下白は、世界に六つしかないと言われる宝玉だ。
最初に発見された時、それらは同じ場所に隠されるようにひっそりと置かれていたらしい。
誰が置いたのか、どう造られたのか、一切が謎に包まれた石。
その輝きに魅せられる人間は多い。
成分は翠玉と酷似していて、それでいて金剛石のような無色透明な輝きを持っている。
だが、その希少性が話題を呼んだのは確かだけれど、月下白の魅力はそれだけではなかった。
ただそこにあるだけでも神秘的な輝きで人々を魅了する石。
けれどその石が主と認めた者の手の中にある時、それは普段とは比べようもなく強い輝きを放つのだ。
まるで幾億もの星を圧し込めたように、まるで夜を照らす月の光のように。
「宝石は持主を選ぶと言うが、この月桂ほどそれが顕著に現れる石はそうないだろうね」
それもそのはずだとキッドは思った。
なぜなら月下白とは、言うなれば白き衣たちの魂の結晶なのだから。
ただのひとりを主と仰ぎ、ただのひとりを守り続ける。
それが宿命であり、使命であり、心からの自分の願い。
「その石を君が狙うには何か理由があると思って、少し調べさせてもらったよ」
その台詞にざわっ、と肌が粟立つ。
嫌な予感がする。
この男はキッドにとって何か良くないことを言おうとしている。
良くも悪くもこの手の直感が外れたことはない。
できることならその口を塞いでやりたくなったが、確かめないわけにもいかない。
キッドはポーカーフェイスを捨て、射殺すほどの鋭さで万海を睨み付ける。
「工藤新一と言ったかな――君の宝は」
――あの時。
夏前の日本で起きた連続殺人事件で黒星を取り逃がした時から、いつかこの日がくるとは思っていた。
彼の存在がこの男に知られてしまう日がくると、分かっていた。
それでも、できることなら彼にはこの男とは関わりのない場所で生きていて欲しかった。
白牙や自分がいる限り、不可能だと分かっていても。
キッドはトランプ銃を構えた。
無感動な心のどこかで特殊装置の落下するカチッ、という音を聞く。
もう何度となくこの装置を外したことがある。
その度に彼に詰られ、叱られ、道を踏み外さないよう何度も手を引かれてきた。
けれど今、その間違いを正してくれる人はここにいないのだ。
できることなら一瞬だって離れてなどいたくないのに、彼はここにいない。
彼を守るためなら自分はどんな過ちでも犯す。
今も、そしてこれから先もずっと、何度でも同じ過ちを繰り返していく。
この男は毒でしかない。
彼を苦しめる毒にしか成り得ない。
もう、躊躇いは、ない。
ガゥン、と唸った銃弾が肉に食い込む。
肋を掠め、筋肉を突き破り、断たれた血脈から行き場を失った血が溢れ出す。
白い衣装に深紅の鮮やかな華が咲く。
左胸の心臓部分を撃たれたはずの万海は、高らかに笑い声を上げた。
「やはり私の跡目は君しかいないよ――怪盗キッド!」
万海の笑い声が木霊する。
その光景に誰も二の句が継げなかった。
確かにキッドは心臓を撃った。
伍が止める間もなく、総監が止める間もなく。
白牙でさえ止められなかったほどの躊躇いのなさで、万海の心臓を撃ち抜いた。
それなのにこの男は胸から血を流しながら倒れることもなく笑っている。
その場にいた者の背筋を冷たいものが伝った。
「君は必ず私のものになる。いずれ、必ずね。それまでこの石は預からせてもらうよ」
万海はくるりと踵を返す。
ほんの一瞬反応が遅れたキッドたちに向けて、いつの間にかぐるりと取り囲むように立っていた屈強そうな男たちが銃を撃った。
爆発物処理班の警官が倒れる。
銃弾の雨をぎりぎりで避けながら白牙が男たちを潰しに掛かる。
陽を庇った伍の右腕を弾が掠める。
二人を隠すように立ちはだかった総監の体のあちこちから血が噴き出す。
それを見た陽と伍、そして白牙が目を見開いている。
その全てを横目で見遣り、キッドは歩き去っていく万海と黒星の後を追おうと走り出した。
今止めなければ、あの男は必ず彼を傷付ける。
それだけは絶対に許さない。
たとえこの場にいる警官が何人死のうと。
陽氏や総監、伍が倒れようと。
白牙が、どれほどの血を流しそうと。
彼を――新一を守るためなら、自分は全てを切り捨ててでもあの男を殺しに行く。
その直後、凄まじい轟音とともに、周囲に炎の渦が立ち昇った。
建物は崩れ、アスファルトは盛り上がり、コンクリートの残骸があちこちから転がってくる。
その中には炎に焼かれ消炭となった人間も混じっている。
こちらに銃を向けていた男たちだ。
キッドは行く手を塞いだ炎に舌打ちし、先ほどの轟音すら気にならない様子で炎の中に飛び込もうとした。
火傷を負うだろうことも、父の形見の衣装が燃えるだろうことも、今のキッドには眼中にない。
ただ新一に害を成すだろう男を追うことしか頭にない。
けれどその手を強く掴まれ、キッドは先に進むことができなかった。
「深追いしなくていいのよ、キッド」
女性の声がした。
どんなに引いても掴まれた腕はびくともしない。
あの男を追うことが――殺すことが、できない。
憎しみすらこもった顔で振り返ったキッドの視線の先にいたのは、ゆったりとした金色の髪を爆風に煽られながら静かな表情を浮かべた、長身の女性だった。
黒のパンツスーツに黒のパンプス、白い肌には綺麗に映えた赤い口紅、そして爪には赤いマニキュアがきっちりと塗られている。
どう見てもこの場に似つかわしくない、少しきつめの美人。
「……ねえ、さん?」
女性は緩く笑みを浮かべた。
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