隠恋慕
輝石乱舞 11
「……あたし、どうしたらいいの……?」
小さな両手を握りしめ、メイは年相応の少女のようにくしゃりと顔を歪めた。
切り捨てると、はっきり告げられたことはショックだった。
けれど、そんな台詞を快斗に言わせてしまったことが、何よりも哀しかった。
「貴方はどうしたいの?」
ベルモットは優しく声を掛けた。
「私たちは月の御子の守護者よ。だけど、私や快斗と違って、貴方には他にも大事な人がいるんでしょう? それを放ってまで来ることはないのよ。だって貴方も私も御子の守護者である前に、ひとりの人間なんだから。大事なのは、貴方がどうしたいかよ」
「……もちろん、すぐにでも快斗の後を追いかけたいわ。あたしにとっても御子は大事な人だもの。だけど白牙を置いてくことはできないし、それに……あたしにはやらなきゃいけないことがある」
唇を噛みしめながら目尻に溜まった涙を堪えているメイを、ベルモットは優しく撫でた。
小さな両手には抱えきれないほど大きなものを抱えてしまった少女。
その無垢な想いがまるで〝彼〟のようで、ひどく眩しかった。
「なら、残ればいいのよ。新一のことは私たちに任せなさい。白牙の手綱を引けるのは貴方と新一だけなんだから、しっかり捕まえておいて頂戴ね?」
それだけを言い残すと、ベルモットはメイの返事も待たずに屋敷を出ていった。
「ちょっと待ちなさい、快斗!」
呼び掛ける声も無視して、快斗はただひたすら無心に進んで行く。
勢いに任せて飛び出して来てしまったため、本当はそんな時間も惜しかったのだが、快斗は一度パスポートを取りに大使館へ戻った。
けれど、財布をポケットに突っ込み鞄を掴んでそのまま飛び出そうとした時、ベルモットに捕まってしまったのだ。
それからと言うもの彼女はずっと快斗の後を追ってくる。
これだけ話す気はないと態度で示しているのだから、いい加減放っておいてくれたらいいのに、と快斗は顔をしかめた。
「話があるのよ、快斗」
俺には話なんてない。
「今、話さなきゃいけないの」
そんな時間は惜しいんだ。
だって、新一が危ないんだ。
「大事なことよ」
大事って何が?
俺が大事なのはあいつだけなんだ。
あいつさえ守れれば、他はどうだっていいんだ。
だって、
――……だって。
「……大丈夫よ、快斗」
ふいにベルモットに手首を掴まれた。
引いても引いてもびくともしないのは、ただ彼女の力の強さの所為ばかりなのか。
「貴方は大丈夫。貴方はまだ、こちら側の人間よ」
人混みの中、立ち止まった自分たちを迷惑そうに避けていく人々。
立ち止まったきり、快斗はベルモットを振り返ることができない。
彼女の顔を見ることが、できない。
だって。
気付いてしまったのだ。
新一のためなら全てを切り捨てられるだろう自分に、気付かされてしまったのだ。
仲間だの運命共同体だの、上っ面ではいくらでも嘘を吐くことができる。
けれど土壇場で、自分は傷付いていく仲間を見捨てて万海を追おうとした。
そんな自分が、どうして彼らを仲間と呼ぶことができるだろう。
どうして、彼らに仲間と呼んでもらえることができるだろう。
こんな自分が申し訳なさすぎて、もうまともに彼女の顔を見ることさえ、できない。
――それなのに。
「貴方は大丈夫よ、快斗。無理することないの。あんなこと、……そんな泣きそうな顔で言うもんじゃないわ」
彼女がこんなにも優しい声で、そんなことを言うものだから。
掴まれた手首が熱い。
今にも燃えてしまいそうだ。
手が――腕が――胸が、熱い。
「貴方と白牙は違うわ。けれど、それは悪いことじゃないのよ。確かにそれは哀しくて苦しくて辛いことだけど、善悪ではかれることじゃないの」
言葉が力となって身体に染みこんでいく。
心に、染みこんでくる。
振り返ることもできず、ただその言葉に抗うように快斗は言い放った。
「……違うんだ。そうじゃ、ないんだ。
俺……、駄目なんだよ。あいつが、新一がいないと、全然駄目なんだ。新一がいないだけで、俺の中はこんなにも真っ暗なんだ」
彼は文字通り、快斗にとっての光だから。
彼がいなければ何も見えずに一歩先の小石にさえつまずいてしまう。
右も左も、前も後ろも分からない。
自分が誰で何のためにここにいるのか、そんなことも分からなくなる。
彼がいなければ、自分の中の暗闇に囚われて、もうまともに呼吸することもできないのだ。
危なっかしいからとか、ひとりにしておくのが心配だとか。
本当は、そんなことじゃなくて。
「あいつと離れてると、俺の方こそ駄目になるんだ……!」
震える肩は泣いているのか。
それとも、光の見えない恐怖に脅えているのか。
もうそんなことも分からないけれど。
「……貴方は私と同じね」
ふいにそう言ったベルモットに、快斗はおそるおそる振り返った。
「あの子が私の光なの。あの子だけが、私の全てなの。そうとしか思えない自分がどうしようもなく辛い時もあるわ。でも貴方は大丈夫よ。だって、あちら側に行こうとする貴方を、きっとあの子が止めてくれるでしょう?」
――ああ、そうだ。
彼ならきっと止めてくれる。
怒りながら、……時には泣きながら、全力で止めてくれるだろう。
一緒に哀しみ、苦しみ、同じ辛さを感じようとしてくれるだろう。
そんな彼だから愛しくてたまらないのだ。
そんな、他人の心まで抱え込んでしまう不器用な人だから、こんなにも守りたいと願うのだ。
「……姐さんは強いね」
「なぜそう思うの?」
「だって、……俺には自信がない。同じことを繰り返さないって言い切れる自信がないんだ」
犯した罪が消えてなくならないように、零した言葉が返らないように、一度黒く染まった手はもう二度と白には戻らない。
たとえ彼らが許してくれようと、〝彼〟が許してくれようと。
またいつ裏切るとも知れないのに、一度切り捨てた者たちを再び仲間と呼ぶ勇気など持てるはずがないのだ。
けれど、ベルモットは微かに顔を歪めながら首を振った。
「……あまり買い被らないで。私は一度、この身を黒に染めた人間よ」
天使などいないのだと、彷徨い続けた長い長い年月の間に、数え切れない罪を犯してきた。
きっとこの先も必要とあればいつだって黒に戻るだろう。
そう、目の前のこの少年でさえ微笑って切り捨てられる、彼女こそが非情の女。
「でもね。真っ白とまでは言わなくても、洗い流すことはできるのよ。私が今こうしてここにいられるのは、かつて月の御子だった少女が、私が生きることを望んでくれたから。そして、新一という天使に逢うことができたから。あの子さえ望んでくれるのなら、きっとどんな痛みも苦しみも、私は甘んじて受け入れられる。
――貴方はどう? あの子の願いにさえ、耳を塞ぐことができるのかしら?」
そんなこと、できるはずがないでしょう。
そう言って悠然と微笑んだベルモットに抗う術もなく、快斗は堪えきれずに遂に俯いてしまった。
「俺、馬鹿だね……」
「そうね。でも誰かに言ってもらわなければ分からない時なんて、誰にでもあるものよ」
「……姐さんにも?」
「ええ、もちろん」
傷を舐め合うわけではないけれど、無意識に同族を探してしまうのは人の性なのかも知れない。
なぜなら、人はひとりでは生きていけないから。
同じ思いなんて在りはしないけれど、きっと近付こうとすることが大事なのだ。
人の心は脆く弱い。
けれど、ほんのひと言でこんなにも強くなる。
「ごめん姐さん。もう大丈夫。……俺、弱いから、また駄目になる時が来るかも知れないけど、強くなれるよう頑張るよ。
だから、一緒に新一を助けに行こう」
顔を上げ、真っ直ぐ見つめながら快斗はきっぱりと告げた。
まだ気合いを入れなければ逸らしてしまいそうになるけれど、きっと大丈夫だ。
その度に彼を心に思えば、たったそれだけでほんの少しの勇気が出るから。
もう――大丈夫。
人混みを並んで歩きながら、ベルモットは隣を歩く快斗の顔をちらと見遣った。
危なかった。
それが、彼女の正直な思いだった。
快斗は決して心の弱い人間ではない。
それは彼女もよく分かっている。
高が十七歳の少年がこれまで数え切れない窮地を乗り越えてきた。
それも普通なら思いも寄らないことばかりだ。
肉親を失うことだとて快斗にとってはとても大きな苦しみだったろう。
増して、父親を謎の組織に殺され、その真相を暴くために自ら罪人の称号を掲げ、その組織と激闘の末何とか平穏を取り戻せたかと思えば、今度は突然自分の与り知らぬところで巨大な運命の輪に巻き込まれていたと知らされたのだ。
比べること自体間違っているのだが、同じ状況に立たされた時、果たしてどれだけの人が心折られずに歩き続けることができるだろうか。
そんな快斗の心を、ここまで滅茶苦茶にへし曲げた男。
快斗は気付いていないかも知れないが、これこそが、万海という男の怖ろしい力なのだ。
人の最も弱い部分を見透かす慧眼。
あの男はあのたった数分の邂逅の間に、こんなにも効果的に快斗の心を折り曲げた。
(……怖ろしい男ね)
彼とはいずれまた争わなければならないだろう。
その時快斗や新一がどうなるのか、ベルモットには想像もつかなかった。
……けれど。
彼女は、幸福の名を受けた守護者。
彼女の声は、神より授かりし神の言霊。
必要とあらばいつでも〝神の力ある言葉〟で彼らの心を幸福へと導く。
それが、蒼天使より与えられた彼女の役目なのだから。
* * *
都心からそう遠くもない町中、その中でも特に目を惹く豪奢な館を前に、白牙はふと足を止めた。
周囲を塀と鉄の柵でぐるりと囲まれ、強面の警備隊にがっちりと護られた西洋風の洋館。
ここはイギリス大使館だ。
白牙はこれからこの中に入らなければならない。
この建物の前を通り過ぎたことは何度もあるが、ここに入るのは初めてだった。
総監からの連絡が行き届いていたため、あまり手間取ることもなく白牙は館に上がった。
「中国警察本部の特殊機動員、白牙刑事ですね?」
「……はい」
「こちらへ」
軍服を着込んだ英国紳士に導かれるまま、白牙は地下への階段を降りた。
そこは普段はただの執務室のひとつなのだが、今は臨時で救命病室となっている。
中央に置かれたベッドにはひとりの中国人男性が寝かせられており、いくつも伸びた管が彼の重傷度を物語っていた。
「数時間前に一度目を覚ましたのですが、今は眠っています。そろそろ目を覚ますと思うので、その時に聴取を行って下さい。ただし、あまり負担を掛けないようお願いします」
大事な証人ですので。
そう述べた紳士に白牙は分かりましたとだけ返し、眠っている男性――陽に視線を据えた。
彼は伍の部下だったために爆弾事件に巻き込まれたばかりか、万海によって再び命を狙われたという気の毒な男だ。
しかしどうやら快斗の機転によって万海の手に落ちる前に、安全な場所としてこのイギリス大使館へと移されていたらしい。
なぜイギリス大使館なのか。
もちろん疑問に感じた白牙だが、総監から詳しい事情を聞かされ、驚いた。
五日前の八月十日、深夜。
英嶺総監は怪盗キッドに呼び出され、彼と密会していたと言うのだ。
その時、八月十五日の犯行現場に万海も現れるだろうこと、そしてキッドが彼に狙われていることを告げられたのだ。
キッドは自ら万海を釣る餌となる変わりに、総監に二つの条件を出した。
ひとつは白牙を絶対にひとりにしないこと。
その際、現場から離れた場所にいる方が危険性が高いため、総監と白牙がその日の行動をともにするように言ったのもキッドだった。
そしてふたつめは、陽刑事の身柄を保護すること。
万海の性格から考えて、己の策略の駒として使用した陽を生かしておく可能性は低い。
彼の身を守るためにも今の病院からこのイギリス大使館へ秘密裏に移して欲しい。
それが、キッドの出した二つの条件だった。
そして総監はその条件を呑んだ。
なぜならその時キッドの側にいた少女メイこそが、祖国に大きなコネを持つイギリス王室の血統、スコット家の令嬢だったからだ。
(美煌のファミリーネームがスコットだとは聞いていたが、まさか王室の子供だったとは……)
名前を聞いた時点で気付くべきだったが、スコットという名前など幾らでもあるのだから、白牙が気付けなかったのも無理はない。
それよりも、そもそも七歳の子供がひとりでこんな異国にいたこと自体が不自然だったのだ。
もちろん、白牙も快斗も伍もそのことについては散々メイに問い質した。
捨て子でもない限り、七歳の娘が突然いなくなって親が黙っているはずがない、と。
だが、メイは家のことを一切話したがらなかったし、親が心配することは全くないとあまりにもきっぱり断言したため、白牙たちはそれ以上問い詰めることができなかった。
だからメイがスコット家の令嬢であるなどと、誰も予想できなかったのだ。
「……ついにバレちゃったわね」
ふと、ノブが回る音とともに少女の声が聞こえ、白牙は背後を振り返った。
そこには見違えるほど綺麗に着飾ったメイが、王室の令嬢に相応しい出立で立っていた。
両脇には先ほどの軍服紳士と、もうひとり初老の紳士が控えている。
コツコツとかかとを踏み鳴らしながら歩み寄ってくるメイを、白牙はまるで知らない人を見るような目で見つめていた。
今となっては歩き方まで違って見えるのだから不思議だった。
「彼らはギルバートとヤード。父に言いつけられて私について来てくれたの。陽刑事のことはギルに任せておいたから、もう大丈夫よ」
「……中国警察にはどう説明する気なんだ? 今回のことはあくまで総監の独断で、上の連中の許可は取ってないんだろ?」
「文句は言わせないわよ。彼らにも貴方という犯罪者を違法に使役していた負い目があるもの」
「なるほど……」
快斗の考えそうなことだと、白牙は溜息を吐いた。
怪盗キッドとして警察を翻弄してきた快斗はこうした駆け引きに長けている。
とは言え、それはイギリス軍や大使館の人間たちを快斗の思い通りに動かせなければ不可能な作戦だ。
「彼らは誰の指示で動いてるんだ?」
だから、そう尋ねたのだけれど。
「――あたしよ」
その答えにすぐに反応することができないほど、白牙は驚いた。
「父はとても変わり者で、あたしのこと気味悪がるどころか、丁度良いとばかりにさっさと母と隠居しちゃったわ。おかげであたしがスコット家の一切を仕切らされてるってわけ」
ねえ、と振り返ったメイに、ギルバートとヤードは慣れた仕草で頭を下げた。
端から見ればなんとも異様な光景だが、ここでは当たり前のことになっているらしい。
「じゃあ二人とも、少し彼と話したいことがあるから……」
「畏まりました。何か御座いましたらお呼び下さい」
メイの指示で二人が退室すると、室内には未だ眠っている陽とメイと白牙の三人だけとなった。
しん、と沈黙が下りる。
メイは白牙を、白牙は陽をじっと見据えている。
噛み合わない視線がまるで互いの心を表わしているようだと、メイは話題を変えるように言った。
「快斗はフランスに行ったわ」
「……なに?」
「新たな守護者が現れて言ったのよ。御子があのアレスと接触したって」
「アレスだと!」
「二人は先にフランスへ発ったわ。……貴方もすぐに後を追えば、きっと間に合うわよ」
そう言ったメイの顔が哀しげで、白牙ははっとメイを見返した。
自分たちもすぐに後を追おう、そう言うのなら分かる。
けれど彼女は、白牙だけでも後を追って行けばいいと、そう言っているのだ。
「……おまえはどうするつもりなんだ?」
ふ、とメイの口元が歪む。
「分かんない……? あたしはメイ・スコットなのよ? 死ぬ前はマフィアのボスの愛人の娘だったあたしが、今じゃイギリス王室の血統書付のお嬢様……。
本当ならこんな我侭許されない。でも、貴方に逢うために、あたしはこんなところまで来たの」
「……美煌、」
「――言わないで!」
メイは激しく首を振りながら声を張り上げた。
「お願いだから、何も言わないで。どうせ聞きたくないことしか言ってくれないでしょ? それが聞きたくなかったから、何も言わなかったのに……」
優しい、優しい白牙。
その優しさゆえにかつてメイを殺さなければならなくなってしまった彼。
これ以上その優しさに満ちた言葉を吐かれたら、心が潰れてしまいそうだ。
……我侭だらけの自分の心に耐えきれなくなってしまう。
「あたし、……ほんとはただの子供なの。いつもいつも偉そうなこと言ってるけど、ほんとはただの我侭な子供なのよ。
でも、周りが見えなくなるほど無知じゃないから、……ちゃんと分かってるから。言わなくても分かってるから。……だから、何も言わないで……」
両手で顔を覆いながら、メイは今にも消えてしまいそうなか細い声で囁く。
泣けたらいいのかも知れない。
けれど、優しい彼は、メイが泣けばきっと慰めてくれるから。
今は慰めも何もいらないから、ただ何も言わずにいて欲しかった。
けれど。
「……一度決めたことを守らない奴は、最低の男らしい」
唐突にふられたその話に、メイは思わず顔を上げた。
「総監が言ったんだ。……自分も死にかけのくせに、人のことばかり心配して。自分を助けてる暇があるなら、おまえが死んでも守りたいものを守れ、だとさ。
その時、思った。守るってのはなにも、死なさないとか怪我をさせないとか、そういうことだけじゃなく、……その人を哀しませないことなんじゃないかっ、て」
白牙の手がメイの頬に伸びる。
もうずっとずっと昔、非日常の中、それでもそれが変わることのない自分たちの幸せなのだと信じていた頃、よくそうしていたように白牙はゆっくりメイの頬を撫でる。
「俺はおまえを哀しませない道を選びたい。だから、教えてくれ。
……おまえはどうしたい?」
――たとえば。
本当はすべきじゃないと分かっていても。
してはいけないことだと分かっていても。
それを選んでしまう瞬間と言うのは、誰にでも訪れるものなのだろう。
けれど、それを後悔するかしないかは、本人次第なのだ。
言ってしまえば、いつか後悔する時がくるかも知れない。
けれど、今言わなければ、自分は絶対に後悔する。
だから。
いけないことだと分かっていながら、それでもメイは言うのだ。
「――……一緒に、連れてって……!」
言葉と一緒に涙が零れ出す。
堪えることはひどく苦しいのに、一度緩めればこんなにも容易く零れ出てしまう。
けれど、その涙も嗚咽も、目の前のこの優しい人はまるごと抱き締めてくれるのだ。
この人さえ隣にいてくれるなら、どんな道でも自分はずっと笑っていられるだろう。
子供のように声を上げて泣くメイを、心配したギルバートたちが駆け込んできても、白牙は抱き締める腕を緩めようとしなかった。
* * *
リビングにある大きなテレビで博士お手製の新作ゲームに熱中している三人の子供たちを眺め、ひとりテーブルの椅子に腰掛けていた哀は退屈そうに溜息を吐いた。
博士も子供たちの横に座っていちいちゲームの説明をしている。
夏休みに入ってからと言うもの、子供たちは毎日のように遊びに来ていた。
隣りに住む〝歩く事件吸引機〟が不在なおかげで、ここ数日平和な日々が続いている。
別に平凡な毎日が嫌いなわけではないが、こうも退屈だと思わず溜息も出てしまうと言うものだ。
と、突然呼び鈴が響いた。
立ち上がろうとする博士を制し、どうせ暇だからと哀がインターホンに出た。
「どちら様?」
『急にすまないね。工藤優作だが、阿笠博士はご在宅かい?』
訪ねてきたのはその事件吸引機の父親、工藤優作だった。
これにはさすがの哀も驚いた。
なにせ優作とは夏前の事件以来顔を合わせていない。
あの時もそうだが、いつも唐突に現れる男だと、哀はちょっとだけ嫌そうな顔をした。
「……博士なら今子供たちとゲーム中よ。玄関は開けるから勝手に入って」
数秒後、相変わらず嘘くさい笑顔を浮かべた優作がリビングに現れた。
「おお、優作君!」
「やあ博士、久しぶりですね」
「突然どうしたんじゃ? また有希子君と喧嘩でもしたのかね?」
「やだなあ、博士。私も有希子ももうそんなに子供じゃないよ」
その割に彼らの息子は、二人が喧嘩する度に浮気してやるだの何だのと騒がしい母親に振り回されている。
その上その火の粉はこちらにまで飛んでくるのだから全く堪ったものではない。
哀が無言で胡散臭そうに眺めていると、優作はくるりとこちらを向いた。
「実は君に用があってね」
「……私に?」
意外な展開に戸惑う哀を余所に、優作はさくさくと話を勧める。
「息子のことでちょっとね。……ここで話すのも何だし、場所を変えて貰えるかい?」
ちらりと子供たちに視線を向けられ、確かに、と哀は頷いた。
わざわざ帰国してまでしなければならない話と言うものがどんなものか見当もつかないが、新一に関することなら哀も知っておかなければならない。
今も胸に浮かぶ月は彼の守護者である証なのだから。
哀は博士と子供たちを居間に残し、優作を自分の研究室へと案内した。
「お茶か何か入れた方がいいのかしら」
一応客なのだから何かもてなした方がいいのだろうかと、哀はそう切り出したのだが。
「いや、そんな時間はない」
急に声のトーンを落としたかと思えば、優作は扉の前に腕を組みながら立ち塞がった。
哀は訝るように片眉をぴくりと動かす。
何かが変だ。
先ほどまで何も感じなかったのが不思議なくらいに、目の前の男から違和感を感じる。
「貴方……優作さんじゃないわね……?」
ドクリ、と嫌な鼓動が鳴る。
ここ数日の平凡な日常に埋もれて忘れかけていた感覚が一気に呼び起こされる。
鈍ったとばかり思っていた嗅覚が、それでも嗅ぎ分けてしまう、この強烈な闇の匂いは――…
「久しぶりね、シェリー」
会いたかったわ。
そう言った聞き覚えのある女の声に、寒気が全身を走り抜けた。
「貴方、……死んだはずじゃ……っ」
わざとらしくゆっくりと手を掛け、びりびりとマスクを破くその人は、死んだとばかり思っていた組織の黒い魔性の女――ベルモット。
怯える哀を嘲笑うようにベルモットは唇の端を持ち上げた。
昔と少しも変わらないその仕草に、哀は未だ自分が食われる側の人間であることを悟った。
できることならすぐにでも逃げ出したい。
けれど、怯えてばかりもいられないのだ。
上には博士も子供たちもいる。
今、この場をどうにかできる者は、自分しかいないのだから。
「……何をしに来たの? 私を殺しに? それとも、組織を潰された復讐かしら?」
「そう煩く吠えないで頂戴。別に貴方にも組織にも今更興味ないわ」
「なら、何のためにここに来たの!」
震える手に拳を握り、噛みつくように吠えたてる哀を、けれどベルモットは軽く受け流すと、
「天使の命が危ないわ。助けに行くから、薬を頂戴」
今までの馬鹿にした態度から一変し、からかいなど少しもない真剣な口調でそう告げた。
「……なぜ貴方が彼を助けたがるの……?」
薬を寄越せと言うからには、彼女の言う天使とは新一のことだろう。
だが、なぜ新一を助けたがるのか。
組織を潰した張本人でもある彼を恨みくそすれ、助けようとする意図が知れない。
――けれど。
「彼が私の天使だからよ」
ぐいと襟を押し広げ、仄白い肌を惜しげもなく晒す。
その胸元には、哀の胸にあるものと同じ丸い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
「〝白き衣〟は〝天使〟を守るために在るのよ」
哀はその言葉を信じざる得なかった。
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