隠恋慕
輝石乱舞 12
二人が漸くリヨンに着いた時、まだ事態は進展を見せていなかった。
ICPO内はさして騒がしい様子もなく、二週間前に接触して以来、アレスが姿を現したという情報もない。
相変わらず大小様々な事件に振り回されているようだが、新一の無事を確かめられ、快斗は心底安堵した。
だがそう気を抜いてもいられない。
今はまだ無事だが、あの男が同じ国に在りながら何も仕掛けてこないはずがないのだ。
新一がアレスの探している蒼い瞳を持つ人間であるからと言うより、あの男の性格から考えて、新一というゲームを盛り上げるための至高の駒を放っておくはずがないからだ。
アレスは必ず何かを仕掛けてくる。
彼が何の目的でこのフランスにいるのかは知らないが、それだけは絶対だと、二人は確信していた。
「それで、これから具体的にどうするの?」
一旦近くのホテルに腰を据えることにした二人は、今後の動きを相談するため、ソファに腰掛け向かい合っていた。
すると、ベルモットがおもむろに二人の間に置かれたテーブルに地図を広げた。
「私たちは今、ICPO本部に近いという理由でこのホテルを拠点に選んだけれど、いざと言う時の隠れ家が必要でしょ」
ここを見て、と指先で示された場所を覗き込む。
「ここはヴィンヤードの所有地よ。市街地から多少外れてしまうけど、その分他人の目を気にしないで済むわ。今後何かあったら私たちはここで合流する。しっかり頭に叩き込んでおきなさい」
「……誰に言ってんの?」
そう言ってくすりと笑みを零す快斗。
IQ400は決して見かけ騙しではない。
一度見たものは絶対に忘れない有り得ない知能指数を持った少年に、ベルモットは頼もしいわね、と笑みを浮かべた。
けれどそのたった二日後にその隠れ家へ駆け込むことになるとは、二人は思いもしなかったのだ。
* * *
リビングを横切ろうとした時、ふいに視界に入った光景に、ベルモットは思わず笑みを零した。
ソファに腰掛け、コーヒーを飲みながら本を読んでいる新一と、彼にもたれ掛かるようにして眠っている快斗。
あれから――
アレスと接触してから、まだ一日と経っていない。
けれど、束の間の休息とは言え、こうして穏やかな時間を過ごしているのだから不思議だ。
ほんの数時間前までは髪を逆立てて怒りを迸らせていた少年が、今は仔猫のようにあどけない顔で眠っている。
肩に傷を負い、本来ならまだ病院で安静にしていなければならないはずの少年が、決して楽ではないだろうに、何も言わずそれを許している。
ふと、ベルモットの視線に気付いたらしい新一が顔を上げた。
自然と口元が綻ぶ。
この瞳を真っ直ぐ見られることが、理由もなく、嬉しい。
「ひとつ聞いてもいいか?」
改まった声で尋ねられ、ベルモットは無言で頷いた。
新一にはまだ話していないことがたくさんある。
もちろん、御子に関することは粗方話したが、話していないのはもっと別のこと――彼女自身のことだった。
月の御子を守る白き衣という守護者でありながら、彼女はかつて新一と敵対する組織に属していた人間だ。
そんな自分がすんなり受け入れられるとは思っていない。
当然、ひとつやふたつどころじゃなく、聞きたいことは山ほどあるだろう。
けれど、新一は彼女の予想と全然違うことを言いだした。
「俺がいない間、こいつ無茶しなかった?」
こいつとは新一にもたれて眠っている快斗のことだ。
ベルモットはやや気後れしながらも、ええ、と頷いた。
「かなりの無茶をしたわよ」
「……やっぱり」
そう言って顔をしかめながら浅い溜息を吐く。
「俺、こいつと同じ家で生活してたのに、寝顔を見たのは初めてなんだ」
悔しがってるような、寂しがってるような。
そんな曖昧な表情で呟く新一の言葉を、ベルモットは無言で受け止めた。
あの組織の残党、ジュネヴァとの事件以来、快斗と白牙は工藤邸に居候することになった。
当然、同じ空間にいれば気を抜く瞬間のひとつぐらい見つけもするだろう。
けれど白牙はもちろんのこと、この快斗でさえ、そんな瞬間など一瞬も見せなかったのだ。
新一が眠りに落ちるまで快斗は決して目を閉じないし、新一が目覚める頃には快斗もまた目覚めている。
――哀しかった。
同じ場所に立っているようで遙か遠くに立っている彼が寂しかった。
彼は自分にもたれ掛かろうともしないのに、自分ばかりが彼に背を預けているようで、ひどく悔しかった。
「俺はそんなに頼りないか……?」
「……そんなことないわ」
その逆よ、とベルモットはソファに座る彼の背後にまわり、優しく新一の頭を撫でた。
「今までが新一にもたれ掛かりすぎていたのよ」
「え?」
「快斗は今まで、貴方を守るのに精一杯で、自分の身を省みる余裕もなかったのよ。……自分の身も守れない子が他の誰かを守ろうなんて、本当に馬鹿な子よね。
でも快斗は漸く気付いたわ。自分自身も守らなければいけないこと。自分ひとりだけではできないこともあると言うこと。時には誰かに力を借りなければならないこと。そして、その誰かは他でもなく新一――貴方だと言うこと」
ただ気付くのが遅かったのだ。
自分の価値に。
自分という存在の重みに。
自分という存在を必要としてくれている人の想いの強さに。
ただ、気付くのが遅かっただけなのだ。
「この子は今回とても深い傷を負った。でもそれは、きっと意味のある傷よ」
愛する人を失って漸く気付いた白い牙のように、血まみれになって漸く思い出すことのできた白い影のように。
彼もまた、どうしようもない暗闇に囚われて漸く気付くことができた。
ただ……それだけのこと。
「だから貴方が気に病むことはないわ。この子にとって必要なことだったんだから」
それでもこの優しい天使はきっと心を痛めてくれるのだろう。
ベルモットはふふ、と笑みを零した。
「それより貴方は自分の心配をすることね」
「へ? 俺の?」
「あら、だって今でこの状態なのよ。快斗がもっと強くなったら、貴方はきっと身が保たないわね」
背後に立つベルモットを仰ぐように見上げていた新一は、この状態と言われちらりと視線を横に向け、確かに……と微妙な顔つきになった。
新一の肩に頭を預け、まるで猫のように身体を丸めたままぴったりとくっついて眠っている快斗。
これ以上もたれられたら新一もろとも沈んでしまいそうだ。
そうなれば本を読むこともコーヒーを飲むこともできなくなってしまう。
けれど新一は眉尻を下げながら、それでも嬉しそうに笑った。
初めて見た寝顔は思っていたよりずっとだらしなくて、思わず笑ってしまいそうになったけれど。
険しい顔で必死に立ち向かう姿より、このあどけない寝顔の方がずっといい。
だから。
「もしそれでおまえらが傷付かないなら、そのぐらいの苦労は喜んで背負ってやるよ」
そう言った新一を、ベルモットは思わず抱き締めていた。
突然背後から伸びてきた腕に驚きながらも、新一は抵抗するどころか心配するように「どうした?」と声を掛ける。
これだから困るのだと、ベルモットはきつく目を瞑った。
「……貴方はもう充分すぎるほど背負ってくれてるわ」
何も言わない。
何も聞かない。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあるはずなのに、彼は何も言わず受け入れてくれる。
たったそれだけのことで、こんなにも心が軽くなる。
こんな人、他にはない。
(貴方に逢えて良かった)
貴方がいれば、枯れたはずの涙もまた湧いてくるのだ。
* * *
翌朝、三人は揃ってアメリカに発つために朝早くにヴィンヤードの邸宅を出た。
もちろんベルモットは黒羽盗一直伝の変装術で変装している。
それどころか快斗も新一も変装しているため、一目で彼らの正体に気付ける者などいなかった。
なぜ快斗や新一までもが変装しているのか。
それはあの冷酷非道の戦士の名を持つ殺し屋の目を欺くと同時に、ICPOの目を誤魔化すためだった。
白馬とレオナルドの記憶はベルモットが消したが、このリヨンで関わった全ての人間から彼らの記憶を消すことなど不可能だ。
病院の屋上でアレスと接触する数時間前からの二人の記憶を偽装することしか彼女にはできなかった。
そのため、病院に収容された新一がリヨンを離れるための正当な理由が必要になった。
そうしてベルモットがとった方法とは――
「……なんで本物がいるのに変装する必要があるんだ?」
うっすらと化粧を施し、変装用の帽子とサングラスをつけた新一は、よくカールした薄茶色の髪を嫌そうに弄りながらぼやいた。
その指先には白と金で綺麗に彩られた爪が伸び、オフホワイトのパンツスーツにベージュのパンプスを履いている。
どこからどう見ても女性にしか見えないその人こそが、変装した新一だった。
「そう言うな。何かあった時、怪我を負ったおまえよりは動きやすいからな」
隣を歩く口髭を生やした紳士が如何にも楽しげに笑った。
その笑いを引き受けながら、新一の逆隣を歩く少年が困ったように言った。
「ほんとはせめて完治してから移動したかったんだけど、そうも言ってられないからな」
それぞれ手荷物ひとつという軽装で空港を歩く姿は、一見すれば普通の親子のようだ。
父親と母親と息子が仲睦まじく歩いている。
だが実際は工藤優作に扮したベルモットと工藤有希子に扮した新一、そして工藤新一に扮した快斗なのだった。
なぜ新一がいるのにわざわざ快斗が新一の変装をしているかと言えば、もちろん怪我のことも理由のひとつなのだが――
最大の理由は万海というもうひとりの強敵の目を逃れるためであった。
アレス同様、あの男もいつどこで仕掛けてくるか知れない。
そのため、万が一何かが起きた時、新一の身を守る手段のひとつとして快斗とベルモットがこの変装を共謀した。
二人はまだ中国での詳しい事情を新一に話していなかった。
全ての手続きを済まし、出国ゲートも難なく突破した三人は、搭乗時刻までの時間を待合所で潰すことにした。
肩を撃たれた新一の状態も思っていたほど悪くない。
大立ち回りをやった昨夜はさすがに熱を出したが、生命力の強さと哀の処方した薬のおかげで大分落ち着いている。
それでも心配性の二人はこまめに気を配っていた。
「……ちょっと熱上がった?」
新一の手を取った快斗は、その手の熱さが先ほどより少し上がっていることに気付いた。
弱冠だが脈も速くなっている。
「もう一回薬飲む?」
「いや、平気だけど……」
「用心するに越したことはない。新一、そこで水を買っておいで」
新一と呼ばれ立ち上がったのはもちろん快斗である。
当の本人は微妙な顔をしていたけれど、快斗はさっさと売店のひとつに入っていった。
「えーと、水、水……」
お目当てのノンガスウォーターをぱっと探し当て、快斗はレジに並んだ。
お土産を買い漁る旅行客が多いため、レジは三台稼動にも関わらず列を作っている。
観光地なのだから仕方ないかと、快斗は水を片手に列に並びながら、ふと店の中に置かれたテレビに目を遣った。
どうやらニュースが流れているらしく、キャスターが英語で記事を読み上げている。
なんとなく耳を傾けた快斗は、けれど次の瞬間には目を瞠っていた。
――昨夜未明、中国北京において、三名の警察官が殺されると言う事件が起きました。
彼らは帰宅途中、或いは在宅中に襲われたようで、死因は全て拳銃によるものと思われます。
中国警察はまだ詳しい情報を発表しておりませんが、犯人はまだ捕まっていないもよう――
画面に映った死亡者の名前を見て、快斗は背筋の凍る思いがした。
その名前には見覚えがあった。
彼らは全て、万海が引き起こしたあの爆弾事件に関わっていた警官たちだった。
場合によっては彼らの中の誰かに変装して紛れ込むために、何人かの警官の身元を詳しく調べていたから覚えていた。
その全員が殺されたと言うことは……
(あの事件の関係者が殺された?)
伍警部は、英嶺総監は、白牙は無事だろうか。
まさか白牙がいてそんなミスを犯すとは思えないが、相手は万海だ。
快斗は会計を済ますと電話に飛びついた。
数回のコールに焦りと苛立ちを募らせながら相手が出るのを待つ。
『……はい』
少し警戒した白牙の声が聞こえ、快斗は詰めていた息を吐いた。
「良かった……大丈夫そうだね」
『……快斗か?』
「うん。ニュース見た。今どうなってる?」
『――全滅だ。あの事件に関わった奴ばかりな』
やっぱり、と快斗は舌打ちをした。
「警部や総監は?」
『無事だよ。どうやら標的じゃないらしい。下の連中、それもあの時あの男を見た奴だけが殺られた。おかげで証人も証拠も綺麗に消されちまったよ』
おそらくそれが狙いなのだろう。
証拠も証人もいない状況で万海を潰すことは難しい。
相手は世界的に有名な大富豪なのだ、下手なマフィアよりも手が出し辛い。
『……気を付けろよ』
そう言った白牙のあまりに真剣な声音に、快斗は片目を微かに眇めた。
『現場を見たが、あれは黒星じゃない。もっと狡猾で巧妙な虎がいるようだ』
「……あんたでも見当がつかないの?」
『ああ。俺の知る奴にあれほど巧妙な仕事をする奴はいない』
「ふうん……」
白牙が他人の〝仕事〟を褒めるような台詞を吐くなんて珍しい。
あのアレスでさえ貶す男だ。
つまりそれだけ巧妙な切り札を万海はまだ持ち合わせていると言うことだ。
『とにかく気を付けろ。俺と美煌も直そっちへ向かう。それまで、絶対にあいつを手放すんじゃねえぞ』
「……当然」
快斗は通話を切ると、二人の待つ待合所へ向かった。
帰りの遅い快斗を心配していたらしい新一が、こちらを見つけるなり心配顔を怒り顔に変えた。
「やけに遅かったじゃねーか」
「ごめんね。観光客でレジが混んでてさ」
はい、と言って口を開けたペットボトルを新一に手渡す。
快斗はその水でベルモットから受け取った薬を飲み下す新一を見つめながら、今は全てをポーカーフェイスの下に隠した。
組織の残党から不老不死を望む強欲な人間ども、アレス、黒星、そして万海。
彼を狙う者は多い。
その全てから彼を守りきらなければならないのだ。
今以上の傷を負う日がくるかも知れない。
それでも。
――〝普通〟なんて不確かなものより、〝危険〟でもおまえらがいてくれるなら、俺はそれでいい。
彼がそう言ってくれる限り、自分は微笑ってその傷を受け入れよう。
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